『斉藤さん、これやっといて』
ぽんと机の上にテストの束が投げて置かれる。全ての解答欄が記述式で、判別つかない殴り書きの文字ばかりだ。束の下には全員分の点数を記入する名簿もあった。
期限を確認しようと声を上げる前に、がらりと事務室の扉が開く。
そこにはもう一人の校舎長が立っていて、持つのも苦労しそうな大量のパンフレットを持っている。
『斉藤さん、これ仕分けておいて。今すぐね』
慌てて立ち上がって受けとれば、申込み期限が来週に迫った講習の案内だった。
思わずカレンダーに視線を投げ掛けた時、また扉が開く音がする。
振り返ると、マグカップを片手に持ったもう一人の校舎長が立っている。
『斉藤、珈琲』
大量のパンフレットを受け取ったばかりで両手が離せないのに、その上に空いたマグカップを押し付けるように置かれた。
途方に暮れて、とにかくこの重たい荷物を置かなければと机に向かえば、そこは書類の海だった。
また扉が開く。その音が怖くて、振り返ることができなかった。
『斉藤』
また別の校舎長だ。
全員同じような、意地の悪い表情を浮かべて取り囲んでいる。
そして全員が、黒い出席簿を持っていた。
『本当に使えない事務員だな』
そのうちの一人が言って、べしんと出席簿が頭に落ちてくる。あまりの衝撃に痛いと口に出すことすらできなかった。
『まだバイトの方が安くこき使えるだけましだな』
隣の校舎長が出席簿を振り上げる。恐怖で、目を瞑りたいのに瞑れない。
『だいたい事務員の分際で教免なんて必要ねえんだよ』
三人目の校舎長が吐き捨てるように言って、出席簿を振り下ろした。
『その顔が生意気なんだよ!』
最後の校舎長が持つ出席簿は他の誰より大きくて分厚い。あれで叩かれるのは痛そうだなとぼんやり思っていたら、それが風を切るような音を立てて視界いっぱいに広がった。
「────っ!!」
何か大声で叫んだような気がして、その弾みで優は目を覚ました。
恐慌状態で飛び起きたと思ったが、実際には一ミリも動いていなかった。身を守るように丸くなった姿勢で寝ていたようで、薄闇の中で自分の膝小僧が目の前にある。
仕事に行かなければ、と起き出そうとしたところで、今日が土曜日であることを思い出して、優は細く長い息を吐き出した。
今日と明日は仕事が休みだ。この二日は校舎長に会わなくて済むし、あの黒い出席簿で叩かれることはない。
安堵して全身の力を抜いた時、優ははたと気付いた。あたりは薄闇だが、視界の向こうは明るい日差しが漏れている。よく眠れるように寝室のカーテンは遮光性の高いものにしていたはずだけれど、と不思議に思ったところで、ようやく意識が覚醒した。
部屋が妙に広いし、壁紙は優の馴染んだものではない。それに、このふかふかした温かい掛け布団も枕も、優のものではなかった。
「あ……そうか……」
ここは優の部屋ではない。レビネルだった。
今何時だろうとあたりを見回す。寝ていたすぐ近くに、優の腕時計が置いてあった。自分で外した覚えはないがきっと無意識に外したのだろう。時刻は一時を指していた。日差しが漏れていることからしても、夜中ではない。昼の一時だ。
「すごくよく寝た……」
ここしばらく寝不足が続いていたが、夢見が悪かった割に身体の方はすっきりしている。嫌な夢を忘れるように頭を振って、優は身を起こした。
改めて部屋を見直してみても、そこは優の暮らす狭い1LDKの寝室ではない。ここはシズレーの寝室だ。昨夜、いや日付は変わっていたから厳密には昨夜ではないだろうが、この部屋に踏み込んだ時から夢が続いているような気分である。
というか、本人の許可なくベッドを借りてしまったけれど、何と言うか照れ臭いな! いやここの管理人が毎日交換しているそうだけど、それでもね!? シズレーが毎日ここで寝てたわけでしょ!? と、誰に言うでもなく一人で脳内言い訳を繰り広げていた優は、ふと脇に置いてあった盥と水差しに気付いた。その横には白い紙が並べてある。
「え、どうしよう、多分こっちの文字分からない気がするけど……」
おそるおそる紙面を見てみれば、そこに書かれているのは文字ではなかった。こちらの世界にもピクトグラムがあるのか、黒インクで書かれた棒人形が顔を洗う仕草を表していて、その隣には矢印が、そして服の絵と呼び鈴のような絵が描かれている。
「……顔を洗って着替えてから、呼び鈴を鳴らせ、ってことかな?」
