彼女は目を閉じていた。
そうして、様々なことを思い浮かべる。
――長い戦争。
後にリュートの戦いと呼ばれるようになる凄惨な戦争である。
その戦争は、地図にすれば台形をなす最大の大陸で起こった。
その大陸には南と北に分かれて二つの国があり、そのどちらもが神話の時代からあるとされている、巨大な王国であった。北に位置するはジェナムスティ。南に位置するはアルフィーユ。ジェナムスティには連綿と続く山々があり、冬の寒さは厳しく、人々の気性は概ね荒い。対するアルフィーユは広大な平野を有し、からりとした気候で、そこに暮らす人々の性格は穏やかなものである。
全く違う性格を持つ二つの国ではあるが、建国の時代から大きな争いを起こしたことがなかった。
だが、それが変わってしまったのは、五年前。
ひときわ寒い冬の出来事であった。
北に不穏な空気があるというので隠密師を遣って警戒していたアルフィーユであったが、ある日その警戒の目もむなしく、宣戦布告のないままにジェナムスティから大軍が流れ込んできたのだ。臨戦態勢ではなかったアルフィーユは、開戦当初、苦戦を強いられた。
ジェナムスティとアルフィーユに渡って広がるリュート平野を挟んだ戦争は、冬ということもあってすさまじい被害を生んだ。死傷者は兵士だけではなく周辺住民にまで及び、滅んだ村も一つや二つではない。両者譲ることのなかったその戦争は、結局半年ものあいだ続き、停戦条約を結ぶことで一応は終結した。
両者ともに甚大な被害を被り、それから一年の間は和平調停もあり、平和が続いた。
事態が急変したのは次の年の、冬。
アルフィーユ内で国王の暗殺未遂事件が起こった。
下手人はジェナムスティの者で、それを理由に再び開戦。
やはり決定的な優劣は決まらず、停戦。
そうして最初の開戦からわずか五年の間に、ジェナムスティとアルフィーユは四度も矛を交えた。
大地は悲鳴をあげていた。
剣を振りかざし、槍で突き、弓を引き絞り、騎馬と騎馬がぶつかり合う。
戦いの地は血に赤黒く染まり、錆びた鉄のような血なまぐさい匂いがあたり一帯に満ち、誇らしげに揺れていた可憐な花々は涙を流すかのようにはらはらと枯れていく。
そして、どこかですすり泣く声が、また。
どうして争い続けることをやめられないのだろう。
どうして争い続けることの愚かさに気付かないのだろう。
争いは憎しみを生み、留まることを知らない。
どうして、罪のない者たちの命が奪われていき、残された者たちは必死になって明日も知れぬ毎日を生きていかなければならないのだろう。
どうして。
この大地はまるで冬のよう。
冬の白い女王が、争う愚かな者たちをせせら笑う。そして泣き声は白い大地に吸い込まれていく。
春は一体いつになればやってくるのだろう。
この地に生きる人々は、いつになれば心から笑うことができるのだろう。
争わず。悲しまず。いつでも笑っていられるように。いつでも一緒にいられるように。
泣く人々の誰もが、願った。
あまねくこの世界を創造したという女神に、祈りを捧げた。
人々が滅びゆく運命にあるというのなら、それで構わない。
けれど、人がそれほど愚かな生き物ではないのならば。少しだけでも幸せを創り出すことができる者たちならば。
終わりなきこの戦争に終止符を打つすべを。
どうか、どうか。
もう誰も、愛する者を失って泣くことのないように。
彼女はそっと目を開けた。
白い、真っ白な光が視界をじわじわと埋めていく。
目を開けているにもかかわらず、真っ白な光は彼女の世界を奪っていく。
けれど、それは彼女にとって慣れたものであった。
彼女、母なる女神の娘である巫女は、鮮烈な光が収まっていくのを感じながら、唇を動かした。
彼女の紡ぐ言葉が、預言となる。
『──いつか、』
光輝く、夢のような奇跡が起きると。誰もが、そう信じている。
ともに笑い、ともに泣き、ともに生きる、この地に生きる人々が、争うことのない幸せを知る日が来ると。
『いつか、現れるでしょう』
冬の女神に支配されたこの地を解き放ち、優しい春の風を呼び込むために。
『運命を変える力を持ち、春を誘う者が……』
その小さな手では守れないと己の無力を嘆き。
その細い足では立ち上がれないと己の弱さを恥じ。
一人では何もできないのだと、絶望し。
けれど精一杯その手を伸ばし、その足で大地を踏みしめ、闇に溶ける髪をなびかせ、泣きながら人の幸せを祈る。
この世界の誰もが持ち得ない、漆黒をその瞳に宿して。
戦争という病に取り憑かれたこの世界へと。
ふわりと、浮き上がっていた彼女の髪が元通りの場所に落ち着く。
完全に白い光は消えてしまった。
けれど彼女の神々しさがなくなってしまうことはない。
未来を知ることのできる巫女は、いっそ悲しいほどに気高く、預言をなした。
『いつか、いつか──フィアラの咲く、暖かい春に』
厳かな彼女の声は決して大きくはなかった。
けれど耳にした者の心にじんわりとしみこんでいき、そうして澄み切った空へと舞い上がって溶けていく。
柔らかな春の空を、一羽の白い鳥が横切っていった。