灼けるように足の傷が痛む。抉られた肩はもう感覚がなかった。
 この王城へたどり着くまで寒さに震えていた凛華は、今は傷口の熱さと出血による寒さを同時に感じていた。
「……は、はっ……」
 ショックを起こしているのか息が上がり、目眩がする。
 視界が一瞬歪んで凛華はよろけたが、気力のみで何とか踏ん張った。
 まずいな、と自分でもそう思う。テニグで理不尽な暴力に晒された時も辛かったが、あの時は今とは違って出血を伴わない傷が多かった。
 けれどこんなところで膝をつくわけにはいかない。
 凛華は必死でティオキアから視線を逸らさないよう、自身を奮い立たせた。
「兵たちを止めなさい」
 唇が震えて情けない声しか出なかったが、それでも一言一言に力を込めて、凛華は目の前にいるティオキアに命じた。
 相変わらず薄笑いを浮かべたままのティオキアはふんと鼻を鳴らして、特段感情を動かされたような様子はない。
「戦争は、ひどい、です。そこに生きる人たちの全てを奪って……後に残るのは血と涙だけ」

 凛華は戦争を知らない。
 凛華の祖父は戦争を経験した世代だが、凛華にとって戦争とは歴史の教科書の中に過去の出来事としてつづられるものであって、その悲惨さを知っているだけだ。何故もっと早く現れなかったのかと凛華を激しく罵った彼女のように、大切な人を戦争で亡くしたこともない。
 ただ、知っている。
 ある日突然大好きな人の命が消えてしまうことの恐ろしさを。
 昨日まで優しく笑って、凛華の頭を撫でてくれた手が、冷たくなっていく時の絶望を。
 人間とはとても思えないあの冷たい身体。凛華の名を呼ぶ声も、笑いかけてくれる目も、もう、二度と戻らない。
 人は死んでしまうと、それまでなのだ。
 その人の時間は永遠に止まってしまうのに、生きている凛華の時間だけが無情に過ぎていく。
 時間の流れと共に、その人のいない世界が当然になってしまう。忘れまいと心に焼き付けた笑顔も言葉も、段々と薄れ、曖昧になっていく。そしていつかきっと忘れてしまうのだろう。

 今この世界で起きている戦争は、あの絶望を、たくさんの人が味わうということだ。
 天災ならば仕方ないと自分自身に言い聞かせることもできる。自然の驚異の前には、人なんてひとたまりもないのだから。けれど、これは人災だ。誰かが故意をもって起こし、災いをもたらしている。
 天災は止められない。だが人災ならば止められる。

 人の心を動かすのは人だ。
 十数年しか生きていないただの女子高生だった凛華の言葉には、何の力もない。
 “救世主”になんてなれない。だだをこねる子供のように声高に言い募ることしかできない。
 それも全て、誰かのためというきれいな感情からではなく、自分がこの世界にいたいから、誰かに認めてもらいたいから、というひどく利己的な感情からなのだから、きっとこの世界の人々が望んでいたような“預言された少女”にはほど遠い。
 それでも、凛華にできることはそれしかないから。ただ拙い言葉を精一杯口にするしかできないから。
 だからどれだけ目の前の男が恐ろしくても、凛華は退かない。


「あなたは! ……こんな安全な場所から、戦争を眺めているだけじゃないですか! そこで死んでいく人たちや、残された人の気持ちなんて……っ!」
 残される者の気持ちを知っているのなら、戦争を起こそうとは思わないだろうと、凛華は思う。
 自分があんな哀しい想いをするのはもう嫌だし、他の人が哀しむのも嫌だ。
「……あなたには分からないんだ」
 分からないから、こんなことができるのだ。