そして紙の端には、昨日優がヴァレンスにあげたはずのプラスチック付箋紙が一枚貼られていた。
「……ヴァレンスさんか」
頭いいなー、と寝ぼけた頭でぼんやり思う優である。おそらく彼は、レビネルの言語が分からないと告げた優が、同じく文字も読めないと踏んだのであろう。付箋紙はサイン替わりのつもりだろうか。
うーんと一つ伸びをして、優は描かれてある通り、顔を洗うことにした。用意された当初は温かかったのだろう盥の湯は既に冷めきっていてひやりとしていたが、それが逆に寝すぎた頭をすっきりとさせてくれた。
幸いにして衣服は多少見慣れない部分はあるものの、一人で着られないということはなく、背面の結び紐も何とか結ぶことができた。コルセットがない世界で良かったとしみじみ思う。一度、コスプレ好きの友人に頼みこまれて本格的なドレスを着たことがあるのだが、内臓が出そうになって二度とごめんだと強く彼女に言い捨てたものだ。
傍に置いてあった呼び鈴をそっと鳴らせば、ほとんど間を開けずに寝室の扉が叩かれた。
「ファルセ、シー?」
女性の柔らかな声がかけられたが、異国の響きは何を言っているのかさっぱり分からない。多分「失礼します」的なことだろうな、とあたりをつけながら、優は日本語で「どうぞ」と返した。この部屋の中で優が発する日本語は彼らにも聞きとれるはずだからである。
そしてその通り扉が静かに開かれ、優より少し年上に見られる女性が優雅に頭を下げた。
一歩足を踏み出して、扉を越えたことを確認するように彼女が視線を下に落としたことで、ああ良かったと内心安堵する。ヘンリックかヴァレンスか、役割的にはおそらくヴァレンスなのだろうが、優が部屋の外で話されるレビネルの公用語が分からないことを、彼女は知らされているようだった。
「初めましてユウさん。よく眠れましたか?」
かなり遅い時間の目覚めなので恥ずかしく思いながらも、聞きなれた日本語にほっとして優は頷いた。
「それは良かったです。何か召し上がりますか?」
彼女が着ているものはシズレーの軍服と同じような、いわゆるお仕着せに見える服で、きっとこれが彼女の制服なのだろう。ワゴンのような台車を片手で押している姿から、メイドさんかなと想像する。紺地のワンピースに白エプロンを着せれば似合うかもしれない、とどうでも良いことを考えていた優は、彼女が発した食事のワードに、くるると腹が音を立てたことに更に恥ずかしくなった。
「……いただきます」
そう言えば昨夜、ヘンリックに向かって食事をと願い出たものの結局は眠さに負けて眠ってしまったのだった。昨晩コンビニで買ったおにぎりとサラダはもう駄目になってしまっているだろうし、随分長い間寝ていたから胃の中は空っぽだ。
ハンナと名乗った彼女に給仕されるがまま食事をとって、ようやく優は一心地ついた。
それを見計らったうえでハンナが食器を下げながら言う。
「お食事が終われば殿下のところへお連れするように、と言いつかっておりますが……」
「ヘンリック殿下に?」
「ええ」
何だかとても自由に振る舞ってしまった覚えのある優は、少し彼に会うのは後ろめたい。だがいつまでもシズレーの、騎兵隊の隊長というある程度身分の高そうな人の部屋に居座っている訳にもいかないだろう。
頷きかけて、優は嫌なことを思い出した。
「部屋を出たら言葉が分かりません……」
何の用かは知らないが、到底会話が成り立つとは思えない。
途方に暮れた様子の優に、ハンナは微笑みかけた。
「大丈夫です。ヴァレンス様が仰るには、一度皇帝陛下の前にお連れするだけのようですので。滞在の許可さえ下りれば、またこちらへお連れして良いとのことでしたし、皇帝陛下とお言葉をお交わしになるのは殿下だけです」
今コウテイヘイカとか言わなかったか! と小心者の優は怯えた。
何の因果で小さな学習塾の一事務員が一国の主と面会するなんて事態になるのだ。庶民にはハードルが高いと嘆きたいが、もう決まったことのようだから、嘆いたところで無駄だろう。いや前向きに考えてみれば、こちらは何を言われても言葉が分からないのである。蔑みや嫌みをいくら言われても受け止めなくて良いのか、と普段山のような校舎長の嫌みに晒されている優は、妙なところで自信がついた。
「分かりました。人畜無害そうな感じでいけばいいですね!」
