パチン、パチン――
「……いちょう」
パチン。
「――長、隊長!!」
耳元で呼ばれ、シズレーは大きく肩を揺らしてはっとした。
見れば、すぐ近くにいた次官が困り果てた様子で顔を覗き込んでいる。
「あ、ああ、すまない。呼んだか?」
「呼んだか、じゃないですよ! 私が何度お呼びしたかどうせお分かりでないでしょう!?」
「……すまない」
全くその通りだったので、シズレーは次官に頭を下げた。
手にしていた懐中時計を繰り返し開け閉めしていたことにも今気付いて、そっとポケットに滑り込ませる。そんな仕草も何かと目ざとい次官には見透かされていただろうが、素知らぬ顔でやり過ごした。
「まったくもう……この間からずっと上の空じゃないですか」
手にしていた分厚い書類をシズレーに押しやりながら、次官は愚痴めいた口調でぼやいた。
今回の遠征の計画書を改めてぺらぺらとめくり、次官の質問は聞こえないふりをするが、先日来この上司の上の空に悩まされている次官は簡単には引かない。
「ぼんやり宙を見つめていたり、懐中時計を意味なく開け閉めしたり……そんな姿、殿下に見られでもしたら職務怠慢で懲罰ものですよ」
おそらく彼のいとこであるヘンリックは嬉々として理由を問い詰めてくるだろうが、一応腐っても皇族だ。比べてシズレーは一隊長に過ぎず、いくら親しいいとことは言え、軍を統括している立場にあるヘンリックは何かしらの懲罰を与えざるを得ないだろう。いや案外ヘンリックのことだから「俺もこんなことはしたくないのだが」と言いながらにやついて懲罰を言い渡してくるかもしれない。想像に難くないいとこの言動にげんなりして、シズレーはため息を漏らした。
「そんなに気になるなら、いっそ帯同してしまえばよかったんですよ。……『彼女』」
「ぐっ!?」
予想だにしていなかった次官の台詞に、シズレーは持っていた計画書を取り落とした。
数多いる騎兵隊員の中でも冷静沈着と名高い上司の失態に、次官はしてやったりと笑う。
「な、な……っ」
「何故知っているか、ですか? 簡単ですよ。殿下から『あいつの恋人を探ってみろ』と仰せつかりましてね」
「あンの……!」
続けてシズレーが口の中で呟いた罵倒の言葉は、立派に不敬罪ものだったので、次官は聞かなかったことにした。
それにしても、と次官は椅子にかけたままのシズレーを見下ろす。
次官より二十は年若い上司だが、長く隊長補佐の仕事を続ける中でも、これほど仕事のやりやすい相手はいない。当初はこまごまとした雑務を苦手として丸投げしてくることの多かった上司だが、ここ最近はあれこれと質問を挟みつつも、書類仕事を的確に捌いている。元よりその頭脳明晰さを買われて隊長職に就いた彼なので、同じ質問は二度飛んでくることはなく、以前に比べて格段に次官の業務時間も短縮され、早く帰宅できるようになった。
一体どういう心境の変化なのかと不思議に思っていたが、つい先日、シズレーのいない間に執務室にやってきたヘンリックが完全に悪だくみをする悪役の表情で件の台詞を置いていったのだ。
女性から送られる秋波をことごとく受け流してきたシズレーが、ついに、と。既婚者である次官は勝手ながら息子の恋路を見守るような気分なのである。面白がる気持ちなど、ちっとも、いや、少ししかない。次官はヘンリックと違い、野次馬気分を上手く押し隠すほどの配慮は持ち備えている。
「過去には例がないわけではないですよ。皇族が寵姫をどこに行くにも、それこそ軍事遠征でも帯同した、なんてこともありますし」
「……いや、そういう相手では……」
シズレーは言い淀んで、これ以上この話題には触れないでくれ、とでも言いたげに改めて視線を計画書に落とした。
さすがに上司相手にこれ以上からかうことはできなかったので、次官は苦笑を一つ残し、自席へと踵を返した。
次官が席についたのを視界の端で確認したシズレーは、彼に聞こえないように小さなため息をこぼすと、皇国の財務を司る部署から返されてきた計画書の続きを読んでいく。ありがたいことに演習内容はほとんど申請通りで許可されている。新調希望を出していたいくつかの備品は条件付きでの裁可だ。一番下に付け加えられた条件に、また気が重くなった。
第二騎兵隊は六千の大所帯であるが、その大人数をシズレーと次官二人では到底捌ききれないため、六つの小隊に分けている。騎士たちはほとんど貴族出身で平民も混じる兵士とは相いれないため、六つの小隊の一つは千人の騎士のみで構成されている。そこから新調希望が出ていた武器や馬具などの数が、ほかの五つの小隊に比べると格段に多く、それが財務から難色を示されたのだ。確かに兵士に比べ、レビネル皇国において騎士は名の通り乗馬を常とする戦術を得意とするため、必要な物は多い。それでも兵士たちがほとんど新調希望を出さない中、騎士の要望は度が過ぎているのではないか、というのが財務の意見だ。