 弱々しく呟いた言葉だったが、しんとした地下室では重く響いた。

 拙い詰りの言葉に、ティオキアは初めてぴくりと眉を動かす。
 初めて想いを寄せたリリスや、正妃として傍らにあったサリアを亡くした彼もまた、凛華の言う「残された人」の一人だったからだ。
 人生経験のない子供らしい甘い考えに、嘲りをもって切り返す。
「残された者の気持ちなど、知っている」
 だからこそリリスの心を捕らえて放さなかったセリアンを、その命を代償に生まれてきたセシアを、サリアに狂気をもたらした自分自身を、何もかもが上手くいかない不条理な世界を恨んだ。
 たくさんのものがこの両手から滑り落ちていく。それなのにティオキアだけがこうして一人生きている。
 そのむなしさがティオキアにも歪んだ心をもたらし、狂気を孕んで戦争に駆り立てる。
 破壊衝動、とでも言えばいいのか。手に触れるもの全てを壁に向かって放り投げて壊したくなるような、心をかきむしられるような苛立ちが、もう何年も収まらない。
 ティオキアを受け入れ、「何でも言え」と夏の花のように明るく笑ってくれたかつての親友たちは、もういない。「精一杯尽くさせていただきます」と控えめに微笑んだ妻も、もういない。
 もう誰もティオキアの狂気を止められない。
 頬を引っぱたいて、正面から怒鳴りつけるような人が、いないのだ。


「――知っているから、何もかも、いらないのだ」

 のうのうと生きている自分自身さえも。


 ああ、と凛華は小さく声をもらした。
 駄目だ。凛華のような小娘の言葉など、彼の心には届かない。
 彼は保身を考えない。冬に戦争を起こす国王は愚かだ。凛華が学んだこの世界の歴史でも、過去、そうした王たちは最後には国民の裁きを受けた。けれど、ティオキアはそれを恐れてはいない。だからこそ厄介で、こんな弱々しい言葉では彼を止められない。
 彼の狂気を、戦争を、止められない。

「私の邪魔をする“預言された少女”も!」

 不意に顎をきつく掴まれて壁に押しつけられ、凛華は低く呻いた。それでも何とか手にした剣を手放すことはなかったけれど、後頭部を打ち付けて目眩が更にひどくなった。口の中にたまっていた唾が誤って気管に入ってしまい、かふっと苦しい咳が飛び出す。
 ぼやけた視界の中、凍てついた冷たい眼光が凛華に向けられている。
 先ほど投げつけられたナイフよりもいくらか大ぶりの短剣がゆっくりと喉元に押しつけられるのを、なすすべもなく見ていることしかできなかった。
(……ここで殺されたらセシアは哀しむだろうな……)
 いやだな、と思う。
 セシアはきっと、凛華よりも多くの死に触れて育ってきた人間だろう。この世界は凛華のいた世界よりもとても死が身近だ。
 気の遠くなるような数の死者に凛華も仲間入りしてしまえば、きっと、他の人よりも少しくらいは、セシアは哀しんでくれるだろう。それくらいには想われていた。けれどちっとも嬉しくなんてない。彼を哀しませるようなことはしたくない。
 だから死にたくないと思うのに、満身創痍とまではいかなくとももう身体はぼろぼろで、老いたとは言え男性であるティオキアを押しのけるほどの体力はなさそうだ。

「もう、手遅れだ」

 凛華の顎を掴んだまま、ティオキアはうっそりと暗く笑った。喉に押しつけられた剣は引かれることはないが、逃げられそうもない。
「もう、手遅れなのだ。知っているか? 明日にはティーレが参戦する。そしていずれマチェスも。国王不在となったアルフィーユは、どこまで持ちこたえられるものかな」
「……っ」
 ティーレもマチェスも、アルフィーユやジェナムスティと比べれば取るに足りないような国々だが、軍事力の拮抗する二大国にとっては、なけなしのものであっても均衡を崩すもとになるものだ。
 いくらロシオルを始めとする騎士たちが大陸に名を馳せる精鋭たちでも、数には勝てない。
「間もなくアルフィーユは敗北する! 冬の敗者は惨めなものだろうよ! 大国の栄華は、ジェナムスティだけのものになるのだ」
 ぎしりと顎の骨が軋んだ気がした。
 どれだけ勇ましい言葉を口にしようと、その手に剣を取ろうとも、凛華は華奢な少女でとても脆い。ともすればこのまま顎を砕かれてしまいそうなほどに。
「……一つは国王の死。……そして二つ目のきっかけは、“預言された少女”の死、といったところか」
 喉の奥で笑ったティオキアが、凛華の顎から手を離し、ついで結っていた長い黒髪を遠慮なしに強く引っ張った。
「……た……っ!」
「目障りだ」

