始めから覚悟をしていたつもりだった。

 フェデリアとの契約を告げられた時から。仮初めの命を与えてもらう代わりに彼女の依頼を受けたその時から。
『協力してもらえるかしら?』
 何の協力なのかと尋ね、返ってきた内容に、すぐに頷いていた。
 傍に居られるのならばどんな形でも良いと思った。
 たとえ凛華を騙すことになっても、構わないと思った。
 最後に一度、「選択」を与えるその時だけでも、本当の姿で凛華に逢うことができる。小鳥の友達としてではなく、母親として。

 けれどそれまでは、決して凛華に正体を知られないようにしようと決意した。
 いずれ傍にいられなくなる存在だから。
 自分の願望からフェデリアに協力することになったけれど、正体を知られれば、協力したくなくなるかもしれないと思った。
 「選択」を与えることは、即ち別れを意味するから。

 いつか本当のことを凛華に告げようと思っていたけれど、それは今ではない。
 だから覚悟をしていたつもりなのに、ひどく恐ろしいと感じた。



「ねえ、ティオン……」
 囁くような凛華の声は、わずかだが震えていた。寒さからか、それとも別の理由からか。
 けれどティオンはそれでも何も言わなかった。
 構わず、凛華は続ける。
「どうしてお父さんと同じことを言うの? 『思うように生きたら良いんだよ』って、お父さんの口癖だった」
 ごく普通のサラリーマンだった父親は、哲学者になった方が良いのではないのかと幼心に思うほど、時折抽象的な言葉を使いながら凛華を諭した。
 凛華は、父親の話を聞くのが好きだった。難しくて眉根を寄せればより平易な言葉で説明をしてくれ、凛華が理解するまで繰り返し教えてくれた。凛華の人格形成には大部分父親の影響がある。
「お父さんとティオンが似てるなあって思ったの。でも変だなとは思わなかった」
 特別に特徴的な言葉ではなかったから。
 けれど、ここまで一致するとなると気になった。
「……お父さんがいつか言ってたの」


『お母さんがいないわたしは「カワイソウ」なの? お母さんがいないと、わたしは駄目な子?』
 周囲は、凛華のことを可哀想な子だと憐れんだ。
 幼い子供には母親が必要だと、父親に再婚を勧める人までいた。
 授業参観日に父親しか姿を見せない凛華を、クラスメイトが「お母さんのいない子」とからかった。
 凛華は何故そんな風に思われるのか、分からなかった。
 憐れまれるごとに、嫌な気持ちがおりのように積もっていった。

 そんな凛華に対して、父親はいつものように、ゆったりとした口調でなだめにかかった。
『それは違う。それは理不尽ないじめだ。凛華は悪くない。駄目な子じゃない。父さんの自慢の娘なんだから』
 父親も祖父も、凛華を自慢の子供だと言ってくれる。
 けれど家族ではない人は可哀想だと哀れみ、母親のいない子供というカテゴリに入れてどこか見下すような目で見る。
『でも、みんなわたしがカワイソウだって、言う。カワイソウなわたしと一緒に遊んでくれないもん』
『遊んでもらえない凛華は「悪い子」なのか?』
『違うよ!! わたし、何にもしてないもんっ! 仲良くしようとしたもん……っ』
 凛華は悪口を言うような子供ではなかったし、好戦的な性格ではなかったから喧嘩を売るようなこともしなかった。
 幼いなりに頑張って仲良くなろうとした。
 けれど、友達の母親が、可哀想な子だと凛華を憐れんだだけで、その友達がだんだんとよそよそしくなっていき、一緒に遊ばないと言われた。
 そんな風に一人、二人と一緒に遊ばなくなる友達が増え、小学校という閉鎖的な社会の中で、友達に見向きされなくなった凛華は周りから浮くようになり、そのうちに学校へ行くのが重荷に感じるようになった。
 悪口を言われたり、物を隠されたり、無視されたりはしなかった。
 けれど凛華にとって、可哀想だと憐れまれることは苦痛でしかなかった。