おそらくは、少しでも古くなった馬具などを使いたくない、という傲慢な貴族らしい考えなのだろうが。
兵士たちからあまり不満が出ていないのが救いではあるが、この選民意識の強さはどうしたものか。
財務からは新調希望は通すが、騎士と兵士の待遇に大差をつけぬように、と条件が与えられた。
貴族の中でも上位に位置する大公家に生まれたシズレーはその高貴な生まれに反して完全に実力主義を旨とするため、財務のこの意見にも勿論納得しているが、騎士たちをどう納得させれば良いのか、簡単には良案が思い浮かばなかった。
仕事においてのままならなさを苦々しく思いつつ、ふと次官も口にした『彼女』のことを思い出す。
――ユウもまた、仕事で思い悩んでいた。
明日からの発つ遠征を告げた、一昨日の夜。
彼女の拒絶を目にして思わず部屋から逃げ出した苦い思い出ばかりがよみがえるが、そういえばあの日、ユウは仕事の愚痴を漏らすことはなかった。
ユウが話す前にシズレーが遠征のことを告げたからであるが、その前の時も、かなり疲れた様子で眠りに落ちていたかと思えば手土産のパイに喜んでくれて、彼女の上司との確執にはあまり触れなかったように思う。
ユウは大丈夫だろうか。無理をしていないだろうか。
彼女の上司は何かと理由をつけては理不尽な指示を出してくると言っていた。
多分、シズレーにとっては好ましく思う、彼女のあの真っすぐなところが気に入らないのだろうけれど。
シズレーの知る貴族の女性とは異なりとても気の強いユウだが、たまに見せる弱さが気にかかる。
ヘンリックや次官の台詞ではないが――いっそ彼女を手元に置いてしまえれば。
彼女の拒絶を目の当たりにしても尚そう望む自分の執着が空恐ろしくもあって、シズレーは振り切るようにゆるく頭を左右に振った。
遠征への出立は幸いにして晴天に恵まれ、軍部の長であるヘンリックだけでなく皇帝や皇太子も見送りに立ち、華麗な壮行会となった。
大階段の最上段に立つ皇帝に傅き出立の挨拶を済ませると、シズレーは妙ににこやかに見送るヘンリックに一抹の不安を覚えながら、軍の先頭に立ち号令をかけた。行進を一目見ようと集まった群衆がわあ、とひときわ大きな声を上げる。
そこにいるはずもない人影を探して、シズレーはそんな自分の愚かしさを唾棄した。
この都へ戻ってくるのは三月後。
ユウの住む世界とこちらの世界の暦の数え方は多少異なるが、概ね日数は同じ約百日。
七日に一度の逢瀬が既に日常に組み込まれていたから、ユウと出会う前のその日をどのように過ごしていたのか、もう忘れてしまった。
再びユウに会う日がくるならば、どういう顔をすれば良いのだろう――。
粛々と行軍を続け、東西を走る街道を進んで六日目。あちらの世界での「キンヨウビ」はもう過ぎた。
『ちょっと、シズ、待ってよ!』
最後に聞いたユウの声が繰り返し頭の中に蘇る。あの時、呼び止めたユウの声は切羽詰まった響きを伴っていた。
目的地の砦に比べるとかなり手狭な要塞で服を着替えながら、シズレーははたと動きを止めた。
手に触れたのは軍服の肩章。叙勲された時から使い続けていたものは、今はない。代替で皇帝の前に出るなど、普段のシズレーならば決してしない行為だが、常にともにあった肩章は今はこの世界になく、ユウの世界に置いてきてしまった。
あの時、話をはぐらかそうとするユウに苛立ちを覚えて後先も考えずに服を脱ぎ捨てていた。ユウが止めなければ全裸になっていただろう。恋人でもない女性の前でやるような振る舞いでは決してない。そのことに気付いて合わせる顔もなく逃げだすように立ち去り、自室に戻って初めて服を置いてきたことに気付いたが、とても戻れそうになかった。
あの服は今どうなっているだろう。
案外とっくにユウに捨てられてしまっているのではないだろうか。
「……う」
それは少し辛い。思わず低いうめき声を漏らしてしまった。
ユウはこちらの世界の貴族女性と異なり、仕事で身を立てているからか、時折彼女の上司に対して苛烈な言葉を口にしていた。あまりにはきはき言うのでいつも面白おかしく聞いていたシズレーであるが、いったん自身をその立場に置き換えてみると、どうにも心が抉られる。あの拒絶を目の当たりにしてからというもの、こうしたとりとめのない空想をしては我に返って自己嫌悪に陥っている。
