人目を避けて街から街を移動し、だんだんと物々しい空気になるのを肌で感じながら、凛華はひたすら北上を続けていた。
『リンカ、王城だよ』
ローシャの声に、凛華は弾かれたように顔を上げる。
アルフィスの王城はどちらかと言えば平たいが、ジェムスの王城は高い尖塔がいくつも建ち並び、それらを結ぶ渡し橋が遠目には細い縄のように見えた。
あの王城のどこかに、ティオキア王がいる。
威圧感のある城をじっと見つめ、凛華は寒さに震える指で手綱を握りしめた。
「……ロシオル」
ぽつんと師匠の名前を呟く。
急いで来たつもりだが、途中で時間を食ったため、予定よりも遅れてしまっている。
きっともう、リュート平野では戦闘状態に突入していることだろう。
思わず来た道を振り返ったが、遠いリュート平野はとてもではないが見えない。どんよりとした雪雲が覆い被さっているのが見えるだけだ。
浅い息を繰り返し、王城へと視線を戻して、ローシャから下りる。寒さで体が凝り固まっていたせいか、上手く着地できずによろめいてしまった。
荷物を降ろしてローシャの腹帯をほどき、鞍と鐙を外して、轡と手綱も外してしまう。蹄鉄が付けられている他はまるきりの野生馬と同じ状態にしてから、凛華はここまで連れてきてくれた親友に感謝の念を込めて、首のあたりに腕を巻き付けた。
この先は、もうジェムスだ。
ローシャのような威風堂々とした軍馬では、目立ちすぎる。
予め決めていたことだったけれど、いざ別れるとなると寂しさに駆られた。
「ありがとう……」
腕をほどいて、ローシャと顔を合わせる。
ローシャも離れがたく思ってくれているのか、なかなか動きだそうとしなかった。
「行って、ローシャ」
『……リンカ』
物言いたげなローシャに、凛華は微笑んでみせた。
「何とかなるよ。大丈夫、心配しないで」
無事にアルフィーユに帰ることができるかは、分からない。
けれど凛華は根拠のない自信を見せた。
セシアと、約束をしたのだ。
絶対に彼の元へ帰るのだと。
約束を破るのも嘘を吐くのも、嫌いだ。
凛華は馬具を傍の繁みに投げ捨て、降ろした荷物から、簡易食や水を入れた革袋、ロシオルがくれたランプを取り出して、身につけた。薬や地図など残りのものも持っていきたところだが、懐が重くなれば動きが鈍ってしまうから、諦めた。
腰に帯びた剣の柄に触れ、きゅっと唇を引き結ぶ。
ここから先、どう動くか、どうなるかは、全て自分の判断と剣の腕にかかっている。
最強騎士と謳われる師匠も、穏やかな笑みを浮かべて護ってくれる優しい恋人も、今は傍にいない。
ローシャを見上げ、ぽんぽんと背中のあたりを撫でる。
「ティオンと一緒に、アルフィーユに帰るよ」
肩に止まる小鳥は何も言わなかった。
「だから、先に戻って待っていて」
親愛の情を示すように、ローシャが鼻面を押しつけてきたので、凛華は目を閉じてそれを受け止めた。
「またね」
凛華はずっと目を閉じていたので、ローシャが名残惜しげに凛華を見つめたことも、意味ありげな視線をティオンに寄越したことも、分からなかった。
馬蹄の音が、だんだん小さくなっていく。
そっと目を開けると栗色の馬体が遠ざかっていくところで、降りしきる雪が早速ローシャの蹄の痕を覆い隠そうとしていた。あと一時もすればローシャの足跡も、そしてこれから歩き始める自身の足跡も、雪が消し去ってくれるだろう。