『……凛華は、どうしたい?』
『か、わいそうな、子って思われたくない……』
『それで?』
『みんなと一緒に遊びたい』
『じゃあ、どうしたら一緒に遊べる?』
 それが分からないからこうやってめそめそと泣いているのに。
 けれど凛華は手のひらで涙を拭いながら、一生懸命考えた。
『……謝ってくる……』
『何て?』
『わたしが、お母さんを取っちゃったから。お家に遊びに行った時に、カワイソウだからって、すごく優しくして、くれたっ』
『その子は凛華にやきもち妬いちゃっのかもしれないね。でも、もしそれでも一緒に遊べなかったらどうする?』
『怒る』
 一言の答えに、父親は目を丸くして、それからくすくすと笑った。
『怒るんだ?』
『うん。わたしは、カワイソウな子なんかじゃないよって、怒ってくる』
 そうか、と呟いて、父親は凛華の頭を撫でてくれた。
『じゃあ、明日、頑張れ』
『……反対しない?』
『まさか。凛華は、凛華が思ったようにすれば良いんだよ』
 ほっとして、凛華は涙でべとべとになった顔で笑った。

 父親はいつでも、凛華の考えを尊重してくれた。
 思うように、やりたいようにすれば良いといつも言ってくれた。
 そうしてそっと背中を押してもらうたびに、前向きに考えることができた。

『お父さんって、その言葉よく言うね』
『ああ、これか? そうだなあ。これは……』
 どこか遠くを見つめながら、大切な人を懐かしむように、噛みしめるように、父親が口にした続きを、凛華は今でも覚えている。



「『母さんの、口癖だったんだ』」



 薄墨のような雲が覆う空から、花びらのように大きな雪がひらひらと降ってくる。
 その雪は湿気を含んで重たく、地面に触れるとすぐに溶け消えた。
 けれどあたりはすっかり夜の支配下だ。きんと冷えた空気が広がっている。降り止む気配のない雪は、この先白く積もっていくだろう。

 強ばった表情のまま道端にうずくまる凛華を、ローシャが鼻面で押して促した。
『リンカ、雪をしのげる所に行かないと』
「ん……」
 のろのろと立ち上がり、首もとを見下ろす。
 微動だにしない小鳥は、やはり何も言わなかった。
『乗って。この先の街に、使われてない神殿があるから』

 かつんかつんと、馬蹄の音が静かに響く。
 ローシャは取り立てて急ぎもしなければ、寄り道もせず、ゆるゆるとした速度で先の街へ進んだ。
 寒々とした空気に、凛華は何度も背筋を伸ばして堪えようとするけれど、すぐに背を曲げて身体を縮め、前のめりになってしまう。
 そして凛華は何度も、肩にティオンがいることを確かめた。
 いつになく無口になってしまった小鳥は、確かめなければいるのかいないのか分からなくなるくらい、存在が希薄だった。

 怖くて、もう一度同じ問いを投げかけることができなかった。
 問いかけたくせに、答えを聞きたくないと思った。

 ――凛華の悪い予感は、よくあたってしまうから。







 がたんと、椅子の倒れる大きな音と、机から書類が落ちる音が響き、扉の前に待機していた護衛官たちが何事かと執務室に入ろうとした。
「何でもありません」
 彼らの侵入を止めたのは、王の側近の声だった。
「ですが、アイル殿」
「少し手が滑っただけです」
 ひんやりとした声音の持つ強制力はなかなかのもので、結局護衛官たちは彼らの主の顔を見ることなく、すごすごと待機場所へ戻って行った。