いつまでも思い返しては感傷に浸るなど、全くもって自分らしくない。
いやしくも軍隊を預かる者の性にふさわしくないな、と自嘲して、シズレーは上着を簡素な事務机に投げ出した。
衣服の首元を緩めたところで、短い叩音に続けて珍しい部下の声がした。
「入れ」
許可を出せば、ただでさえ騎兵隊の中でも少なく、かつ武勇で知られる第二騎兵隊では両手で数えられるほどにしかいない女性騎士であった。
「失礼します」
「ストフリー公」
「……隊長、ここではストフリーで結構です」
堅苦しくかしこまった口調で言う彼女は、ワンダ・ストフリーという。シズレーの生家であるオトロード公爵家と同格のストフリー公爵家に生まれた生粋の貴族女性ながら、軍人として生きることを選んだ稀有な存在だ。
実力主義を貴ぶ軍部では腕力で劣る女性兵士は下に見られる傾向にあるが、このワンダだけは例外といっても良かった。何せ彼女は年に一度の隊員同士の武道試合で、驚異的な勝率を誇っているからだ。それでいて驕るでもなく、淡々と鍛錬を積み重ねている姿に憧れる女性兵士も少なくない。
シズレーにとっては頼もしい部下である一方で、同じ公爵家の総領として生まれた立場であり、唯一まともに言葉を交わすことのできる貴族女性であった。
「何か問題でもあったか」
「はい。隊長のお耳に入れるまでもないと思ったのですが、こんなものが私の部屋に」
そう言ってワンダは薄汚れた羊皮紙を差し出した。
何事かと受け取ったそれを見れば、みみずののたくったような拙い文字でこう書かれていた。
『おんなはでていけ』
思わず握りつぶしそうになったのを堪えて、シズレーは静かに部下へと視線を上げた。
ユウのように短くも柔らかさの残る髪型ではなく、もはや後姿では男としか見えない程髪を短く揃えた女は、憤りも呆れも何もうかがえない、凪いだ表情でシズレーの視線を受け止めている。
「……この馬鹿げた投書は、これが初めてか」
「いいえ」
「では前にも同じようなことが?」
「はい。ここ六日ほどです」
それでは出立してから毎日この嫌がらせめいた文を受け取っているということだ。
おそらくワンダは投書など、始めは気に留めなかったに違いない。毎日続くことに不気味さを覚えたわけでもないだろう。ただ、さすがにワンダ一人に留めておく程度を超えてきたからこそ、上司であるシズレーに報告してきたのだ。
「……心当たりは」
低く唸るように尋ねるが、ワンダは「いいえ」と生真面目に首を左右に振った。
「貴族であるならば、このような質の悪い羊皮紙は使いません。それにこの筆跡は真っ当な教育を受けた者ではない。――普通ならば、兵士の誰かでしょうね」
普通ならば、とワンダが含みを持たせた言い方をしたことを、シズレーは正確に読み取った。ワンダの言う通り、貴族の間では羊皮紙など今時誰も使わない。辛うじて読めるかどうかといったような筆致も、流麗さを競い合う貴族では決してありえない。ただ、兵士の仕業に見せかけるように貴族がやる可能性も、なくはない。そうワンダは言っているのだ。
心当たりはないと言っておきながら、本当はあるのだろう。こうした陰湿さは貴族のお家芸だ。
財務に指摘されただけではなく、騎士たちの内ですら、こうなのか。
全く頭痛がする、とシズレーは静かに額を抑えて、呆れをため息に換えて吐き出した。
「……分かった。悪いが、また投書があれば俺に報せてくれ」
「承知いたしました」
用は済んだとばかりに深く頭を下げて立ち去ろうとするワンダの後ろ姿を見やって、シズレーはふと「ストフリー」と声をかけた。
扉に手をかけたまま振り返った彼女の、意外なほど細い首筋に頼りなさを覚える。
男児に恵まれなかった公爵家の総領として位を継ぎながら、騎士として軍務に就くワンダもまた、女なのだ。隊で軍人として過ごすことの苦労は数えきれないほどあっただろう。
ワンダも――ユウも。
男の中でも並外れた体格を持ち、揺るぎない地位を約束されたシズレーには到底計り知れないその苦労を、どうしてやればいいのか。思いあぐねて、けれど単に女であるからと妙な気遣いをすればそれこそワンダの誇りを傷つけそうで、シズレーは言葉に迷った末に、結局は「周りに気を付けろ」とつまらない言葉しか出てこなかった。
「はい」
一瞬面食らったような表情をしてから、ワンダはまた生真面目に頷いて、そして去っていった。
ワンダが置いていった羊皮紙を透かし見ながら、シズレーは深く椅子に腰かけた。
騎士か兵士か。貴族か平民か。
