「世話になった」
そう言って、シズレーは厩から愛馬を引き取った。
街道沿いの大きな街には、いくつも簡易の預け場が設置されている。街から街へ移動するには馬が重宝されるが、乗り続けると人も馬も疲弊するため、人が食事などをしている間に馬は厩で飼い葉を与えられ十分に休息を取るのである。
郵書屋や急用を抱えた者は馬を乗り継いで走り続けるが、主人以外には気難しい愛馬を置いていくわけにはいかず、シズレーは時間がかかるのを承知で馬を換えなかった。
愛馬が大きな目でじっと「行くのか?」とでも言いたげに見つめてくるのに、ぽんぽんと首のあたりを叩いて応えてやりながら、ひらりと騎乗する。
先ほど預けた時とは別の、だが同じく馬好きであるらしい番人から熱い視線が注がれるのを苦笑交じりに受け止めて、シズレーは厩を後にした。
次官にも告げることなく砦を出て、既に丸一日が経とうとしている。
手綱を取る手とは反対の手で懐を探り、そこに触れるものがあることに、細く息を吐き出して安堵した。砦を出てからもう何度も懐を探っている。
丁寧にも手巾で二重にくるみ、革の小袋に入れてきたものはユウの耳飾りだ。
持ち主ですら封筒にぽんと入れ込んでいたそれを、いっそ執拗なほど厳重にしまいこむ姿は、もしヘンリックあたりが知れば目を剥くことだろう。だがシズレーは誰に何と言われようとその扱いを変えるつもりはないし、そもそも彼女の耳飾りを不用意に他人の目に触れさせることなど、決してするつもりはない。
これは、ユウがこのレビネルに、自分と同じ世界に居るという確かな証なのだ。
どこか夢見心地なまま手綱を繰っていると、ふと我に返って責務を思い出し、砦へ馬首を返そうとする。そのたびにこの証がちりりと音を立てる気がして、結局シズレーは一度も振り返ることなくここまで来ていた。耳飾りは少しも動かないように手巾にくるんでいるのに、である。
それが幻聴であることも、責務を放棄している己の愚かさも、勿論分かっている。
次官に合わせる顔もなかった。
あの優しくも厳しい部下はあんなに言い聞かせてくれたのに、一度はそれに納得したのに、この様だ。
それでも。
「……ユウ」
一度きつく目を閉じてから、シズレーは風に掻き消えそうなほど小さな声で彼女の名前を大切に囁いた。
シズレーが皇都に入ったのは、更に二日が経ってからのことだった。
住み慣れたこの街のどこかに彼女がいると思うだけで、ほんの数日前に後にしたばかりで変わり映えのしない街並みが、色鮮やかに目に映った。
そして華々しく行進が行われた目抜き通りを避け、裏通りを選んで皇城へと足を進める。さすがに皇族に似通った自らの容姿が目立つことは、浮ついた頭でもよく理解していた。本来なら離れた地で軍事演習を行っているはずの部隊長が単騎で街中に姿を現せば、いらぬ疑惑を呼ぶことだろう。
だが宿に泊まるでもなく街道を進み続けたシズレーの外套は砂埃にまみれており、人目を引く髪さえ隠してしまえば、浮浪者よりはいくらかまし、といった出で立ちの彼に関心を向ける住人はいなかった。
災難だったのは、正門の警備にあたっていた第一騎兵隊の騎士だ。
レビネルの皇城は二枚の城壁に囲われた城である。外側の門は単に城門と呼ばれ、日中は基本的に開けられたまま、レビネルの住人であれば容易に出入りができる。だがその奥、小高い丘を囲う城壁に備えられた門は正門と言い、皇族の居住区や国の重要機関があるため、その警備は近衛兵でもある第一騎兵隊が担っていた。
彼らはどんな小さな鼠でも外敵は通すなと訓練されている。
詰所には他に何人もいるが、この日、正門に立って警備にあたっていたのは四人の騎士だった。
そのうちの一人、まだ入隊したばかりの若い騎士は、夕闇に染まりつつある中、城門から真っすぐこちらに向かってくる一体の騎馬に気付いて顔を上げた。
