一瞬、サリア王妃が現れたのかと思った。
ティオキアに会うべく王宮内を地下に向けて歩いていたデノンは、見覚えのない背格好の、怪しげに深くフードを被った人影を視界の端に認め、足を止めた。
こちらに気付いたのか慌てたように人影は見えなくなったが、それがまた怪しんで下さいとばかりだ。
罠か、それとも。
懐に忍ばせていた短剣を片手に、デノンはぐるりと廊下を迂回して人影が消えた場所の裏手に出た。
壁にへばりついて廊下を窺っている小柄な人物に知らず苦笑を誘われる。もしデノンならば、こういう時はすぐに逃げるに限る。同じ所に居続ければいずれ気付かれるのだから。しかも、廊下の様子を窺うその様子は不審者極まりなく、いかにも素人くさい。
けれど放っておくわけにはいかないと、デノンは足音を立てずに近づき、その人物が廊下に踏みだそうとした一瞬に短剣を突きつけた。
「ここで何をしている」
弾かれたように上げられた顔に、デノンは息を飲んだ。
黒い瞳。
黒い髪。
――「預言された少女」だ。
そしてすぐに伏せられたその顔には、ディーンが言ったようにサリア王妃の面影があった。
なるほど、これでは無理もない。
死の直前のサリア王妃ではなく、彼女が嫁してきた頃のまだ幼さを残した顔立ちにとてもよく似ている。
つい、彼女がこの世界の者ではないのだということを忘れそうになった。
首筋に剣を突きつけられているため無理もないが、凛華は強ばった顔つきで立ちつくしていた。
剣を握るよりも針や糸を操る方が相応しいような細い指がちらりと動く。指が触れようとしたものを見て、デノンは空いた手で彼女の手首を掴み、壁へと押しつけた。
「……っ」
力を込めればそのまま折れてしまいそうな華奢な手首。
息を詰めた彼女の表情にさっと恐怖が走った。
けれど。
唇を噛んだ彼女が、凛とした目でデノンを見つめ返した。
油断も隙もなく剣を抜こうとし、しかしそれに失敗してこうして捕らわれて尚、気丈に顔を上げる、その眼差し。
その眼差しは、サリア王妃には決してなかったもの。夫の愛情だけを欲し続けた王妃は微笑んでいるか、でなければ涙を流しているかのどちらかで、誰の目から見ても儚く今にも消えそうな印象の女性で、凛華のような強い眼差しは持たなかった。
神殿の巫女に預言された少女。
フィアラの咲く春に異界から現れるという、黒色を持つ者。
デノンも幼い頃から何度もその預言や、戦争の終結を願う人々の他愛ない想像上の少女の話を耳にした。
人々に憧憬をもって語られるその少女は、創造主たる女神のような慈愛に満ち、絶世の美姫と謳われた数々の女性たちとは比ぶべくもないほどの美貌を備え、最強の剣士も敵わない強さを持ち、賢者よりも尚叡智に富み、彼女が戦争など止めるようにと言えばそれだけで平和が実現するような、とても人とは思えない人物だった。
幼心に、そんな人がいるのならば会ってみたいと思ったし、長じてからは何故早く現れてくれないのかと待ちこがれた。
けれど、預言の通りに本当に現れたその少女は、話に聞く限りは想像していたような人物ではないらしい。
不思議な輝きを持つ黒い髪や黒の瞳以外は、姿形はこちらの少女と取り立てて変わりはなく、この世界で人々に一目置かれる神職に就く者のように人智を越えた力を持つわけでもなく、武芸に秀でているとはとても思えない体つきで、黒色だけ除いてしまえば人々に紛れて分からないという。
だからデノンは正直に言えば何だその程度かとがっかりした。
アルフィーユは預言を利用して人々を不安に陥らせないようにしているだけだと思っていた。
けれど。
「おう、に」
震え、上擦った声が鼓膜を震わし、デノンは凛華を凝視した。こくりと唾を嚥下する様が見てとれる。
彼女はもう一度言葉を繰り返した。
「王に、会いに」
自らを鼓舞するようにゆっくりと発せられる声は、突きつけられた死の恐怖に震え、聞き取りづらかった。
その言葉の内容を理解し、デノンは片方だけの瞳を驚きに瞠った。