真面目に職務に取り組む相手に卑劣な行為で貶めるのはシズレーが最も嫌うやり口だ。気に入らないのであれば正々堂々と相対すべきだ。おおかた戦術ではワンダに敵わないからこそ、こうした行為に出たのであろうが、それにしても気に食わない。
そして何よりもシズレーが苛立つのは、この六千人の部隊の中にそうした人間がいるにも拘わらず、一向に見当をつけることができない己の管理能力のなさだった。
『シズは大勢の部下の人たちをまとめあげていて、すごいねえ』
ユウが口にした褒め言葉に全くふさわしくない。次官あたりは六千人もいるのだからと慰めの言葉の一つでもくれるだろうが、それではいけないのだ。六千人すべてを知るのは困難だろう。だが、シズレーはその六千人から投書の主をおおまかに絞りこむことすらできない。ワンダが示唆したように仮に騎士の仕業だとすれば、その数は千人に限定されるがそれまでだ。
撫でつけた短髪に指を突っ込んで掻きまわし、重いため息をついて、シズレーは目を閉じた。
仕事も、ユウのことも。
思うようにならないことばかりだ。
そして砦に到着し、一日の休みを挟んで開始される演習を前に、シズレーは次官とともに砦の責任者と打合せを行い、割り当てられた部屋へと落ち着いた。
「馬具の数が合わない?」
進言を受けたのは、砦内のあちこちに備え付けられた灯りが煌々と輝く夜更けのことだ。
「はい」
薄汚れた羊皮紙を片手に、進言者であるワンダは眉をひそめて言う。
「鞍が二十に、鐙や轡、腹帯も足りません」
「それはいつ分かった?」
「今日です。お借りした倉庫に保管する前、念のためにと数を確認してくれた兵士から報告を受けました」
ワンダは隊の中でも特に女性から慕われており、雑務をこなす女性兵士に友人がいるのだと付け加えた。その女性兵士の名さえ思い浮かばないことに、先日来のもどかしさを再度味わいつつ、シズレーは手元にワンダに言われた不足物の数を書き留めておく。
武具の数が合わないなど、異常事態だ。今回は三月にも及ぶ長期の軍事演習であり、一月かけて準備を行った。故に始めから足りないなどということはあり得ないと知っている。ということは、皇都を出てこの砦に着くまでの行軍中に、合わなくなったのだ。馬具の一つや二つなら大した価値はないが、数が多ければ売り払うだけでちょっとした財産にはなる。
そのことが示す意味に、シズレーは低く唸った。
誰かが意図的に武具を隠蔽したということか。
「……不正が行われていると」
「おそらく」
いつも表情に乏しいワンダは、珍しく不快げな表情を浮かべて頷いた。それに、と手持っていた羊皮紙をシズレーに差し出す。
『女は出ていけ』
先日見せられたものと文章は同じだが、何とか読み解けるような拙い文字ではなく、明らかに貴族階級が書く流麗な文字であった。
騎士が兵士の仕業のように見せかけているかもしれないとワンダは示唆していたが、その通りなのだろう。もしくは事態が悪ければ、騎士も兵士も複数関わっているか。
「私が不正を知ったと、勘づいたと思われます」
「この短時間でか? ストフリー、このことを誰かに話したのか」
「いいえ。隊長が初めてです」
ではその誰かは、ワンダの動向を見張っていて勘づいたということだろうか。
ワンダの進言は身の危険を感じてというよりは、不正を許せない一心なのであろうが、いくらこの騎士が武術に優れているとは言え、相手が誰かも分からないのでは対応のしようがない。
「ここへ来るまでに誰かにつけられているような気配は?」
「いいえ。……確実とは言えませんが」
「ではストフリー、このことは俺と次官で対応することにする。誰にも口外するな。その友人にも口止めを」
「承知しました」
「あまり一人になるな」
シズレーはこの助言に、腕前を信用していないわけではない、と付け足したが、ワンダは少しだけ間を置いてから「はい」と静かに頷いただけで、あまり納得している様子はない。難しいものだな、とシズレーは内心ひとりごちた。
ワンダが退室したあと、面倒事が更に増えたことにため息を漏らし、シズレーは背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
こんな時、ユウと話ができればと強く思う。
彼女の強さや明るさは欝々とした気分を晴らしてくれるだけではなく、こちらの世界の常識にとらわれない彼女の考え方は、時に思いもよらない案に繋がったものだ。ワンダへの接し方も、女性であるユウならば何がいけなかったのか分かるのかもしれない。
そんな自分に都合の良いことを思い浮かべながら、視界に広がる見慣れぬ木組みに皇都の自室ではないことを改めて感じて、シズレーは瞑目した。