「……何だ?」
普通、騎乗したまま入城する者であっても、手前の城門を抜けてからは速度を緩める者が多い。皇城内は一つの小さな街を成しており、人も物も集まる国内随一の繁華街でもある。そこを騎馬で駆け抜けるのは困難を極める。そんな中こちらへ向かってくる馬は、早駆けの名手もかくやと言わんばかりの速度で巧みに合間を縫って駆けているのだ。
すわ敵襲か、と彼らが身構えるよりも早く、その馬は正門に突っ込んできた。
「お、おい、待て、止まれ!」
「何者だ!?」
馬上の人物は被った外套に遮られてろくに人相も分からない。
未だかつてこのような堂々とした駆け込みに相対したことのない騎士達は慌てて声を張り上げたが、大きな雄馬は一切躊躇することなく、必死な彼らを呆れたように睥睨し、大きな鼻息を鳴らして正門をくぐった。
このまま身分の確認もせず城内に入られたとなると、近衛として大失態である。上司からの懲罰は免れない。
馬に蹴られないよう、けれど必死の形相で、騎士達は馬を引き留めようとした。
「ここをどこだと思っている!? 降りて顔を見せろ!」
「名を名乗れ!」
割れんばかりの大声に、ようやく馬上の人物はちらりと振り返った。外套から覗く鮮やかな色に、ふと記憶をかすめるものがあったが、騎士達はここぞとばかりに物騒な闖入者を詰った。
く、とほんの少し手綱を引いた主の指示に、従順な馬はすぐさま歩を緩める。
荒い鼻息と地面を叩く蹄の音が響く中、早駆けしてきたばかりとは思えないほど優雅に馬から降りたその人物は、土埃で薄汚れた頭巾を外して顔を見せた。
途端に先ほどまで厳めしく詰め寄っていた騎士達がぎょっとして身を引く。
彼らの主に似たその面影は、たとえ薄汚れていようと見間違えようもない人物のものだったのだ。
「「オトロード様!?」」
第一騎兵隊の騎士はそのほとんどが貴族出身の者だが、オトロード家は由緒正しきレビネル屈指の大公爵家だ。その身分を上回る者はこの場に一人もいない。
「し、失礼しました!」
「オトロード隊長とは知らず……!」
彼らが揃って頭を下げるのを見遣って、シズレーはそれを諫めるでも、不審極まりない入城の仕方を詫びるでもなく、低く唸るような声で呟いた。
「――クはどこだ」
「は……?」
掠れてよく聞こえなかった声に、騎士はぽかんとして顔を上げる。すると灰紫の瞳に睨み据えられ、飛びあがりそうになった。
「リックはどこだと聞いている」
「り、リック……ですか……?」
一体それは誰だ、とその場にいたシズレー以外の全員が急いで思考を巡らせた。だが彼らの知る人物の中にリックという名前の者はいない。リックという短い名前は、平民階級にはよく見られるが貴族階級にはあまりつけられないものなのだ。
その様子を据わった目で一通り見たシズレーは、知らないのならば用はないとばかりに「もういい」と呟いて、また騎乗した。
「あ、お待ちを……!!」
「どうか入城手続きを!」
言い縋る騎士達だったが、馬上の人となったシズレーは「適当に書いておけ」と言い残してそのまま皇宮へ向け去っていった。彼らの上司である傍若無人な第三皇子ならばともかく、落ち着いた人柄で知られた第二騎兵隊隊長の暴挙に、彼らは唖然として束の間立ち尽くした。
「…………あ、」
何とも言えない空気が漂う中、初めにシズレーに気付いた新人騎士がふと声を漏らす。
「な、なんだ?」
先輩騎士達が今度は何だとうろたえる中、彼は「あ、えっと、間違ってるかもしれないんですけど」と慎重に前置きをしてから、そっと言葉を続けた。
「オトロード様の仰った『リック』って……もしかしてうちの隊長のことじゃないでしょうか?」
彼らの隊長の名前はヘンリック・ロージアン・ダン・レビネルである。リックは、ヘンリックの愛称だ。
