――自分の部屋には、時折ジムインが現れる。

 その日、シズレー・オトロードは軍服のポケットに入れていた懐中時計を確認しながら、業務に就いていた。
 今日は七日に一度の「キンヨウビ」である。
 シズレーの住む世界にはない日付の数え方を教えてくれたのは、異界のジムインだった。
 七日を一つの区切りと数え、それぞれ決まった日数を一月と数え、一年を十二の月とする。シズレーの世界では季節が一巡りする三百五十日を一年と数えるため、数年に一度、季節とずれが生じる度に暦が訂正される。それに比べれば彼女の世界は物事が微に入り細に入り決められていてとても規則正しい。
 だから彼女もあのように生真面目なのだろうか。
 ふと七日前にも会った彼女を思い出し、シズレーは微笑した。

 蕩けるようなその笑みは、しかし一瞬にして掻き消える。
 執務机に広げていた書類に視線を落とし、彼はまたいつもの鋭さの伺える無表情に戻った。
 軍事訓練の計画書や予算書、騎兵隊の次期編成案を眺め、書類作業が苦にならなくなったのはいつからだっただろうかとふと考えた。
 元々シズレーは自他ともに認める肉体派であり、四六時中鍛錬している方がずっと楽だ。その武勇だけではなく明晰な頭脳を買われて隊長の任に就いてはいるものの、どうも机に向かってひたすら書類を捌くというこの作業は性に合わない。
 そのため隊長職を預かったばかりの頃は、次官にほとんど任せきりで、鍛錬指導という名の逃避に明け暮れていた。
 それが変わったのはおそらく半年ほど前から。
 九ヶ月前に彼女――ユウと知り合ってからである。


 九ヶ月前、職務を終えて騎兵隊の官舎内の自室に戻り、着替えようと寝室に入ったところ、突如現れた彼女。
 すわ不審人物かと思わず斬りかかってしまったのは、叶うなら消し去りたい過去だ。
 悲鳴を上げてへたりこむ彼女に毒気を抜かれ、よくよく見ればそこは見慣れた自分の部屋ではなく、狭いながらも整った無機質な部屋で。
 部屋の温度を自由に調整できる機械や、後に教えてもらったのだが、空気を綺麗に保つための機械など、理解の範疇を超えたものが並ぶ部屋に唖然としたものだ。

 異界の住人である彼女は、とにかく変わっていた。
 シズレーの周りにいる上流階級の女性と言えば、日がな一日社交に明け暮れ、享楽に耽るばかりのきらびやかな存在だ。
 彼女たちはいかに身分の高い男性に嫁ぐかを競い合い、時に相手を出し抜き、時に相手に足を引きずられ、理想の結婚をするために己の美を追求してやまない。そしてそのためにどれだけの金銭が動いているかなど、知りもしないだろう。彼女たちが身に着ける宝石一つで小さな街に暮らす民衆の一年分の食糧が賄えることも、その生活を支えるために民衆がどれだけの税を国に納めているのかも。
 だがユウは彼女たちと異なり、仕事を持ち、自分の力で生活している女性だった。
 「ガクシュウジュク」の「ジムイン」なのだそうで、昼間から夜にかけて働いているらしい。なぜ朝からではなく昼からなのかと一度尋ねたところ、「そうしたかったんだけど、昼からの事務員しかなれなかったのよね」と残念そうな答えが返ってきた。
 上流階級の女性たちと同じような、あかぎれ一つない綺麗なその手は、けれど苦労を知らないわけではない。
 時に悔しそうに、時に楽しそうに仕事のあれこれを語るユウを見ているうちに、シズレーは自分が苦手としていた事務作業にも真剣に取り組むようになっていた。
『シズは大勢の部下の人たちをまとめあげていて、すごいねえ』
 いつだったか眩しそうな表情でシズレーを見上げて言ったユウの言葉に、曖昧な返事しかできなかったことを覚えている。
 本当にすごいのは、些細な仕事でもしっかりとやり遂げるユウの方だ。
 けれど素直に称賛の眼差しを送ってくれるユウに、自分の逃避行動が恥ずかしく思えて、言えなかった。


「隊長、自分はお先に失礼いたします」
 仕上げた書類を各提出先に振り分けていた次官がふうと息をついた後、シズレーに声をかけた。
 気付けばすっかり夜のとばりが下りている時間である。
「ああ、ご苦労だったな」
 労いの言葉をかけてやり、シズレーも今日の執務を終えることにした。