 床に書類の散らばった悲惨な部屋の中、アイルは短く嘆息した。
 立ち上がろうとしてふらつき、持っていた書類をぶちまけて椅子を倒した国王が、せわしない呼吸を繰り返すのを見下ろす。
 歩み寄って無理矢理に額に手のひらを押し当てれば、思わず手を引っ込めてしまうほどの熱だった。美貌の白皙にも朱が指し、苦しげである。
「やせ我慢をするからですよ」
「……」
 セシアはアイルの皮肉に言い返すこともできず、浅い息を繰り返す。
「薬を飲んでいるのでは?」
「アル、フィーユ、一の……医者という、評判は、嘘だ……」
「……大人しく寝ていないセシアが悪いのでは」
 そもそもああいった薬の類は単に頭痛や喉の痛みを抑えるためのものであって、食事と睡眠を十分に摂って根本的に体力を回復させなければ治るはずがない。
 倒れた椅子を元に戻し、散乱した書類を拾い集めて整えてから、アイルはセシアに手を貸して、椅子に座らせた。
 セシアは気怠そうに乱れ落ちた髪を掻き上げ、目眩を振り切るように頭を振った。


 アルフィーユ軍がリュート平野へ発って数日、太陽が中天にかかる頃、再びジェナムスティ軍と本格的に剣を交えることとなった。
 戦闘は、どちらも決定打を打てないまま、夕方頃に一旦中断。
 今は双方戦線を譲らず、睨み合いを続けている。
 厳しい冬だというのに軍を出したジェナムスティも、太陽が沈んで尚戦闘に打って出ることはしないらしい。
 夜襲に警戒を続けながらも剣を納めている状況であるとの報告が、早々と王城に届いた。
 今夜はこのまま大きな動きがないとセシアもアイルも踏んでいる。夜襲は、あくまで相手の不意を突いてするべきもので、アルフィーユ軍は初戦の緊張感を持ち続けたまま、警戒を怠っていない。そこへ襲撃をかけたところで返り討ちに遭うだけである。
 外交手段を用いての解決にはまだ時間がかかりそうだとの歯がゆい返事を出したところだ。
 元来中立国であったマチェスについては、こちらから持ちかけた再度の和平条約締結について何の反応もない。ティセルの話を聞く限り、そむきたくて叛いた訳ではないから、マチェスはぎりぎりまで軍を出すのを控えてくれるだろう。希望的観測に過ぎないが、事実戦線に出ている軍にマチェス兵はいないという報告がある。
 問題はティーレだ。
 ジェナムスティよりも更に北に位置する小国。アルフィーユやジェナムスティとは比ぶべくもない小さな国だが、農耕民族の多い大国とは異なり、狩猟民族の多いティーレの軍事力は目を瞠るものがある。
 そしてティーレは元々、親ジェナムスティの国である。今は何の動きも見せていないが、ジェナムスティがティーレに参戦を持ちかけているのは間違いない。
 いかなアルフィーユでも、三国を同時に相手にするのは不可能だ。
 そしてティーレの東隣の小国カルディナまでも、参戦の意を見せているとの噂もある。
 四国が相手となればアルフィーユに勝ち目はない。挟み撃ちにされれば、大陸中に名を馳せるアルフィーユ軍でも到底勝てない。

 気がかりはもう一つあった。
 あれほどロシオルから離れないように言ったのに。
 ロシオルは指揮官の一人で、その上アルフィーユの最強騎士を冠する騎士だからこれ以上ないほどに狙われやすいが、ロシオルほど信頼の置ける騎士もいない。
 それなのに、戦線からの報告の中に、凛華が単独で軍から離れたとあった。おそらく向かった先はジェナムスティ。
 何て無茶をするのだという憤りを感じたが、既に手遅れだった。
 連れ戻すべく兵を出したところで、順調に進んでいれば彼女は既にジェムス付近だ。敵国内で目立つ真似はできない。
 無茶苦茶だなと思ったところで、思わず口元に笑みが浮かんだ。
 だが、直後喉がひどく痛んで、咳き込む。
 体を折り曲げ、胸を掻きむしり、遠のく意識を引き戻す。咳がわずかに治まると、ヒューヒューと喉が嫌な音を立てた。

