「おや殿下、こんな時間にどちらへ?」
 深夜、騎士たちの宿舎へ向かって歩いていたヘンリックは馴染んだ声に呼び止められて道端で振り返った。
 つい先ほどまで城内の同じ執務室で書類決裁に奮闘していた第一騎兵隊の次官であるヴァレンスが、持ち帰りの書類を片手に不思議そうにしている。どうやら宿舎に帰宅する最中らしい。そういえばこいつは独身だったか、と思いながら、ヘンリックは奇遇な出会いににやりと笑った。
「ちょうどいい、ヴァレンス」
「何だかとても嫌な予感がするのですが」
 次官になる前は元々皇子付きの侍従でもあったヴァレンスは、ヘンリックとの長い付き合いから、彼がこんな風に悪だくみの笑みを浮かべているときは大抵ろくなことにならないと身をもって知っている。
 聞きたくないなと思うヴァレンスをよそに、にっこりと極上の笑顔で微笑む上司は高らかに言った。
「お前、シズレーの部屋に案内しろ」
「やっぱり!」
 予感が的中していることに、ヴァレンスは声などかけなければ良かったと後悔するが、もはや後の祭りである。明日はせっかくの休息日であるのに、なんてことだ。
「いやいやいや、無理ですって。第一オトロード様は遠征中ではありませんか。本人がいない間に部屋に案内したところで意味がないでしょう」
「意味はあるぞ。ほら鍵ならここだ」
 鈍色の鍵をじゃらりと掲げて見せる。間違えようもなく、それは宿舎で暮らす騎士たちに支給されている鍵であった。下級騎士たちの借り受ける部屋は簡素な造りの鍵であるが、隊長や次官級の部屋は内部もさることながら、鍵も複雑な造りである。
「何でそんなもん持ってるんですか!」
「秘密だ」
 どうせまたろくでもない方法で鍵番から分捕ぶんどってきたのであろうが、高潔であるべき皇族のすることでは決してない。そもそも主のいない部屋に入ったところで、何をするつもりなのだか。
「七日前は俺の都合がつかなかったからな。今日は現れるかもしれん」
「何がですか……」
 ただでさえ日中の仕事で疲れたのに、宿舎でゆっくりすることもできそうになくなって、ヴァレンスは心の底から嫌そうに尋ねた。
「シズレーの恋人」
「…………はぁ!?」
「はぁとはなんだ、失礼な。俺は皇子だぞ」
「殿下が皇子らしくしてくださるならもう少し敬意を払いますよ。っていうか何なんですか、オトロード様の恋人って。何でそんな方が宿舎にいるんですか」
「知らん。だが、第二騎兵隊の次官の……あいつの名前はなんだ? あいつによれば、七日ごとにシズレーは恋人と会っていたらしいし、誰も見たことがないそうだから、部屋で逢引でもしていたのだろうよ」
 各隊の次官の名前くらい覚えて差し上げてください、と変なところで口を挟みながら、ヴァレンスは力なく言った。
「やめておきましょう、殿下」
 こんな言葉くらいで考え直してくれるような上司ではないことを知っていたので、「断る」とすげなく言われてもほんの少ししか心は痛まなかった。皇太子を始めとする兄たちですら止められない彼を言い聞かせられる者など、皇帝くらいのものである。彼のいとこであるシズレーはまあ制御コントロールできている方だが、その彼は遠い砦に遠征中である。
「あの堅物の恋人だぞ! 面白いじゃないか」
「全然面白くありません……」
 野次馬根性むき出しの皇子なんていやすぎる、とげんなりしたが、思い切り聞き流されてしまい、ずるずると上司に引きずられる哀れなヴァレンスであった。