 ユウはもう帰っているだろうか。
 そんなことを考えながら、足早に自室に向かう。
 途中、部下の集団に夕食に誘われたが、「また今度な」と断り、逸る気持ちを抑えて部屋の扉を押し開ける。
 懐中時計の時刻は既に夜の九時であることを指示していた。



「またあいつ、あたしに自分の教科の試験問題作り押し付けてさぁ! 正社員の給料もらってんならその分働きなさいよー! あんたのために取った教員免許じゃねーぞー!」
 ユウのころころと変わる表情は社交界の淑女たちにはないもので、シズレーは微笑した。
 今日もユウはシズレーにとって好ましいことに、飾らない言葉ではきはきと話している。
 この場にいない上司に向かって吠えるユウに、シズレーは「まあまあ」と言いながら、つまみを彼女の小さな口に押し付けた。
 綺麗な薔薇色に彩られた唇がもごもごと動き、嚥下する様をとっくりと見つめて、尋ねる。
「美味いか?」
「美味しい」
 こくりと頷いた拍子に、後ろでまとめていたユウの髪が一筋頬をかすめて滑り落ち、酒とは異なる芳しい香りがシズレーの敏感な嗅覚をくすぐった。
 その華奢な肢体を引き寄せてもっと近くで嗅ぎたい気持ちを意志の力で抑え込み、色を感じさせない手つきで落ちてきた髪を耳にかけてやる。触れられてくすぐったかったのか、肩をすぼめるユウの仕草に束の間見とれた。
「……はあ、スッキリした。シズ、聞いてくれてありがとうね」
 一頻り愚痴を述べた後のユウは、決まって罰の悪そうな顔をする。おそらく愚痴ばかりの自分を恥じているのだろうけれど、シズレーにとってはこのくらい苦でもない。夜会で中身のない淑女たちの会話に付き合う方がよほど精神力を試されるものだ。
 ユウは恋人はいないと言っていたし、一方的に愚痴を言えるような気の知れた友人は遠方に住んでいるそうだから、きっとこういう風に素をさらけ出すのは自分の前でだけだろう。
 黙っていればきりりとした意志の強そうな女性の、可愛くも思えるその姿。それを知ることのできる優越感に浮ついた気分になる。
 自分より二つ年下で、腰まで届く豊かな髪が美しいとされるこちらの世界ではとても短く感じるふわふわとした茶髪と、丸い焦げ茶の瞳。彼女の世界では当たり前だという膝丈のスカートから伸びた足はすらりと細く、ほの赤く彩られた爪先が美しい。

 七日に一度しか会えないことを残念に思うようになったのはいつ頃からだっただろうか。


 九ヶ月前のあの日、シズレーとユウは互いに警戒心も露わに会話を重ねて過ごし、数時間が経って喉の渇きを覚えたシズレーが水差しを取りに行くべく何気なくその部屋を出たところで、自分の部屋に戻っていた。
 突然の出来事に唖然とし、寝室に引き返してもそこにあるのはいつもと変わらぬ自分の部屋で、当然さきほどまでいた不思議な女性もおらず。
 寝付けぬ夜を過ごし、あれは果たして夢だったのだろうかと思いながら、数日を過ごし……七日後に今後は彼女が自分の寝室に現れて、互いに頭を抱えた。
 どうやら規則正しく七日に一度だけ部屋が繋がるのだと理解したのは四度それを繰り返した後で。
 そういうものなのだと割り切ってみれば、彼女は存外に楽しい話し相手だった。彼女もそう感じてくれるようになったのか男女の違いはあれど妙に気が合った。
 数ヶ月経つころにはお互い慣れたもので、この数時間の逢瀬を楽しむべく、ユウは部屋に柔らかなクッションを置き、シズレーはテーブルセットを用意した。

「シズ、まだビールあるけど飲む?」
 尋ねながら、ユウが袋から缶を取り出してこちらに差し出してくれる。
 軍人である自分と異なり、ほっそりとした腕。指先の爪は、足と同じく淡く彩られていて。
 このまま缶を持つ腕ごと抱き寄せたい、と考えながらも、無意識のうちに「ありがとう」と答えて新しい缶を受け取った。
「ユウはもう飲まないのか?」
 空になった缶を手の中でころころと転がしていたユウに尋ねれば、ユウは大人びた風貌に似合わずぶんぶんと首を左右に振って否定した。
「これ以上飲んだら、寝ちゃうからやめとくー」
「そうか」
 いっそ寝てしまえば良いのに。
 口をついて出そうになったその言葉の意味を、ユウは知らない。