何をしているのかと詰問されて、まさか、国境を正しく越えずに不法入国した上、そちらの王族の極秘の通路を勝手に通って王城に侵入して、そして現在進行形でうろついているところです、なんて答えようものなら瞬殺されるだろう。
いっそのこと王城に勤める者だとでも偽ろうかと不埒な考えが浮かんだが、そもそも凛華の容姿はどうあってもその身上を表してしまう。隠したところで無駄である。
結局凛華は、馬鹿正直に目的を口にしたのだった。
王様に会わせて下さいと願って、はいどうぞと通されることなどあり得ない。それくらいは凛華でも分かる。
凛華は邪魔なものでしかない。だからテニグに連れ去られてひどい目に遭わされたし、花祭りの時には悪趣味な暗殺者に襲われた。戦乱を望む王にとって平和を叶える「預言された少女」は目障りだ。
この先どうなるのだろう。投獄か、それともこの場で命を奪われるか。できれば前者であって欲しい。逃げ出す機会があれば何とかなる。けれど後者なら、セシアとの約束を守れない。
「――を」
目まぐるしく考えを巡らせていた凛華は、立ちはだかる人物の声を聞き漏らして、慌てて思考を切り上げた。
「え?」
「王に会って何を?」
何をと言われても。
「……話を」
ティオキア王に会ってどうすれば良いのかなど、実のところ深く考えずにやってきた無謀な凛華である。
「話?」
再び彼が目を瞠るので、凛華は少しうなだれた。やはり話がしたいというのはおかしいのだろうか。
それでも、武器を手に忍び込んでいて尚、ティオキア王を倒そうとは欠片も考えなかった。戦争とは将取り合戦だ。敵の大将、国王を倒せばそれで終わりとなる。――アルフィーユ城に侵入し、セシアを襲ったという、この国の兵士のように。
きっとそれが正しい。
誰だってそのためにやってきたと思うだろう。
案の定、相対するデノンは奇妙なものでも見るかのような目で凛華をまじまじと見つめた。
「――話をして何が変わるというのですか」
その問いに呆れや蔑みの色はなく、何の感情も読み取れない平坦なものだった。
凛華は息を呑み、きつく拳を握った。
「あなたの言葉には何か特別な力があると?」
またも平坦な声色の問いに、凛華は力なく首を左右に振った。
そんな特別な力など、あるはずがない。凛華はごく普通の両親から生まれたごく普通の女子高生で、何の因果かこの世界にひょっこり現れただけなのだ。
「……これまで、数多くの者が王に進言した。これ以上諍いを続けるべきではないと。国庫が底をつくほどの戦費、荒れ果てた国土、地図から消えたいくつもの町。名前のない墓標、墓標すらない死体の焼き捨て場。この状況が国にとって歓迎すべきでないことなど、誰もが分かっている。それでも、変わらなかった。誰がどんなに言葉を尽くしても王を変えられなかった」
王は絶対的な独裁者なのだと、デノンは視線を落として呟いた。
誰も彼に逆らわなかった。逆らえなかった。
逆らえば即ちそれは自らの死につながり、志のある者たちは次々と王宮から姿を消した。
揺るぎなき支配者と、一部の崇拝者。彼らの思うがままに、この国は内側から狂気が染み渡り、何年もかけてゆっくりと崩壊に向かっている。
「どれだけの人が王に進言し、そして命を落としたか、あなたは知らないだろう。知らないからこそ、そんなことが言える」
あれは賢しらな口をきく、と王が独りごちた翌日、ティオキア王を咎め立てたある老公爵は登城する道の途中で不慮の死を遂げた。
血気盛んな騎士たちが義侠心に駆られてティオキア王に休戦を持ちかけてはどうかと提案した翌日、彼らは混戦を極める最前線へ配置され、二度と戻らなかった。
デノンの口調は始終淡々としていて、嘆くことも激することもなかったが、何故だか凛華には彼がひどく彼自身を責めているかのように聞こえた。
ティオキア王を変えられなかったことを、後悔しているのだろうか。
それとも、変えようとしなかったことを?
