幅の狭い通路らしきその場所には、整然と、それ故に不気味に、何枚もの肖像画が飾られていた。向かって左手は男性、右手は女性とくっきり区分けされている。
 最も手前、扉に近い場所の肖像画がひときわ大きく、そして他のものよりもぐっと古めかしい。使われている色数も少なく、描かれている人物の衣装が見慣れないものだから、この人物が一番古い人なのだろうなと凛華は見当を付けた。
 緻密な彫りが施されているくすんだ金の枠。その少し下、年数と共に彫られている文字は人名。その名前に見覚えはないが、手に錫杖しゃくじょうを持ち、たくさんの宝石がついた重そうな宝冠を被っているこの人物は、おそらく初代のジェナムスティ国王。そしてその向かいに飾られた豪華なドレスの貴婦人はその妃だった人だろう。
 ここは肖像の間だったのだ。それもここに至るまでの道程を考えれば、公的なものではなくむしろ私的な。

 何故こんなところにと訝しんで凛華が視線を上げれば、デノンは手振りで奥へと促し、更に足を進めた。
 彼について歩くが、どうも誰かに見られているような気持ちになり落ち着かない。夜に学校の美術室に入るとこんな感じかな、と凛華はびくびくしながら、なるべく肖像画の人物たちと顔を合わせないよう視線を落とした。
 そしていくつもの肖像画を過ぎた頃、徐々に新しくなる枠を見ていて、ふとある名前に気付いた。
 『サリア』
(あ……亡くなった第一妃の名前だ……)
 顔を上げると、若くして亡くなったというその女性の肖像画と、目が合ったような錯覚に捕らわれた。
 似ている、という話を耳にしたことがあったが、似ているだろうか?
 あくまで画家の手による絵だから、実像を知ることはできないが、儚げに微笑むこの女性が自分に似ているとは思えない。むしろ、あの悪趣味な暗殺者の方が余程自分と似ていたと思う。けれどこれは実物かどうかの差によるものかもしれないし、年齢に差があるからかもしれない。
 ここにある肖像画は全て故人を偲ぶためのものなのだろう。第一妃の肖像画が一番新しく、ティオキア王のものも、凛華の知るもう一人の妃、ティセルのものも見あたらなかった。
 そこから先には肖像画はなく、ただ通路だけが長く伸びている。見渡す限り、デノンと凛華以外に人はいない。
 もう一度デノンに視線を遣ると、彼は唐突にサリア王妃の肖像画に手を伸ばした。首を傾げる凛華の前で、枠を掴んだデノンがそのままそれを外すように手前に引く。すると肖像画ごと、静かに一部の壁が動いた。凛華は唖然としてただの壁だったその部分を見つめる。今はすっかり一つの扉だ。何だもう、ここは。忍者屋敷か。王城には仕掛けがある。そう聞いていたけれど、驚きを隠せない。
 そしてデノンは、驚愕する凛華を余所に、その先の暗がりに声を投げかけた。
「王。客人です」
(……え?)
 思わずデノンの影から出て見てみれば、そこには確かに、ティオキア王がいた。

 何度か姿絵で見たこの国の王。
 追体験した、リリスに恋い焦がれ、想いが叶わずに立ちつくすあの夢。
 何度もアルフィーユへの侵攻を果たし、数多くの人を戦争に駆り立てた非道の王。

 彼が、この国の――頂点に君臨する支配者。

 王とは、こういう者を言うのだと思った。
 セシアもアルフィーユという一国の国王だが、年が近く、そして彼は凛華に屈託なく接してくれて、王の一面よりも普通の青年の一面に触れる方が多かった。
 けれど王とは、誰をも近づけないような圧倒的な貫禄を有し、厳格で一切の甘えを許さない、ともすれば傲慢な……そして陰鬱な、そんな者だ。
 凛華の顔を見て乾いた笑いを漏らし、次いで鋭い眼光で見つめてくるその男は、確かに王だった。
 取り立てて巨漢というわけでも、強面というわけでもない。夢で見た彼は線の細い青年で、そのまま年を経た彼は、偉丈夫というよりは神経質な学者のように見える。剣の腕だけで言えば、おそらく師匠であるロシオルの方が勝っているだろう。
 それなのに、知らず足が震える。彼が恐ろしくて堪らない。
 ここから、彼の前から一刻も早く逃げ出したい。
 怖い――その目が、その表情が、その存在が、とても恐ろしい。

