翌日、優は昼前に目を覚ました。

 レビネルに来た翌日も驚くほど寝ていたものだが、今回も既に高い位置にある太陽に気付いて思わず「うおぇー!?」と野太い声を上げてしまった。誰にも聞かれなくて良かった。
 借りた部屋の寝台はおそろしく寝心地が良く、身体に残った疲れがゆるゆると溶けていくようだった。
 聞けば賓客用の部屋らしく、相部屋の兵士達は元より、個室を与えられる騎士達のものよりも、数段上質なものらしい。
 またしても身分差というものに直面し、やや尻込みしたものだが、メイナードに「貴女をそこらの部屋に泊める訳にはいきませんので」とやんわり押しきられてしまった優である。
 貧富の差はあれどそれほど明確な身分階級のない日本で生きていた優は、不思議に思う。
 このようにあからさまに区別されて、兵士達は不満に思わないのだろうか。そう言えばヴァレンスもヘンリックによく厄介事を押し付けられていたが、嘆きはしつつも反発はしていないようだった。優ならば地味な嫌がらせでもして仕返しするのだが。
 そう思ったが、自分を振り返って優は「人のことは言えないな」と呟いた。
 校舎長にいびられ続けていた優だって特段目に見えた反発はしなかった。何故なら彼は上司だからだ。彼の一存で勤務地が決まるということに怯え、十分に支配されていたと思う。
 優には転職するという選択肢はなかった。
 いや本当はあったのかもしれないが、それを考える程の心の余裕がなかった。
 それと似たようなものなのだろう。不満はなくはないが行動に移すほどではない、ということか。
 郷に入っては郷に従えという言葉もあるのだから、と優はそれ以上深く考えないことにした。

 一つ大きく伸びをして、ようやく寝台から抜け出す。
 昨晩のうちに、今日はゆっくり過ごすようメイナードやハンナから言われている。用意された服にのそのそと着替えながら、ふぁ、とあくびを噛み殺した。
 ハンナは今日一日休暇日にしたという例の女性騎士の元へ出向くことにしたらしい。ハンナは優を彼女に紹介したいと言っていたが、親しい間柄の久しぶりの逢瀬に水を差すのも忍びなく、明日以降にしてもらった。
 そういうわけで、優は一日ひたすらのんびりと羽根を伸ばして過ごすことにしたのだった。
 髪はあちこち自由に跳ねて、化粧もしない素顔である。
 レビネルに来るまでの優の土日はいつもこんな感じだが、少々色気に欠ける姿だ。下手すれば一日中家に籠っていることもあったので、レビネルに来てからの怒濤の日々を思えば良い機会だった。
 シズレーは明日か明後日にはこの砦に着くらしい。距離を考えれば今日はまず無理だそうだ。
 明日はきちんと身だしなみを整えよう。
 そう決めて、優は寝ている間に机に置かれていた食事に手をつけた。男性ばかりの騎兵隊宿舎と違い、砦内には女性の騎士もいるからか、ありがたいことに肉だけではなく野菜も添えられており、嬉しくなった。


 そんな風に食っちゃ寝する自堕落な一日を過ごしていたのだが、夕方、メイナードから夕食を共にとらないかとのお誘いがあった。
 一日緩やかに過ごしていたので夕方の今更慌てて身だしなみを整える羽目になったが、この誘いは優に少しの緊張と大いなる好奇心を与えた。
 なんと言っても、メイナードはシズレー直属の部下である。
 二人で過ごしていた時期、優と違ってシズレーは然程彼の仕事について多くは語らなかった。
 ぐちぐちと不平を漏らすような人ではなかったのだ。優と違って。……我が身を振り返ると、穴があったら入りたい気分だ。愚痴ばかりの優を、シズレーはどう思っていただろう。
「うーん……後からなら分かるんだけどな」
 あんなに愚痴ばかり聞かせるんじゃなかった。つい感情的になってしまうのは優の悪い癖だ。
 シズレーはメイナードに、優のことを話していただろうか。もしそうなら、それはどんな風に? そして優の知らない普段の彼は、彼とどんな風な職務時間を過ごしていたのだろう。
 たくさん聞きたいことがあって、矢継ぎ早に質問攻めにしないように、と優は自らを戒めた。