皇族の、しかも正統なる継承権を持った皇子にそんな愛称で呼びかける者などいないが、ヘンリックとシズレーはいとこ同士の関係だったはずだと、入隊する前に皇族の人物関係は頭に叩き込んでいたのだ。
「あ……ああ、そうか!」
「なるほど!」
不可思議な謎が一つ解けたところで、彼らは職務軍人にあるまじきことに、それ以上の思考を放棄した。
「……うちの隊長関連なら、放っておこう」
「そ、そうですね、そうしましょう!」
触らぬ神に祟りなし、である。レビネルは無神論主義であることはさておき、彼らは互いにその話題を蒸し返さないようにしようと取り決め、そして入城記録にそそくさとシズレーの名を記すに留めたのであった。
上司がにやにやと楽しそうに謀を巡らす姿は、彼らもよく知っている。関わって良い結果になった試しは一度としてない。
そうして門番の騎士達がシズレーの名を記入し終えた頃、次に被害を受けたのは、誰あろう、第一騎兵隊の次官・ヴァレンスだった。
財務長官の長話から上手く逃げ出してきたヴァレンスは、先日のユウの苦労を慮ると同時にまた彼女に頼めばあの長話に付き合わなくて済むなあ、とのんびりと酷いことを考えながら、執務室に向け回廊を進んでいた。
そこへ、前方からずんずんとこちらへ向かってくる人物がいた。
宮廷内にふさわしくなく頭から薄汚れたその人物に顔をしかめたが、すぐにそれがシズレーであることに気付きヴァレンスは目を丸くする。
「え、オトロード様?」
遙か遠くの砦にいるはずの彼が何故ここに、と不審に思い立ち止まったヴァレンスに向かって、シズレーは大股に近づいてきたかと思うと、その勢いのままがしっとヴァレンスに詰め寄った。
「リックはどこだ」
不穏極まりない目で見据えられ、「は、え?」と混乱しつつ、ひとまず両手を上げて叛意のないことを示して、慎重に声をかける。
「……オトロード様、何故ここに?」
遠征はどうした、と言外に尋ねたが、それに返答はなく再び「リックはどこだ」と唸るような声が届いた。
「どこに行った。部屋にはいなかった」
「うぐ、ちょ、く、苦しいですって! 落ち着いてください。部屋って、執務室ですか? 殿下なら今は――」
「案内しろ」
「ぐえ」
えーちょっと待って、ナニコレ、ドッキリ? と胸倉を掴まれるという異常事態に混乱しつつ、ずるずると引きずられたヴァレンスは、「案内しろって言ってるくせに引きずるとか!」「引きずる方法が同じって何このいとこたち!」と脳内で文句を垂らして、遠い目になった。
哀れなヴァレンスが引きずられながら口頭で案内した先は、皇宮内の隅に設けられた騎兵隊の訓練場であった。
ユウがレビネルに来てからというもの、彼女の事務改善案に従って事務周りを整えた結果、空き時間ができたヘンリックは、こうして休憩がてら部下達の訓練に顔を出しているのだ。
稽古に手も口も出して楽しんでいたヘンリックは、ふと入口が騒がしいことに気付いてそちらに視線をやった。
「……シズレー?」
脇にいるのはもうどうにでもして、といった表情の副官だ。
ヘンリックの存在を視界に入れたシズレーは、ぱっと手を離して――またしてもヴァレンスは「ぐえ」と呻き声を上げて地面に尻を打ち付けた――勝手知ったる訓練場とばかりにずかずかと進んできた。途中で腰に帯びた剣に手をやりかけて、さすがに抜刀することには理性が働いたのか及ばなかったが、その灰紫の瞳は血走っている。
ヴァレンスも門番の騎士達も揃って動転したシズレーのただならぬ様子に、けれどヘンリックは面白そうな顔つきになり、抜き身の剣を片手に持ったまま腕を組んで彼と対峙した。さすがにこれくらいで動転するような男ではない。
「なんだ、お前砦はどうした?」
「……リック」