「もうそろそろ倒れ時ですね」
「い、やな、予告を、するな……」
 そもそも倒れ時とは何だ。
 執務机に腕をついて体を起こしたが、まるで自分の体ではないようだった。コントロールが全くと言って良いほどに利かず、腕から力が抜ける。
 アイルが素早く支えようと伸ばした手を、いらないとセシアは払った。
「少し休めば治る」
「やっと休む気になりましたか?」
「ああ……。明日は朝からティーレの外交官が来るはずだったな?」
「ええ。疑わしい国ですから王城内ではなく、王都の一角に滞在場所を作りましたが、宜しいですね」
「構わない」
「……セシア、やはり私が」
「いや、私が出る」
 相手はジェナムスティと手を結んでいるかもしれない国だ。そして一外交官であり、大国アルフィーユの国王自らがもてなすべき相手ではない。その上、セシアは通常の執務を執り行うことすらできない体調なのだ。
 それでもセシアは自分が行くと譲らなかった。
 アイルの外交の腕を信頼していない訳ではないが、国を左右する決定の場に側近が出てきたのでは、外交官の心証は悪くなるだろう。
 眉をひそめるアイルに、セシアは小さく笑んで言った。
「大丈夫だ。倒れたら、言うから」
 先日の冗談を混ぜ返されたアイルは渋々頷き、立ち上がろうとするセシアに手を貸しながら、天井を仰いだ。

 セシアは、大切に思う妹の前でも休もうとしなかった。
 アイルが再三口うるさく注意してもどこ吹く風で、限界を超えるまで仕事を続けようとした。
 一体誰の前でなら大人しく休むというのか。
 長い髪を揺らし屈託なく笑う少女を思い浮かべて、お願いですから早く帰ってきて下さいよ、と少々情けないことをアイルは思った。

「休んでくる」
「私室へ?」
 少し考え、セシアは頷いた。執務室に仮眠を取るための部屋はあるが、日常的に使用するものではないから、あまり温かくはない。体を休めるならば、私室の寝室の方が適している。
 そしてセシアは熱のこもった息を吐き出すと、すっと顔を上げた。
 辛さの混じった表情から、一瞬で「国王」の顔になる。

 アイルは横目にそれを見て、心中で賞賛した。
 セシアは自分の弱みを滅多に見せない。長い付き合いのアイルだからこそ弱った所も見せるのであって、今だって倒れるほどの高熱であるにもかかわらず、平気そうな顔をしてみせる。先ほどまでの弱ったセシアとはまるで別人だ。
「お気をつけて」
「ああ」
 不甲斐なさを感じたのか、一瞬後ろめたいような視線を自身の執務机に送ったが、セシアはふらつくことなく真っ直ぐに扉へ向かい、護衛官に私室へ戻る旨を伝えて、大人しく執務室から退出した。



 平常は王族の護衛を務める近衛の第一騎士隊も、最強騎士率いる第二騎士隊も、今はリュート平野でジェナムスティ軍と相対している。
 そのうちの幾人かは必要最小限の護衛官として残留しているが、王城全体としては警備面で綻びが出始めている。
 近衛や第二騎士隊の警備兵が担っていた部分を手慣れない兵士たちが何とか回しているが、堅固な王城の弱みになるようでは困る。
 第五の小隊長に警護について掛け合わなければならないなと考えながら、セシアは王族の居住区に足を踏み入れた。
 私室の中にまで兵士が入ることはなく、居住区の境を護るのみであるが、このあたりは王城で最も厳重な警戒がなされている場所だ。

 何人もの兵士とすれ違いながら、ふとセシアは足を止めた。
「陛下?」
「いかがなされましたか?」
 執務室から付き従っている護衛官が、不思議そうにセシアに問いかける。
 何もないはずの廊下の一部分を見つめていたセシアは、そこから視線を外して護衛官たちに向き直った。
「何でもない」
 どこからともなく嫌な種類の視線を向けられていると感じたのだが、護衛官たちは何も感じないらしい。セシア自身、視線を感じた先を見たが、そこには誰もおらず、誰かが隠れられそうな場所でもなかった。気のせいだったのだろうか。それともこの熱のせいだろうか。
 忌々しい、と自分の不調を苦く思いながら、セシアは再び歩き出した。