 始めの頃、シズレーとユウは部屋が繋がる不思議を解明すべく、さまざまなことを試した。
 ユウがシズレーの部屋にいる間、ほかの部屋につながる扉を開けようとしても開かない。押しても引いてもびくともしないのだが、シズレーは簡単に開けられる。
 逆も同じで、シズレーはユウの寝室から出られないが、ユウは自由に出入りできた。
 ただし、たった一度だけ。
 土砂降りの雨を避けられず、濡れ鼠になってしまったシズレーがユウの部屋を訪れ、見かねたユウがタオルと着替えを差し出してくれたあの時は違った。濡れた服を「カンソウキ」なる便利な機械にかけてくるとユウが寝室の外へ持っていき、つられてそれを追うように動いた時。これまでは見えない壁があるかのように少しも進めなかった先のスペースへ、自然に踏み入れていたのだ。
 ユウと二人でそのことに驚き、そして結論づけた。
 ――互いの世界においては、身に着けているものが枷となる。
 つまり、何も身に着けていなかったり、異界のものを身に着けていれば、繋がっている部屋の外に出られる。
 そしておそらく枷となるものは同時に鍵にもなっていることに、薄々シズレーは勘づいていた。ユウが貸してくれた服のままではユウの寝室に入ることができなかったので。
 乾いた軍服を羽織ればあっさりと戻ることができ、勿論そのままユウの部屋を出れば自分の部屋に戻っていた。
 一瞬のことだったので、ユウはそのことに気付いていなかっただろう。

 ユウがもしこの場で寝てしまえば。
 その服を脱がせて燃やすなり隠すなりしてしまえば、彼女はもう自分の世界に、異界に戻れなくなる。

 ほの暗い望みを押し隠し、シズレーは何食わぬ顔でユウとの会話を楽しんだ。
 きっとそんなことをすれば、ユウはもうシズレーに向かって色鮮やかな表情を見せてくれなくなるだろうと、痛いほど理解していた。





 そしてまたいつも通りの日常を過ごし、七日後の夜。
 溜まった雑務を次官と片づけ、早めに仕事を切り上げたシズレーは、騎兵隊の官舎にある食堂で簡単に夕食を済ませ、そこで頼んでいたものを受け取った。
「シズレー隊長、甘いものお好きでしたか?」
 包みを差し出しながら給仕係が不思議そうに尋ねてくるのに、「まあな」と適当な返事をして、そそくさと立ち去る。
 まだ温かい包みの中には、騎兵隊の女性兵士に人気だという果実のパイ。休憩の合間に部下たちが話しているのを耳にして、ふと思い立ったのだ。
 ……ユウは喜ぶだろうか、と。
 彼女はシズレーと違い、飲んでいる酒類も口当たりの甘いものが多く、ならばこうした菓子も好きなのではないかと考えたのだ。シズレーの部屋には気の利いた食べ物などなく、エールや水があるばかりだ。ユウが気遣って買ってきてくれるものをありがたく頂くばかりでは申し訳ない。たまにはこういうのも悪くないだろう。
 できれば可愛い笑顔など見られると良いのだが、と考えながら自室へ戻り、寝室の扉を押し開けたシズレーは、束の間その場に呆然と立ち尽くした。