「……話をして」
顎を引こうとして、剣を突きつけられていることを思い出して慌てて身動ぎをやめ、凛華は息を吐いた。
「話をして、それからどうするかは……」
感情の窺えない藍色の瞳を見上げ、凛華はその色にふと引っかかりを覚えたが、そのまま言葉を続けた。
「そう言えば、考えていませんでした」
いつも通り笑ったつもりだけれど、上手く笑えただろうか。
「……はい?」
この人ってこんな顔もできるのか、と凛華は場違いにもそんな呑気なことを思った。
顔から感情が読み取れない点でアイルと良い勝負ができそうだと思ったが、案外彼の方が感情を表に出す性質らしい。
きょとんと――彼くらいの立派な成人男性にはやや似合わないくらい、それはもう鳩が豆鉄砲を食ったような驚いた顔が笑いを誘って、けれど笑っては失礼だろうから凛華は口早に付け加えた。
「わたし、小さい頃からよく無鉄砲だって言われてたんですけど、今もそうみたいで。だから、ティオキア王と話をして、軍を引き上げるようにお願いをしようと思って、思い立ったが吉日っていうか、あ、吉日ってまずこの世界にないかもしれないけど、日本では結構よく使う表現なんですよ。結婚式は大安に、お葬式は友引を避けて、なんて。……ああ、話が何か変なことに!? ……ええと、その、方法はあんまり考えてなくて、話をして上手くいけばいいなって……、上手くいかなかったらそれはそれで何とか……って、計画性も何もないんですけど。あーもう、こんなことセシアに知られたら呆れられちゃう……」
支離滅裂な上に全く関係のないことまで口走ってしまった。これだから無鉄砲だとか考えなしだとか言われてしまうのだ。
困った時でもつい笑ってしまうのは日本人の性だろうかと頭の隅で考えつつ、凛華はデノンの様子を窺った。
返答になっていない凛華の言を聞いていた彼は、しばし口を噤んだ後、静かに剣を引いた。
「えっ? え、あの……え?」
一体どうして剣を引いてくれたのか分からず、今度は凛華がきょとんとした。
「……あなたは不思議な人だ」
「……はあ」
何だかよく分からないが、無害だと判断してくれたのだろうか。
「ど、どうも」
何と答えるべきか迷ったので、とりあえず礼を言ってみた。やや呆れたような表情をされた気がするが、気のせいということにしておく。
「何故、あなたが「預言された少女」なのか」
「?」
「何故、ジェナムスティ人でもアルフィーユ人でもない、異世界人のあなたが」
それは凛華自身、何度も悩んだことだった。
何故自分だったのか。黒髪と黒の瞳が必要だったとしても、世界中にそんな人間は何万といる。
もっと知恵があり、機転の利く人間の方が適していただろう。
それなのに何故。
もう何度も考え、そしてそのたび答えを見つけられなかった。
だから凛華はにこっと笑ってみせた。
「わたしにも分からないです」
目を閉じて、何より恋しいあの青を想った。
「でも決めたから。周りに認められたくて、この世界にいたくて、わたしにできることなら何だってしようって決めたから。だから、もし誰かがわたしを選んだのだとしたら、わたしはその人に感謝します」
日本で普通の高校生として生きていたなら、テニグでのようなことは経験しないで済んだ。戦争に関わることなどなかっただろう。一年生の間は学校とアルバイトを両立させるのに必死で、二年生になったら少し遊ぶ時間を増やして、三年生になったら人生の岐路に立たされて――大学へ進むか社会に出るか、そしていつか両親のように最愛の人を見つけて、幸せな家庭を築く。ぼんやりと描いていた未来予想図はあまりにもありきたりで、とても穏やかで、平和だ。
けれどそこに、セシアはいない。
この世界に迷い込まなければ、セシアに出会うことはなかった。
「わたし、選ばれた以上は、胸を張って「預言された少女」でいたいんです」
ベルやロシオル、リーサー、アイル、ロザリー、今まで出会った人たち全てに。そして誰よりもセシアに対して、恥じることなく「預言された少女」としてありたい。
(……あれ?)
ふと、また引っかかりを覚えた。
ベルと、「藍色」。
この組み合わせを、どこかで――。
そうだ、あれは確か夏の終わり頃。
セシアの気持ちに応えて、恋仲になった時、それを実家に戻っていたベルに伝えるのが遅くなって、彼女に経緯を白状させられた。凛華は今まであんな風に恋話をしたことがなくてあまりに恥ずかしかったから、いつまでも自分にばかり話をさせる彼女に、ベルこそどうなのかと逆に尋ねて、二人できゃあきゃあと話をした。
ベルは彼女が幼い頃に一度だけ出会った人が忘れられないのだと言っていて、確か、その相手が。
『わたしもはっきりとは覚えていないですし、たった一度きりでしたから、その方もお忘れでしょうけれど……それでも』
ほんの少し言葉を交わしただけ。
けれどその一時だけで、名前も知らないその人に憧れたのだと、照れくさそうにベルは笑った。
『またいつか、逢ってみたいんです』
藍色の髪をした彼に。
「――あの!」
一言一言を噛みしめるように話していた凛華が突然大声を上げたので、デノンは肩を揺らした。
