「10年後、優先生は何になりたい?」
 青いチャート式のテキストを閉じて彼が言った言葉に、優は「え?」と顔を上げた。
 大学生になったばかりの夏休み、時給につられて始めた家庭教師のアルバイト。生徒は進学校と言われる高校に合格したは良いものの一学期で躓きそう、という高校一年の男の子だった。
 年齢が三つしか変わらないのに「先生」と呼ばれるのは妙にくすぐったい。
「なに、タイセーくん、急に」
 解いている途中でテキストを閉じるとか、やる気あんのかコラァと言いたい気分を抑えて問い返す。
「そう、それだよ!」
「何が?」
「その、タイセーって名前。泰成ってさ、大成とも書くだろ。名付けの由来もそれらしいけどさ、大成しろって言われてもなーこの成績じゃなー」
 初日に見せてもらった学校の成績表は、確かに将来大成しろと言われると厳しい数字だった。中学校ではトップグループにいたにも関わらず、同級生も全て同じような成績であり、その中で上手く成績を上げられないことに不満があるらしい。
「それを言えばあたしだって、優秀の優、だよ」
 そう見える?と尋ねれば見えない!と即答され、優は泰成の額を遠慮なく弾いた。
「ってーなあ!」
「文句言ってる間に公式の一つも覚えた方が良いんじゃない?」
 彼は記憶力は良いのに、集中力がない。中学まではその記憶力で都度のテストは良い成績を上げていたが、高校ともなると単に物事を記憶するだけでは、思考力の優れた他の生徒には敵わないのだ。
 数学Iの期末テストで、三角比の公式、sinθサインシータcosθコサインシータをまるきり間違えて覚えていた彼の成績は惨憺さんたんたるものだった。
「さんじゅーごてんなんて、見たこともねえわー」
 まあ、そうだろうと優は思う。彼の通う高校に入学するレベルならば、中学時代はおそらくどの教科でも80点以下は取らなかっただろう。そんな経験は、優にもある。
「あたし、高一の時、物理で13点取ったことあるよ」
「マジかよ! やべえな、13点とか!!」
 優も答案用紙が返ってきたあの日の衝撃はとても忘れられない。(当時はまだ)繊細だったので、ショック過ぎてその日の晩御飯が食べられなかったほどだ。結局選択科目は生物で切り抜けたため、今では笑い飛ばせるくらいには良き思い出となっている。
「でも教免取るつもり」
「世も末だなー」
「まつ、じゃなくて、すえ、ね。日本語は正しく使うように」
「はいはい」
 優が過去のぶっ飛んだ点数を明け透けに伝えたことで多少気が楽になったのか、泰成は閉じていたテキストに手を伸ばした。けれど文句を言わずにはいられないらしい。
「そもそもθって何なんだよ。ラピュタかよ」
「シータ、もしくはテータ。ギリシャ文字の一つで、数学においては不確定の角度を表すことが多いもの。ちなみに三角比は紀元前、測量に用いるために生み出された考え方である」
「辞書かよ」
 文句に留まらず、突っ込まずにはいられない性分の泰成に、優は苦笑する。
「タイセーくんさ、sinとcosって、覚え方習わなかった?」
「……」
 ふてくされた表情の泰成に事態を察して、優は広げていたノートに「∠」の記号を書いた。
「cosのcって、まあ無理やりなんだけど、この形に似てるでしょ。で、cは普通上から下に向かって書く。だからcosθは底辺割る斜辺、って覚えて……sinは、」
 筆記体の「s」を書きながら、続ける。
「筆記体のsは普通下から上に向かって書き始めるでしょ。だからsinθは対辺割る斜辺」
「ヒッドイ覚え方」
「公式の覚え方なんてそんなものでしょ。大抵数学教師はこの覚え方を教えてくれると思うけど、説明なかったの?」
「……寝てたかも」
 ついていけなくなると途端に放り出すタイプか。
「あのねえ、三角比で躓いたら、この先の三角関数とか地獄だよ」
「三角関数なんてできなくても死なねーし」
「小学生かよ」
 先程来の、彼の口調を真似て揶揄やゆすると、その自覚はあるのか泰成は視線を逸らした。ほとんど年齢の変わらない相手だが、どことなく可愛げを感じるのは素直な部分が見え隠れするからだろう。
「あたしもそう思った時期もあるけどさ」
「あるのかよ」
「あったのだよ、これが。でも担任だった数学教師から、三角関数は結構色んなものに使われる関数だって教えてもらってね」
「例えば何」
「……そのスマホの画面も、iPodから流れてくる曲も、三角関数が存在しなきゃ見られないし聴けないよ。あと、君のこの家も建てられない」
「マジで!? なにそれ、どういう理屈!?」
 スマホやiPodと聞いて俄然興味が湧いてきたのか前のめりになる彼に、まだ幼さを覚えて、優は笑った。
「ごめん、専門外だから説明は無理。先生に質問したら熱く語ってもらえるんじゃない?」
「……でも馬鹿だって思われたかもしれねーし」
 35点という点数は、在りし日の優と同様に、根は真面目な彼に重い衝撃を与えたらしい。
「なら、見返してやれるくらいの成績を獲ろう」
「……」
 じっと真顔で見つめて言うと、泰成は少し黙ってから、こくりと頷き、ようやくシャーペンのノックをカチカチと鳴らしながら問題に向き合った。
「……まあ、優先生の教え方、割と分かりやすい、し。……先生、そこそこ向いてんじゃない?」
 照れ臭いのかほとんど聞き取れないほど小声で呟かれた内容に、優は「そうでしょう」とにんまりと笑った。