低く呼びかけられて、おや、とヘンリックは片眉を上げた。気心の知れた幼少の頃は、シズレーは「リック」と愛称を使っていたが、この頃は水臭いといくら言っても頑として「殿下」呼びを変えなかった男だ。
よりいっそう面白そうに目を輝かせて、ヘンリックは眩いばかりの笑顔を浮かべた。画家ならば感涙に咽んで絵筆を執り、彼の気性を知っている者ならばすかさず回れ右するような笑みであった。
「なんだ?」
ちっとも動じていない主を見て、打ち付けた尻を擦りながら起き上がったヴァレンスは「わーすごーい」と投げやりに感動した。
「……彼女はどこだ」
興奮冷めやらぬ自身を抑えるように大きく息をしたシズレーが、どんな反応も見逃さないと言わんばかりに睨み付けてくる。常とは異なり感情剥き出しのいとこに噴きだしそうに緩む口元を、んんっと咳払いしてやり過ごしてから、ヘンリックは挑発的に流し見た。
「彼女とは?」
「とぼけるな」
「とぼけるなと言われても、『彼女』じゃ分からん。アイリーンのことか?」
シズレーに一方的に熱を上げている末の妹のことを持ち出せば、苛立った様子で「違うに決まっている!」と声を荒げた。
「では誰だ?」
シズレーのいう「彼女」がユウであることなどとっくに承知の上で、ヘンリックは口端をつり上げた。シズレーは他の男に彼女の名前すら聞かせたくないのか、睨み付けるばかりで名を口にしない。あまりにおかしくて、ヘンリックは更に言葉を続けた。
「ユウのことか?」
その瞬間、奇妙にシズレーの右手が空を切ったことに、目敏いヘンリックは気付いた。ぷっはー!と笑い出しそうになる。この男は、彼女の名前を口にしたヘンリックに、いとことは言え皇族に、剣を抜こうとしたのだ! そしてそれを何とか抑えこんだ。けれど怒り狂った闘牛のような目で今にも飛びかかってきそうな顔をしている。
「……気安く、呼ぶな」
「気安く呼ぶなと言われてもな。――本人から許可は得たぞ?」
最後の一言が、ぷち、とシズレーの堪忍袋の緒を切った。この場から逃げ去る訳にもいかず留まっていたヴァレンスが「殿下ー、失言ー! 空気読んでー! それこの場で言っちゃいけないヤーツー!」と声高に(脳内で)叫んだ。
どう考えても「本人の許可を得た」イコール「気安く呼びあう中である」と意図的に誤解させたヘンリックに非がある。
その後この訓練場で起こった乱闘騒ぎは、とても身分ある者の行動ではなかった。
抜き身の剣を携えたヘンリックに対し、さすがに抜刀しないだけの僅かな理性は残っていたシズレーが、それでも鞘ごと振りかぶっている。
上段から振り下ろされたそれは鞘であっても昏倒する程の勢いだったが、ヘンリックは剣の腹で受け止め、その勢いを利用して脇に逸らした。すかさず胴を薙ぐように繰り出される剣捌き、いや鞘捌きを、後方に跳んで難なく躱す。今後は下段から振り上げられた鞘を、刃先に片手を添えた状態で受け止め、上から押し込んだ。鼻が触れるぎりぎりの距離で見合って、ヘンリックは不敵に笑う。
「お前のそんな表情は初めて見るなあ」
「黙れッ!!」
「おっと」
さすがに体格はシズレーの方が大柄で力も強いため、なりふり構わず払いのけられてヘンリックは軽口を叩きながら離れた。
「そんなにユウが恋しいか? 頭に血が上るほど?」
「気安く呼ぶなと……!!」
カッとなったシズレーは持っていた鞘を投げ捨てて、素手でヘンリックに襲い掛かった。こうなると抜き身のままの剣ではシズレーを傷つけかねないので、ヘンリックも「持ってろ!」と後方の部下に言い置いて剣を放り投げる。普段であれば武道大会優勝常連のシズレーとヘンリックでは、ヘンリックの方が分が悪いが、激昂して冷静さを失っている今なら充分太刀打ちできると踏んだのだ。
馬乗りになろうとするシズレーを蹴飛ばして、ヘンリックは身軽に飛び退り、今度は彼の方からシズレーの懐に飛び込んでいく。さながら子供の取っ組み合いだ。