いきいきと話す優に、ハンナは一度目を丸くしてからおかしそうに笑った。その笑みはこれまでの社交辞令的に柔らかな笑みに比べればとても親しみやすいもので、思わず優も笑顔を浮かべた。
――笑うのが久しぶりだとは、もう思わなかった。
残念ながらシズレーの寝室を一歩出るともう言葉はさっぱり分からなくなったが、優はこの状況に開き直ることにしてきょろきょろとあたりを見まわした。せっかくだからシズレーの暮らす世界を存分に見てみたい。気分は観光にきた旅行客である。
部屋を出て初めてここが大きな建物であると知った。建物を出て坂になっている道を辿り、事前にシズレーの部屋内でハンナに教わった通り、ここは小高い丘まるまる一つが皇宮になっていることをしみじみと思い知る羽目になる。
「運動不足には辛いな……」
疲れた様子もなくすたすたと前を行くハンナが、優のぼやきに不思議そうに首を傾げたが、何でもないと首を振った。都会で暮らす優は少し歩けば電車もバスもある生活に慣れきっていて、この徒歩という苦行に早くも膝が悲鳴を上げそうだ。運動不足イクナイ! と過去の自分に言い聞かせたい。
見上げるほどの高さの城壁を一度通り抜けて皇宮とやらにたどり着いた時には、水をくださいとハンナに伝えようとして伝わらないもどかしさに、死ぬ気で言葉を覚えよう、と決心した。
自分でも分かっていることだが、優はまだ現実に目を向けることから逃げている。
言葉を覚えて、その先どうするのか。
金曜日になればまた部屋は繋がる。自分の世界に戻ろうと思えば戻ることができる。
きっと明後日の月曜日になれば無断欠勤扱いになるだろうし、一週間後には大変なことになっているのは容易く想像がついた。もしこのままシズレーの世界にいれば、あちらでせっかく得た職を失ってしまう。
一度、逃げ出してしまったら元に戻るのは難しい現代社会だ。
ふと、塾の生徒のことを思い出した。
優の勤める学習塾では同じ学年でも学力のレベル別に三つのクラスに分けてそれぞれ授業を行っているが、それでも時折、授業についていくことができないと、塾に来なくなってしまう生徒が出る。
正直事務員でしかない優は、生徒本人が来たくないのならばそれでいいのではないかとも思う。学習塾は何も義務教育ではないのだし、本人の意志に反して無理矢理来させてもためにはならないだろう。
けれど生徒数を他校と争う校舎長は絶対に辞めさせるなときつく優に指示してきたため、何度か保護者に連絡をした経験がある。
『一度休学というかたちを取って、またお子様のお気持ちが変わられたら、お越しになりませんか』
悩む保護者にそう声をかけたこともあったが、今更ながら、何と空虚な言葉を告げていたのだろうと苦々しく思う。
一度逃げだした身からすると、そこに戻るのにどれだけの勇気がいることか。
ようやくそれを思い知った優は、狭苦しい都会とは全く異なる、だだっ広い皇宮を見渡して、ため息をこぼした。
そんなことを呑気に考えていたら、残りの道のりは思ったよりも辛くはなかった。
途中でハンナが事前に連絡していたのか、昨夜も会ったが陽の下だとよりきらきらしいヘンリックが回廊で待ち受けていた。
彼に何やら早口でまくしたてられたが、多分「どれだけ寝ているんだ!」的なことを言われたに違いない。テヘッと笑って済ませられるほどの愛嬌は持ち合わせていなかったので、どうもすみませんと優は丁重に頭を下げておいた。続いてまたもやまくしたてられたので、おそらく「意味が分かっていないくせに適当に謝るな!」だろうと勝手に決めつける。何となくヘンリックの性格はこうだろう。
シズレーならばまずよく眠れたことについて、ハンナのように良かったと言ってくれるだろう。いささか美化されたシズレーを脳裏に浮かべつつ、優はついて来いというような仕草で踵を返したヘンリックの後を追った。
結論から言うと、皇帝との謁見はごく短い時間であっさりとしたものだった。
中世ヨーロッパのように謁見の間のような大仰なところで、赤絨毯の先、玉座に腰かける皇帝に挨拶するのだろうかと思っていたが、ヘンリックは皇宮をどんどん進んで行く。そして衛兵らしき軍人が並んだ扉を開くと意外にこじんまりした皇帝の執務室に踏み込んで、「父上、これがシズレーの恋人のユウだ」と紹介した。
ありがたいことに「シズレー」と「ユウ」という固有名詞だけは聞きとれたので、優は深々と皇帝に向かって頭を下げた。