 そのまま不本意にシズレーの部屋を案内させられたヴァレンスは、がちゃがちゃと遠慮なく鍵を差し込むヘンリックを遠い目で見ながら、はたと気付いて彼に声をかけた。
「でも殿下、オトロード様の恋人ならば、彼が遠征中であることを当然知っているのでは? いるはずがないでしょう」
「そうとも限らんぞ。あいつが女を帯同したという話は聞かなかったし、部外者立ち入り禁止の宿舎に入ることを許していたなら、今日もいるかもしれん」
 あの生真面目な騎士が決まりを破って女性を宿舎内に連れ込んだりするだろうか、とヴァレンスが首を傾げていると、ちょうど錠前の動く音がした。一切躊躇ためらわないところがいっそ清々しい皇子である。
「開いたぞ」
「……開きましたね……」
 いっそ開かなければ良かったのになーとまたもや遠い目になるヴァレンスだ。
 初めて来たくせに勝手知ったるとでも言えそうなほど扉を大きく開けて中に進むヘンリックを、ヴァレンスは追わなかった。
「どうした、来ないのか?」
「ご遠慮申し上げます」
 ヘンリックからすればシズレーはいとこで幼少からの付き合いであるが、ヴァレンスからすればシズレーは自分よりもずっと身分の高い公爵家の総領である。いくら同じ宿舎に暮らす同僚とは言え、本人の許可なくおいそれと部屋に入るなど、できそうになかった。
 腰の引けたヴァレンスに「つまらんことを気にするやつだな」とヘンリックは呆れて肩を竦め、「ならばそこにいろ」と言い置いてずんずんと進んで行った。エッ、先に帰ることも駄目なんですか、と問いたくなったが、おそらく上司は聞き入れてくれないだろう。うろんな目をして、「はーい」と返事をしたヴァレンスであった。

 一方シズレーの部屋に足を踏み入れたヘンリックは、ふむ、と辺りを見まわした。
 三月もの長期間遠征に出かけていったというのに、宿舎の管理人は部屋に灯りを入れており、掃除も行き届いている。いとこの性格を反映させてあるかのような整った部屋は、多少乱雑な方が好みのヘンリックとしてはつまらない部屋に思えた。
「恋人を連れ込むにしては気の利かない部屋だな」
 女性が好みそうなものは見受けられない。さすがに火の始末を気にしてか暖炉には火は入っておらず、中は冷え冷えとしていた。
「あてが外れたか?」
 首を傾げながら浴室や手洗所を覗き見て、ヘンリックの視線がたどり着いた先は奥の寝室であった。
 他人の寝室に無断で入るなど、相手が相手ならば決闘ものだ。
「殿下ー、それはさすがにやめておいたほうがいいんじゃないですかねー」
 開け放したままの通路から投げやりな部下の諫めが届くが、当然それで止まるようなヘンリックではない。
「ついでだ、ついで」
「左様でございますか……」
 そして扉を開けた先の寝室で、一瞬遅れてその存在に気付いた人物に、ヘンリックは目を丸くした。


 扉に手をかけて立ち止まるヘンリックから少し離れたところで、見知らぬ女は立ち尽くしていた。
 驚愕の表情を浮かべてあたりをゆるりと見回す彼女に、はてと首を傾げる。人の気配が全くなかったため、驚いたのはこちらの方だ。それに彼女はどうやらまだヘンリックが扉を開けたことには気が付いていないようで、それであれば通い慣れた恋人の部屋だろうに、何をそんなに驚くことがあるのだろうか。夢じゃない、と囁くような声が聞こえて、その言葉の不自然さが妙にひっかかった。
「――失礼」
 思い切って声をかけてみれば、彼女は目に見えて大きく体を震わせ、ようやくヘンリックの存在に気付いたようで慌てた様子でこちらを振り返った。
 そして目が合った途端彼女は目を丸くしてこちらを凝視する。
 自身の容姿が人目を引くとよく知っている彼はこうしてまじまじと見られることにも慣れていたが、あまりに遠慮なく見られたので少々不愉快で、自然と眉間に皺が寄った。
「……失礼、貴女のそれは、シズレーのものでは?」
 彼女が羽織っていた軍服を指させば、はっとした様子で彼女はそれを腕に抱えた。
 出立の際、シズレーは普段必ず身に着けている正規の肩章ではなく、珍しく代替の肩章をつけていたが、本物はここにあったのか。自分の服を恋人に押し付けていくなどと、そんな未練がましいことをするような男だったのか、といとこの行動を面白く思いながら、そこでようやく彼女を正視したヘンリックは思わず顔をしかめた。
 大振りの軍服を脱いだ下から現れたその女は、数多の国の使者と面会したことのあるヘンリックですら、見慣れない服装をしていた。
 ほっそりとした肢体を包むのは黒の上下で、腰から下を丸く膨らませるのが流行中のレビネルではまず見受けられない形だ。おまけによく見れば髪も短く、労働者階級のように見えた。更に、灯りの下で見えるその女の顔色は悪く、とても疲れているようで、一見夫に先立たれたばかりの未亡人のような形相である。
 シズレーは薄幸そうな女が好みだったのか。
「……あいつの趣味は分からんな……」
 確かにそれでは、きらびやかな貴族階級の女たちからの秋波も、全く受け付けないはずである。
 シズレーの恋人を一目見てやろうと企んでいたのだが、いざ目の前にすると、興を削がれた気分だった。まあでもいいか、とヘンリックは気を取り直す。しつこく聞き出そうとしてもなかなか口を割らなかった相手だ。シズレーがいない間に根掘り葉掘り二人の間柄を聞いておいて、彼が戻ってきたらそれをネタにからかってやれば良い。
「貴女の名は?」
 好奇心をうまく押し隠して尋ねると、女は少し困ったような顔をして、そっと答えた。
「ユウ。……ユウ・サイトーといいます」
「サイトー? 聞かない家名だな」
 貴族名簿は紙が擦り切れるほど目を通していたが、サイトーなどという家名には聞き覚えがない。没落貴族か傍系か、もしくは外国人だろうか。それにしても家名があるとは、とヘンリックはその点についても驚いた。家名を持つのはごく一部の上流階級に限られるためで、てっきり見た目から労働者階級だと思ったものだが、妙なこともあるものである。
「あの、失礼ですが……」
 考え事をしていたヘンリックは遠慮がちな声で我に返り、戸惑いを浮かべるユウに名乗っていなかったことに今更ながらに気が付いて、襟を正した。
「ああ、失敬。俺はヘンリック・ロージアン・ダン・レビネルという」
 滅多に名乗らない正式名称を告げれば、家名が国名であることに気が付いたのか、彼女の顔色が変わった。