「ティオン、行こ。お城からの抜け道の出口は、ここから北東へ行った所だったよね」
尋ねるように声をかけたが、やはりティオンからの返事はなかった。
ちらりと視線を落として、その存在を確認する。そうしなければいつの間にかいなくなってしまいそうで、凛華は何度もティオンを確かめた。
そこは、元は離宮として使われていたのだろうが、今はすっかり廃墟と化していた。
屋根が崩れ落ちているため寒さを凌ぐこともできず、戦禍にまみれた人々も浮浪者もそこにはいなかった。
本当にこんな所に王城への道があるのだろうかと不安になりながら、凛華はその廃墟へと近づく。幅広の階段は雪に埋もれ、滑りやすくなっていた。慎重に踏みしめながら一段一段と昇っていく。勿論人目がないことを確認した上でだ。
離宮の中へと入り、剥げた壁や切り裂かれた床布や転がる花瓶におそるおそる視線を巡らせながら、一番手前の応接室らしき部屋へ向かった。
ティセルの言っていた通り、大きな暖炉が壁に広がっていた。
埃を被った部屋の中、暖炉のあたりだけ埃がなかった。誰かが通った痕だ。ティセルだろうかと考えながら、凛華は用心深く暖炉の中を覗いた。一見、何の変哲もない暖炉だ。とてもこの奥に通路があるとは思えない。
凛華は思いきって柵を越え暖炉の中に入り、横壁に向き直った。
上から四列目、右から六つ目。石の組み合わされた壁を指で辿り、一つだけ色の濃い石で指を止める。半信半疑ながら、その石を押した。びくともしないと思ったのだが、その石が音を立てて後ろへ引っ込む。あとはそこに手を入れて石壁を押せば良い。そうすれば地下へ続く階段があるから、と言われた。
痕跡が残らないように元通り石壁を動かすと、あたりは真っ暗になった。自分の手さえ見えない闇の中、凛華はごそごそと懐を探り、ランプを取り出した。火を付け、あたりを照らす。
そこは、大の大人一人がようやく通れるほどの、両脇の壁が迫る細い道だった。ランプを奥へ向けてみたが、どこまでも続いているように見えただけで先は見えない。
悪夢のきっかけになった不思議な夢に似ていると凛華は思った。
どこか分からない真っ暗な闇の中、幼い凛華は歩き続け、出口が見あたらなくて泣き出す。父親や祖父を呼び、さまよう。そして最後に優しい手に導かれて闇から抜け出した、あの夢。
一度ティオンへと視線を落としてから、凛華は顔を上げ、どこまで続くとも知れない薄暗い通路を歩き始めた。
歩いている内にもう何時間も歩いているような、けれどほんの少ししか進んでいないような、不思議な気持ちになってくる。
自分がどのあたりまで来ているか分からないが故の焦燥からそう感じるのだろう。
凛華は空腹を感じれば簡易食を口にし、喉が渇けば水を飲み、足が疲れればしばらく座り込んで回復を待ち、黙々と歩き続けた。
もういくつ目か分からない曲がり角を曲がり、やっと開けた場所へと着く。
狭い通路からの開放感を感じる前に、凛華は異臭を嗅ぎ取って眉根を寄せた。
かびくさい匂いにはもうすっかり鼻が慣れていたが、それとは別の、嗅いだことのない不愉快な匂いがあたりに充満していた。
(動……物の、匂い……?)
