一人での野宿はさんざんだった。

 火をおこすだけでも随分時間がかかった。持ってきた火打ち石の使い方も熾し方も知っていたが、方法を知っているのと実際にやるのとでは大差があり、拾い集めた枯れ枝に火を移す頃には手のひらが真っ赤になってひりりと痛んだ。
 湧かした湯でパンを柔らかくしてチーズと一緒に食べ、硬い干し肉を何とか飲み込んで食事を済ませた。ほんの少ししか食べていないのに、緊張しているからか空腹を感じることはなかった。
 湯を使えるのも最初の内だけだろう。国境を越えれば煙が人目に付くかもしれないから、ランプでやり過ごすしかない。その上、火の番をする人がいないから、夜通し火を保つことはできない。
 結局凛華は、火は消えるままに任せることにして、体を横たえたローシャに引っ付くようにして眠った。

 比較的歩きやすい道はローシャに乗ったままで、下生えの多い場所や隆起した場所はローシャから下りて徒歩で、明るい内に少しでも多くの距離を進め、陽が落ちれば丸まって眠る。
 目印はないが、時折ティオンに空から地形を確認してもらって方角を知り、ひたすら北へ向かう。
 広大なリュート平野は馬で駆け続けても半日近くかかり、その平野を迂回するにはそれ以上の時間がかかる。
 それでも凛華は弱音一つ漏らさなかった。

 ロシオルの元から離れて三日目の朝、ようやく国境に差し掛かったとティオンが教えてくれた。
 平野と街部分の境界にあたる場所では兵士たちの目が厳しいが、平野横の鬱蒼とした森は警備が緩い。脇に嶮しい山々が連なっているため、馬で通り抜けることはできず、ここからの攻撃はないと思われているからだ。
 それでも凛華は用心して、空からのティオンの目を借りながら、そっと国境を越えた。
 不法に入国するというのは何となく後ろめたいものだったが、国境から離れて街が見えてくる頃には気持ちが引き締まった。



 すぐ近くの平野で今にも戦争が勃発しそうだという事情からか、その街はひっそりと息を殺しているようだった。
 街の中心部らしい大通りには露店が並んでいるのに、店主も商品もない。人の姿もほとんど見あたらず、多くは避難しているのだろう。
 そんな中、明らかに外からやってきたと分かる風体の凛華は、俯きがちに街を通り抜けようとした。勿論目立つ黒髪はフードに隠してあるし、目深にフードを被って目も見られないようにしているが、ローシャはとびきりの軍馬だ。艶やかな毛並みの大馬を連れて歩く凛華は時折道行く人に視線を投げかけられ、ひやひやし通しだった。
 どうか話しかけられませんようにと祈りながら、大通りの端を早足に歩く。
 できれば今日中に次の街に入りたい。

 幸い、戦争を目前にした人々は少しばかり不審な少女に声をかけている余裕などないらしく、誰もがそそくさとした様子だったので、大通りの終わり、街の終わりが見えてくる頃になっても、見咎められることはなかった。
 このまま無事に抜けられそうだと凛華は胸を撫で下ろす。

 ふと、路地の方から小さな叫び声が聞こえた。
 どこか掠れ、裏返ったようなその悲鳴は、途中で不自然に途切れる。
「……?」
 不思議に思った凛華は声が聞こえた方向へ足を向けた。

 夕方に差し掛かった街は早くも薄闇に包まれ始め、奥まった路地は建物の影により更に暗かった。
 大人しくしろ、と物騒な声がした。先ほどの悲鳴とは違う、低く、脅しつけるような男性の声だ。
 続けて別の声が、殺すぞ、と言う。くぐもった悲鳴が聞こえた。女性の声だった。
 歩みを止めることなく路地に入っていく凛華の表情が、だんだん硬く険しくなっていく。
 戦争で悲惨な目に遭うのは戦場で戦う兵士たちだけではない。
 むしろ一般人の方が被害が多い。家を焼け出されたり、稼ぎ頭を兵として奪われたり、そして、兵士から乱暴を受けたり。
 凛華が目にした光景はどう考えても平和的ではなかった。
 屈強な、一目で軍人と分かる男性が三人、明らかに一般人の若い女性を囲んでいる。その内の一人が彼女の髪を掴んでおり、声を出せないようにするためか、布を口に押し込んでいた。先ほど不自然に悲鳴が途切れたのは、そのせいだろう。
『……リンカ』
 剣に手をかけようとする凛華を牽制するように、ティオンが耳元で凛華の名前を囁いた。
 ティオンの言いたいことは分かる。
 構うなと言っているのだ。
 大の大人が三人いる。対して凛華は彼ら三人を相手にできる程強くない。
 何より、今は急いでいるのだ。一刻でも早く王都に入り、ティオキア王に逢わなければならない。
 この街には他にも人がいる。凛華が手を出さなくても、誰かが彼女を助けるだろう。――凛華は、彼女の知り合いではない。
「でも……」
『彼女には悪いかもしれないけど、時間がない』
『仕方ないよ』
 ローシャとティオンが口々に凛華を止める。