 だが、私室にたどり着く直前、それは起こった。

 すれ違う兵士の中の一人が、セシアに向けて踏み出す。
 城内を動き回る兵士たちと同じ軍服を身に纏った彼は、動き出すまではごく自然に風景に溶け込んでいた。だから誰も彼を不審に思わなかった。
 兵士が、不自然にセシアに近づく。
 殺気を感じたセシアが剣に手をかけたが、不調でもたつき、抜き払うのに手間取った。
 護衛官たちも、彼の行動に遅ればせながら気付き、驚愕に目を見開きながら主を護ろうとする。

 誰何と、怒号。
 煌々とあたりを照らす壁灯に鈍く光る白刃。
 偶然居住区を通りかかったらしい女官たちの悲鳴。

 ぐらりと、体が傾いだ。

 セシアは熱のせいだろうかとどこかぼんやりと考えて、けれど違うと悟った。
 視界が歪み、血の気が引き、遅れて灼熱の痛みが襲いかかる。

「陛下っ!!」

 緊迫した大声も、セシアには届かなかった。

 重力に従って傾ぎ、頬と手に感じる冷たさに、目を細める。
 冷たくて、心地良い。そう感じた自分に苦笑した。そんなことを考えている場合ではないのに。
 目を閉じる直前、セシアの視界に映ったのは、誰のものだか分からない、おびただしい量の血液。石床に敷かれた毛織物にじわじわと留まることなく広がっていく。
 ああ、自分の血か。
 納得して、セシアは目を閉じた。

 アイル、倒れたぞ。







 夜が明ける。
 冬の大地の朝は薄暗く、白い靄があたりに立ちこめ、足下は霜が降りて踏みしめる度に音が鳴る。吐き出した息の白さに負けないほどの白い雪が降っていた。

 ロシオルは戦場となったリュート平野をぐるりと見回して、最後に自軍の片隅に設けられた一角に目を向けた。
 昨日の戦闘で命を落とした兵士たちの亡骸が集められている。夜中の内に衛生兵たちが何体かの遺骸を戦場から運び戻り、遺留品と共に故郷に帰す準備を始めていた。
 ロシオルは彼らの冥福を祈り、唇を引き結んだ。

 数でも力量でも、アルフィーユ軍はジェナムスティ軍に劣らない。
 だが、それは決して死傷者が出ないことを意味しない。どちらの国も既に何人も命を落としている。
 ロシオル自身、一騎打ちを申し込んでくる騎士も、闇討ちにかかろうとする兵士も、全て剣にかけてきた。腹心の部下だった、第二騎士隊の騎士が目の前で事切れた時も、怯まずに前線で闘った。
 彼は最後に、結婚したばかりの恋人の名前を呟き、目を閉ざした。
 頬につけられた傷を拭い、白い息を吐き出す。

 殺されることへの恐怖はなかった。
 剣を手に取った時から、剣にかかって死ぬ可能性が高いことは分かっていたし、これまで何度か戦場に身を置き、死を身近に見てきた。
 必要だと思えば、何人でもほふった。
 けれど、人を殺すことにひどくためらいを感じた。

「……はっ。仮にも最強騎士が、聞いて呆れる」
 自嘲のため息を漏らし、額の汗止めを外して巻き直す。
 死にたくないと、弟子にした少女は言った。
 戦場に居る誰もがそう思っていることだろう。ロシオル自身、死にたくないと思う。
 けれど戦闘が始まれば、再び人を手に掛けるだろう。
 そうしなければならない。余計なことを考えて油断すれば、死に繋がる。それは重々承知のはずだった。
(……何を考えている。殺さなければ、殺されていたんだぞ)
 迷う自分にそう言い聞かせ、使い込んだ自身の相棒とも言える剣を見下ろす。
 初めてそれを厭わしいと思った。
『いつか、兄さんが剣を手放せるような日が来るといいですね』
 出征の準備を手伝ってくれたベルが、最後にぽつりとそう呟いたのを思い出す。
 その言葉を噛みしめ、そうだな、とロシオルはうべなった。