多くの動物を一所に閉じこめているかのような、想像するしかない饐えた匂いだと思った。
そして、ううう、と獣のうなり声のようなものが耳に届き、凛華は寒気が走るのを感じた。その声はどこからともなく聞こえ、時に途切れ、時に甲高い叫びに代わり、がしゃがしゃと金属音が混じる。
ここは、何だ。
灯りを絞り、凛華はそろそろと足を進めた。
足を踏み出したところで、気付く。
凛華の両側に、ずらりと檻のようなものが並んでいた。格子状に巡らされた柵に触れてみると、錆びた表面がざらざらとしていた。
ふと、その柵の奥に何かを見つけて、凛華は首を傾げた。
灯りを近づけ、それでも薄暗い闇の中、目をこらす。
その形が浮かんできた時、悲鳴が喉を駆け上がるのを感じた。
「……ぁっ!!」
とっさに手で口を塞いで叫び声を抑えたが、驚愕して飛び退ったため、後ろにあった檻に背中をぶつけてしまった。がしゃん、と予想外に大きな音が響き、またどこからともなくうなり声のような音が上がった。
何かを積み上げた山に見えたそれは、異臭を放っていた。かすかな羽音は蠅のたかる音なのだろう。
異臭の原因を知り、あまりの事態に吐き気さえ感じた。
それは、かつて人だったものだった。
石壁に背を凭れかけ、手足を両脇に投げ出すように座った姿勢のそれは、もう息をしていなかった。
人が、腐敗している。
「う……ぇ……っ」
先ほど食べたばかりの簡易食を吐き出し、凛華は目尻に涙を浮かべて、震える足でその檻から少しでも離れようとした。
どこにもぶつけていないのに、手首がじんじんと痛みを訴え出す。
腐り始めた頭皮から尚抜け落ちることのなかった髪色に、見覚えがあった。身に纏う服にも。
凛華にとって、忘れるにはあまりにも日の浅い出来事。
「どう……して……」
重苦しい檻は、何のため?
――中にいる人間が、決してそこから出ることがないように。
「……ディーン」
すっかり完治した傷はもう傷跡さえ見あたらない。
それなのに、テニグであの狭い部屋に閉じこめられ、鉄の枷で痛めつけられて出来た傷のあたりが、じくじくと痛んだ。
ひく、と喉が引きつる。それを自覚して、凛華は慌てて息を長く吐き出し、大きく吸い込んだ。
フラッシュバックを起こしかけたのだ。
物言わぬ死体から視線を引きはがして意識的に深呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせる。
あの時、部下の裏切りに遭いぼろぼろになっていたディーンをその場に放って置いたのは、凛華だ。
その後の彼がどうなったのか知る由もなかったが、まさかこんな風に、暗闇の中で命を落としていたとは。
きっと凛華を取り逃がしたから、罰を与えられたのだろう。
ひどい人だと思った。辛い過去を思い出さし、一時期ではあったが声まで失った。きっかけは、彼だ。
それでも頬を伝う涙を止めることができなかった。
生きていたとこの目で確かめた人間が、どんな人間であれ死んでしまうのは哀しい。
その場にうずくまり声もなく涙を流していた凛華は、複数の足音を耳にした気がして、とっさにランプの火を吹き消した。
途端に目の前が真っ暗になり、何も見えなくなる。
だが凛華は手探りで前へ進み、檻と檻の間に見つけた空間に滑り込んだ。足を抱え、頭を膝頭に押しつけ、息を潜める。
足音は気のせいではなく、先ほどやってきた通路の方向から人がやってきた。
足音だけではなく、話をしているらしい。ぼそぼそと話す会話まで届いた。
「全く、何度通っても薄気味悪い道だよな」
「お歴々も何を考えてこんな悪趣味なもんを作ったのかね」
「さあな。高貴な方々の考えることなんざ、下々には分からないさ」
皮肉る言葉に、笑い声が続いた。
笑いながらも居心地が悪いと感じるのは彼らも同じなのか、足音はそそくさと速く、脇にうずくまっている凛華に気付くことなく通り過ぎて行く。
彼らは自分たちを鼓舞するためにか、途中ことさら明るい声を出した。
「まあでも、これで勝ったも同然だよな」
得意げな物言いにひっかかりを感じて、凛華は耳をそばだてた。
「まあなあ。何たってこの非常時に主導者が死んだんだ。すぐに戦況も変わるだろうさ」
(死んだ?)