 ぶつ、という音が耳元でした。
 その瞬間、引っ張られる痛みは消え、頭が軽くなる。
 呆然と目を見開く凛華が見たものは、ティオキアの手にある髪だった。

「ぁ……」

 物心ついた時からずっと綺麗に手入れをしていた。父親が、母親に似ていると散々褒めちぎってくれた、自慢の髪だった。
 大切に伸ばした、自分の中で唯一気に入っている所だったのに。
 女性が髪を切られることほど辛いことはない、という台詞は誰のものだっただろうか。――その通りだ。痛くはないし、血も出ない。けれど、確かに身体の一部であったものが乱暴に散切りにされるというのは、紛れもない暴力だ。
 結い紐が滑り落ち、短く不揃いに切られた髪がぱさりと頬にあたった瞬間、こみ上げる涙と恐怖に鼻の奥がつんと痛む。

 みすぼらしくなった凛華に再び剣が向けられる。
 髪を切ったくらいでは剣の切れ味は全く落ちない。次に掻ききられるのは、この喉だろう。
 いやだ、と凛華は呟いた。それは上手く声にならないほど掠れていた。
「……く、ない」
 デノンが見ている。彼は本当に丸腰だから、手を出せない。もしかしたら始めから出す気などなくて、この場におびき出したのかもしれない、と凛華は彼に疑いを寄せた。
「ゃ……だ……」
 ティオキアが剣を押しつける。ぷつりと皮膚が裂ける音がした。

「――死にたくないっ!!」

 ばさ、と羽音がした。

「うっ!」
 どこから現れたのか、見慣れた白い小鳥がティオキアの顔面に向かって突っ込んでいる。
「ティ……っ」
 名前を呼ぼうとして、凛華は途端に咳き込んだ。とろりと生温かいものが喉を伝っている。
 その間にも、ティオンはしつこく突き回してティオキアの顔から離れようとしない。
「ぐっ、この……っ!」
「ティオン!」
 ティオキアの手にティオンが握られている。その手が振り上げられると同時に、凛華はこれまでほとんど力の入らなかった身体を無理矢理に動かした。
「やめてぇ……っ!!」
 ティオンは小鳥だ。人間である凛華よりもずっと弱い生き物で、この硬い石床に男性の力で叩きつけられたら間違いなく死んでしまう。
 もう何も、失いたくない。
 無我夢中で動いた。

 手に響いた衝撃と、低いうめき声と、肉を貫く確かな感触。

 はあはあとせわしなく浅い呼吸をし、凛華は剣を引き抜いた。
 冷たい石床にぱたぱたと赤い滴が滴り落ちる。凛華のものではない。左腕をだらりと下げたティオキアの血だ。
 最強の騎士と謳われたロシオルの元で剣の扱い方を学んで尚、凛華は人を傷つけることはしたくないと思っていた。凛華の剣はあくまで自分の身を守るものであって、積極的に人を傷つけるためのものではなかった。
 それでは駄目だと、死にたくないのならば迷わずに剣を振るえと、戦場を発つ時に、ロシオルに言われた。
 死にたくなかった。そしてティオンを殺されたくなかった。
 だから凛華は、人を傷つけたことを、後悔しない。
「ティオン、ありがとう」
 ティオキアから目を逸らすことなく、助けてくれたティオンに声をかける。ばさりと応じる羽音が聞こえた。
 剣を持っていないほうの手で喉元を拭うと、鋭い痛みはあったが大した血の量ではない。

