改めて見ても、石壁は堂々とただそこに立ちはだかっていた。
 視線を上方へ向けたが、この地下通路は天井までどれほどあるのか分からず、その上薄暗くて、どれだけの高さがあるのかは分からなかった。
 そこでこんこんと壁を叩いてみる。けれど堅い音が返ってくるだけで、側面の壁も同じように叩いてみたが、違いは分からなかった。きっと分厚いのだろう。
 けれど。
(……こんなところで、諦めてやらないから)
「『不屈の精神』っていうか……ここまでくると、あれだね。一種の執念だよね」
 あははと明るく笑って、凛華は壁から手を離し、服についた土や苔を手で払った。
『そうかもね』
 肩にちょこんと乗ったティオンも、明るく笑い返してくれた。
 首を傾げ、頬で柔らかな温かさに触れる。
 自分は一人ではない。
 そうだ、何よりここにはティオンがいてくれる。
 アルフィーユへやってきて右も左も分からなかったあの頃から、ティオンはずっと凛華の傍にいてくれた。大切で頼もしい友人だ。
 誰の助けも得られない、ただ一人だと嘆いていた先ほどまでの自分は、周りが見えなくなっていた。
 幼い頃は可哀想な子供と言われるのが嫌で、可哀想などではないと言っていたのに、自分のことだけしか考えずに自身を憐れんでいた。
 本当に憐れまれるべきなのは凛華ではなく、今こうしている間にも戦禍に見舞われている人々だ。
 彼らに非はないのに、家を焼かれ、安穏の生活を手放さざるを得ず、運が悪ければ命さえ危ぶまれる。凛華を罵倒した彼女も、そうして恋人を失った。

 リュート平野での争いを、戦争を止めるためには、ジェナムスティ軍を退かせなければならない。
 ティオキア王に逢わなければ。
 そのためにもまずは、ここを突破しなければならない。

 自分の目的、そのためにしなければならないこと、それへの障害。そこまで整理してから、凛華は呑気にも腕を組んで考え込んだ。もうすっかり、いつもの自分を取り戻している。
 これまでずっと一本道だった。それは間違いない。
 先ほどの兵士たちはこの地下道が一番の近道なのだと、王へ報告に行くと言っていたから、間違いなくこの道は王城へ続いている。
 ならば必ずどこかに道はあるのだ。
 凛華はゆっくりと考えた。
 この道を教えてくれたのはティセルだった。ジェナムスティの王妃。王族。そしてセシアを手に掛けたと言った兵士。王への報告。つまり王からの密命だったのだろう。いくら戦時中とはいえ、敵国の王を暗殺するなど、誉められたことではない。彼らの言った言葉。――「お歴々」が造った地下牢。
 ここは、日の目から隠された王の道。

『――そうだね、大抵の城には王族しか知らないものがある。隠し扉、隠し部屋、壁の中の道、城中が仕掛けだらけみたいなものだよ』
『本当? このお城にもそんなものがあるの?』
『あるよ。今度教えてあげようか。俺が城下へ抜ける時のとっておきの隠し通路。アイルには内緒だよ』
 いつだったか、茶目っ気たっぷりに笑ってそう教えてくれたのは、セシアだった。

 王城には仕掛けがある。

 剥き出しの石壁にそっと手を触れた。
 自分の手の届く範囲を、上から下まで確かめるように撫で進める。
「あ」
 何度か撫でている内に、一箇所、わずかな窪みに気付いた。
 手を上下左右に動かしてみれば、手のひら一つ分ほど下に細い隙間があった。
 仕掛けを知らなければ、仕掛けがあると思わなければ、まず気付かないほどの小さなものだった。
 何か細いものはないかと胸から腰まで探って、指先に触れた短剣を手に取った。
 鞘から抜き、刃こぼれ一つないそれを見下ろして、凛華はほうとため息をついた。この短剣は師匠がくれたものだ。セシアがくれた、細やかな装飾が見事な細身の長剣とは異なり、飾り気のない実用重視の短剣。長さは柄を含めても凛華の肘から指先ほどで、手に丁度良い重みのものである。
 刃を痛めるようなことはしたくなかったが、長剣は長い上に重くて扱いづらいし、他に硬くて細いものは手元にない。
 闇の中でさえ尚鈍く刀身を光らせる短剣を、凛華は先ほど見つけた隙間に差し込んだ。
 軽く動かしてみると、隙間の上部に溝が掘られているようで、上方向にだけ動いた。
「……何だか、ピッキング中の泥棒さんみたい」
 場違いにもくすくすと笑いを漏らす。
 短剣の切っ先が隙間から抜けてしまわないように注意しながら、凛華は剣を持つ左手に力を込めた。
 だが動かない。いくら利き腕とは言え力が足りないのだろうと察して、凛華は右手も剣に添え、体重をかけた。
 刀身がぽきりと折れてしまうのではないだろうかというくらい力を入れて、柄を押し下げ、切っ先を上部へ食い込ませる。
 ことりと、壁の中からかんぬきが外れたかのような小さな音がした。
 つっかえていたものがなくなり、短剣を取り落としそうになって慌てて力を抜いた。

