「……ここはどこですかね」

 少し前から薄々気付いていたことだが、ようやくその事実を受け入れて、優は一人呟いた。
 ――迷った。そう、迷子である。
「……ねえこれ、結構なピンチじゃない?」
 あたりを見回しても人っ子一人いない。
 どこかから、鍛練している兵士達でもいるのか威勢の良い掛け声が聞こえてくるが、生憎そちらの方面には高くそびえた壁があり、天井はないが、優が忍者やスパイダーマンでもない限り到底乗り越えられそうもない。
 こんな時、現代社会に暮らす優はさっとスマートフォンを取り出して地図アプリを呼び出していた。GPSのありがたさを噛み締めつつ、代わり映えのないビル群から脱出したり、無数にある駅の出口から目的の場所に辿り着いたりと、何度も助けられてきた。
 そうして空間認識能力のやや欠けている優でも現代文明によって迷子にならずに済んでいたのだが、ここは異界、レビネルである。当然GPSもなければ電波もない。そもそも無用の長物と化すことが分かりきっていたスマートフォンは、皇都に置いてきたので手元にない。
 しばらく立ち尽くして、優は考えた。
「きっと、ハンナさんが探しに来てくれるはず」
 そう、優も愚かではないので、ろくに構造も知らないこ砦内を一人でさまようつもりはなく、当初は同行者がいたのだ。

 シズレーがこの砦に到着するのは、早くとも夕方以降だとメイナードから聞いていた。
 夕方までただぼんやり待っているのもつまらないな、とハンナと連れ立って部屋を出たのが朝方のこと。
 外から見ても大きな砦だとは思ったが、中にいるとより広さを感じる造りだった。
 ハンナもこの砦を訪れるのは初めてだということで、彼女が例の女性騎士から教わった砦内の数少ない見所を目指して、のんびりと歩いていた。
 元が軍事用の砦なので通路は所々複雑に造られている。皇城のように部署名が壁に掲げられていることもなく、似たような扉をいくつか通りすぎた所で「迷う、危険」なんて呟いたのが優の体感時間で一時間ほど前のことだろうか。
 言わなきゃ良かった。噂をすれば影というではないか。いやあれは人にしか使わないことわざだったか。では言霊ことだまというやつか。
 悶々とそんなことを考えていた優ははっと顔を上げた。
 下手に動くのはまずいだろうから、ハンナが探しに来てくれるのを待とうと考えていたはずなのに、明らかに先ほどと風景が違う。
 考えながら自然と歩いていたらしい。振り返れば似たような通路が二又に分かれていて、どちらから来たのかすら、もう分からなかった。
「えーと」
 詰んだ。我ながら情けなさに涙目だ。
 先ほど聞こえていた兵士達の声も聞こえなくなってしまい、せめて迷子であることを認識した地点まで戻ろうにも戻れない。
「だ、誰か……」
 あたりをぐるりと見回して、はたと気付く。通路の奥まった所、かんぬきが外れて少し開いている扉があった。閂が外れている、つまり誰か人がいるかもしれない。
 身元はメイナードが保証してくれるだろうから、一見ばりばりの不審者であるが恥を忍んで道を尋ねてみよう。
 できれば優しそうな人でありますように、と願いながら、優は扉へと向かった。観音開きに開く扉の、片方だけが小さく開けられている。ごめんくださいとノックしようとして、少し迷って優はそろりと中を覗きこんだ。そもそも人がいるのか、そして優しそうな人かどうか、見てから声をかけようと思ったのである。
 だが。
「……誰もいないし」
 誰かの執務室や居室ではなく、物置小屋のような体裁の部屋だった。小屋というと語弊があるほどの大きさだが、所狭しと物が積み上げられているせいで実際よりも小さく感じられる。
「倉庫かな……」
 しかもあまり使われていない系の、と優は付け加えた。
 日常的には使われていないようで、最近一度動かされたらしい木箱の形が、床にうっすらと埃の形となって表れている。シズレーが自室に現れる金曜日の前日、木曜日の夜にだけ念入りに掃除をするタイプの優は、自分のことを棚にあげて、「掃除しなよ」と呟く。
 するとちょうどその時、後方から微かに足音が聞こえた。
 苦情じみた台詞を聞かれたかと焦った優は、慌てて部屋に入り、積み上げられた荷物の影に隠れたのだった。
 いや待て、隠れてる方がよほど不審人物っぽくないか、と後から気付いたが、優が出ていくよりも早く、扉が大きく開かれた。