「あの、人違いかもしれないんですが、その上ものすごく唐突なんですが……。もしかして、ずっと前に、女の子に会いませんでしたか?」
「……女の子?」
「はい。今ちょうどわたしと同じ年なんです。多分その時十歳くらいで……背は少し低くて、赤い、銅色の目をした」
「銅……?」
ぴくりとデノンの眉が動く。
凛華は勢い込んで、大きく頷いた。
「ぴかぴかの十円玉のような! って、ああ、こっちに十円玉なんてないよ、わたしってば。ええと、こっちでも比較的珍しい色みたいなんですけど、赤みがかったきれいな銅色なんです。それで、金髪の! ベルっていうんですけど……あ、ベルは名前知らないって言ってたから、もしかしたらベルも名前を教えてないのかも」
彼が思考を探るように視線を斜め上にやる。
これはもしかすると本当に目の前のこの人なのかもしれない。
他に何かないか。ベルは何と言っていただろう。
確か、確か――。
どちらからともなく、口を開いた。
「「きれいなお花を、いっぱいお母さんにあげたいんです」」
ややずれはしたが、一言一句違わぬ言葉を口にし、お互い視線を交わした。
「やっぱり……!」
間違いない。彼だ。
幼いベルが出会い、そして憧憬を抱いて今も忘れられない人は、彼なのだ。
アルフィーユの王宮で女官として働くベルの初恋の人は、ジェナムスティの王城にいる。
いくらベルがまた逢いたいと思っていても、逢える筈がない。
これではあんまりだと思い、凛華はすぐにその考えを打ち消した。
敵国でなければ、戦争が終われば。そうすればきっと。
「ベル、あなたのことずっと覚えてて、また逢いたいって……」
花を取ってくれて、嬉しかったと。
けれどほんの少し話をしただけで、どこの誰かも分からないから、もう二度と逢うことはないだろうと、寂しげに笑った。
それが何だか切なくて、凛華は根拠もないのに、必ずまた会えるよと言ったのだ。
その彼が、今目の前にいる。
数奇な巡り合わせだと、デノンは遠い昔を思った。
たまたま出会った小さな女の子。
母親のために花を摘んで、手に届かないような場所に咲いた花を取ってやると目を輝かせて笑った。
売れもしない路傍の花。そんなもので人は救われない。けれど母親が喜んでくれるからと、ただ純粋に花を集める幼い笑顔が、とても印象的だった。
あの時からデノンにとってのアルフィーユのイメージは、溢れる花々と、彼女の満面の笑顔となった。
彼女と自分しか知らないはずのその時交わした言葉を、凛華が口にする。そして彼女もまた、一度きりのあの出会いを覚えているのだと。また逢いたいと思っているのだと。
胸の内が熱を帯び、言葉に出来ない鮮烈な想いに満たされる。
「……そう、ですか」
口をついて出た言葉は、奇妙に掠れていた。
「そうなんです……っ!」
ぐっと両手に拳を作り、こくこくと凛華が頷く。
「ベルは……ベルも、これ以上こんなことが続くのは……人が亡くなるのは嫌だって、言ってました」
ベルだけでなくこの世界の人々は、凛華よりもずっと戦争を身近に感じながら生きている。
もしかしたら明日、親しい誰かが死んでしまうかもしれない。明後日には、家がなくなるかもしれない。そんな風に怯えながら生きていくのは、きっと辛い。凛華には想像することしかできないけれど。
言葉を尽くしてデノンにベルのことを伝えようとしていた凛華は、ふとデノンの表情が変わったことに気付き、息を飲んだ。
「――あなたは、他人のためにここにいるのですか」
「違います」
深く考える間もなく、凛華はきっぱりと否定した。
違う。そんな風に、誰かのためだとか、正義のためだとか、きれいな感情ではないのだ。
「……違います……。わたし、自分が傷つきたくないから、自分が戦争を見たくないから、だからセシアに……アルフィーユ国王に反対されたのに、黙ってここに来たんです」
本当に自分勝手だ、と凛華は情けない気分になった。
浅川凛華という人間を認めて欲しいから、「預言された少女」のくせに何もしなかったという蔑みの目を向けられたくなかったから。ただの、自己満足なのだ。自分のことだけを考えていたのだ。
危険だと言われたのに。
行くなと、引き留められたのに。
「全部、自分のためなんです」
誰かのためだと胸を張って言えたら良かった。
綺麗なものなら良かった。
(泣くな)
つんと目の端から鼻の奥にかけてが熱くなる。
目頭に涙がじわじわと出てくる。
(泣くな、凛華。ここで泣いちゃ駄目だ)
引き留めて、くれたのに。
危険を冒してアルフィーユを飛び出して、こんな所にまでやってきて。
あのまま王城に残っていれば、セシアの庇護下にいれば、彼を守ることだってできたかもしれないのに。
『アルフィーユの終わりだ』
『アルフィーユ王はいなくなったとさ』
今ここでは泣かないと決めた。強くなろうと思った。
一刻も早くティオキア王に会って、そして何としても兵士たちを止めて、そしてセシアの無事を確かめる。頭では順序立てて物事をしなければならないと分かっている。何のためにここにいるのだとティオンに叱責されて、そう思い直した。
それでもセシアのことを思うと気が逸り、彼の無事を確認できない現状がもどかしくて、座り込んで泣き叫びたくなる。
(泣くな……っ!!)
