「う……わぁ……っ!!」
 その光景を目にした時、優はありきたりな感嘆しかできなかった。人は想像を超えるものを目にするとむしろ何も言えなくなるとよく言われるが、まさしくその通りである。
 息を飲んで目を丸くするばかりの優に、ハンナと馭者はさもありなんと笑んだ。
「ユウさんのお住まいだった所にはこういうものはありませんでした?」
「ない、ない」
 日本にはまずない。
 こくこくと頷いて優はまた前方に向き直った。
 慣れない馬車での旅に、そろそろ臀部が痛みを訴えてきたころ、ようやく到着したのがこの砦だった。
 辿ってきた街道はレビネル皇国でも代表的な街道の一つというだけあって、日本で言えば片道五車線はゆうにある広さだったが、目の前の砦もおそろしく大きい。学生時代にイタリアで見たコロッセオは当時約五万人も収容できたというその大きさに感動したが、それを上回る大きさである。これをクレーンなどの重機のない中、人の手で造り上げたというのだから人力の凄さは図り知れない。
 細部まで精緻に計算されて造られたのだろう全体像を見渡して、改めて優はため息を漏らした。
 そして現在地と砦の間に、人の背丈の倍ほどの深さに掘られた路があることに気付いた。深さだけでなく幅も十分にあり、さながら大きめの用水路のようだ。
「これってお堀なの? いや、お堀ってレビネルで何て言うんだ。か、河?」
 異界の語彙力の乏しさに肩を落としつつ、日本語とレビネル公用語を交えてざっくりと質問したところ、ハンナがきちんと汲み取ってくれた。
「そうですね。今は水を入れておりませんが、有事には濠にもなりますよ。跳ね橋を上げてしまえばここは完全な独立要塞になります。備蓄も十二分の量ですし、通常は不利になると言われる籠城戦でもこれまで負け知らずですね」
「ハンナさん、なに?」
 難しい言葉が多くて意味が分からず首を傾げれば、優と同じくざっくりとした性格のハンナは「橋、あがる、無敵ー!」とにこやかに言い直した。優は無敵かあ、と納得して、ハンナの言い方が面白かったことに笑ってしまった。
「それに、ここの壁はそれ自体の中が通路になっていて、人が通れるくらいの厚さなんですよ。それに跳ね橋の奥、見えますか? あそこにある鉄扉はこの壁の中で人力で巻き上げているんですって」
 力が要りそうですねえ、とのんびり呟くハンナの説明を聞きながら、伝聞調なのに何故そんなに詳しいのだろうかと不思議に思っていると、彼女は少し照れ臭そうに「こういう建造物を見聞きするのが好きなんです」と笑った。城ガールとかそういう系か、と受け入れる優である。人は見かけによらないものだ。
「お二人とも、そろそろ行きますよ」
 窓から身を乗り出してあれやこれやと話していた優とハンナに、しばらく付き合っていた馭者もやや痺れを切らした様子で促した。慌てて二人は顔を引っ込め、肩をすぼめた。
 先ほどハンナが指差した先の鉄扉に向かって馬車は進み、扉の横、詰所のような小部屋の前で止まった。
 軍事要塞にふさわしく小さく造られた窓から、人の目だけが見えていてやや不気味だ。ヘンリックの正式な許可を受けて訪れている立場ではあるが、不純な動機も持ち合わせている優は何となく後ろめたい気持ちでできるだけ大人しくしていようと膝を揃えた。
 馭者と番人が二、三やり取りをした後、馭者がこちらを振り返って何事か言った言葉にハンナが頷いて、彼女に促された優はおっかなびっくり馬車から降りた。
 用心深そうな目付きをしていた番人はハンナに続いて現れた優を見てわずかに目を丸くした。おそらくは優の短い髪に驚いたのだろう。現代日本ではありふれた髪型なのだが、会う人会う人にこうした反応をされると居心地が悪い。ごくごく自然に、優は髪を伸ばそう、と決めた。──このままレビネルで過ごす未来を考え始めていることに、少しも躊躇ためらわずに。