 恐怖に負けそうになる凛華の前で、彼は、ティオキアは。

「殺せ」

 短く、冷たい声でそう告げた。

 重々しく響いたその言葉に弾かれたように我に返り、凛華は手にした抜き身の剣を強く握った。
 他にも兵士がいるのかと思ったのだが、どうやら違ったらしく、ティオキアはデノンに向かって命じたようだった。そのデノンが微動だにしないので、ティオキアが不審そうに眉を上げる。
「どうした。早くしろ」
「いいえ。できません」
 淡々とデノンが答える。
「何故だ? お前の腕ならば容易いことであろう」
「……剣を奪われましたので」
 さらりと返すデノンに、凛華は奪ってません、と言いたくなったが、黙っておいた。
 この通路に入る前、デノンが身につけていた短剣を無造作に投げ捨てていたのだが、まさか凛華が彼をねじ伏せ、無理矢理ここに案内させたという設定になっているのか。体格差や剣の腕からしてかなり無茶な設定である。
 平然と偽りを述べるデノンにいっそ感心しつつ、凛華は剣を構え直し、できるだけ毅然とティオキアを睨んだ。

 ここに至るまでに多くの時間を費やし、凛華自身疲弊している。細身の剣でもずしりと重く感じた。
 それでも深く息を吸い、重心を低くして、隙を作らないようにする。
 恐れがなくなったわけではなかった。けれど臨界点を超えれば、むしろ強気になるものだ。
 声が上擦らないよう、ゆっくりと、凛華は声を発した。
「ティオキア王。……リュート平野へ向かった軍を、止めてください。これから向かう者も、全て」
 彼ならそれができる。国王である彼ならば。

 しばらく無言で凛華を睥睨していたティオキアの手が、唐突に動いた。
 え、と凛華が不思議に思う暇もなく、次の瞬間、凛華は悲鳴を必死で噛み殺した。
「い、ぐ……っ!」
 避けることができなかった。
 肩と左足を抉ったのは鋭利な小型のナイフ。
 すぐさま次のナイフが放たれ、凛華は持ち前の反射神経でとっさに一本を避け、もう一本を剣で逸らした。避けた一本は耳元を通り抜け、遠くに落ちる金属音が遅れて届く。

 右肩を抉ったナイフが身動きすると共に落ちた。肩にティオンを乗せていなくて良かったけれど、溢れだした血で服がじっとりと肌に張り付き始める。左足からも血が流れ出る。三本目のナイフは髪を切り落としただけだったが、負った二ヶ所の傷が燃え上がるように痛み出した。
(痛い……!!)
 叫び出しそうなほどの痛みなど、これまで経験したことはなかった。
 子供の頃転んで膝を擦りむいた時も痛かったけれど、そんなものの比ではない。
 口を開けば痛いと叫んでしまいそうで、凛華はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
 思わず浮かんだ涙で視界が滲む。その歪んだ視界の中で、ナイフを投げた張本人であるティオキアが醒めた目で凛華を見ている。人ではなく、物を観察するような視線に、背筋が震えた。
 痛い。うずくまって傷口を押さえたい。
 けれどそうするためには剣を手放さなければならない。それはしてはならない。
 ここで死んだら。
 そう考え、凛華は必死で痛みを堪え、ティオキアから目を離さなかった。
「兵を、止めてください」
 ティオキアは震える声で尚も言い募る凛華を、つまらなそうに眺めて、薄く笑った。

 足が痛い。
 そう言えば初めてアルフィーユに来た時も足に怪我をした。ロシオルたちに追いかけられ、恐怖心から逃げ回り、棘の中に突っ込んでしまった。けれどあの時は棘が刺さっただけで、その上セシアが支えてくれたからそれ以上の傷を負うことはなかった。
 今は、誰も支えてくれない。セシアはここにはいないのだ。
(セシア……)

 まだ泣かない。ここでは泣かない。
 まだ負けるものか。こんなところで死にたくない。

(わたしは、セシアの所に帰るんだから)

「兵を止めなさい!」

 初めてした命令は、痛苦に上擦り、ひどく弱々しくて、虚勢を張っているようにしか聞こえなかっただろう。
 ただの高校生だった自分には特別な力などない。
 ただここで声を張り上げることしかできない。
 本当に、無力だ。