ヘンリックとよく似た面差しの皇帝は二、三、彼と会話すると、鷹揚に頷いてそれ以上何も言わなかった。拍子抜けしたが、同時に「気に入らん、斬首!」とか言われないで良かったなあと安堵する優である。
彼女は異界であるレビネルの風習を知る由もないので、この謁見が異例なものであるなど、露とも思わなかった。
通常、皇太子ですら父である皇帝に会うのに、願い出てからそれが叶うまで時間を何時間も要するところ、ヘンリックだけは皇帝の執務室に自由に出入りできる、その異例さを。
一仕事終えた気分でヘンリックと共に騎兵隊の宿舎まで戻ってきた優は、シズレーの部屋に入るなり、改めてヘンリックに礼を言った。
「殿下、どうもありがとうございました」
異界の住人である優がレビネルに滞在できるようにしてもらったというのは、またとない幸運である。
シズレーがここにいれば彼が身元引受人くらいにはなってくれただろうが、もしヘンリックに会わないまま、ほかの騎兵隊員に見つかっていれば不審人物として捕まえられる未来にまっしぐらだったろう。
そう思って心から感謝の意を示したのだが、当のヘンリックは不審そうに顔をしかめて言った。
「……なんだ、妙に神妙だな」
初対面の際の、あの自由な態度がかなり心証に影響しているらしい。
「あたしだって御礼くらい言えますよ」
ううむ、一体どんな第一印象を持たれたんだと思いつつも、平気で言い返す優に、くすりと笑う声があった。
振り返って優は彼にも頭を下げる。
「ヴァレンスさんも。手紙、すごく分かりやすかったです」
シズレーの部屋で待機していたらしいヴァレンスは「それは良かったです」と頷いてくれた。
仕事の途中で抜けてきたのであろう彼は、また小脇に書類を抱えている。早速付箋紙が使われているのを見てとって優は嬉しくなった。それと同時に首を傾げる。
「随分カラフルですね」
「え?」
「あーええと、随分色をたくさん使っていますね、と言ったんです」
異界の住人である優にとって更に異国語にあたる英語は、ここでは彼らに伝わりにくいらしい。噛み砕いて言い直せば、ヴァレンスは手元を見下ろして、ああと頷いた。彼の持つ書類にはほぼ全色使われているのではないかというくらい、色とりどりの付箋紙が顔をのぞかせている。
「とても綺麗な色でしたので、つい嬉しくなってしまいまして」
呆れたような表情で傍観しているヘンリックをよそに、ヴァレンスの返事を聞いた優はしばし黙り込んだ。
付箋紙がなかったことや、適当にしおり代わりに紙を挟んでいたことからも薄々思っていたことだが、レビネルの書類作業は事務員として働く優からすれば非効率極まりない。それに、ヴァレンスのしていることも。
余計なお世話かもしれないが、と思いつつも、優はそっと助言した。
「ヴァレンスさん、付箋はただ貼って使うだけではなく、規則を決めて使った方が良いですよ」
「……はい?」
「……どういう意味だ?」
ヘンリックが関心を引かれたようで口を挟んでくる。
二人の男にまじまじと見られて若干の居心地の悪さを感じ、優は身じろいだ。
「えと、例えばですね。付箋にそれぞれ色がついていますよね?」
「ええ、綺麗です」
「まあ確かに綺麗ですが、それは置いといて。レビネルで一番重要な、たとえば高貴な色だったり、危険を知らせたりする色は、何色ですか?」
「危険の方は赤だな」
「高貴な色でしたら、紫ですね。ほら、殿下の瞳がそうでしょう。皇族がたは代々この色が多いのです」
なるほど、と頷いて、優は続けた。赤が危険色というのは日本と似通っていて説明がしやすい。
「では、書類の中で重要な部分、例えば後で絶対に確認しないといけないところなどは、赤い付箋を貼るんです。それで、可能であれば確認するけどそこまで重要でないところには黄色を、決裁には影響しないけど後で見直したいといったところには青を貼ります」
これは優でなくとも事務作業をしたことのある人なら大半はしたことのある作業だろう。付箋紙を貼るという行為ではなかったとしても、仕事に優先順位をつけて取り組むのは基本中の基本だ。
「あと紫が高貴な色なら、ヴァレンスさんが殿下に確認したいところには紫を、とかですかね。そうすれば、いつ見ても分かりやすいし、要領よく仕事が進むでしょう?」
簡単に説明し終えて顔を上げた優は、そこでぎょっとした。