 詰所から数人の兵士が出て来て一通り馬車の中をあらためられ、どうやから中に入る許可が下りたらしかった。その内の一人が優が肩から斜めがけにした鞄を見て、まるで「あれは確認しなくても良いのか」とばかりに仲間内に声をかけていたが、不問になったようだ。鞄にしまいこんである資料を不用意に知られれば危険を伴うとヘンリックに脅されている優は、胸を撫で下ろした。
 それにしても、番人の兵士達は日本で言うと交番前に立つ警察官のようだ、と優は思う。こう言っては悪いが柄の悪そうな男もいるので一概に同じにはできないが、何も悪いことはしていないのに何となく背筋を正さねばならない気持ちになる。
 目指せ人畜無害! といつだったか皇帝に会う前のことを思い出し、一挙手一投足にまで気を配って優は鉄扉へ足を向けた。がらがらと耳障りな音が響くのは、ハンナの言っていたように扉を動かす鎖が壁の中で巻き取られている音だろうか。出入りするだけでも一苦労である。

 背後でまた先ほどと同じ音が響くのを聞きながら、優はついにシズレーがいる砦内に足を踏み入れたことに、そわそわと落ち着かない気持ちになった。
 勢いに任せてここまで来てしまったが、彼はどんな顔をするだろうか。
 一応レビネルに来た旨は手紙で伝えたが、一度目はヘンリックの質の悪い悪戯だと思われてしまい、二度目の手紙は返事を見ていない。つまりこちらに来てまだ一度たりとも、まともにシズレーと意志疎通をしたことがないのだ。
 シズレーと優の時間は最後に会ったあの時で止まっている。
 今更何を、と思われるだろうか。
 遠く離れた皇城に居た頃も様々な想像を巡らせていたが、それらはすべて想像に過ぎなかった。けれど今度こそ、想像ではなくシズレーと向き合うことになるのだ。
 拒絶されたらみっともなく泣きわめいて縋ってしまいそうだ。今のうちに、ハンナに無理矢理にでも連れ帰ってもらうように自戒を込めて依頼しておくべきか。
 ぐるぐるとそんなことを考えているうちに、優達一行は砦内で最も大きな建物に着いていた。
 案内人を務める兵士が振り返って何やら説明しているが、なまりがあるのか何と言っているのかほとんど聞き取れない。そう言えばヘンリックやヴァレンス、ハンナ、財務長官たちはあまり抑揚のない流れるような話し方をするが、兵士はそうではない。日本でも聞き取りづらい方言はいくらでもあるので、同じ公用語であっても違いがあるのは納得だ。
 中国語やフランス語を耳にする時のように、音としては入ってきても単語一つ聞き取れない兵士の言葉を聞き流していると、ハンナが「まあ」と驚きの声を上げて、口許に手をあてた。それからこちらを見て、気まずそうな、気の毒そうな、何とも言えない表情を浮かべる。
 何か良くない報せだったらしい。
「ハンナさん、なに?」
 全く聞き取れていないので教えて欲しい、と首を傾げたが、ハンナは「ええと……」と言い淀んでいる。
 もしや、優が来たことが既に伝わっているシズレーが、「そんな女は追い返せ!」とでも言っているのだろうか。いわゆる門前払いというやつである。それならハンナのこの気の毒そうな顔も理解ができる。優がうっきうきでここまでやって来たのを知っているのだから。
「ハンナさ、」
 いっそ一思いに言って欲しい、と再度尋ねようとした時だった。