 それでも、「預言された少女」としてこの世界に留まるためなら、無力を嘆いているだけでは駄目なのだ。







 高らかな靴音を立てて廊下を走るティセルを、擦れ違う者が何事かと目を瞠って見ている。
 成人した女性がはしたなく裾を翻して歩幅を大きく取るものではないし、そもそもここは小さいとは言え歴とした宮廷内である。非常時でもないのにこうした振る舞いをするのは許されない場所だ。
 それでも誰も彼女を咎めなかった。
 彼女を咎められる者がいないからだ。
 ティセルは学問の国マチェスの最高学術機関、王立学院の理事を表す肩章を身につけており、また彼女が大国ジェナムスティの現国王へ嫁した王妃であることは宮廷内の誰もが知るところである。
 ――彼女が現国王の実の娘であると知る者は、ほとんどいないけれど。

 見慣れた扉を目にしたティセルはようやく駆けるのをやめ、せわしなく上下する肩を落ち着かせることに苦労しながら、扉を守る衛兵に近寄った。
「学院の者です。陛下にお目通りを」
 差し出した身分証はマチェスの者であれば誰しも敬意を向ける叡智の証。
 すぐさま開かれた扉をくぐりながら、ティセルは久しぶりに目にした両親の姿から憔悴を感じ取り、胸が痛んだ。
「陛下ならびに妃殿下、このような略装で失礼します。王立学院から火急の用件で参りました」
 ジェナムスティに嫁す前日目にした父母と同じ人物だとは思えなかった。常に穏やかな笑みを湛えていた父は懊悩が窺える顔色の悪さで、たおやかな母はよりいっそう細くなり、随分とやつれたように見えた。
 ああ、やはり。彼らは戦争に巻き込まれたことを、全ての民を巻き込んだことを、こんなにも悔いている。
 中立国であったマチェスに軍事力はあまりない。けれどマチェスが誇る学を以てすれば、恐ろしい兵器を生み出すことも、かつてない戦法を編み出すことも容易い。マチェスが本当に戦争に駆り出されたら――大変なことになる。
 ティセルが、彼らを巻き込んだ。
 先王の子との王位争いを避けるためと、王弟の子でありながら幼い頃より学院で育てられ、政治的に彼らと関わることは一度もなかった。だから妃に望まれた時も、ただマチェスの叡智を欲したからだと、そう思っていた。
 けれど本当は、ティセルは人質だったのだ。
 彼女の存在こそが両親の判断を歪めさせ、この国を戦禍に巻き込もうとしている。
 今なら分かる。
 何故、両親がいとこを押しのけて王位を手にしたのか。ティセルのいとこにあたる先王の子は幼い子供ではない。充分玉座に座るにふさわしかった。けれど議会は彼ではなく、先王の弟を推した。
 もしいとこが王位を手に入れていれば、こんな状況にはならなかった。
 ティセルのように簡単に手に入れられるような“人質”に値する人物は、いとこの周りにはいない。
 ティオキアは彼女を妻に望むだけでなく、マチェスの議会を動かして、最も効率よく“人質”を使えるよう、彼女の両親を国王に仕立て上げた。
 一体彼はいつから考えていたのだろうか。
 マチェスを、いや、マチェスだけではなく数多くの国々を巻き込んで、アルフィーユへ侵攻することを。
 ぞくりと背筋に走った寒気を振り払うように、ティセルは姿勢を正した。
 そしてティオキアの思惑通りに国を誤った方向へ導こうとする両親を見据える。