「アルフィーユは、まだ負けた訳じゃない」
 ティーレやマチェスが参戦するというのならば話は別だが、ジェナムスティとアルフィーユの戦力は互角だと聞いている。これまでの幾度とない戦争も、一方が他方を占領するという形ではなく、和平条約という形で幕が引かれていた。
「みんな、必死になって戦ってます。……簡単に、諦めたりしない!」
 だから自分も諦めないのだと、凛華は奥歯を噛みしめた。
 たとえこの手で人を傷つけても、髪を切られても、出立するだろう軍を止めるまでは諦めない。そのために凛華はこの世界にいることを許されているのだから。
「この戦争を続ける意味は、何ですか?」
「――い」
「領土を広げるため? 世界一の大国に君臨するため? ……それとも、セシアの命を奪うため?」
「――さい」
「セシアのお母さん……リリスさんは、あなたを選ばなかった。だって、あなたよりも好きな人がいたから。だけど、リリスさんはあなたの好きな人だったんでしょう? それならどうして、」
「うるさい!」
「どうして! 恋した人の国を、その人のたった一人の子供を、滅ぼそうとするんですか!? 好きだったならどうして!」
「黙れ!!」
「――黙りませんっ!!」
 自分でも驚くほどの大声を上げて、凛華はティオキアを屹然と見据えた。
「……この世界に来て、わたしはたくさんの人と知り合って、たくさんの思い出を作りました。わたし、セシアが好きです。だからセシアのいるアルフィーユが好きです。戦争なんてアルフィーユにあってほしくない。大切にしたいんです」
 凛華の手でできることはほんのわずかなことばかりだ。
 けれどセシアのためなら何だってするし、何だってしたい。そうして彼が嬉しく思ってくれるなら、笑ってくれるなら、それだけで幸せな気分になれる。
 大好きなセシアが大切にしているアルフィーユも、同じように大切にしたいのだ。
「ティオキア王。好きなら、大切にしたいと思いませんか。好きな人には、ずっと笑っていて欲しくないですか? ……たとえその人が自分のことを好きになってくれなくても、側にはいてくれなくても、幸せでいてくれれば……笑っていてくれれば、嬉しくないですか?」
 凛華の本心からの言葉だったが、それは想いを寄せた男性に応えられ、大切にされている少女らしい幼い言葉だった。
 凛華は胸が苦しくなるほどの恋が破れた瞬間の痛みも、幸せそうに他人に寄り添う相手をただ見ているだけの辛さも、経験したことがない。
 愛したからこそ、その国もろとも消し去ってしまいたいほどの想いなど、凛華は知らない。
 皮肉っぽく唇を歪めたティオキアは、凛華に言い返そうと唇を開いた。
 だがその時、階段を駆け下りてくる慌ただしい足音が響き、ティオキアの言葉は凛華に届くことなく掻き消える。

「王、王陛下!」

 ティオキアを呼ぶ男性の声に、凛華の頭の中に「絶体絶命のピンチ」というお決まりの言葉が浮かぶ。
 デノンは武器を持っていないし、一応凛華のめちゃくちゃな取引に応じてくれたから、多分敵にカウントしなくても良い。けれど別の軍人が現れたら、凛華はティオキアとその軍人と、両方に対処しなければいけなくなる。ただでさえ出血に足下がおぼつかないのに、無理だ。
 そんなことを考えている間にも、足音と声の主は、凛華がここに来るまでに通ってきた狭い通路を渡り終えたらしかった。
「陛下!」
 現れたのは、髪も服も乱れたままの、若い兵士だった。
 彼は“預言された少女”である黒髪の凛華を見て驚きに目を瞠ったが、斬りかかってはこなかった。その代わりに、許しを請うようにその場に跪き、ティオキアに頭を下げる。
「誰が入って良いと言った」
 苛立たしげにティオキアが言うのに、びくりと兵士の肩がはねる。
「も、申し訳ありません! ですが、急ぎお伝えしなければならないことがございまして……っ」
 口を挟むこともできずただその場に立っていた凛華は、ふとその兵士の声に聞き覚えがあることに気付いた。
 かびくさい地下牢の、腐敗したディーンの遺体の側で同じ声を聞いた。
 薄気味悪そうに足早に歩きながら、言った。「アルフィーユの終わりだ」と。

 嫌だ、聞きたくない、と凛華は喚きそうになった。
 セシアが死んだと、もういないと、そんな報告など聞きたくない。

「あ、アルフィーユの、国王が……っ」

 びくんと凛華の肩が揺れた。
(言わないで、言わないで……っ!)
 聞いてしまったらもう、立てなくなってしまうだろうから。

 あれだけ敵から目を逸らしてはならないと厳しくロシオルに教えられていた凛華だったが、事実を突きつけられる恐怖に思わず目を閉じてしまった。
 けれど少しして、ゆるゆると瞼を押し上げる。
「……え?」
 兵士は今何と言っただろうか。
 凛華の願望が聞かせた幻聴だろうか。