「──貴女が、ユウさんですか?」

 抑揚のない柔らかな声が、かけられた。
 ハンナに向き直っていた優は突如自分の名前が出たことに驚いて、え、と顔を上げた。
 そこには中年と見える男が一人立っていた。案内人を務めていた兵士が深く頭を下げているところを見ると、どうやら高い立場の者らしい。
 シズレーや兵士のような肉体派と比べると上背は高いが痩せ気味なのでひょろりとして見える。筋肉フェチの優は特に心惹かれないが、おじ専の友人がきゃあきゃあ騒ぎそうな、落ち着き払った紳士系だ。これで眼鏡があれば完璧なのだが。
 なんて、優はそんな俗っぽいことを考えていたのだが、同じく驚いたハンナが高い声を上げた。
「メイナード様!」
 名前を聞いても、誰だか分からない。
 はて、と首を傾げる優に、心なしか目を輝かせたハンナがこそこそと説明してくれた。
「ユウさん、この方はメイナード・ラン様と言って、第二騎兵隊の次官でいらっしゃいます」
「うん?」
「つまり、オトロード様の最も近しい部下の方ですよ!」
 第二、次官、オトロード、と聞き取った単語を繋げて、ぱっと優は顔を上げた。次官と言えば優の知る人物はヴァレンスだが、彼はヘンリックの部下である。つまり平たく言えば目の前の彼はシズレーの部下ということなのだ。
「あ、あの! 初めまして斉藤優と……ああ、違う、ユウ・サイトーと申します! いつもシズがお世話に……いやいや、あたしってば何様、どの立場で話してるんだ! えと、ええと、シズにお世話になって、ます?」
 レビネルに来てから今までで一番緊張して、優は深々とお辞儀をしたあと、まるきり全て日本語でまくし立てていたことに気付いて硬直した。
 ──ミスった。絶対変な女だと思われた……。
 うなだれてから、優はぼそぼそと「すみません、ユウです……」と公用語で名乗った。
 奇っ怪な女を前にした彼はさぞ不審げな顔をしているに違いないと優は戦々恐々としたが、そろりと顔を上げた先、メイナードは少しおかしそうに目を細めただけの笑顔で、「初めまして、どうぞ宜しく」と柔らかく笑った。
 常に皮肉げな笑みを浮かべていたからか、意地悪く唇のひん曲がっていた校舎長とは天と地ほども違う笑顔だった。
 神か!! と思わず叫びそうになった優である。
 間違いなくいい人だ、と勝手に決めつけて、優は「よろしく、お願い、ます……」と神妙に頭を下げた。

「さてユウさん、こちらへどうぞ」
 メイナードにそう声を掛けられて、優は思わずハンナを見た。彼女に頷かれて、彼女と二人、メイナードに着いて行くことにする。馭者や兵士はこの場に留まるらしかった。
 建物の中に通され、意外と明るい内部に驚きつつ、四階分ほど階段を上った先の部屋で優はようやく腰を下ろした。軍事要塞と言うからよほど武骨なものを想像していたのだが、落ち着いた色の調度品が置かれ、腰かけたソファも程よくクッションが効いており、座り心地が良い。
「お疲れでしょう。お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
 メイナードにそつなく紅茶を差し出されてもてなされながら、はて、と優は首を傾げる。
「あの、メイナー……えーと、メイさん」
 咄嗟に彼の名がメイナードだったかメイナートだったか分からなくなって、苦し紛れに省略して声をかければ、メイナードは束の間驚いてから、「何でしょうか」と微笑んだ。やはり少し馴れ馴れしかっただろうか。
「シズ、レーはいる、ない?」
 呼び慣れたシズレーの愛称を口にしそうになり、慌てて正しながら尋ねたところ、メイナードは困ったように眉尻を下げた。
「それがですね。結論から申し上げますが……隊長は、ここにはおりません」
「……え?」
 聞き間違いか、と横に座るハンナを見たが、残念なことに優の聞き間違いではなかったようだった。彼女もまた、眉尻を下げた顔で、こちらを見ていた。
「え……ええー!? どうしてですか、会いに行くって、ヴァレンスさんに後から手紙を送ってもらったのに! あたしが来るって分かっていなくなったんですか!? 何それ何それ! シズひどい……っ!!」
 まさかの話し合いすら拒否である。
 そこまで全力で拒絶されるとは思いもよらず、優はうっかり涙ぐんで翻訳努力を放棄した。
 先ほどに続き、彼らにとっては訳の分からない日本語で喚き立てる優はさぞ取り乱して見えただろう。メイナードがいっそう困り果てた表情を浮かべ、焦ったように両手を前に差し出した。
「ユウさん、どうか、どうか落ち着いて聞いてください。泣かせたと知られたら私の命に関わりますから」
「…………はい?」
 生死に関わるとはただごとではない。物騒な単語に、思わず涙も引っ込む。
「ひとまずお茶をどうぞ。……隊長は、ここにはおりません。──貴女に会いに皇都へ向かわれたのです」
 これをご覧ください、と見せられたのは、数日前に優がヴァレンスに依頼して書いてもらった手紙だった。そして次に、ヴァレンスが同時に書いたらしい手紙と、最後に出した手紙があった。内容は順に、間違いなくレビネルに来たこと、ヘンリックが優を気に入ってその庇護下にあること、そして優がシズレーに会うために砦へ向かったこと、である。何故か一枚目はびりびりに破られた跡があり、丁寧に貼り合わされている。
「残念ながら、この最後の手紙を、隊長はご覧になっていません」
 行き違いになったのです、と締めくくるメイナードと手紙とを呆然と見て、優は自分が現代文明に慣れきっていたことを、改めて思い知らされた。
 優の周囲ではスマートフォンは生活に欠かせないものになっているし、大抵すぐに、遅くともその日中には相手が読むことを知っていたから、最近では既読マークすら確認しなくなった。メッセージを送った時点で、相手は必ず読むだろう、と思い込んでいたのだ。そうか、読まないかもしれない、というのは思い付きもしなかった。
 せっかく臀部の痛みに耐えてやって来たが、引き返すべきだろうか。
 どんよりと考えていたところで、メイナードがそっと告げた。
「貴女がこちらに向かわれるとの手紙を受けてから、到着される前に隊長には速達便で事情を説明しております。確実に隊長は引き返して来られるでしょうから、また行き違いになってしまうよりは、こちらでお待ちいただいた方が宜しいかと思いますよ」
 丁寧に話してくれる分、聞き取れない所は多かったが、すかさずハンナが端的に言い直してくれた。
「ここ、待つ……」
「ええ。お嫌でなければですが」
「でも、シズ、帰ってくる、ない、なら?」
 メイナードは確実にシズレーが引き返してくると断言したが、そんな保証はどこにもない。ああでも彼は任務としてこの砦に遠征しているのだったか。それならば確かに戻ってくるだろう。なるほどね、と一人納得したのだが、メイナードは優の考えを否定した。
「必ず戻って来られますよ。ユウさん、貴女がここにいるのですから」
 含みのない笑顔を向けられれば、「でも」とはもう言えなかった。
「……なら、メイさん、お世話になる、ます」
「それは良かった。お嫌でなければ、とは言いましたが、万一貴女が出ていかれようものなら、私に雷が落ちるのは目に見えていますからね」
「雷? けど、天気、いい」
 先ほどからメイナードは突拍子もないことを言う。
「分からなければ、聞き流していただいて結構ですよ」
 こちらは異国語を聞き取ろうといっぱいいっぱいなのだから、聞き流して良い内容ならば始めから言わなければ良いのに。少しひねくれた思いでそんなことを内心呟きながら、優はこくりと頷いて聞き流すことにした。