「──こんなところに呼び出して、何の用だ」
 凛とした、女の声だった。
 女と言うにはハスキーボイスに近い低めの声だったが、男よりはいくらか高い。
 険のある問いかけに、全く心当たりのない優は黙した。
 呼び出した覚えはない。むしろ現在地がどこかも分からない優は、絶対に関係ない。親切そうな人であればここぞとばかりに道を尋ねようと思ったが何やら刺々しい声色だ。
 あたしは石、あたしは石、と自分に言い聞かせて、息を潜め、そうしてしばらく縮こまっていれば、どうやら気付かれないで済んだようだ。
 彼女は埃っぽさに辟易したようなため息をついた後、呼び出した人物を待つことにしたらしい。部屋から出ていくような気配はなかった。

 身を抱えた腕の先から静かにとくとくと脈打つ音に、耳を傾ける。
 そうしていると緊迫感は薄れ、見知らぬ異界の見知らぬ要塞、素性の知れない人物と同じ空間に二人きりだと言うのに、眠気さえ覚えるほどだった。いかんいかん、我ながら平和ぼけにも程があるな、と頬をつねって意識を覚醒させる。
 そして音を立てないよう慎重に物陰から覗いてみれば、横顔しか見えないが、やはりそこにいるのは女のようだった。
 ここでは珍しい優の短い髪よりも、更に短い。シズレーに比べれば多少長いが、現代日本でもあまり見ない短さだ。ボーイッシュの枠を越えて横顔を見なければ分からないほどだった。それでも顎や首は細いし骨格も華奢だ。筋肉のつきかたも違う。自他ともに認める筋肉フェチの優はくまなく見回してから、改めて彼女の顔を見た。
 きりりとした眉尻や険しい顔つきは近づきがたいが、充分に美しい。この世界の美しさメーターはどうなっているんだ皇子といいシズといい、と口の中で呟いて、優ははっとした。脳裡に浮かんだ不敵な笑みの皇子から連想した人物を、思い出したのだ。
 もしかして、彼女はハンナの言っていた──

「よう、待たせたな」
 確かめようと優が動くより少し先に、新たな人物が登場した。慌ててもう一度縮こまり、様子を伺う。
 野太い声の主もまた優には気が付いていないようだった。
 まずお近づきにはなりたくない男であった。コンビニの前でたむろしている系の、いやそれよりももっとタチが悪い。軍服は着崩れていて襟元の汚れが目立つし、髪はざんばらだし、何より目付きがよくない。優ならば、進行方向に彼がいればさりげなく道を変える。
 そう思ったのは優だけではなかったようで、視線の先に立つ彼女も、その端麗な面にうっすらと生理的な嫌悪を滲ませた。
「貴公に呼び出される覚えはない」
「そうだな、アンタを呼び出したのはハーキムだ」
 ハーキム、と覚えのある名に、思わず声が漏れそうになって慌てて優は口許を押さえた。ハーキムとは、確かあの、神経質なほど整った字で経費申請書類を書いていた人物である。教科書のように字が綺麗だったから、騎士だろうとあたりをつけていた。どうにも質の宜しくなさそうなこの男とハーキムは知り合いらしい。
「そのハーキムはどこにいる」
「ここだ」
 また新たな人物の登場である。
 扉のあたりから声がしたが、あいにくと優の位置からは見えなかった。
「たかが女一人に男三人がかりとは」
 呆れたような彼女の台詞に、え、まだもう一人いるのか、と優は驚いた。次から次へと人が増えていく。何やらきな臭い場面に居合わせてしまったようだ。
「騎士の風上にも置けない」
「残念ながら、あいつはともかく俺たちは騎士じゃないんでね」
「馬鹿みたいな正攻法じゃ、アンタにゃ敵わないことくらい分かってるんだ」
 訛りが強くて聞き取りにくかったが、整理すると、この部屋には優を除いて四人の人物がいるらしい。
 一人は女で、言いぶりからして騎士に間違いない。残り三人は男で、うち一人はハーキムという騎士、あとは兵士のようだった。
 そこに色めいた空気はなく、どこまでも冴え冴えとしている。いわゆる痴情の縺れではないらしい。物騒な会話内容から、刃傷沙汰にでもなったらどうしよう、と優は肝を冷やした。
 優はどこにでもいるような、日本人の一般人だ。ニュースでこうした暴力沙汰を耳にすることはあっても実際に巻き込まれたことはなかったし、バイオレンス映画さえ避けて育った。こんな時に居合わせた場合の身のふりかたなど、知りもしない。
 迷子の果てに自らやってきたことはさておき、心底、他所でやってくれ!と思った。いや他所であったとしても刃傷沙汰は精神衛生上よろしくないので、できればやめていただきたいが。
 ちなみに明らかに形勢不利な彼女のために、この場所から飛び出して加勢するつもりは、まったくない。
 のほほんと育った優は、長年空手をやっていた友人と違って武術や護身術の心得はないし、どう考えても足手まといにしかならないだろう。
 それに、夕方にはシズレーが戻ってくる。
 ようやくだ。ようやく、彼に会える。レビネルにきてからまだ指折り数えられるほどの日数だが、その前から会っていないので、体感的にはかなり長い間彼の顔を見ていない。
 きっとシズレーも、優のこの選択を咎めないだろう。
 ひ弱な一般人が身を守るために修羅場を見て見ぬふりすることくらい、受け入れてくれるはずだ。優の言い訳を、いつものように頷いて受け入れてくれるはず。できることはなかったと、三人がかりで襲われようとしている女を見捨てても仕方がなかったと、言ってくれるはずだ。