「残るのは正統な血を引かない王女だけ。あとはもう、内側から壊れていく」
「アルフィーユの終わりだ」
主導者。
アルフィーユの。
まさか。
「いくら戦時中だからって、いや、戦時中だからこそ、あれはなかったよなあ」
「同じ服を着ているだけで見逃すなんて、警備が甘いにも程があったな」
どくんと心臓が跳ね上がった。
「さあ陛下にご報告だ。アルフィーユ王はいなくなったとさ、めでたしめでたし」
わははと笑う声が地下の広間に響き、そして遠ざかって行った。
足音が完全に聞こえなくなった瞬間、凛華はばっと立ち上がった。
足を踏み出そうとして、もつれる。転びそうになって地面に手を着き、つんのめりながら少しでも前に進もうとする。
「セシア……っ」
嘘だ。
信じたくない。
誰か、冗談だと言って。
「セシア、セシアっ!!」
自分が辿ってきた道を引き返し、手をあちこちにぶつけながら走る。
今すぐアルフィーユに戻って確かめなければと思った。
嘘だと。何かの間違いだと。
「どうしたの、そんなに息を切らして」とセシアは笑ってくれる。
死ぬはずがない。
頭の中が真っ白になって、セシアのことしか考えられなかった。
『リンカっ!』
鋭い声が、耳元で凛華を諫めようとする。ずっと黙りこくっていたティオンの声だった。
『リンカ、戻ってどうする気!?』
「黙ってティオン!! セシアが……っ、セシアがっ!!」
凛華はすっかり取り乱していた。
セシアがいなければ、ここまできた意味がない。
(帰らなきゃ。帰って、嘘だって、確かめなきゃ)
『――凛華ちゃんっ!!』
凛華の足が止まった。
惰性で数歩歩き、完全に立ち止まる。
そしてのろのろと、小鳥を見下ろした。
「……ティオン?」
耳にうるさい鼓動。異常なほどせわしなくなった息。
それでもはっきりと聞こえた呼び名は、聞き慣れないものだった。ティオンはいつも凛華のことを名指しで呼んでいた。アルフィーユの人々と同じように、漢字を読むのではなく、意味のない三つの音を読み上げるように。けれど、今のは。
『今ここでアルフィーユに戻ってどうするの、リンカ』
諭す声は、温度を感じられない、冷たいものだった。
『リンカは何のためにここまで来たの? それよりも、陛下が大事なの?』
何を言うのだと、凛華は思った。
ティオンの言葉がひどく刺々しく聞こえた。
「でも、セシアが……っ」
必ず彼の元へ戻ると約束を交わした。それなのにセシアがいなければ、戻る意味がなくなってしまう。
誰に詰られても良い。
多くの人の命よりも、セシアの方が大切だと思った。
口では苦しむ人を助けたいと言いながら、本当は、誰よりもセシアの役に立ちたいと思っていた。セシアさえ居てくれれば他には何もいらないと思っていた。
焦燥に駆られて再び引き返そうとする凛華に、ティオンはふと声音を和らげて言った。
『陛下は、リンカに言ったんじゃなかったっけ? 嘘は吐かないって』
「……言ったけど」
『だったらそれを信じなきゃ。陛下は、リンカを一人で置いていくような人?』
「ちが……っ!! 違うよ。セシア、約束してくれたよ。一人に、しない、って……っ」
袖で顔を拭きながら、凛華は嗄れた声を絞り出した。
一人は嫌だと泣いた自分に、セシアは優しく笑って約束してくれた。一人にしないと。置いて行かないと。
凛華は暗闇の中で俯き、目を閉じた。
腰に帯びた剣を確かめ、懐の短剣に触れ、外套の襟元をかき合わせて、唇を引き結ぶ。
(……待ってて。すぐに帰るから)
目を開けても、閉じている時と変わらない暗闇があった。
体を反転させ、王城へと続く道を進んだ。
一刻も早くティオキア王に逢わなければ。
始めは一歩一歩踏みしめるように、次第に早足に、最終的には駆け足になり、凛華は曲がりくねった道を進み続けた。
けれど唐突に道の終わりにぶち当たり、たたらを踏む。
廃墟の暖炉からここまで、ずっと一本の道だった。ランプであたりを照らし、手も使って確認しながら進んできたのだから間違いない。途中には分かれ道も、扉もなかった。
それなのに目の前を遮るのは、石の壁。
それには先へ進むための取っ手も仕掛けの凹凸もなく、ただそこに堂々とあった。
「どうして!?」
凛華は悲鳴に近い声を上げた。
早く行かなければならないのに。
早くアルフィーユに帰りたいのに。
壁が行く手を阻み、邪魔をする。
ドンッと力任せに拳を壁に打ち付けた。剥き出しの壁はひんやりと冷たく、凛華の拳にびくともしない。
触れた指先が急速に冷えていく。それでも凛華は壁から手を離さなかった。