 あとは簡単だった。

 無理な扱いをしたせいでわずかに刃の欠けた短剣を鞘にしまい、一見何の変化もない壁に手を突く。
 まさかと思いつつ、そっと力を込めた。
 さきほどまではびくともしなかった石壁だ。きっと分厚いだろうと思っていた。
 けれど、凛華が片手で押しただけで、いとも簡単に石壁は動いた。
 向こう側に溝でも掘られているのか、石壁は小さな音と共に滑らかに動く。丁度片開きの扉と同じようだった。
 細く扉を開いた先に人の気配がないことを確認し、思い切って大きく開く。扉を壁掛けタペストリーで隠してあったのか、同時にそれも動いた。
 身を滑らせた先は、調度こそアルフィーユとは異なった造りのものが置かれていたが、ありふれた貴賓室の一つらしかった。振り返ってみれば、そこに扉があることなど知らぬ顔で壁が広がっている。扉を閉めて壁掛けを元に戻せば、誰もここに扉があることに気付かないだろう。
「さ……さすが、王城……」


 明るさに慣れない目を瞬かせながら、凛華はゆっくりと部屋の扉へ向かった。
 アルフィーユでは平屋建ての離宮そのものが貴賓室として使われていることが多いが、ジェナムスティでは王宮の本宮と直結しているらしい。扉を開けた先の幅広の廊下は無人だった。
 不法入国の上、王城への不法侵入、帯剣していて、敵国国主の知己。見つかってこれ以上危険な人物は少ない。
 凛華は元は単なる高校生で、騎士に稽古をつけられただけなので、正々堂々と行動することを規範とする習性はついていても、隠密行動には向かない。それでも凛華なりに懸命に息を殺し、人の気配を探りながら慎重に足を進めた。
 女官の一人でも擦れ違わないだろうか。そうすれば申し訳ないが服を拝借できるのだが。いや、どちらにしろこの黒髪だから、見つかれば一巻の終わりだろう。そもそもフードを目深に被っている時点で相当に怪しい。
 どうか誰にも会わずにティオキア王とだけ会えますように、と夢のようなことを考えながら、凛華はひたひたと廊下を進み続けた。

 王宮内は不思議なほど静まりかえっていた。
 確かに戦時中であるから、緊張感があるものなのだろうが、それにしてもここまで静かなのはむしろ不気味だ。戦線からの伝令や後方支援のやり取りなどはないのだろうか。
 この王城には何か、底知れないものがあるような気がして、凛華はぶるりと背筋を震わせた。

 そして凛華はあまりの人気のなさに呆気に取られていたから、廊下を曲がった先、突き当たりの道を歩いている兵士らしき人影を認めて、慌てて体を引っ込めた。
 早まる鼓動を鎮めようと胸元を握り込み、驚かさないでくれ、と理不尽な文句を心の中で呟く。
 幸い兵士は凛華とは違う道を進んだらしく、足音はすぐに聞こえなくなった。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、壁に体を張り付かせてそろそろと曲がり角の先を窺う。
 よしよし誰もいない、と小さく拳を握って、一歩踏み出す。
 その瞬間、何か奇妙な引っかかりを覚えて二の足を踏んだ。
「……!」