 メイナードの言伝ことづてを携えてきた部下らしき騎士が、案内をしてくれるようだった。
 ドタバタと部屋内を駆け回っていた音は彼にも聞こえていただろうに、部屋から済まして出てきた優に、彼は何も聞いていないかのように「では向かいます」と最敬礼をした。大の男にこのように丁重に対応されると、むしろ気まずい。程々で良いんだけどな、と思いつつそれを上手く言葉で言い表す自信がなくて、結局優はむずがゆさを押し込めて彼についていった。
 案内された先は、メイナードに割り当てられた部屋なのだろうと思っていたが、予想と異なりとても広い食堂のようなところだった。
 細く長い机がいくつか並んでいるから、まさしくこの砦の食堂なのだろう。
 夕食にはまだ早い今、がらんとしたその広間で、メイナードが出迎えてくれていた。広い。並べられた食器類からして食卓につくのはメイナードと優の二人のようだ。広過ぎる。もう少しこじんまりとした部屋で良かっただろうに。
 まじまじとあたりを見回していたら、側までやって来たメイナードに、これまた丁重に席に案内された。
 うう、やりづらい。素直ににっこり笑って「ありがとう」なんて言える淑女すげえ。思わず雑な感想が漏れでそうなくらいむずむずする。
「あの、部屋、ここ?」
「はい?」
「えーあー……ここ、良い? 広い、過ぎる。メイさん、部屋は?」
 こんな所で食事をするなんて広すぎて落ち着かないので、メイナードの部屋とかで構わないのですが、の意である。
 ハンナと違い会ったばかりのメイナードであるが、優のこの適当レビネル語にもきちんと耳を傾けて理解しようと努めてくれる。
 正確に汲み取ったメイナードは、しかし苦笑して首を振った。
「ここでなければならないのです。私の部屋でユウさん、貴女と食事をしようものなら、それが私の最後の晩餐になりかねませんので」
 またこれだ。
 食事を取るだけで命取りとか、一体この物騒さは何なのだ。この人は常日頃から命を狙われるような人なのか。壁際に立つ騎士達(ほとんど女性である)はもしやSPなのか。
 怖いから深く聞くことは止めよう、と聞き流すことにした。
 ――まさか、彼がシズレーの怒りを恐れているなんて、かけらも気付かない優であった。
 どうぞ、と案内された先の席に腰を下ろし、すかさず側に立った女性に飲み物を注がれて、恐縮しきりである。
 味なんて分からないのではないか、と思ったが、いざ料理を口に運ぶとそんな思いは一瞬で消し飛んだ。美味だ。前菜にと用意された皿には彩りも鮮やかに料理が盛り付けられており、その一つ一つが丁寧に作られたことが窺えるほど、繊細な味わいだった。
「美味しい」
「それは良かった」
 にこりと微笑んだメイナードも、洗練された所作で料理に手をつける。
 しばらく食べ進めたあたりで、口直しの冷たい氷菓シャーベットが出てきた。異界にもシャーベットがあるのか、と驚きつつ、口の中でほどけていく冷たさと甘さを堪能する。
「ユウさん」
「はい」
 呼び掛けに顔を上げれば、メイナードも食べ終えた所だった。
「隊長と貴女は、いつからお知り合いに?」
「ええと」
 何だいきなり。これは身辺調査の一種だろうか。
 思わず身構えた優だったが、目の前のメイナードはそんなことなど少しも思っていないように柔らかな表情でこちらを見ている。
「九ヶ月、と少し」
「……九ヶ月、ですか?」
 エッ、なんだその反応。もしや知り合ってから一年も経っていないのに勤務先まで押し掛けるヤバい奴だと思われたのか。いやまあその通りなのだが。
 内心焦った優は、努めて顔に出さないよう平静を保った。
 メイナードは何事か考えるように空を見つめたあと、ふむ、と頷いた。
「なるほど。九ヶ月前ですか」
「なるほど、なぜ?」
「隊長が変わられたのが、その頃なのです」
「シズが? あ、えっと、シズレー、が?」
「……机仕事に、真面目に取り組むようになりました」
 シズレーを愛称で呼んだことについて、メイナードは特に何も言わない。こんな平凡な女が彼の上司を気さくに呼んでいることについては、不問にしてくれるらしい。
 それはさておき、メイナードが告げた内容に、はて、と優は首を傾げた。
 シズレーが優と知り合ってから変わったと言わなかったか。だが優の記憶にある限り、シズレーはいつだって落ち着いていて真面目に仕事に取り組んでいたように思う。
「シズ、前、真面目、ない?」
「不真面目、ということでもなかったのですが。元々あの方は生粋の肉体派ですからね。たとえ幼少のみぎりから勉学に優れていても、それを騎兵隊の書類仕事に当てはめてるのは不得手だったようです。隊長職は各部署との連携など、しち面倒なことも多いですからね」
「待つ、待つ! メイさん、言葉、分かる、ない。簡単に、言って!」
 頑張ってヒアリングに努めていたが、もう無理だ。
 聞き取れないことに焦る気持ちと言い直しを求めなければならない恥ずかしさで半泣きになりつつ、優はメイナードの言葉を遮った。
 途端、ぎくりとしたメイナードが慌てて言い直してくれる。
「隊長、筋肉、馬鹿」
 ──言い直し過ぎである。
「……」
 思わず半目になる優だった。
「おや、失礼。馬鹿は失言ですね。ユウさん、他言無用に願いますね。まあつまり、隊長は書類仕事は苦手に思われていたということです」
「……ふうん」
「ですが貴女に会った頃から、変わられました」
「変わる、どう?」
「これまで私に一任されていた仕事も、ご自身でこなされるようになりました。あれこれと質問を挟みながら、理解しようとなさったのです。今では私の職務時間も短縮されまして、ありがたい限りですよ」
 ふむふむ、と聞きながらも、特に何もした覚えのない優は腑に落ちない気分だ。君に出会って変わった、などと言われましても。
「ユウさん、失礼ですが、貴女はお仕事を?」
「学舎の、事務員」
「ジムイン……?」
 学習塾という存在はレビネルにはないとシズレーに聞いていたから学舎と言い換えたが、事務員というのも表現として存在しないのか。優は少し悩んで、言い直した。
「書類整える、試験の採点、成績管理、親の対応、あとは経理とか」
「……なるほど。手間はかかるけれど派手ではない、とお見受けしますが」
「そう」
「きっと貴女がその仕事に打ち込む姿に、隊長は感銘を受けられたのだと思いますよ」
 嘘だぁ、とは口に出さなかった。
 シズレーが感心したかどうかはさておき、メイナードが変わったと言うからには、確かにシズレーは変わったのだろう。彼の公的な面を目にしたことのない優には、そうと納得するしかない。
 けれどなぜ、と首を傾げたい気分だ。
 自問しかけて、優ははたと気付いた。
 シズレーは、優のことを憎からず思ってくれていた。あの夜、優が彼との話し合いから逃げ出すその時までは、確かに。
 何か大きなビジネスを成功させるわけでも、自ら率先して生徒たちを指導するわけでもなく、一見誰でもできそうな事務仕事ではあったが、だからと言って責任のない仕事という訳ではない。どれだけ校舎長の嫌がらせめいた仕打ちを受けても、優はただ、仕事だけはきちんとやってきた。
 そのことをシズレーは評価してくれたのだろうか。
 けれどもし、シズレーが好ましく思ってくれた理由が、仕事への熱意なのだったとしたら。
 想像に、優はきゅっと唇を噛んだ。
 ──その仕事すら放り出した優のことを、シズレーは軽蔑するに違いない。