「ヴァレンス!」
「はいはい、何ですか。気が済んだんですか。誰もいないんだから帰りましょ……って、おわ!?」
 気長に待つことにしていたヴァレンスは主の呼びかけを受けて投げやりに問いかけながら、壁に預けていた身を起こして部屋の中を覗き込み、そして素っ頓狂な声を上げた。
「いたぞ」
 見目麗しいヘンリックの影に隠れるほど存在感のないその人物を顎でしゃくって、ヘンリックはどうだとばかりにヴァレンスに笑いかけた。
「い、いたんですか……」
 まじかー、そうかー、と気の抜けた言葉が口から出そうになるが、さすがに不敬にあたるので押し込めるヴァレンスである。
 改めて寝室から出てきた上司の後ろへ視線をやって、はて、と首を傾げた。
 そこにいたのは群衆に紛れればもう見つけられないほど、凡庸な女だったのだ。強いて言えば顔色が悪い。オトロード様の趣味はよく分からない、と主と似たり寄ったりな感想を抱きつつ、口には出さない常識を持ち合わせているヴァレンスは、どうも、と彼女に頭を下げた。
『ど、どうも』
 そして返ってきた言葉に、ヘンリックとヴァレンスは表情を消した。
 ヘンリックは真後ろに立つユウを見下ろして、不審そうに問いかける。
「ユウ、今何と言った?」
 見据えられたユウは不思議そうにヘンリックを見上げて、口を開いた。
『え、何ですって?』
「ふざけているのか?」
『は、え、何て言ってるのかちょっとよく分からないんですが……』
 目に見えておたおたする彼女に、ヘンリックはつい先ほど出てきたばかりのシズレーの寝室を振り返った。
「で、殿下、彼女はいったい……? 何語ですか?」
「……知らん。さっきまで普通に会話していたぞ」
 とても流暢な公用語で話していたから、風体が奇妙であっても、髪が短くても、労働者階級ではなく上流階級であると納得したばかりだったはずなのだが。
 よほど少数民族の言語ならばともかく、大陸のたいていの言語ならば習得しているヘンリックは、全く耳にしたことのない響きに顔をしかめた。
 戸惑う二人以上に、最も驚いた様子を見せたのはユウである。
 疲れた様子に輪をかけて顔色を悪くして、何やら呟いている。
『えーと……あー、もしかして……』
 ヘンリックとヴァレンスには意味の分からない言葉をまた発したかと思えば、彼女はくるりと背を向けて、先ほど出てきたばかりの寝室に足を向けた。
「おい?」
 呼び止める言葉にも彼女は止まらない。そして、寝室の入口あたりでこちらを振り返り、口を開いた。
「あのー」
 それは紛れもない公用語で、やはりふざけているのか、とヘンリックは気を悪くする。
「何してるんだ、まったく。話せるならちゃんと話せ」
 その言葉に、ユウは唇を噛みしめて、ああ、と悲壮な声を漏らした。
「あの、こちらへ来てもらえますか」
 呼びかけに、皇子を呼びつけるとはどういう了見だと呆れながらヘンリックは仕方なく足を向けてやる。ヘンリックの足が扉を越えたことを確認してから、ユウは途方に暮れた表情で言った。
「すみません。外にいらっしゃるヘンリックさんの言葉が、分かりません」
「……は?」
「それに、この部屋から出たら、あたしはそちらの言葉を話せません」
「今、話しているだろう」
「いいえ。あたしが話しているのは日本語です」
「ニホンゴ?」
「……レビネルの言葉は、分からないんです」
 優れない顔色のまま深刻そうに語るユウに、ふざけるな、と怒鳴りつけるほどの感情は不思議と湧いてこなかった。