 メイナードの説明によると、シズレーがこの砦にいないことは、砦内の騎士、兵士達は皆知っているそうだ。
 但し、私用ではなく、皇都からの緊急の呼び出しがあったと公用のためとされているらしい。
 まあ確かに私用で勝手に任務地を離れたなどと知られたら、上に立つ者の資格を問われるものな、と自らを棚上げしつつ優は納得した。
 形式上、優とハンナも公用で砦を訪れたことにするらしい。
 本当に公用もあるのだけれど、と思ったのは、宿泊用に案内された部屋で落ち着いてからのことだった。
「あ、しまった」
 始終身に付けていた鞄を机に置いてから、そのことに気付く。苦労して持ち運んできたこの資料のことをすっかり忘れていた。
 ヴァレンスは優がここへ向かう旨は手紙に記していたが、事態を口頭で説明することになっているので、資料のことに関しては一言も触れていない。それゆえにメイナードも、自身が取り寄せを依頼した隊員名簿をまさか優が手持っているとは知らず、何も言わなかった。メイナードは本当に私用で優が砦を訪れたと思っているのだ。
「シズが戻ってくるまで黙ってた方がいいのかな?」
 独り言を呟きながら首を傾げる。
 直接シズレーに説明するように、とヘンリックから厳命されている。メイナードは第二騎兵隊の次官でシズレーの直属の部下だから、彼に説明しても良いのだろうけれど、その判断が正しいのか、優には分からない。しばらく悩んで、優はヘンリックの命を忠実に守ることにした。シズレーがこの砦に戻ってくるのにそう日数はかからないようだから、待っておいても構わないだろう。
 一応念のために道中と同じく鞄を抱え込むようにして、優は眠りに就いた。