 まるで気配を感じられなかった。
 疑問を持たずにそのまま進んでいたら首の皮が切れていただろう。

 寸分違わずぴたりと突きつけられている短剣を視界の端に認めて、凛華は顔を上げた。

 先ほど見た兵士らしい人物が目の前に立っている。足音が聞こえなくなったから離れて行ったと思っていたのだが、相手の方が上手だったらしい。気付かれていたのだ。
 上背のある男性で武官と言うよりは文官らしい体つきだが、その身のこなしと使い込まれた剣から、生半可な者ではないと分かった。
「ここで何をしている」
 温度の感じられない単調な問いかけに、凛華はどう答えれば良いのか分からずに黙り込んだ。
 頭の中が真っ白になるとはこのことを言うのだろう。
 どうしようという言葉が繰り返されるだけで、全く何の考えも出てこない。
 どうする。どうすれば良い。
 剣を突きつけられている恐怖と、この場を何とかして切り抜けなければという焦りから、知らず体が震えた。
 凛華がフェデリアに預言された異世界人だと知られれば終わりだ。戦争を望むジェナムスティにとって、凛華は邪魔な者でしかない。きっと殺されてしまうだろう。

 剣は帯びているが鞘に収めたまま。敵地のまっただ中に侵入している身なのに、抜刀せずにいた自分の愚かさを、凛華は呪った。







 ――頭がひどく痛む。

 何故、と自問して、セシアはその理由を思い出した。
 そう言えばあの時自分は襲撃に遭って倒れたのだった。
 手も足もどろりと重く、思うように動かない。意識もはっきりとせず、脳裏に焼き付いた情景が繰り返し思い浮かんでは消える。
 頭が痛い。
 頭部に外傷を受けた覚えはないのに、考えることが億劫なほどにじくじくとこめかみのあたりが痛んだ。
 このまま死ぬのだろうか。
 そんなことを考えて、自分に嫌気が差した。死ねば楽になる。けれど戦時中に主導者を失った国の末路は凄惨を極める。王として国に君臨し、民から上がってくる税で生かしてもらっておいて、戦争となれば死んだ方が楽だと思うなど。

『血も涙もない』

 本当に、その通りだ。



 即位してからというもの、国にとって、民にとって良い王であろうと努めてきた。
 豊かで、冬に飢えることがなく、他国からの侵攻に怯えなくとも良い国にしようとした。
 そのためには国に仇なす者は誰でも切り捨ててきた。
 横暴な領主がいると聞けば真偽を確かめた上で爵位を剥奪したし、不正を犯した官はそれがどれだけ高位の者でも左遷し、時には刑を科した。
 彼らの言葉に耳を傾けることなく、国のためにならないと思えば次々と失脚させた。それが王としての正しい在り方だと思った。
 賢王ではあるが、温情はない。そう言われていたことも、知っていた。
 簡単に他人を切り捨てることができたあの頃の自分は、誉められた王ではあっても、決して誉められた人間ではなかっただろう。
 人情を解さない機械じみた人間だった。
 一番に国のことを考え、切り捨てられた者の気持ちなど考えないようにしていた。
 そしてその報いを受けたのだ。


 きっかけは昨春に起きた暗殺未遂事件だった。
 狙われたのはセシア自身ではなくフェルレイナで、護衛官の立ち回りによって幸いにもかすり傷程度で済んだのだが、その首謀者がとある伯爵位の貴族だったことから社交界を賑わす一大醜聞に発展した。
 以前領民からの再三の訴えがあり、伯爵家から領地の一部を取り上げて直轄領とした。
 当時国から課される税は収穫の五分程度だったが、領主から課されていた税が四割。つまり領民は収穫したものの大半は税として納めなければならず、国内で最も飛び抜けて高い税率だった。その上ことある毎に労役が課され、多くの領民が逃げ出すか、それに失敗して刑を科された。セシアは何度も改善するよう領主へ命じ、そして領主は応じなかった。だから領主にとっては致命的な、土地の取り上げを行った。

 王位継承者を亡き者にしようとした首謀者に、セシアは静かに蟄居ちっきょを言い渡し、残りの領地を始めとする全ての財産を取り上げた。
『陛下、それは……っ!』
 閉門や極刑には至らずとも、財を失えば貴族は終わりだ。領主自身だけではなくその子孫に至るまでがきらびやかな生活から一転、最下層の貧民に等しい状態となる。
 むごすぎるのではないかとの一部の文官たちの声に、けれどセシアは耳を貸さなかった。
 むしろ怒気をはらんだ冷たい声で彼らに言った。
『唯一の継承者に対する暗殺未遂だ。これくらいのことは覚悟していただろう』
 一族郎党皆殺しと言わないだけ、アルフィーユは穏やかな国柄なのだ。