***


 類まれな美貌のヘンリックと、ヴァレンスと名乗った柔和な風貌の男二人を前に、優はシズレーがかつて用意してくれたテーブルセットの椅子に腰を下ろして、頭を抱えた。
 堪えようもないほどだったはずの眠気はどこかへ行ってしまったのか、悪夢のような現実に視界がじんわりと潤む。いっそ眠って起きたら自分の部屋とかになっていないかな、と現実逃避したくなる優である。
 ずっと、シズレーとは会話に不自由を感じることがなかったから、まさか言語が異なるなんて思ってもみなかった。
 だが部屋が繋がっていたこの寝室を一歩でも出れば、彼らが何を話しているのか全く聞きとれなくなったうえに、どうやら自分が話している日本語も、この部屋の中でしか彼らは聞きとれないようである。
 以前、雨に降られたシズレーに服を貸したら、優の寝室を越えてLDK部分まで出られたことがあったが、その時には気づかなかった。そう言えばごく短時間のことで、あの時は特に会話を交わすことはなかったのだ。ということは、先日の半裸事件の時も、仮にシズレーが部屋を出てきたとしても、会話は成立しなかったということか。
 詰んだ、と優は唸りたくなった。
 シズレー以外の異界の住人とも問題なく意思疎通ができると思っていたが、世の中そう甘くはない。
「……整理するとですね、ヘンリックさん、ヴァレンスさん、あたしはレビネルの住人ではありません」
「話の腰をのっけから折ってしまって恐縮ですが、できれば殿下とお呼びください」
「え、ヴァレンス殿下?」
「違います! ヘンリック殿下です!!」
 ああなるほど、と頷きかけて、優は改めてヘンリックを見やり納得した。長い名前の最後にレビネルと国名が入っていたが、やはり「殿下」と敬称がつけられるような人物だったのか。そうなるとこのヴァレンスさんは確かにお付きの人っぽいな、と理解して、折られた話をもとに戻す。
「えと、それでですね、あたしはシズの……知人で」
「なんだ、恋人ではないのか?」
「こ!?」
 ヘンリックによってまたもや話の腰が折られたが、それどころではない。「こ」の形のまま硬直する優を面白そうに見ていたヘンリックは、「殿下」とヴァレンスに窘められても涼しい顔だった。
「ち、知人です……。いやそれは置いておいて」
「置いておくのか」
「ああもう! 話がちっとも進まないから殿下は少し静かにしていてください!」
 悲鳴のようなヴァレンスの言葉に思わずこくこくと頷いてから、優は涙目で続けた。
「シズからお聞きでないとは思いますが、この部屋と、異界のあたしの部屋は繋がっているんです」
「――異界、ですか?」
「異界だと?」
「はい」
「そんな話は聞いたことがない。異界など、あるはずがない」
「ええ、過去にもそんな例はありませんし……」
 明らかに信じていない二人の様子に、デスヨネーと優は内心で相槌を打った。こんな荒唐無稽な話、実際に経験しなければとても信じられない。
 さてどうするか、と優は部屋を出た途端に言葉が通じなくなったことに考えを巡らせた。そう言えば何故部屋の外に出ることができたのだろうか。シズレーと様々なことを試したが、こちらの世界にとって異界の住人である優は、彼の寝室のノブは動かせなかったはずなのだが。
 考えながら一つの可能性に行き当たって、優は立ち上がった。
 途端に警戒心を露にする二人に申し訳なく思いつつ、「見ていてください」と声をかける。
「何をする気だ?」
「多分ですね……」
 言いながら、優はずっと手に持っていたままだったシズレーの軍服を机に置き、扉へと向かった。そして扉の向こうへ足を踏み出そうとして、見えない壁にはじかれたように進めないことを確認して、振り返る。
「出られません」
 てくてくと戻って軍服を取り上げて羽織り、再度同じように進むと簡単に向こう側へ行くことができた。
