その日も優は、早くも使い慣れてきた羽ペンを片手に、経費書類の添削に励んでいた。
脇に置いたインク壺は二つ。黒と赤である。
レビネルでは通常、公的に使用される書類は専ら黒のみで書かれている。他の色のインクはあるにはあるが、私的に利用されたり、画家や子供の遊びに使われる程度で、まず執務室内には見られない。
そのことに驚いて、ヴァレンスに用意してもらうよう願い出たのはもう何日も前だ。何でそんなものを、と彼は怪訝そうにしたものの、優がこれまで何度も仕事の改善案を挙げてきたことから、特に反対されることなくそれは用意された。
そして不備のある経費書類にがりがりと赤で訂正をいれていく優に、ヴァレンスも、傍観していたヘンリックも顔色を変えて叫んだ。
「あーあーあー!」
「お前な……!!」
悲鳴をあげるヴァレンスと、今にも雷を落としてきそうなヘンリックに、優はしれっとして言い返す。
「不備の紙、つかいなおし、……使い回し、しない、聞いた。新しく、書く、する。だから、赤で書く、大丈夫」
各隊員が記入してくる申請書類は、不備があった場合は財務に回す前に本人に突き返される。同じ書類に訂正印等を用いて書き直すことはできず、一からやり直すのだと教えてくれたのはほかでもないヴァレンスだ。だから赤字で添削しても問題ないだろう、と言った優である。勿論、領収書には一切手を加えていない。
「赤、目立つ色。どこ違うか、分かる、やすい」
目立つ赤で指摘を書き込めばどこが不備だったのか本人に分かりやすいだろう、ということだ。
別に不備をした者への優しさからではない。こうしておけば次は不備のない書類を提出してくれるだろう。何度も同じ不備があったのでは一向に書類が減らないし、面倒なのだ。パソコン社会で暮らしていた優にとって、延々と続くこの作業は採点作業に通じる辛さがある。こんなことを続けていたらいつか腱鞘炎にでもなりそうだ。
そこで思いきってやってみたことだったのだが、まさかここまで二人に驚かれるとは、こちらこそ驚きである。
「駄目なら、しない」
そこまで非常識なことなのならば、しない方が良かったかもしれないな、と伺い見れば、ヘンリックは呆れたような溜め息を、そしてヴァレンスからは何故か称賛の眼差しを送られた。
「……いい。好きにしろ」
「確かに、その方が手っ取り早いかもしれませんね」
「なら、する」
こうして優は赤いインクの主となったのだった。
どんどん減っていくインクを横目に、優は次の書類に手を伸ばす。
一度不備であがってきたものはきちんと指摘通りに訂正されて再度提出されているが、それでもやはり不備が多い。よく気を付けてみていれば、不備が多いのは主に兵士からの申請だった。
レビネルでは軍は五つの隊から成り、そのほとんどが騎士である第一を除いて、騎士が少数と兵士が大勢、といった構成だという。そして高等教育を受けている騎士に比べ、兵士は平民出身者が大多数を占め基礎教育すら受けていない者もいるのだとか。
だから、こうした書類仕事においても兵士から出されるものは雑さが見受けられるようである。
「……」
あまり綺麗とは言えない文字を眺めながら、優はふむ、と手を止めて考え込んだ。
そもそもこうした経費申請を騎士や兵士本人がそれぞれしているというのが問題なのではないだろうか。優の勤める学習塾では、基本的に講師たちが自ら立て替えて物品を購入することはないのだが、ごくまれにあったとしても、講師たちは領収書を優に渡してくるのみである。そこから先は優が本部のマニュアルに則って処理しているのだが、騎兵隊にはそうした経費専門の係はいないらしい。てんでばらばらに起票される申請書を、数日に一度隊の新人が集めて隊長の捺印をもらい、ここに持ってくるのだ。
「せめて誰かが精査するか、マニュアルでもあればいいのに」
日本語で呟きながら、マニュアル、ともう一度優は繰り返した。
経費書類を始めとして軍にはマニュアルらしきものは一切ない。皆、見様見真似で書類を作っているらしい。――ないのなら、作ってしまえばいいのだ。
「うん、そうしよう」
なんだか楽しくなってきた優である。
一度日本語で作ってそれをヴァレンスに翻訳してもらうことにし、彼に事前相談もせずに優はうきうきとマニュアル作りに取り掛かったのだった。優は凝り性なのだ。
最早立ち入ることに躊躇しなくなったシズレーの部屋へ優によって連れてこられたヴァレンスは、今度は一体何なのだと少々疲れ気味に優に問いかけた。
「マニュアルを作ってみました」
「マニュアル」
「あーええと、なんだろう。指南書? 手引書かな?」
何故か野次馬気分で宿舎までついてきたヘンリックとヴァレンスが揃って首を傾げるのを見て、優は慌てて言い換えた。いかんいかん、ついカタカナ語を多用する生活を続けていたので、日本語が疎かになっている。
「これなんですが」