近衛の騎士達は基本的に郊外へ出ることがなく、皇都ではこんな乱痴気騒ぎに遭遇することはまずないので、どうして良いか分からずおろおろとするばかり。ヴァレンスは「殿下、オトロード様、ちょっと二人とも、ほんともう、落ち着いて! ナニコレ、何なのこの悪夢! 僕の手に負えない!」と最早涙目だ。
しばしの間続いた乱闘は、最終的にシズレーの後ろをとったヘンリックが首に腕を回して落としたところで、決着がついた。
整然とした部隊訓練の場であったはずが、とんだ異常事態だ。
相手は冷静さを失っていたとは言えさすがに大男相手の立ちまわりに疲れたヘンリックが、ふうと息を吐き出して、シズレーの太い首に腕を回したまま周囲を一瞥し、にっこりと笑みを浮かべた。
「このことは他言無用だ」
「……は……」
「忘れろ。いいな?」
「は、はい!」
揃って部下達が姿勢を正して答えたことに満足気に頷いて、ヘンリックは引きずるにはかなりの重労働なシズレーをずりずりと連れだした。二人が訓練場の入口を出たところで、はっとしたヴァレンスが慌てて「殿下お待ちくださいー!」と追いかけるように出ていく。
後に残されたのは騎士達は、そこかしこに乱闘の痕の残る地面を見て、「忘れるなんて無理です隊長……」とそれぞれ心中で呟いた。
ふんふーんと鼻歌交じりに機嫌の良い上司を追いかけながら、ヴァレンスはそっと問いかけた。
「殿下、あの、どちらへ?」
「執務室だ」
「へ? ですが方向が……」
「第二だぞ」
つまり、彼らの部屋である第一騎兵隊の隊長執務室ではなく、第二騎兵隊のものへ向かっているということだ。
「ああなるほど……っていやいや、勝手に入っちゃ駄目ですよ」
いくらヘンリックが軍部の頂点に立っているとは言え、別の隊の部屋へ勝手に入るなど、傍若無人にも程がある。先日シズレーの私室に足を踏み入れたのとは訳が違うのだ。
しかしヘンリックはヴァレンスの心配を余所に、平然として答えた。
「勝手ではない。こいつがいる」
こいつ、と指されたのは他でもないシズレーである。確かに部屋の主だ。落ちてますけどね! と突っ込みたくなるのを、ヴァレンスは何とか抑えた。
「……そうですか……。あの、何故第二なのかお聞きしても?」
距離的な面だけを見れば、彼らが日々職務に励む第一騎兵隊の隊長執務室の方が余程近い。わざわざ(大男を引きずってまで)遠回りしなくてもよいのでは、と示唆したヴァレンスに、ヘンリックは笑って「埃まみれだからな」と答えた。ヴァレンスは「あー確かに」と請け合ってから、いやいや請け合っちゃだめだろ、と自戒した。
埃まみれになるほど息巻いて戻ってきたいとこに対して何たる仕打ち。まあそれがヘンリックの通常運転なのでもう何も言うまい。
その急ぎ戻る原因を作ったのが自分であることを知らないヴァレンスは、ひどいなーまあそれでこそ殿下だからなーと勝手なことを心中で呟くのだった。
「……う……」
鈍い痛みを覚えて目を覚ましたシズレーは、徐々に明快になる視界に写り込んだ人物に、思わず再び瞼を下ろした。嫌なものを見たな、とぼんやり考えて、次の瞬間ばちっと目を見開く。
「リック!!!! ……っ!?」
嫌なもの──満面の笑みのヘンリックである──にばかり意識が向いて大音声で叫んだシズレーは、ふと身動きが制限されたことに気付いて自らを見下ろした。見慣れた執務室、座り慣れた執務椅子に、何故か座った姿勢で縛り付けられている。
机に優雅に腰かけたいとこと、背景に紛れようと素知らぬふりをしようとするヴァレンスを交互に見て、これをやったのは間違いなく前者だ、と決めつけて、シズレーはヘンリックを睨み付けた。
「……これは何のつもりだ、リック」
「いやなに、世にも面白いものを見せてもらった礼にな」