「あ、ちなみに別に数学の教免取ろうとか思ってないからね。理学部でもないしさ」
「物理18点だもんな」
「そこは忘れて、お願い」

 10年後は、教師になれているだろうか。
 知らないことを知る面白さ、それにより世界が広がっていくことの楽しさを、かつて自分が教えてもらったように誰かに伝えることができれば良い。



「……ふぁ」
 随分と懐かしい過去を夢見た気がして、優はぼんやりと起き上がった。
 見慣れつつある異界の部屋で、一人うーんと伸びをする。
 10年後教師になりたいと夢見ていた将来は、今のところ叶う見込みもない。大学を卒業した時、教育免許を取ったは良いものの、優のなりたかった高校教諭の教員採用試験は小学校や中学校に比べて倍率も高く、採用試験の合格は得られなかった。
「て言うか、レビネルここにいるしね」
 あれからまだ10年には至らないが、まさかその道のりで異界へのルートが待っているとは夢にも思わなかった。いや、こんな非現実、思う人もそういないだろうが。
「いやあ、びっくりびっくり」
 びっくりで済ましてしまえる自分にも驚きである。

「……タイセーくん、どうしてるかな」
 大学の合格発表の日、あの年頃の男の子にしては珍しく泣きじゃくって合格を報告してくれた三つ年下のかつての生徒を想う。
 高一の夏休みだけのはずが、縁あって結局彼の受験まで付き合った。大体、大学受験ともなれば家庭教師などより予備校に通った方が余程良かっただろうに、何故か泰成は「俺は優先生と問答しながら取り組む方が向いてるみたい」と慕ってくれた。高三の時期はさすがに予備校にも出入りしていたようだけれど。
 今思い返せば、「北極より南極の方が比較すると寒い」とか「紙幣は日本銀行が発行してるけど硬貨は日本政府が発行してるから『日本銀行』の表記はない」とか「本来ガスは無臭だけど法律で臭いをつけるよう定められている」とか、割と受験に関係ないどうでもいい雑学も(休憩タイムに)教えていたような気がするが、彼はその度に「マジかよ」と突っ込みながら笑っていて、まあお互い楽しく過ごせたと思う。
「大成してるといいけど」
 いや、大成するにはまだ若すぎるだろうか。
 彼がこの先の人生で、大成していくかどうか、優は一生知り得ないままだ。
 それでも。
「……お互い、良い人生になりますように」

 誰にも聞こえないだろう願いを呟いて、優は寝台から抜け出し、空気の入れ替えのため、窓を開けに向かった。
 今日も、新しい一日が始まる。