指と一緒に、心まで冷たくなる。
「開けてよっ!」
ずるりと手が滑り落ち、凛華は壁にすがりつくようにして、その場に崩れ落ちた。
「お願い、通して……」
誰に宛てたものでもなく、懇願する。
石壁はまるでジェナムスティそのもののようだった。
分厚く、強固で、凛華の拳ではとても壊せない。
改めて自分が相手にしようとしている国の大きさを思い知った。
やっと ここまで来られた のに
くすくすと凛華は笑い出した。そうせずにはいられない気分だった。
赤く腫れ上がった手を引っ込めて髪に埋め、目を閉じて尚ふふっと笑う。
そして呟いた。
「ど、して……」
目を閉じても、瞼の裏に広がるのは闇ばかり。
「どうして……今に限って、あの夢を見せてくれないの」
何でも良いから、逃げ込んでしまいたかった。
あの、父親と母親がいて、二人に挟まれて無邪気に笑っている自分を見ていたかった。夢から覚めれば儚さに打ちのめされることになったとしても。
夢の中に逃げ込んで、辛い現実を忘れたかった。
「セシア」
そっと名前を唇に乗せる。
セシア。セシア。繰り返し繰り返し、返事はないと分かっていて、その名を呼ぶ。
「傍にいて良いって……居てくれるって、言ったじゃない」
彼がここにいてくれれば、どれだけ心強かっただろう。あの優しい声で名前を呼んで、あの大きな手で頬を包んで、あの温かい腕の中に抱き込まれたかった。
「セシアぁ……っ!」
帰りたい。
もう戦争も預言も選択も、何も知らない。
もう嫌だ。
「わたしを帰してっ!!」
彼の元へ。
暗闇の中、頬を濡らしてしゃくりあげていると、不意に温かさを感じた。
ふわりと、誰かが頭を撫でているような感触。
「……え?」
思わず凛華は泣き言を止めて、手を伸ばした。だが、頭の上には何もなく、勿論周囲には凛華とティオンの他に誰もいなかった。
『諦めるの?』
「ティオン」
『リンカは、負けを認めるんだ?』
どうして、と凛華は瞠目した。
どうして先ほどからティオンは、不思議なことばかり言うのだろう。
いつだってティオンは凛華の傍にいて、励ましてくれて、絶対的な味方だった。時には諫められたけれど、こんな風に冷たく言葉をかけられることはなかった。
『ジェナムスティは大きな国で、リンカみたいなちっぽけな存在は何にもできない』
たった一人の少女と、軍事大国ではまるきり相手にならない。
『フェデリアの預言は当たらないまま、戦争は繰り返される』
始めから、特別な力を持たないただの少女が、戦争を止めようなど、無理な話だったのだ。
「わ、たし……ただの、高校生だよ!」
淡々と続くティオンの言葉に、凛華はたてついた。
凛華はごくありふれた生活を送る高校生に過ぎなかった。確かに両親がおらず、親戚はいるが、アルバイトで生計を立てながら一人で生きているというのは、珍しいかもしれない。けれどあり得ない話ではないし、世界中にそんな子供はいくらでもいる。何も凛華一人が特別不幸だというわけではない。
何故かこの世界の人々が生まれ持たないという黒の色素も、黄色人種の凛華にとっては何の変哲もない色で、ありがたがられるものではない。
それなのに、一体どういう仕掛けか気付けばまるで異世界としか言えないような場所へやってきてしまい、「預言された少女」などと言われて敬われ、期待されている。
期待に応えようと思っていた頃とは違い、今はそれが重苦しくて仕方がなかった。
『逃げ出すんだ』
「だって、そんなことできる訳ないじゃない!」
凛華は、ロシオルのような国一番と謳われるほどの剣の使い手ではないし、セシアのように優れた外交の腕を持っているわけでもない。第一騎士隊長のように軍をまとめあげる力はないし、大臣たちのように策を練る頭もなく、フェルレイナのようにその身を以て平和と引き替えにする身分も持たない。
期待を寄せてくれた人々が周りにいないから、凛華は正直に気持ちをさらけ出していた。
それは誰にも言えなかった弱音だった。
つまらない戦争など止めてやると、高らかに宣言した。
今思えば何と高慢だったことか。セシアもロシオルも、他の人々も、これまで四苦八苦して戦争を防ごうとしてきたはずだ。それでもできなかった。それなのに凛華は、自分がこんなにも非力だとは思っていなかったから、軽い気持ちで言った。
それがどれだけ困難かも知らずに。
『じゃあこれで、おしまい? 諦める?』
「……」
もう帰りたいと、心の底からそう思った。
何もかも知らないふりをして、目を背けてしまいたかった。
けれど、もし逃げ出したとしたら、何と思われる?