 でも。

 耳障りな剣戟けんげきの音に身をすくめながら、優は唇を噛んだ。

 ──そうやってずっと言い訳ばかり探している自分が、堪らなく恥ずかしい。

 確かにシズレーは咎めないだろう。けれど、言い訳を重ねる優に、きっと幻滅する。彼はそれを表には出さないかもしれない。紳士的な人だから。
 いや、もしかしたら寛大なシズレーは本当の本当に幻滅すらしないかもしれないけれど、彼に幻滅されるかも、という想像をするだけで胸が苦しかった。
 他の誰にどんな風に思われても構わない。
 だがシズレーにだけは、少しでも悪く思われたくないのだ。

 何かできることはないか。
 叫んでみるとか。いや、先ほどまでまったく人気のなかったこんな場所で叫んだところで、誰も駆けつけないだろう。
 飛び出して体当たりしてみるとか。それも、無意味だ。シズレーほどではなくとも、相手は筋肉質な兵士である。しかも複数いるのだ。
 何か、何か。
 懐をまさぐり、指先に触れたものに、優ははっとした。
 ヴァレンスとのやりとりを思い出す。

『このように地味な攻撃もできます。殿下にやるのがお勧めです』
『――っユウさん!』

 ──輪ゴム。
 先日彼にあげたのだが、まだ何本か手元に残っていて、服を着替えてもつい癖でポケットに入れていた。
 いや待て、こんな細い輪ゴムごときで何ができる。せめて割り箸があれば輪ゴム鉄砲でも作れるが、そんなものが都合よくポケットに入っているはずもない。
 考えろ。考えろ、優。
 ぎゅうっと強く目を閉じた。頭がじんと痺れる。
 いや、考えるな。考えたところで天啓のようにアイディアが下りてくるほど、賢くはない。そこで優は、難しく考えるのをやめた。
 パチンコでも輪ゴム鉄砲でもない、とてもシンプルな方法に出ることにしたのだ。
 輪ゴムなど存在しないレビネルでそれを武器として使うことは、物理的威力に期待するよりも、「変なもの」として気を反らす方がよほど現実味を帯びているのではないか。
 ついでに、と優は鞄を探って筆記具を取り出した。インクの少なくなったボールペンに、愛用のシャープペンシル。付箋紙はすべてヴァレンスにあげてしまったからない。消しゴムはこの場合最適なフォルムだ。……投げるのに、ちょうど良い。
 やはり、持つべきものは事務用品である。