「お前は礼に人を縛り付けるのか。そのような礼は初耳だな」
「ああ、これが非常に効率的でな。捕らえた隠密の拷問は勿論、『奥ゆかしい』婦人がたの淫靡さを暴くにはもってこいだぞ。どちらもとても『悦んで』くれる」
「……殿下」
ヴァレンスが遠くから諌めるのを聞き流して、ヘンリックはくすりと笑った。
「──で、何でこんな面白おかしい事態になっている?」
あ、面白いかどうかは置いといてそこは僕も聞きたいです、とばかりにヴァレンスも姿勢を正してシズレーを見つめた。
遠征中のシズレーを追いかけて、つい先日ユウを送り出したばかりだ。そしてその旨を知らせる手紙も少し遅れて出している。通常の馬車移動よりも郵書屋の方が早いので、それで十分だろうと踏んだのだが。何故、彼女が会いに行ったその相手がここにいるのか。
「……彼女はどこだ」
質問を無視して同じ台詞を繰り返すシズレーに、ヘンリックは鼻白んでいとこの額をびしっと弾いた。何度も食らったことのあるヴァレンスは痛そうに顔をしかめるが、シズレーは顔色一つ変わらず睨み付けている。
ヘンリックは一つため息を漏らして、腰かけていた机から立ち上がった。
「……ユウはどこだ、か。つまりお前は、ユウがどこにいるのか知らない、と」
わざと挑発するような顔つきでシズレーの前に居丈高に立ち、噛みつかんばかりの形相のいとこに、極めて優しく告げてやる。
「ユウなら、お前を追いかけて砦へ向かったぞ」
「……………………は?」
たっぷり十秒ほどの間を置いて、秀麗な顔が稀に見る呆けた顔に変わったことに満足し、ヘンリックは優しく、優しく──彼の本性を知る者にとってはとてもおそろしく──言い直してやる。
「お前を追いかけて砦へ向かった、と言ったんだ。まあ、見事なまでに擦れ違ったようだがな!」
ああ愉快愉快、と至極愉しげに笑うヘンリックをよそに、シズレーはようやく彼の言葉を理解してぴしりと凍りついた。
ユウが自分を追いかけて砦へ向かったと。
それが本当なら、今頃彼女はシズレーのいない砦に向かって歩を進めていることになる。
だが旅慣れた軍人ならともかく、ユウのような土地勘のない者が仮に砦へ向かうとなると、街道を通ったはずだ。その街道を駆けてきたシズレーと擦れ違わないはずがない。
まさか、とてつもない偶然の悪戯により彼女のすぐ側を通り抜けたことを知らないシズレーは、疑り深くヘンリックに問い詰めた。
「リックの話に証拠はあるのか」
「あ、それなら僕が保証します。ユウさんは間違いなく、オトロード様に会いに行かれましたよ。お手紙も追ってお出ししましたが……」
そっとヴァレンスが口を挟んできたが、そもそもこののほほんとした次官が寄越した文のせいで、こんな事態になっているのだ。自らが責務を放り出したことを棚に上げ、そして彼までもが彼女のことを親しげに名前で呼んだことに憤慨して、シズレーは憮然と黙り込んだ。
「ちなみに、お一人では危ないのでハンナに付き添ってもらっています」
次から次へとユウがレビネル人と知り合っている事実を突きつけられ、女性にすら嫉妬めいた気持ちを抱いてしまう。
「言葉がまだ不自由だしな」
「……どういうことだ」
何の気なしに付け足されたヘンリックの言葉に、シズレーは幾分落ち着いた様子で問いただした。
「おや? それも知らないのか」
「え、僕それも書きましたけど!」
慌ててヴァレンスが手を挙げて主張したが、あいにくシズレーの記憶にはない。ヘンリックがユウを気に入ったという旨だけに気を取られて、ろくに読んでいなかったのだ。
言葉もままならない状態で、彼女は旅路についたというのか。