「何だそれは? ふざけているのか?」
 部屋を出ているとヘンリックが何を話しているか聞き取れないので慌てて戻ってきつつ、おそらくまだ疑われているのだろうと苦く思いながら優は眉根を寄せた。確かに今のは我ながら下手なパントマイムっぽかったかも、と反省する。
 手っ取り早く信じてもらえそうな現代文明の利器であるスマホは、通勤鞄の中だ。ここが優の部屋ならばエアコンや空気清浄機でシズレーが理解してくれたように説明できるのだが、と過去を思い出しながら、ふと手に触れたものに気付いてスーツのポケットを探った。
「ではこれでどうでしょう」
 ノック式の三色ボールペン、シャーペンとその替え芯、蛍光マーカー、プラスチックの付箋紙ふせんしにクリップと輪ゴムがいくつか。事務員として働く優が、スーツの見映えが悪くなると知りつつついポケットに入れっぱなしにしてしまっているものだ。カチカチとペン先を出し入れして見せながら、シズレーもかつて驚いたそれらに、瞠目している彼らが少し話を信じる気になったことを見てとって安堵する。持つべきものは事務用品である。
「……こんなものは見たことがない」
「そうだと思います。シズもそう言っていました」
 文具品、とりわけ付箋紙を凝視しているヴァレンスを横目で確認して、彼が始めから小脇に抱え続けている書類と本の束を盗み見し、優は彼に告げた。
「よろしければ差し上げますが」
「いいんですか!?」
 ぱっと喜色満面で顔を上げるヴァレンスに、「買収されてどうする」とヘンリックが呆れている。だが一人でも味方をつけたい優は打算的に微笑んだ。
「これ、付箋というんですが、紙を傷めずに剥がせるので繰り返し使えるんですよ」
 優の職業は事務員なのだが、気分は営業である。案の定、更に感心した様子を見せるヴァレンスにもう一押し、と付け加えた。
「しかも下が透けて見えるので文章の邪魔をしません」
 おお、と感嘆の声が上がったことで、買収完了を確信した。ヴァレンスが持っていた本をよく見れば、こちらの世界には付箋紙というものが存在しないのか、しおり代わりに紙が何枚も挟まれていたのである。あれでは紙が落ちてしまえばどこだったか分からなくなるだろうし、第一邪魔だ。
「殿下、これすごいですよ! ほら! 見てください!」
 多分優とあまり年齢が変わらないだろうに、付箋を手に子供のようにはしゃぐヴァレンスを見て、ヘンリックは深くため息をついた。
「……それで、その異界の住人がシズレーの部屋に何の用だ。あいつなら遠征中だぞ」
「はい、知っています。シズから聞きました。三月は……あと二月以上は戻らないんですよね?」
「ああそうだ」
「それなら、」
 ごくりと唾を飲み込んで、一度落とした視線を腕時計に向けてから、優は真っ直ぐにヘンリックを見据えた。
 時刻は零時を過ぎてそろそろ一時間経とうという頃だ。
 日付が変わる前、シズレーの軍服を羽織っていた優は、それが枷になったことで時間を過ぎても自分の部屋に戻ることができなかった。
 再び異界同士が繋がるのは次の金曜日を待たなければならない。
 ――いいや、仮に部屋がまた繋がったとしても、もう帰らないかもしれないけれど。

 鮮やかな紫の双眸にシズレーの瞳を重ねて、優は祈るように口を開いた。
「害のあることは何もしませんから、しばらくここに置いてもらえませんか?」

 懇願する優をじっと見ていたヘンリックは何やら逡巡していたが、はあとため息をついて、答えた。

「……いいだろう」



「あ、あとすみませんが服をください。あとそちらの言葉を教えてください。できればご飯食べさせてもらえませんか。あ、ついでに眠いので寝させてください」
「お前は遠慮がないな!!」
 戻ってきた眠気から欲望のままつらつらと要求する優に、第三皇子の雷が落ちた。