***


 第二騎兵隊が駐屯する砦から少し離れた場所に、繁華街がある。
 きらびやかな皇都に比べるといくらか雑然としたその街中、ある大衆食堂の片隅で、その男たちは額を突き合わせていた。灯りの絞られた薄暗い店内は人でごった返していて、誰も彼らに注意を払わない。
「……まずいことになった」
 ハーキムは質の悪い葡萄酒に顔をしかめながら、暗く呟いた。
 彼の前には二人の男がいる。一人はホレスという兵士で、もう一人はギルと言った。二人とも、軍から支給される制服を着ていなければ、一般人には近寄りがたい風体の男だ。
 彼らは頭を抱えるハーキムに呆れたような視線をやって、エール酒を飲み干した。ハーキムは階級としては騎士である。落ちぶれた貴族のくせに気位だけは高く、この大衆食堂に入るのに騎士服では入れないと、わざわざ着替えてやってきた。気取って葡萄酒など飲んでいても、彼らの飲むエール酒とほとんど値段は変わらない。上流貴族達が湯水のように口にする葡萄酒は目を疑う程の価格がつくが、こんな安食堂にそんなものがあるはずはなく、また仮にあったとしても到底ハーキムの手には届かない。
「まずいも何も、計画したのはあんただろう、ハーキム」
 ホレスは飲み干した杯を指先で振りつつ、睥睨へいげいして言った。
「っ俺は! 馬蹄ばていを盗むなんて聞いていなかった」
 声を荒げかけてから急いで周囲に視線をやり、ハーキムは声を潜める。
「でも、首謀者はあんただ」
 ギルが静かに告げる。
 はっとしてハーキムは顔を上げた。額からこめかみにかけて醜く引き攣った傷痕の残る男が、にやりと嗤う。
 彼の言った通り、誰からどう見ても、これはハーキムの仕掛けた不正のように見えるだろう。首謀者、との響きが重くのしかかる。

 始めは領収書の数字を少し書き換えただけだった。
 財務は領収書と請求書の数字の違いには煩いが、領収書自体の数字が違っていることには誰も気付かなかった。
 始めは、下一桁の数字を変えた。次は二桁を、三桁を、と増長していき、最後には金額の始めに数字を書き加えるようになった。
 給金に上乗せされて支給された金額に、ハーキムは目を輝かせた。
 その金は全て、母に送った。
 母は泣いて喜んだが、すぐに金は底をついた。はした金では、膨れ上がった借金の利子にもならなかった。そもそも一騎士が立て替えで購入できる備品などたかが知れている。
 母からの手紙を手に行き詰まったハーキムに、ホレスがまた声をかけた。
『もっと金になる方法がある』
 その甘言に飛び付かない理由なかった。
 一度不正に手を染めてしまえば、引き返す方法などないのだ。
 彼は言った。領収書の改竄かいざんによる差額の横領よりも、武具を売り払う方がまとまった金になると。それは確かにその通りで、だがわずかに残る理性がそんなことをすればすぐに露見すると判断した。
 そんなハーキムに、ホレスはうっそりとわらって付け加える。
『古い武具はどうせ業者に引き取られていくだけだろう? それを買い取ってくれる相手がいるんだよ』
 てるものであれば誰にも気付かれない、と。
 その囁きにごくりと唾を飲んで、ハーキムは実行した。
 そしてやはり、廃棄する武具などそう数があるはずもなく、やがて購入したばかりのものを売り払うようになった。新調した数に比して廃棄の数が少ないことに、気付かれることはなかった。
 あの忌々しいワンダ・ストフリーに不正を勘づかれるまでは。

「それにな」
 察しの悪い生徒に教えるように、ギルはゆっくりと話す。
「あんたは知ろうともしなかったが……買い取っていた相手は誰だと思ってる?」
「……どういうことだ?」
 馬蹄を売り払ったことよりも尚まずいことなど、あるのか。
 疑わしげに見つめるハーキムを見下ろして、ギルが続けた言葉に、ハーキムは杯を今にも取り落としそうなほど、顔面蒼白になる。
 周囲をはばからずに取り乱して喚き立てる寸前、ギルの節くれだった手がハーキムの口を塞った。
「おっと。……こんなところで騒いでいいのかい、騎士さんよ」
「……っ!!」
 ぎりりと奥歯を噛み締める音がした。

 ──その事実がおおやけになれば、身の破滅は間違いなかった。
 少しでも知った者がいるのならば、口を塞がねばなるまい。隊から追い出すだけでは意味がない。誰にも知られないように、口を塞がねば。

 あの、女騎士の口を。