言いながら、書類チェックの合間に作った手書きのマニュアルを差し出す。
当然彼らは日本語が読めないが、それでも優が差し出したものを見て、それが何であるのかはすぐ分かったようだった。白い紙に領収書と経費申請書を模したものを書き、それに赤字で色々と書き込んでいる。
「これは……」
「お前が作ったのか?」
「はい。あまりに不備が減らないので、一度こういうのを配ってきちんと始めから覚えてもらう方が早いのかもと思いまして」
優なりに不備を分析したうえで、間違いやすいところや、抜け落ちやすい必須事項を細かく記載したそれの一つ一つを読み上げて、ついでに、と申請書の右下に設けた小さな枠を指し示す。
「精査欄も設けてみました」
「精査、ですか?」
「はい。今は一度各隊の隊長の目を通っているとは言っても、ほとんどノーチェック、あ、いや、素通りでしょう。不備はほとんど不備のままここにあがってくる。それって、いちいち突き返す手間が全部こちらに降りかかってくるので大変なんですよ。だから一度、各隊で誰かが責任を持ってチェック、えー、確認してもらえないかなと」
「……各隊にその手間をかけろと指示するのか?」
ヘンリックは難色を示している。だが優は怯まずに反論した。
「今の第一で見ている量の、五分の一ですよ。それくらいならそう負担にならないはずです」
シズレー率いる第二騎兵隊は次官が全て目を通してくれているらしく、あまり不備はあがってこないが、その他はひどいものだ。どうせ誰かが見ると思っているうちは、不備は減らない。
「それに、何もずっとやれ、なんて思ってませんよ。まずは一月精査制度を取り入れてみて、改善すればやめればいいんです。不備が減ったのに確認したことを確認しなきゃだめ、なんて本末転倒ですからね」
これは優の持論なのだが、現代社会において、「確認のための確認」が事務の効率を悪くしていると思う。
優も、経費申請を本部にあげるために、校舎長の担当印をもらわなければ本部に回せなかった。どうせ彼は何一つ見ていないのに、だ。
ルールが既に形骸化しているのにそれを守り続けるのは滑稽にも見えるが、立場の弱い事務員であった優にはルールの廃止を提案することなど、とてもできなかった。
ならば始めから期間を決めておけばいいのだ。
始めは余計な手間が増えたと感じる人もいるだろう。けれど一月もすればどういった不備が起こりやすいのか彼ら自身でも分かるだろうし、そう自覚すれば格段に不備は減る。その段階で精査欄を廃止すれば良い。
事務作業についてはおそらくこのレビネルの誰よりも、優の方が知識も経験も優れていることだろう。
確信と少しの慢心を持ちつつ、優は自信満々に提案した。
滔々と語るのを黙って聞いていたヴァレンスは悪くない案だと感じてくれているのか、その表情は微笑みに近い。だが彼はこうした改善案についての決定権を持たない。無表情に考え込んでいる風のヘンリックが結論を出すまでは口を挟まないようにしているようだ。
ヘンリックの表情を見て、優は受け入れてもらえるだろうかと少しはらはらしたが、何とかそれを顔に出さないよう努めた。多少自信がなかろうと、それを顔に出してしまっては、ヘンリックに付け入る隙を与えることにしかならない。
「……一月だな?」
「はい。それで十分だと思います」
真剣に頷けば、ヘンリックは頭の中で改善案が有効かどうか検討し終えたのだろう。ゆっくりと頷いて、「いいだろう」と了承してくれた。
「ありがとうございます!」
「やりましたね、ユウさん!」
何故かヴァレンスが一緒になって喜んでくれ、優は彼とハイタッチを交わした。それを呆れた風に見ているヘンリックに、優は思い切って「殿下もどうですか」と両手を上げながら声をかけたが「やるか馬鹿」と一蹴されてしまった。まあ、そうだろうな! と内心で頷く優である。
「あ、というわけでヴァレンスさん、これから翻訳をお願いします」
「えっ!? ……ああはい、ソウナリマスヨネー」
「第一から第五まで、同じものを使い回すよりそれぞれあったほうが良いです。ですから五枚書いてください」
「五枚ですか!? ……えー、印刷すればいいのでは……」
懐中時計が存在するくらいなのでレビネルには活版印刷の技術があるらしく、それは優も承知している。だが。
「まずはこの原版を見てもらって、工夫する部分があれば修正します。大量に印刷するのはそのあとの方が無駄になりませんよ」
「……仰る通りではありますが……これからですか……」
「これからです。お願いしますね!」
「……はぁ……」
「お願いしますね!」
大事なことなので二回言った。満面の笑みで。
かくしてレビネル皇国の軍部において、史上初の手引書が誕生した。
これが極めて分かりやすいと各隊での評判がよく、うっかり財務にも広まって新人指導の教科書として使われるようになるのは、そう遠くない日のことである。