「久しいな。理事に就任したか」
「ええ。つい昨日、帰国をした折に。ご挨拶が遅れました」
「よい」
 あくまで臣下に対する目を、ティセルは哀しいとは思わなかった。慣れていたから。
 父娘とは思えない淡泊な会話に、王妃が涙ぐんだ。
「……ティセ」
 立ち上がり、娘を抱きしめようと伸ばされたその腕を、ティセルはやんわりと拒んだ。
「妃殿下がわたしのようなものにお触れになるものではありません。わたしは確かに貴女の血を引く者ですが、貴女の名を辱めることしかできませんでした」
 「お母様」と呼んだことは、一度もない。
 本当はその腕にすがり、涙が枯れるまで泣き崩れたい。国を巻き込んでごめんなさいと、声をらして謝りたい。
 けれどそうしたところで、マチェスとアルフィーユの関係は変わらない。
「わたしには、貴女の娘だと名乗る資格は」
 目を伏せゆるく首を振ると、王妃は青ざめた顔を両手で覆った。控えていた女官が慌てて駆け寄り、王妃を支えて椅子に座らせる。
 それを見届けてから、ティセルは王へと視線を移し、手にしていた書状をぎゅっと握りしめて口を開いた。
「陛下、用と言いますのは……」
 そこで王の後方にいた侍従長が進み出たので、ティセルは書状を彼に渡し、王がそれに目を通し終わるまで待った。
 読み終えた彼は動揺の色を見せることなく、真っ直ぐにティセルを見つめる。

「どうぞお許しを」

「理事、これがどれだけ難しい問題か分かっているだろう」
「はい。ですが此度のアルフィーユとの条約破棄は、マチェスにとっては何ら利益とはなりません。いえ、それどころか害悪しかもたらさない。アルフィーユは我が国の最大の後ろ盾でもありました。あの国を敵に回せば、この国など」
 簡単に捻り潰されてしまうだろう。
 大陸の大部分を占める強国は北のジェナムスティと南のアルフィーユ。どちらも小さな国家から始まり、幾度も矛を交えながら他の追随を許さない大国へと変わった。
 そんな二強国に極めて近く位置しながらもマチェスが国家として独立し続けることができたのは、智の結集と謳われた高名な学者たちの存在もあるが、アルフィーユがマチェスを尊び、隷属国ではなく対等な国として扱ったという歴史に因るところが大きい。だからこそジェナムスティもマチェスには手を出さなかった。そうでなければ、悪い意味で知識しか持たない小国など、生き残れはしなかっただろう。
「何があっても中立国でいなければならなかったのです。……たとえどんなことがあっても、アルフィーユとの条約を破棄するなど、してはならなかった」
 たとえ人質同然に嫁したティセルが命を落としたとしても。たとえ刃向かった代償に前国王が命を落としていても。
 書状に連なる多くの名は、条約破棄を非難し、一刻も早く再び締結にこじつけるべきだという学院の意見に賛同する者の名だ。ティセルの帰国前に作成された、彼女の命よりも国を最優先にするべきだというもの。学院の中心人物のみならず、なけなしの軍事力である騎士院、宮廷を司る皇貴こうき院内の者の名さえある。
 これを見た時、ティセルは憤りを感じはしなかった。これこそが正しいと、あるべき国の姿だと思っていたから。
 そして彼女自身も、最後に署名をした。
「今ならまだ間に合うのです。破棄から日が浅く、そしてアルフィーユは陥落していません。戦場は未だリュート平野にあり、アルフィスには移っていない。今なら……いいえ、今しかないのです。どうぞ、お許しを」
「そして理事を失うのか」
 連なる署名の下には、使者を立ててアルフィーユとの交渉の場を設けるべきとの案があり、代表としてティセルの名が挙げられている。
 通常このような場合、破棄によって相手国の自国への心証は地に落ちており、また大国と小国という力の差から、使者がその場で殺される可能性が高い。
 まさに使者にとっては命がけの交渉となるのだ。
 実際、長い歴史の中で、アルフィーユやジェナムスティに牙を剥き、同盟を破棄して宣戦布告した国の多くはそのまま滅びの道を辿り、使者を立てて和平条約を結ぼうとしても和平ではなく隷属となった例が多い。
 アルフィーユが過去の歴史を繰り返すのであれば使者となるティセルの命も危ぶまれる。
 けれど彼女は、口の端に笑みを乗せて首を左右に振った。
「レリアス陛下はきっとそのようなことはなさらないでしょう。……けれど、もしそうなったとしてもわたしは構いません。このまま何もしなければ、ジェナムスティが勝てばそのまま隷属することとなり、アルフィーユが勝てば報復として滅ぼされるか隷属することになります。そうなればもう、中立国には戻れません。世界に中立を誓った栄誉あるこの国は、終わるのです」
「しかし……」
「陛下。何万人もの貴い命と、たった一つの学者の命です。しかも学者が死ぬとは限らない。秤に掛けるまでもありません」
「しかしお前は……!」
「『陛下』!」
 こんな風に反抗したことはなかった。学院で生きろと決められたことに文句はなかったし、父と呼ぶなと言われればその通りにした。
 けれどここで折れて、ティセルが安全な場所に逃げてしまえば、他に使者に立つ者などおそらく現れない。
 だから彼女は、父親としての情を伺わせる国王に、敢えていつも通り敬称で応えた。
「陛下。貴方は既に一度、選択を誤られました。決して誤ってはいけなかったのです。そして今が二度目。もう、誤りは許されません。どうぞ、ご決断を」
「……これは、選択ではない」
「ええ。選択の余地はなくなったのですよ。そして今ある『正解』も、時機を逃せば何の意味もなくなります。わたしが執務室に忍び込んで印章を盗み出す前に、許可を頂けますね?」
 そこでティセルはかすかに笑った。
 苦渋に満ちた表情の父親に向かって、囁くように告げる。
「貴方のその情だけで、わたしは何だってできるのです。どんな恐ろしい場所へでも、喜んで赴きます」