 リュート平野はその名の通り、隆起の少ない見渡す限りの平原で、山間や峡谷がないため地形を利用した奇襲をかけられる心配はないが、裏を返せばこちらも正面からの真っ向勝負に出るしかない。
 昨夜総司令官でもある第一騎士隊長と話し、軍を二つに分けてジェナムスティ軍を挟み撃ちにするという作戦を立てたのだが、果たして上手くいくだろうか。伏兵は、成功すれば相手に多大な損害を与えることができるが、失敗した時の危険が大きい。
 ぎりぎりまで平野の南部にジェナムスティ軍を引き寄せるための囮には、ロシオルが手を挙げた。
 最強騎士の自分であれば、首級を上げようとする敵兵は多いであろうし、何より第二騎士隊は機動力の高さで知られる隊だ。上手く敵軍を誘導することができるであろう。
 そこへ、精鋭揃いの近衛隊が裏を掻く。
 第三、第四以下の騎兵や歩兵たちは、第二騎士隊と一緒に囮となる。
 それは危険な賭であったが、王都から外交手段による戦争阻止の手だてがつきそうにないとの状況が伝わっている今、少しでもジェナムスティ軍の力を削っておかなければならない。

 白かったはずの汗止めはもうすっかり血埃で汚れている。
 手のひらも、皺がくっきりと浮かぶほどに血にまみれた。
 血と脂で切れ味の鈍った剣を振るい続けながら、ロシオルは声を張り上げた。
「迷うな!」
 そしてまた一人、襲いかかってきた敵兵の首を刎ね斬る。
 声もなく事切れた彼は、ロシオルと同じ年頃の青年だった。
 ここが戦場ではなく、敵対する国の兵という立場でなければ、友好関係を築くことができたかもしれなかった。
 彼にも両親や恋人がいたのかもしれない。自分と同じように妹や弟、老いた両親がいたのかもしれない。
 けれどロシオルはそれを考えなかった。
 迷えば、「最強騎士」として戦場で指揮を執ることができなくなってしまう。
 血で血を洗うような方法でしか戦争を止められないというのならば、迷いは消さなければならない。
 長引けば犠牲者は増える一方だ。
 一刻でも早く決着をつけることが自分の使命。

 最も危険な殿しんがりを努め、ジェナムスティ軍を平野南部に誘い込みながら、ロシオルは前を行く多くの兵士たちに向かって言った。
「駄目だと思ったら逃げて構わない。無意味に死ぬことはない。だが、アルフィーユ軍は大陸一と謳われた軍だ。これしきのことで負けるはずがない。大丈夫だ」
 大将が鷹揚に構えていれば部下は安心するものだ。
 軍の総司令官はロシオルではないが、剣を取る者ならば一度は憧れる最強騎士の名を持つだけあって、求心力は第一騎士隊長に勝るとも劣らない。
 そのロシオルが自信たっぷりな表情をしてみせたので、前を行く兵士たちはほっと安堵の息をついて駆けることができた。

 あと少し。
 先陣部隊と後続部隊が切り離されつつあるジェナムスティ軍は、まだ伏兵に気付いていない。
 伏兵を務める近衛隊は、平野の中心部から離れた、西の大山脈と平野の境にある雑木林に潜んでいる。
 アルフィーユ軍の天幕が見え、平野の終わりが見え始める頃、他の兵士たちがじりじりとした焦燥に駆られるのを感じ取りながらも、ロシオルはまだ後退を続けた。
 そしてジェナムスティ軍が完全に二つに分かれた瞬間、声を張り上げた。
「全軍停止! 反転、迎え撃て!! ――必ず、アルフィーユへ生きて戻れ!!」
 全速力で駆けていた馬の行き先を反対に変えることは難しいが、ロシオルは難なくそれをやってのけ、先陣を切ってうろたえるジェナムスティ軍に突っ込んで行った。
 最強騎士の勇ましい姿に、前を駆けていた兵士たちも雄叫びを上げて続く。
 潜んでいた近衛兵も、ジェナムスティ軍の側面を突く形で現れ、リュート平野は大混戦の様相を呈した。