 ――国王が、生きています。

 確かにそう聞こえた。
 そしてやっと気付く。この兵士は凛華よりも先に王城内に入り、ティオキアに報告に行った。凛華はあれからくじけそうになったりデノンと鉢合わせてしまったりと、大幅に時間をロスしている。地下牢で彼らが報告すると言っていた「暗殺遂行」の連絡は既にティオキアに渡っていたはず。だからティオキアも先ほど凛華に、「王は不在だ」と言ったのだ。もうその報告を受けていたからこその台詞だろう。
 けれど再びこの兵士が報告に上がっているということは、暗殺遂行の一報ではなく、何か別の報せがあるということで。
 そう、先ほど凛華の耳に届いた、暗殺に失敗したというような。

(い……きて、る……)

 かくんと膝から力が抜け落ち、凛華は冷たい石床に膝をついた。思わぬ一報に安堵したためだ。
 セシアは生きている。ジェナムスティが計画した暗殺は失敗していた。
 兵士が暗殺遂行を報告したくらいだから、無傷ということはないだろうが、それでもセシアは死んでいない。
 胸の奥が熱くなる。涙腺が刺激されて鼻の奥が痛み、じわりと視界が潤む。嗚咽を上げて泣きそうになるのを、凛華は必死で堪えた。
 今は駄目だ。
 まだここは敵国内で、ティオキアの説得もできていない。
 まだ、涙を流してセシアの生存を喜ぶわけにはいかない。
 本当は今すぐ駆け出してアルフィーユへ帰りたい。そして自分の目で彼の生存を確かめて、思いきり縋りたい。
 一度膝をついてすっかり冷え切った足に何とか力を入れて、よろよろと凛華は立ち上がった。

 まだ終わっていない。

 気を引き締め、改めて周囲を確認する。
 失態を報告しに来た兵士は視線を床に落としたまま王の叱責を待ち、かすかに震えている。
 少し離れたところに控えているデノンは、心なしかほっとした顔つきで、凛華は先ほどほんの少し彼を疑ったことを忘れて、嬉しく思った。デノンはセシアが生きていることに、戦争の被害をこれ以上拡大させることなく終わらせる可能性があることに、心から安堵しているように見える。デノンはおそらく、信じても良い相手だ。
 そしてティオキアは……無表情だった。
 暗殺など一国の王が企てることではない。それはあまりに姑息で、正々堂々と矛を交えるべき国同士の争いにおいては誉められたものではない。そうまでしてアルフィーユを陥れようとしたティオキアの執念はすさまじいと言え、こうして失敗の報せを受けているのに顔色一つ変えないことが、あまりに不自然で空恐ろしい。
 だが直後、すうっとティオキアの目が細くなった気がして、考えるよりも先に凛華は飛び出していた。
 ティオキアの手がかすかに動く。ちかりと鈍く光ったのは、凛華に投げつけられたのと同じナイフの刀身。
「あぶ……っ!!」
 痛みよりも衝撃を強く感じ、凛華は歯を食いしばった。

「な……っ」
 驚きに声を上げたのはティオキアではなく、平伏していた兵士だ。
 彼の目の前に手を広げて立っているのは、ティオキアが敵視し、その存在を疎んだ“預言された少女”だ。
 腰など彼の両手で作る輪ほどしかなさそうな華奢な、まさに少女と言うべき年齢の子供が、彼に背を向け、ティオキアに対峙しているふうだった。その細い腕にはナイフが突き立てられている。
 その腕が丁度護るように差し出されたのは、彼の左胸の前だ。もしこの腕がなければナイフは彼の心臓を貫き、絶命していたことだろう。大失態を演じ、ティオキアの不興を買ってしまったのだから当然だ。
 何故彼女が自分を助けるのかと呆然と目を瞠る彼に、凛華は振り返ることなく声を上げた。
「行って!」
「えっ」
「早く! 死にたくないでしょう!? 早く、行ってください!!」
 怒鳴り声に近いその声に、茫然自失状態から脱した彼は慌てて立ち上がり、足をもつれさせながら走り去った。
 その足音を聞いて、凛華はほっと小さく息をつく。ティオキアが放ったナイフは凛華の腕に刺さる一本だけではなかったが、あの兵士は残りのナイフもあたらずに済んだのだろう。
 火事場の馬鹿力とはまさにこのことだろうなと、どうでも良いことを頭の隅で考える。
 先ほどまでもう動けないと思っていた重い脚も、上げられないと思っていた腕も、動いた。
 腕は痛かったが、良かったと思った。
 彼が助かって本当に良かった。
 彼は凛華の知人ではない。セシアの守るアルフィーユの人間でもない。それでも死んで欲しくなかった。
 この考えが甘いものだと知っているけれど。