これまで親しく付き合ってきた人々の顔を思い浮かべ、それらが軽蔑の表情に変わるのを想像して、凛華は震え上がった。
きっとそんな風にはならない。
臆病者だと思われても、彼らは帰還した凛華を快く迎えてくれるだろう。優しい人たちだから。
けれど、それで自分は胸を張って居続けることができるだろうか。
(……そんなの、できない)
そしていくら気にしないと言ってくれても、いつかきっと、凛華を責めたく思うだろう。
何故預言された少女としてこの世界に現れたのに、何もしてくれなかったのかと。
たとえ表に出さない感情だとしても、そう思われるとしたらそれはとても哀しい。
「……だ……」
『聞こえない』
「そんなの、いやだ」
俯けていた顔を上げ、凛華は傍にいるティオンをしっかりと見つめた。
ティオンは静かな瞳を向けているだけだった。まるで凛華を試そうとでもしているかのように。
「……何もしないで負けるのは嫌。セシアに嫌われるのも嫌。ロシオルにもベルにも、嫌われたくない。……それに、わたし、弱いままの自分が嫌……」
何より、限界までやってみもしないで、中途半端なところで諦めてしまうのは、嫌だ。
嫌なことから目を逸らしているだけの幼い自分は、もう嫌なのだ。
『じゃあリンカが今しなきゃいけないことは?』
先ほどと同じような静かな声だったけれど、ティオンの目が和らいでいるように見えたのは、凛華の気のせいではなかっただろう。
凛華は自分が非力だと知っている。
戦争を未然に防ぐことができず、既に戦闘状態に陥ってしまっている。
始まってしまった戦争は、それ自体がまるで生き物のようにうごめき、とてもではないが凛華一人で解決できるものではない。
それでも、せめてティオキアにだけは逢ってみるのだ。
「……こんなところで、めそめそ泣いてちゃいけない」
『そうだね』
「もうどうしようもないくらい、これ以上は何にもできないっていうくらいまで、やれるだけのことをやるの」
救世主になりたい訳ではない。
凛華はただ、この世界に自分の居場所が欲しいだけだ。
それはひどく自己中心的で、けれど、だからこそ自分の持てる全てを賭けて遂げようと思える。
乱れた髪をほどいてもう一度結い上げ、フードをすっぽりと頭から被って、体熱が逃げないように体を縮めた。
ベルが作ってくれた凛華のためだけの騎士服は着心地が良く、ロシオルのくれた実用的な剣はお守り代わりにもなって心強く、セシアが与えてくれた綺麗な造りの長剣は手に馴染む。
忘れていた。
自分は、たった一人ではないのだ。
凛華は立ち上がり、目の前に立ちはだかる石壁に挑戦するような表情を向けた。
何度くじけそうになっても、そのたび自分の足で立ち上がる。
負けず嫌いで、少し世間知らずで、はらはらさせられるほど時折無謀で、けれどいつだってひたむきに前を見つめている。
ティオンは暗闇の中、眩しそうに凛華を見上げた。