 細く深く息を吐いて、優は覚悟を決めた。
 シズレーはちょっぴり呆れるかもしれない。けれど、誰かを見捨てた言い訳を重ねるよりは、「よくやった」と誉めてくれるだろう。



 ヒュン、とかすかな音を立てて小さなものが飛んできたことに、始めに気付いたのは女の方だった。
「……って!」
 対峙していた男の腕にあたって床に落ちたそれは、白く四角い石のようであった。
 続けざまに、もう一度。今度は細長い棒のようなもの。それも彼女ではなく、男に向かって飛んでくる。
「うっ! 何だ!?」
 吹き矢の類いではないようで、男の顔にあたった後はそのまま落ちていった。物の小ささに反して、カンカンと硬質な音を立てて転がっていくその妙な物に、男たちの視線が釘付けになる。
「何だありゃ……?」
「枝か? いや、それにしては……」
 炭ならばともかく、生木はあのような硬質な音は立てない。
 彼らと同じく不審に思った彼女は、油断なく剣先を彼らに向けながら、物が飛んできた方に視線を投げた。
 積み上げられた荷物の向こうに、人影がある。誰か第三者が、この場にいる。
 荷物と荷物の隙間にすっと出てきたのは、細い腕だった。親指を上に向け、人差し指だけを前に伸ばした手がにょっきりと出てくる。そして次に飛んできたのは、輪のような紐だった。意外な速さで飛んできたそれは、やはり彼女ではなく、兵士の横顔にパチンと音を立ててあたる。
「ぃっ!」
「おい、ホレス、どうした!?」
「え、いや、何かが……紐?」
 兵士の一人が取り上げたのは、片手に収まるほどの大きさの輪状の紐だ。
「何でこんなものが……、うわ、何だこれ!」
 奇妙に伸びたその紐に、兵士は気味が悪くなって取り落とした。
「どこから飛んできた?」
 慌てて彼が振り向こうとしたところにもう一度。今後は目のあたりに直撃した。なかなかの命中率であるらしい。
「ぃっ!」
 噛み殺したような呻きを上げて、兵士は憤怒の表情を浮かべた。
「っらぁ! てめぇどこのどいつダァ!? 出てこい!!」
 まずい、と女は舌打ちした。
 隠れた人物が誰かは知らないが、おおかた雑用兵か衛生兵の一人だろう。もしかしたら彼女の知り合いの誰かかもしれない。助けようとしてくれたのだろうが、こんな男たちに目を付けられたら無事では済まない。彼女の知る限り、彼らはただの破落戸ごろつきなどではないのだ。
 怒声を上げて荷物の方へ向かおうとする男の前に、彼女は身を滑り込ませた。
「私を相手に余所見とは、いいご身分だな?」
 意図的にせせら笑いを浮かべて挑発してやれば、兵士は当初の目的を忘れてはいなかったらしく、先に彼女を始末することに決めたようだった。
 それでいい、と彼女は双剣を握る手に力を込めた。
 入口から順に、ハーキム、兵士二人、彼女、そして見知らぬ人物。助太刀しようとしてくれたその人物がここから逃れるには、退路を作る必要がある。だが兵士はともかく、ハーキムは高みの見物を決め込んでいるようで、入口から動かない。
 厄介だな、と思いながら、数合打ち合わせた後に、彼女は一人の兵士に一撃を食らわせた。
「っギル!」
 致命傷とまではいかなかったようだが、腹部を血に染めて膝をつく様子を一瞥してもう一人と対峙する。
 数日前の、彼女の上司でもある騎兵隊長との稽古は十分に役に立った。あのように巧みで重たい剣と比べれば、ただぶつかってくるだけの力馬鹿など、剣術を叩き込まれている彼女にしてみれば十分あしらえるものであった。
 唸り声を上げて立ち向かってくる男の剣をひらりと躱して、時には数合打合せ、男が態勢を崩したところを逃さず、がら空きの懐に飛び込んだ。

 けれど。
 兵士の喉元に突き付けた長剣を、彼女はすっと引いた。
「……ぁっ」
「そこまでだ」
 いつの間にか入口付近から姿を消していたハーキムが、物陰から無理矢理引っ張り出した人物にナイフを突き付けていたので。

「さあ高潔な女騎士サマ、どうする?」