 セシアは周りの意見を聞かない国王ではない。
 高い税が必要であればその理由をきちんと報告すれば良かった。それができないというのならばその課税は正当性を欠くものであり、領地を奪われても文句は言えない。不平があるのならばそれを言えば良かった。それなのに、腹いせにセシアのたった一人の家族を手に掛けようとした。

 領主と既に成人した嫡子の恨みを込めた視線をセシアは受け流し、これ以上は無駄だとばかりに玉座を立って彼らに背を向けた。

『……いつか必ず復讐してやる……』
 自分よりもいくらか年上の、まだ若い嫡子の呪詛の言葉に、けれどセシアは振り返りもしなかった。
『お前の復讐心をいちいち覚えていられると思うな』

 全てを失った彼らがその後どうなったのかは、あまり気に留めなかった。アルフィーユから他国へ出たと聞いてからは、監視も切り上げさせた。


 意識が途切れる寸前に見た襲撃者の顔は、確かにあの時の青年のものだった。


 よくある話だ。取り立てて珍しくもない。
 没落貴族が祖国を裏切り、敵国の間者となることなど。そして、暗殺者となることも。
 暗く、醜く、歪んだ世界。
 暗殺に内通、貴族同士の腹の探り合い。きらびやかな服に身を包み、優雅に微笑むその裏側では、常にしたたかな策略を巡らせ、相手を陥れてのし上がろうとする。
 汚泥にまみれたその場所から抜け出したいと思っているのに、その中心には自分がいる。


 死んでしまえば、楽だったのに。

『ねえ、セシア』

 死ねば、あの泥沼から解放されたのに。

『わたしね、セシアに会ってから変わったんだよ』

 王であることの重荷からも、暗殺の危機からも、おそろしい量の仕事からも解放される。
 それなのに。

『セシア、大好きっ!』

 耳に心地良い声が、吸い込まれそうな黒の眼差しが、柔らかな肢体が、光がはじけたような眩しい笑顔が、たまらない気持ちにさせる。
 死ねば、もう彼女に会えない。
 死にたくない。
 ――生きたい。





 重い瞼を押し上げると、眩しさに目眩がした。
 セシアは一度目を閉じ、再び目を開けた。改めて見れば見慣れた寝室で、長い間目を閉じていたから眩んだだけらしく、特別明るくはなかった。
 視覚を、嗅覚を、聴覚を取り戻す。
 意識が戻られた、お目覚めだ、とさざめくように聞こえる慌ただしい声はおそらく城医たちのもの。安堵のため息はおそらくアイルのもので、部屋から早足で出て行ったのは女官の誰かだろう。
 ゆっくりと気配を辿っていると、ふと右腕のあたりに重みがかかった。
「お義兄さま……っ」
 視線を動かせば、身を乗り出すようにしてセシアの顔を覗き込んでいるフェルレイナが見えた。
「……フェル……」
 涙を浮かべた妹に大丈夫だと声をかけようとしたが、思ったよりも掠れた力無い声しか出なかった。
「お義兄さま、お義兄さま……っ!!」
 セシアの手を抱えて、「もう目を覚まさないかと思った」とフェルレイナは嗚咽を漏らした。泣き腫らした目と乱れた髪に、付きっきりでいてくれたのだと知る。
 セシアは重い手をのろのろと動かして、妹の髪を撫でた。
「勝手に殺さないでくれ……」
 冗談っぽく笑んでみせてもフェルレイナの涙は溢れるばかりで止まる気配がなく、いつもであれば子供扱いを嫌がって拒絶する仕草に反抗せず、撫でられるがままになっていた。
 乱れた髪を撫でつけ、腫れた瞼に触れ、泣き濡れた目尻を拭ってやる。
 しばらくそうやっているとようやく落ち着いたのか、フェルレイナは「陛下のご無事は確認できましたね」という文官の言葉に大人しく従い、そろそろと立ち上がった。セシアが政務に就けない今、唯一の王位継承者であるフェルレイナが代理を務めなければならないのだ。