 そこはユウの部屋だったが、場所に驚いたのではない。
 初めて訪れてから何度かユウの部屋で過ごしており、シズレーの寝室に比べればこじんまりとしてはいるものの、きっちりと整頓された部屋は主の性質をうかがわせる空間だ。
 最近はシズレーの方がユウより早く帰宅していたから、今日もそうであろうと思っていたが、そうではなかっただけだ。
 シズレーが驚いたのは、場所ではなく、その主についてである。
 ――ユウが、寝台ベッドに突っ伏していた。
 いつからかユウが二人のためにと用意したクッションを抱きかかえるようにしてうつ伏せになっている。おまけにユウがいつも身にまとっている「スーツ」なる服装のままだ。髪も結ったまま、柔らかそうな耳たぶにつけられた耳飾りピアスも取らぬままに。
「ユウ?」
 小さく名を呼ぶが、部屋の主はぴくりとも動かない。
 静かに近づき、寝台にかがみこんで見れば、薄くはたいた肌粉でも隠せないほど、目の下が不健康にくすんでいる。まるで予算審議の大詰め時期に見るやつれた次官のようだ。
「……ユウ」
 もう一度そっと名を呼ぶ。
 すると、長く伸びた睫毛がかすかに動き、ゆるゆるとユウが目を開いた。夢見心地のその焦げ茶の瞳が虚ろにあたりを見まわし、そしてぱちっと音がするほど大きく見開かれた。
「あれ、シズ!?」
 慌てて飛び起きた彼女は、自分の恰好を見下ろしてため息をつく。
「ごめん、起こしてくれてありがとう」
 寝台を下り、上着を面倒そうに脱いでいる。下に着ていたぴたりとしたシャツと丈の短いスカートだけを身にまとったユウは、普段より幾分か華奢に見えた。
「どうした、随分疲れているようだが」
「まあね……」
 いつもの元気な愚痴もなく、気怠げに髪をほどいている。結っていた癖の残るふわふわした髪が、静かに揺れた。
「仕事で何かあったのか?」
 普段はユウが好き勝手に話し始めるのを楽しく相手するシズレーだったが、この時ばかりはユウに尋ねる。
 以前から、ユウの上司は何かと理不尽な指示をしてくることが多いと聞いていた。
 こちらの世界でも同様のことはまま見られる。働くとはそうした理不尽さも呑み込んでいかなければならぬものではあるが、ユウの話を聞く限りでは、その上司とやらは随分彼女へのあたりがきついようだった。
 シズレーの心配そうな声色に気付いたのか、ユウは疲れた顔で少し笑ってみせた。
「まあ、いつもの無茶ぶりがレベルアップした感じかな」
「レベルアップとは」
「前より飛躍的にいびられています」
 端的に述べて、ユウはふとシズレーの手元に視線をやった。
「シズ、何か良い匂いするね」
「あ、ああ。これはユウへの手土産にと思って」
 すっかり存在を忘れていた包みを開けてみせれば、途端に立ち上る甘い香りに、ユウはぱっと表情を明るくさせた。
「わ、美味しそう!」
 先ほどまでの疲れもどこへやら、ユウらしい明るい表情を見せたことに、シズレーは内心安堵する。
 男が一人で生活する居室に食器類はないだろうと踏んだ給仕係が気を利かせて切り分けておいてくれたようで、そのまま食べられそうだった。
「お酒よりは紅茶が合いそう。あたしは紅茶にするけど、シズはどうする? ビールにする?」
 離れた場所に置いてあったいつもの白い袋を指してユウが尋ねてくるのに、シズレーは首を振って答えた。
「俺にも紅茶を淹れてくれるとありがたい」
「はあい。じゃ、淹れてくるからちょっと待ってて」
 部屋が繋がっている時間は夜の十二時まで。時間が十分にあることを寝台そばの時計で確認してから、ユウはうきうきとした様子で寝室の外へと出ていった。
 シズレーには立ち入れない場所であるため、それを目で追いかけるだけだった彼は、ふと寝台に視線を戻した。
 そういえば、と思い出す。
 七日前、いっそユウが寝てしまえば自分の世界に引きずり込めるのに、と考えた自分がいたのに、すっかりそのことが頭の中から消えていた。
 ただただ、いつもと違う様子のユウが心配で、笑って欲しくて、そんな自分勝手なことを思い浮かべることすらなかったのだ。
 思っていた以上に自分はユウに心を奪われているらしい。
 そのことに自嘲して、シズレーは目を閉じた。
 遠くで湯を沸かしているらしいユウの軽快な足音が聞こえてくることが、ユウの存在を感じられることが、嬉しかった。

 その日は珍しくユウの口から上司への愚痴が零れ出ることはなく、シズレーはやや不審に思ったものの無理に聞き出すことでもないかと割り切って、静かにとりとめのない話を交わすだけで時間が過ぎていった。