ヘンリックとヴァレンスが、それぞれ驚愕の表情を浮かべて優を見ていたからだ。
「……あの、あたし何か変なこと言いましたか」
「いや……」
「いえ、そんな考え方は初めて聞いたので驚いただけです」
どんだけここの事務は効率が悪いんだ、と突っ込みたくなった優だが、ヘンリックあたりから「悪かったな!」と怒られそうだったので言葉を呑み込んだ。
ええいもうついでだ、と開き直った気持ちで話を続ける。
「仕事に取り掛かる順番も、しっかり決めておいたほうがいいですよ。最優先、その次、後回しでも可、という具合に」
「今は未決と既決にしか分けてないですね」
「……そんなことをして、書類を持ってくる各隊が全員最優先と言いだしたらどうするんだ」
「その時は、『内容を見て最優先にするような事項でないなら、今度からお前のところは一番後にしてやる』とでも言えばいいんじゃないですか。ペナルティがあると分かればみんなちゃんとしてくれますよ」
「ペナルティ」
「罰という意味です」
「……なるほどな」
「すごく良い仕組みですねえ」
純粋に瞳を輝かせて称賛してくれるヴァレンスに、優は自分で考え付いたことではなかったので、少し面映ゆい気持ちで笑みを返した。「早速明日から書類を分ける箱を置いてみますよ!」と明るく言うヴァレンスに「お仕事頑張ってくださいね」と当たり障りのない言葉を返していた優は、「ユウ」とヘンリックに名を呼ばれて彼を見遣った。
「お前、言葉を……公用語を教えて欲しいと言ったな」
「え? ええ、まあ、この部屋でしか意思疎通ができないのは不便なので……」
頷けば、ヘンリックは何か良からぬことを考え付いたような顔をして、にやりと笑った。
「教えてやろう」
「助かります」
「ただし」
「……はい?」
「こちらの仕事を手伝ってもらう。お前のその考え方は悪くないし、多少頭は使えるようだから役に立つ」
尊大に言い放つヘンリックに束の間呆然としてから、優はむうと顔をしかめた。
役に立つ、という言い方はあまり好きではない。人を物みたいに言うな、と反論したい気持ちはある。だが相手は身元を保証して滞在許可を取ってくれた人である。それに、と胸のうちで続けた言葉に、優は自分で自分が嫌になった。
――それに、シズレーを失望させてしまった以上、彼に頼っても拒絶されてしまうかもしれないし。
どこまで打算的なんだと自己嫌悪に陥りそうになるのを押し込めて、優は頷いた。
「分かりました。あたしでできることなら、お手伝いします」
優の返答に、ヘンリックは餌を食べ終えた獅子のように、満足気に頷いた。
「……だ、そうだ。というわけでお前、こいつに公用語を教えてやれ」
「えっ、僕ですか!?」
二人のやりとりをにこにこと見守っていたヴァレンスは、いきなりの上司の指令に飛びあがった。
「殿下、僕にそんな時間ありませんよー! ただでさえ最近全く休みもとっていないのに!」
「命令だ」
悲壮な顔をするヴァレンスを見て、優は大変申し訳ない気持ちになる。個人的には同性で親しみやすいハンナの方が助かるのだが、教えてもらう身分の自分に要望は言えないだろう。
しくしくと今にも泣きだしそうなヴァレンスに、ヘンリックは少し考えて付け加えた。
「そうだな、ユウがある程度公用語を習得したら、その時はお前に特別に休暇をやろう」
「休暇!?」
その一言で、ヴァレンスの顔にぱあっと光が差した。
口を挟む立場にない優は、この人意外と良い上司なんだなあとヘンリックを高く評価したが、それはほんの一瞬のことだった。
「二日でどうだ」
鬼だ。鬼がいる。
「……せめて一月は欲しいです……」
「却下」
「では十日ください……」
「却下」
「……五日」
「いいだろう」
彼の希望からはかけ離れた日数で落ち着いたが、ヴァレンスは滂沱の涙を流しそうな勢いでヘンリックに感謝していた。そして彼は先ほど会った皇帝と同じくらいの鷹揚さで頷き、さも寛容な素振りを見せている。
「……鬼……」
思わず優の口からそんな単語が漏れた。
あ、しまった、と思ったがもう遅い。脳内で考えていたことがついうっかり出てきてしまったのである。
「何か言ったか?」
「いえ、何も?」
見かけだけは一級の貴公子なヘンリックがおそろしくにこやかに笑いかけてきたので、優も目一杯の笑顔で答えた。
仕事を手伝うと請け合ったことに、早まったかもしれないと後悔しながら。