何度も触れたいと願った、あのほっそりした肢体を思う。確かに気丈な頑張り屋ではあるが、彼女はシズレーやヘンリックのような鍛練も積んでいない、ごくごく普通の女性なのだ。実際に見聞きしたあちらの世界は治安も良く、技術革新がとても進んでいて、うら若い女性が一人でも十分暮らせるという。それに比べて、不便で、知り合いもろくにいないこのレビネルで、どれだけ心細かったことか。
戻れるものならば今すぐにでも彼女がこちらにやってきた日に戻って、この腕で抱き締めてどんな不安も取り除いてやりたかった。彼女自身がそれを望まなかったとしても、助けくらいにはなれたはずだった。
「なんてことだ……」
彼女の境遇に思いを馳せて胸を痛めるシズレーに、ヘンリックとヴァレンスは思わず顔を見合わせて瞬いた。
「…………たくましかったですよね?」
勿論不安がないわけではなかったのだろうが、言葉が通じないと分かった途端にユウはあっさり割り切って、ヴァレンスに教えを請った。(まあ無茶苦茶な要望ではあったが、何とかなった。)
「……図太かったぞ?」
初対面のヘンリックに向かって食事や衣類を堂々とせびるくらいには肝が据わっていたはずだが。
主従コンビがまさかユウなる人物は二人もいるのでは、と首を傾げていた間に、シズレーはいつもの淡々とした表情に戻っていた。
「砦へ戻る」
椅子に縛り付けられたまま静かに宣言するシズレーに、顔を見合わせるのをやめてヘンリックはじっと彼を見据えた。
常は良からぬ笑みを浮かべているヘンリックが、そうして真っ直ぐに人を見つめていると、その美貌と稀有な色彩が相まって思わず気圧されるような迫力がある。
「……よくもそんな勝手なことばかりできるな?」
腕組みをして、高くから見下ろすその瞳は冴えわたっている。
「女の尻を追いかけて任務を放り出してきたと思ったら、またその女を追いかけて元に戻るだと? そんな都合の良いことが罷り通ると思っているのか。責めは何もないと?」
「……悪かった、と思っている」
「それで済むと思うな。お前が砦を放り出した間に万一にも攻め込まれるようなことがあればどう責任を取るつもりだ。指揮官不在でやられようものなら、この国の恥だぞ。頂点に立つ男がこれでは第二騎兵隊も浮かばれないな」
「……」
ヘンリックの言葉はまさしく正論であったので、シズレーは黙して受け止めた。彼は、普段は飄々としているにも関わらず、時としてこうした為政者らしい面を見せる。皇族だからという単純な理由で軍部を司る地位に就いたわけではないのだ。
自らの短絡的な行動を省みて、シズレーは「処分は、いかようにでも」と返答した。
それをしばらく睥睨していたヘンリックは、気が済んだかのようにふと視線を外し、ひらひらとヴァレンスに手を振った。縄をほどいてやれ、との意だ。すかさずヴァレンスが寄ってきて精一杯申し訳なさそうな表情を浮かべ、縄をほどきにかかった。
「お前を処分したところで、使えないやつが第二の隊長になってもらっては困る。三月分の給金剥奪で済ませてやる」
「感謝します」
仕出かしたことを考えれば随分と寛大な処罰だ。
縛られ続けてわずかに痺れの残る腕を動かしてから、シズレーはとても綺麗な姿勢で深々と頭を下げた。
「……ああ、そういえばユウに資料を持たせたんだが、お前の部隊、何やらきな臭いことがあるようだぞ」
申し訳ありません、一応お止めしたんです本当です、僕が縛ったわけではなくてですね! と必死にシズレーに訴えている部下をつまらなそうに見ていたヘンリックが、ふと思い出したように付け足した。
「……は?」
「文書で寄越すのは危険だからな、お前に直接説明するよう、ユウに指示したんだ」
まあ愉快に擦れ違ったわけだがな! と笑うヘンリックをよそにまたぴしりと凍りついてから、先ほどようやく落ち着いたのも束の間、わなわなと震えてシズレーは叫んだ。
「──っそんな危険なことをユウにさせるな!!!!」
先日の次官と同様に、ヴァレンスがひゃ、と可愛い声を上げて飛び上がった。