「シズレー!」
 書類を片手に廊下を歩いていたシズレーは聞き慣れた声に呼び止められ、振り返った。
「ヘンリック殿下」
 シズレーと似た軍服に身を包んだ彼は、シズレーの率いる第二騎兵隊よりも更に上位にある第一騎兵隊の隊長であり、同時に皇国の皇子でもある。継承権の低い三男ではあるが、二人の兄達よりも濃い紫の双眸がこの男をより高貴に見せていた。
 そして彼は――シズレーのいとこでもあった。
「ああ、またそう呼ぶ。お前は水臭いぞ。リックで良いと言っているのに」
 堅苦しそうに顔をしかめる男に、シズレーは苦笑で返した。
「そういうわけにはいきませんよ」
 確かに同僚であり幼い日々をともに過ごした友人ではあるが、身分格差のはっきりした上流社会では、臣下へ降嫁した皇妹の子に過ぎないシズレーが正統なる皇子である彼を呼び捨てになどできるはずもない。
 ましてやここは皇宮内の回廊である。いつ誰の目があるかもわからないようなところで、下手な真似はできなかった。
 シズレーの苦笑からそれを読み取ったヘンリックは軽く肩を竦めた。
「まあそれは良しとしよう。……それよりシズレー、いい加減にお前の彼女を紹介してくれたらどうなんだ」
「いやです」
 にべもなく断るシズレーにヘンリックは一瞬ひるんだものの、無理矢理肩を組んで詰め寄る。
「父上や叔母上が持ってくる縁談をことごとく断る理由がその彼女なんだろう? はっきりと紹介すればもう面倒なんてなくなるだろうに」
「無理です」
「なんだ、色男のくせに上手くいっていないのか?」
「上手くも何も……別に、彼女とはそういう関係ではありませんから」
 そう、ユウとは一切色じみたことはない。シズレーは「そういう関係」になりたいのはやまやまだし、ユウもシズレーに好意を持ってくれているのは察しているがあくまで気の合う友人程度にしか思われていないに違いないだろう。
 元々重なり合うはずもない異界の住人なのだ。
 無理矢理こちらに引き込んだとしても、それでユウが今の彼女らしくなくなるくらいなら、シズレーは今のままで構わない。
「『そういう関係』ではない相手にそんな顔するかよ」
 ヘンリックに肩を揺すられて、シズレーははっとした。今いったい自分はどんな顔をしていたのだろうか。気にはなったが、それを彼に尋ねることはせず、シズレーは沈黙を守った。
 こうなるとシズレーが梃子でも動かないのをよく知っているヘンリックは、するりと組んでいた肩を外した。
「……では次に期待する。ところでシズレー、遠征の準備はもうできているのか?」
 妙に優しく話題を変えられて、本当にどんな顔をしていたものかと内心悩みながら、シズレーは「ええ」と静かに頷いた。

 五日後、隣国との国境沿いにある砦へ軍事遠征へ出立することが決まっている。
 今のところ隣国との友好関係は保たれてはいるが、互いの国力をそれとなく示しておくのは軍の常套手段だ。
 五つの軍から成る皇国軍の中でも武勇で知られる第二騎兵隊にその任務が告げられたのは一月前。第二騎兵隊は千の騎士と五千の兵士から成る大所帯で、この一月、遠征の準備にかかりきりだった。遠征期間は三月。
 ……三月も、ユウに会えない。
 皇都を守護する第一騎兵隊の隊長へ必要な引継ぎ事項を話しながら、シズレーは遠征期間の長さを改めて思い知った。
「戻ってくる頃には冬だな」
「そうですね」
 季節は秋にさしかかろうとしていた。
 昨年もこの時期に軍事遠征を執り行ったが、その時は特に何も思わなかった。
 ユウに出会ったのは遠征から帰還してすぐのことで、それから今まで一度も長く都を離れることはなく、七日毎の逢瀬は既に習慣となっている。
「どうも隣国できな臭い話もあるようだから、思い切りやってこいよ」
「承知しました」
「――その間、お前の彼女の世話をしておいてやろう」
「結構です」
 つい先ほど話題を変えてくれたばかりなのに、妙な気遣いは長くはもたないらしい。
 軍備の話をしていた時から少しも変わらない表情に、だがヘンリックはにやりと笑った。表情は変わらないくせに、口調が硬くなっている。長い付き合いのヘンリックは、その些細な違いを聞き取って更にシズレーをからかうことにする。
「寂しい思いをするだろうが」
「お構いなく」
 またもや組まれた肩をシズレーはするりとかわした。
「俺が話し相手にでもなってやればきっと彼女も喜ぶぞ」
「お気持ちすらいりません」
 すげなく答えて「では」とさっさとその場を立ち去ろうとする。「出立までに気が変わればいつでも言えよ」と全くありがたくないヘンリックの言葉は、聞こえないふりをして諫めることすらしなかった。
 そうしてシズレーが立ち去った後には、彼が珍しく感情を露わにしたことに腹を抱えて笑う皇子の姿があった。


 ヘンリックを置いて人気のない所まで歩き進めたシズレーは、ふと立ち止まって手持っていた書類に目を落とす。
 持っていたのは承認印の捺された遠征の最終計画書。
 遠征の話が出てから今日まで、三月の間会えなくなることを、シズレーはまだユウに伝えられていなかった。
 勿論会う機会はあった。どう伝えて良いのか分からないままずるずると日にちが過ぎ、早く言わねばと思ううちにもう三回もユウと会う日を過ごして、明後日が最後の機会だ。
 会えないことを告げれば、ユウはどんな反応をするだろうか。
 軽く受け止められればそれはそれで辛いが、重く受け止められると勘違いしてしまいそうだ。

 ――「キンヨウビ」まで、あと二日。