奥歯をぐっと噛みしめ、爪を手のひらに突き立て、凛華はデノンから視線を逸らさなかった。
必死で泣くのを我慢すると、顔が赤くなりぷるぷると震えるから、とても見られたものではないだろう。けれどデノンは凛華の不格好さをあざ笑うことはなく、ゆるりと口の端を緩めた。
「たとえば、私が王の居場所を知っていたとして」
「?」
「報酬は?」
「え?」
「私がそれをあなたにお教えしたら、報酬に何を頂けますか」
にこりと言うより、にんまりと表現するのが正しいような表情でデノンが言ったので、凛華は目を瞬かせた。
報酬を寄越せと言われても、生憎必要最低限のものしか身につけていないから、懐具合は寒々しい。アルフィーユに戻って工面してもらえば何とかなるかもしれないが、今この場でとなると無理である。
こういう時、見返りに何を差し出せば良いのだろう。凛華は商売人ではないので、こうした駆け引きは不得手だ。出世払いで、なんて言ってしまっても大丈夫だろうか。いやいや、下手をすると不法侵入者として突き出されるおそれがある。
うんうんと唸ったところで、凛華はふと思いついた。
デノンに視線を戻し、彼の片方だけの瞳に僅かながらもいたずらっぽい光があることに気付く。
この答えでデノンが満足してくれるかどうかは分からないけれど、と唾を飲み込んで、凛華はおそるおそる唇を動かした。
「あなたを、ベルに紹介することでも構いませんか?」
それはあくまで無事戦争が終焉を迎えたらという前提つきのものではあったが、そんな不確実な約束でも、デノンは満足げに頷いてくれた。
「――交渉成立です」
「ではついて来てください」とデノンに言われ、フードを被り直して言われるがまま歩き出した凛華は、内心冷や冷やしながらも決してうろたえはしなかった。
デノンはまるで凛華などいないかのような、ごく自然な足取りで迷いなく廊下を進んでいく。
途中衛兵らしき武官と擦れ違ったものの、凛華が咎め立てられることはなく、敵国王城に侵入している身であるというのに深く頭を下げられるという事態に、凛華はいちいち怯えた。
話しぶりや王の居場所を知っているということから、何となくデノンは高官なのだろうと見当を付けてはいたものの、想像以上に敬意を払われている。
もしや自分はとんでもない人に見咎められたのだろうかと、今更ながら凛華は震えた。
釈明の余地もなくたたっ斬られなくて良かった。話を聞いてくれて良かった。ベルが昔出会った人で良かった……! と、思い浮かべられる限りの感謝の言葉を胸の内で叫ぶ。
十人目の衛兵に頭を下げられた時点で、凛華はもう数えるのを止めた。間違いない。デノンは、ジェナムスティにおいて宰相位に相当するほどの、偉い人だ。そんな高官と親友に縁があった奇跡的な事実に幸運を噛みしめるべきか、そんな高官に真っ先に見つかった喜劇的な事実に不運を嘆くべきか、迷うところである。
いくつかの回廊を渡り、いくつもの角を曲がり、数度階段を下ったところで、デノンがぴたりと足を止めた。
少し前からすっかりあたりは人気がなくなり、ここも衛兵は見受けられない。
王城の最深部であることは間違いないが、そのあまりの閑散とした様子に凛華は疑問を抱いた。
王の居所というくらいだから華やかな謁見の間にでも案内されるのだろうと思っていたのだが、人が行き違うのもやっとの細い廊下の先には、取り立てて特徴のない一枚板の扉が聳えているだけだ。
まさか扉一枚隔てた先が荘厳な部屋、というオチだろうか。国王は国で一番に狙われる人物だろうし、わざとこうして侍従たちしか使わなそうな廊下の先に謁見室を作ったのだろうか。いやでも謁見室には他国の使者も招かれるはずだし、これではあまりに質素ではないだろうか。ううん、アルフィーユとは違うのだろうか。などと、真剣に城の構造に頭を悩ませていた凛華は、デノンが扉に手を掛けたことに一瞬遅く気付いた。
慌てて背筋を伸ばし、身構える。
そして開いた扉の先に、凛華は息を飲んだ。