 氷菓の後に出てきたメインの肉料理は肉汁が滴る最高の状態であっただろうに、スポンジを食べたような気がする。

 突然黙り込んでしまった優に、メイナードは多少焦ったのだろう。やや慌てた様子で続けた。
「ユウさん、先ほど貴女は『成績管理』と仰いましたが、セイセキヒョウというものをご存知ですか?」
「え、成績表?」
 耳に馴染んだ単語に、思わず顔を上げる。
「成績表って、あの、えーと、学舎で使う、成績、管理する表?」
「ああ、やはり……」
 ふむ、と頷いてから、メイナードは微笑んだ。
「少し前、隊長が私にその内容を教えてくださいました。そして第二騎兵隊の隊員管理にこういうものを使ってはどうか、と」
 成績表のことならいつだったか、まだレビネルに来る前、持ち帰った採点作業していた時に、シズレーと話した覚えがある。
 学習塾では定期テストのたび、得点だけでなく偏差値や平均点、順位や得点の分布を一人一人表にまとめて本人に還元していた。もう随分と前のことだけれど。
「貴女の語る言葉が、身につけたものが、隊長を動かした」
「え……でも成績表、自分、だけ、違う」
 仮にレビネルに成績表のような管理システムがなかったとしても、日本では知らない人の方が少ないはずだ。確かに優は教育に間接的に関わる仕事をしているから、普通の人よりは詳しいかもしれないけれど、それだって以前からあるものを踏襲していただけだ。
 戸惑う優に、メイナードは「ですが」と付け加えた。
「隊長にとっては、貴女だけですよ」
 それは単に、たまたま優がシズレーにとっての異界の住人なだけで。
 続けようとした言葉を優は呑み込んだ。
 そうか。優にとっては何の変哲のない事柄も、このレビネルの住人にとっては全てが見知らぬことなのだ。知識を平準化されることに慣れている優はつい忘れがちになるが、プラスチック付箋紙にあれだけヴァレンスが驚いていたことが良い例である。