 痛みも寒気も、朦朧もうろうとしてきたためか、もうどうでも良くなってきた。
 アルフィーユに攻め入ろうとするジェナムスティの人を助けて、そのために自身が命を落としたら、間抜けだとアルフィーユの人々は思うだろうか。助ける相手が違うと、救うべきは一人の人間ではなく戦場で対峙する多くの兵士だと、呆れられるだろか。
 思わず、そんな場合ではないのに、凛華は小さく笑みを浮かべていた。

「何故、見も知らぬ赤の他人を庇う」

 遠くでティオキアが何か言っている。
 耳鳴りがひどいのか、何を言っているのかよく分からない。
 ただひどくティオキアが驚いたような、そして傷ついたような表情をしていて、何故だろう、と凛華はぼんやり思う。彼のこの顔を、いつかどこかで見たような気がするのだ。
「他人が死んだところで哀しんでやる義理はないだろう。助かったところで、何の価値がある?」
 凛華を殺そうとするほど激昂していた先ほどとは違い、落ち着いた、平坦な声ではあったけれど、どうしてだか、先ほどよりもずっと剥き出しの感情を向けられている気がして、霞む凛華は目をこらした。
 その眼前に立つだけで足が震えるほど恐ろしかったティオキアは、そこにはいなかった。
 そこにいたのは、以前夢に現れた青年期の彼とよく似た人。
 精一杯の想いがリリスに届かず、揺れるフィアラをぼんやりと眺めていた時の彼のような――今にも泣き出しそうな顔をした、脆い人。

 何が彼の心の琴線に触れたのか、分からない。
 けれどその時何となく凛華は彼を理解した。
 きっと彼は、他人に向けられる愛情や優しさに慣れていないのだ。それまで本気で彼を心配し、彼に怒鳴りつけ、彼の友人であったのは多分リリスとセリアンだけだっただろうから。だから不器用で、サリアから向けられる愛情に上手く応えられなかった。
 そしてリリスもサリアも失い、友人であったはずのセリアンに憎しみを抱いて。
 とても、哀しい人だ。

「何故、関係ない者を、自らを傷つけてまで守ろうとする……?」
 その声はかすかに震えていて、弱々しく、そこに国王の威厳はかけらもない。
 凛華はいくつも年上のこの王に、縋られているような気持ちになり、困惑した。
 けれど熱っぽい息を吐き出して、そっと彼と視線を合わせ、吐息に震える声で応えた。
「……死んでも構わないと思う人は、わたしにはいません……」
 甘いと言われても仕方のない考えだと思う。復讐に駆られるほどの憎しみなど、凛華は抱いたことがない。綺麗事に過ぎないと分かってはいるけれど、凛華はこの考え方で生きてきたのだ。
「人を大切にするように教えられてきたから……生きていて欲しいんです。……もし殺されそうになったら、わたしだって死にたくないから、自分にできるだけの反撃はします。だけど、人は死んでしまったらそれでおしまいだから。もう、会えないから」
 優しい笑顔も、頬を撫でる温かい掌も、全て失われてしまうから。

「だからわたしは……あなたにだって、生きていて欲しいんです」

 戦争を止めたくて、兵士たちを戦線に遣り、この王城でそれを見ているティオキアに憤りを感じてはいた。
 だが凛華は一度だって、彼をこの手で殺してやろうとは、死んで欲しいとは、思わなかった。


 視界が霞む。
 自分がどこを見ているのか、もう分からない。
 そんな視界の中、立ちつくすティオキアの向こうに、凛華は懐かしい父親の笑顔を見た気がした。

『凛華。お前は父さんの自慢の娘だ』

 ――お父さん。
 本当は誰より、お父さんに生きていて欲しかった。