 国を歪めても構わないという程に、自分は両親に愛されている。
 それが愚かな選択だったと分かっている。けれど、その事実が泣き出したいほどに嬉しい。それだけでどんな困難にも立ち向かって行ける。

「必ず御前に戻って参ります」
「……必ず、“生きて”戻って参れ」
 ティセルは唇を歪めた。命の保証はどこにもない。
「最善の努力をいたします」
 その微妙なニュアンスに気付いたようだったが、国王は瞑目して一度深いため息を漏らすと、再び目を開いた時にはすっかり父親としての情を消し去った表情で、ティセルに命じた。
「理事に命じる。アルフィーユへ赴き、再び条約の締結を」
「承知いたしました」
 目を伏せ、畏まって命令を受け取ったティセルは、脳裏に一人の少女を思い浮かべた。
 始まりは銀の歌姫であっても、今回の侵攻だけに限って言えば、ティセルの存在もきっかけとなった。国の在り方をねじ曲げてしまったのだ。けれど彼女はティセルに、父親と同じように、生きるようにと言った。
 彼女は今どこで何をしているだろう。
 こんな混乱しきった情勢では、無事も確かめられない。
 急がなければ。

 顔を上げ、わずかに後悔を滲ませる国王に、ティセルはにこりと微笑んだ。
「ご安心下さい、陛下。学院で育てられた子供は、約束を反故にいたしません」
 侍従長が慌てて差し出した急ごしらえの通行証と条約締結に必要な印章を受け取り、ティセルは両親にもう一度頭を下げた。
「それでは、失礼します」


 部屋を辞して始めの間は静かに歩き、それからティセルは駆け出した。
 たった一つの糸口は掴んだ。それをどう生かすかはティセル自身に懸かっている。
 交渉の相手となるだろうアルフィーユ側の人物を一人一人思い浮かべて、心の中に小さな不安が灯る。学院で育ったティセルは多くの国の事情を知っていたが、実際にその国に赴いて親交を深めたことはない。正統な王族の出でありながら姫としての生活を送ってこなかったから、社交界に出たことがないのだ。
 一度だけ相まみえたセシアや“預言された少女”以外は名前を知っているくらいだ。そんな相手が対等に交渉してくれるかどうか――
「ティセル!」
 声をかけられて、ティセルは足を止めることなくそちらへ視線をやった。
「キース、お久しぶりです」
「はい、お久しぶりで……って、違いますよ! あなた、昨日着いたばかりでしょう! どこへ行くんです!?」
 いかにも研究者といった風体のキースは、ひょろりと痩せていて、もう既に息が上がっている。
 急いでいるティセルは少しばかり苛立って、この同僚に声を張り上げた。
「アルフィーユへ、ちょっと条約を結びに!」
「『ちょっと』ぉ!? って、ちょ、ティセル、待ってください! あなた一人で行く気ですか? 条約交渉使節が一人なんて聞いたことないですよ〜〜!!」
「急いでるんですっ」
「ああもう、あなたって人は……!」

 そしてしばらく後、ティセルはキースを始めとする学院の数人だけを連れ、交渉使節としては異例なほどの少人数で、マチェス王宮の城門を抜けてアルフィーユへ向かった。