 護衛官を連れて寝室を後にしたフェルレイナを見送り、セシアは寝台の傍に立つ自分の副官に視線をやった。
「だから言ったんですよ」
 もう倒れ時だと。
 原因は不調ではなく暗殺未遂だったが、結果的にはあの時のアイルの嫌な予告が見事にあたったというわけだ。
「はいはい……」
 適当に返事をしておいて、セシアはため息を漏らした。寝台に臥せって話しているだけなのにひどく疲れる。
 青白い顔のセシアに負担をかけまいと思ったのかアイルが立ち去ろうとするので、セシアはそれを引き留めた。
「アイル、私が倒れてから今までどのくらい時間が経っている」
「四日と半日です」
 淀みなく返ってきた言葉に、セシアは目を丸くした。
 てっきり一日くらいだろうと思っていたので、そんなにも眠り続けていたというのかと驚いた。そして、ただでさえ青白い顔から更に血の気が引く。
「――アイル」
 戦況は、たった半日でも激変するものである。
「リュート平野は、どうなっている?」
「昨日第二騎士隊長率いる軍が南へ撤退したように見せかけ、ジェナムスティ軍を誘い込んで近衛が側面を突きました。多くの被害が出た模様ですが、ジェナムスティ軍に敗走の様子はまだありません。後続の軍が到着したようで、昨夜から今朝にかけては再び牽制し合っている状態です」
「……そうか」
 ジェナムスティはアルフィーユに引けを取らない北の大国だ。
 武器も人も、アルフィーユと同様にいくらでも補給が効くのだろう。
 これまでもそうだった。ジェナムスティは大国故に物資は豊富であり、それを次から次へと投入できるだけの陸路を確保している。応戦するアルフィーユ側も同じように人も物も出さなければならず、結果お互いが限界まで疲弊しなければ、和平条約の調印に結びつけられなかった。そしてその間に人が多く死ぬのだ。兵士も、兵士ではない無辜の民も。
「ティーレは?」
「使節にはお留まり頂いています。あれは狸ですね。ひっきりなしに出入りしている従者とやらが毎日のように平野に出向いています。戦況を逐一確認した上で、どちらにつくべきか決めかねているように見えます。それを信じて根っからの親ジェナムスティだということを忘れてしまいそうになりますよ」
「そして舌を出している、か」
「でしょうね。条件次第ではこちらのお味方をいたしましょうと言ってはいますが、ティーレからの報告では既に軍隊が結成されてジェナムスティに向かっているそうです。……ああ、お相手は私がしていますが、宜しいですね」
「任せる。せいぜいもてなして差し上げろ」
 唇の端で笑んでみせたセシアに、アイルはそれはそれはにこやかに笑い返した。
「かしこまりました」
 表情筋がないのではとさえ影で恐れられている副官の笑顔は空恐ろしいものがある。さぞかしティーレの使節も悪夢にうなされそうなもてなしを受けることだろう。

 他にいくつかアイルに現状を確認して、最後にセシアは尋ねた。
「リンカは、今どこに?」
 その質問に、これまでの打てば響くとばかりに返ってきたような答えはなかった。
 アイルが首を振り、セシアは「そうか」と呟いた。
「ジェナムスティ国内だと思われますが、詳しくは」
「……」
 重い腕を持ち上げて視界を遮り、セシアは敵国にいるはずの凛華を想った。
「……少し、疲れた」
 そう言えば、アイルも城医たちも心得たようにセシアを一人にしてくれた。

 アイルによれば、セシアを暗殺しようとした者の内、一人は捕らえたが残りの二人は逃亡したとのことだった。追っ手も捕まえられなかったというから、既にジェナムスティ国内に入っているのだろう。セシアは一命を取り留めこうして生きているが、自分の死はもうジェナムスティに伝わっている。
 凛華にも伝わってしまっているのだろうか。
 王の生死は兵士の士気に関わるものだから、仮に誤った情報が流れたとしてもアルフィーユ国内であればすぐに正されたであろう。けれどジェナムスティにとっては不都合であるから、誤ったまま流れている可能性の方が高い。
 もし彼女が聞いていたら、嘘つきだと怒るかもしれない。

 初めて凛華が涙を見せたあの日、約束をした。
 先に死なないと。決して置いていかないと。

「……そくは……守る、から……」

 だから凛華も、約束を破らずに生きて帰ってこないと、許さない。