 自惚れでも何でもなく、事実として、優はシズレーにとって特別な存在だったのである。
 じんわりと頬が熱くなって、優は視線を落とした。

 かつて特別な存在であったからと言って、勿論現在のシズレーがどう思っているかなど分からない。だが、例えばこの世界で働き口を見つけて自立することができれば、少なくとも彼に軽蔑されるだけの自分にならなくて済むだろう。
 つい先日まではシズレーに拒絶されたとしても、とマイナス思考の下にヘンリックに雇ってもらい働くことを考えていたが、ここにきて優は、このレビネルでもシズレーに認められたいと、前向きに考えた。
「……あの、メイさん」
「はい」
「もし、よいなら、雇ってほしい」
 もしメイナードさえ良ければ雇ってもらえないか、との意である。
「……どうしてそうなるんですかっ!?」
 唐突な優の申し出にメイナードは面食らった顔をした。明らかにそんな脈絡ではなかったはずだが。
 優は優で、メイナードが怯んだことにしょんぼりとした。
 優は打算的なのである。
 砦に来るまで、ヘンリックとヴァレンスの執務室で手伝いをこなしていたが、永劫に雇ってもらえるとは限らない。
 そこで確実な働き口の欲しい優はここぞとばかりにメイナードに申し出てみたわけなのだが、やはりそう甘い世の中ではないようだ。
「……何でもする、から」
 優の勤めていた学習塾では、事務員はそれこそ何でも屋だった。通常の事務作業だけでなく、時には切れた照明の付け替えやお茶汲みもさせられていたので、一通り雑務はできる。
 そう考えたからこそのこの一言に、メイナードは急に顔つきを険しくして首を振った。
「いけません。いけませんよ、ユウさん。そういうことは軽々しく言ってはなりません。貴女のその言葉は相手の寿命を縮める言葉だと、理解なさった方がいい」
 というか確実に今私の寿命が縮みました、と呟いて、メイナードははあとため息を漏らした。一体この人はどれだけ危険と隣り合わせの生活を送っているのだろうか。
「……ともかく、その話は、隊長になさるべきです。私に雇用権限はありませんしね」
「シズに……」
 雇って、もらえるだろうか。
 拒否された(と一方的に思っている)相手からの就労申し出など、受け入れるにしても断るにしてもやりづらいことこの上ないだろう。
 そのような思いをシズレーにさせるのも忍びない。
 忍びないが、身元保証すら曖昧なこの異界で生きていこうとするならば、四の五の言っていられる状況ではないのだ。
 暫く考え込んで、優はようやく顔をあげた。
「メイさん、ありがとう。シズに言う、ます」
 優の決意に、メイナードはようやく表情を緩めて頷いた。



 ようやく食事を再開させた二人だったが、話の種は尽きず、優は仮に就労が叶えばとの前置きをしたうえでメイナードに騎兵隊の構成などを教わり、メイナードは優に成績表について根掘り葉掘り尋ねた。
 そうして幾分か打ち解けた後。
「そう言えばユウさん、皇都では、ヘンリック殿下の下にいらしたとか」
「え? うん、そう」
「驚かれましたでしょう? 何せあの外け、」
「ほんとに! 鬼かと思った!」
 外見、と続けようとしたメイナードに、食い気味に優は声を上げた。そしてあれ、と我に返る。そしておそるおそるメイナードを見れば、彼は肩を揺らして笑っていた。
「あの、ごめん、メイさん、今の忘れて、お願い」
「な、なるほど。鬼、でしたか」
 落ち着いた紳士系に見えたが案外笑い上戸だったらしい。うっかり涙目になるほど笑われて、優は恥ずかしさ肩をすぼめた。
「確かに鬼ですが。一応あれで、よいところもあるのですよ」
 笑いから立ち直ったメイナードは、優雅な手つきで目尻をぬぐったあと、話を続けた。
 思えばメイナードは結構適当な話しぶりである。「一応」とか「あれで」だなんて、そんな風に皇族を語って良いのだろうか。
 ヴァレンスはもう少しへりくだっていたような気がする。これも年の功だろうか。まあ、優だって別にヘンリックを敬う気持ちはないので全く構わないのだが。
 何となく、メイナードとは気が合いそうである。

 結局メイナードの語る「ヘンリックのよいところ」はほとんど聞き流して、優は残りの食事を美味しく頂いた。


 そして翌日の朝。
 ――シズレーがその日の夜、砦に到着するとの報せがあった。