 見知らぬ一人の女性と、知り合いも多い数多の兵士たち。
 凛華が危険を冒してまでジェナムスティへやってきたのは、戦争を止めて一人でも多くの死傷者を減らすためだ。襲われそうになっている彼女を助けるためではない。
 どちらか一方しか選べないというのならば、後者を選ぶべきであろう。
 けれど。

『知らない人だよ』
「でも!」

 アルフィーユの人もジェナムスティの人も、顔見知りの人も知らない人も、自分に何かできることがあるならば何でもしたいと思ったのだ。
 助けられる可能性があるのに今ここで彼女を見捨てたら、きっと激しく自己嫌悪する。
 綺麗事でも甘い考えでも構わない。
 後悔だけはしないと、誓った。

 手首に巻き付けていたローシャの手綱を振りほどき、凛華は地面を蹴った。



 多分その時の自分は頭に血が上っていたのだろうな、と後になって凛華は思った。
 凛華は何よりも暴力を恐れ、厭っていた。
 叔父夫婦からもたらされたそれは思い出せば背筋の凍るような悪夢だ。
 女性の顔を殴りつけ、赤く腫れ上がった顔を押さえる彼女に更に暴力を加えようとする軍人たちの姿が、いつしか叔父の姿と重なっていた。
 もう凛華は、無抵抗に暴力を受け入れていたあの頃とは違う。
 武器を、人を護る力を手に入れた。

 気付けば、三人の内の一人に斬りかかっていて、腕から流れる赤い血にはっと我に返った。
 突然の襲撃に呆気に取られた彼らは、けれどすぐに凛華を敵と見なした。
 目の色を変えて剣を引き抜く彼らを、凛華は剣を正眼に構えて見据えた。
『容易に相手に近づくなよ』
 ロシオルからの教えは、頭に叩き込んでいる。
 相手は軍人が三人。体格的にも体力的にも、圧倒的に不利なのは凛華だ。
 だから凛華は卑怯な手に出た。地面を蹴り上げたのだ。
 石畳の敷き詰められていない路地は、下は向き出しの地面だ。思いきり足を振り上げれば、砂がぶわりと舞う。それだけでなく手に掴んだ砂も投げつけ、凛華は隙をついて彼らの脇をくぐり抜けた。
「っ!?」
 口に布を押し込まれたままの女性が、目を丸くしている。
 その彼女を引っ張り起こし、凛華は彼女の手を引いた。
「走って!」

 足がもつれないのが不思議なほど、夢中で走った。
 来た道を戻り、大通りへ出る。戦時でなければ衆目のある場所だが、人の少ない大通りに出たところで、追って来られたら逃げられない。
 どうしようかと凛華がおたおたしていると、口から布を引っ張り出した女性が、逆に凛華の手を引いた。
「こっち」
「え?」
 大通りに面した店の一つに連れ込まれる。その直後に先ほどの路地から怒声を上げながら男性たちが出てきたが、息を潜めた二人が気付かれることはなかった。
 店員も客もいないがらんとした料理屋らしいその店の床にしゃがみ込み、しばらく互いに無言になった。
「……あの、助けてくれてありがとう」
「大丈夫ですか?」
「うん。ちょっと頬が痛いけど、冷やせば治ると思う」
 そうですか、と凛華は安堵の息を漏らした。
 そして今更ながらに、剣を抜き身のまま持っていたことに気付き、刃先にこびりついた血脂を見て顔をしかめる。
 峰打ちではなく、初めて刃で斬りつけた。襲われている彼女を助けることしか頭になかったが、自分が人を傷つけたのだと理解すると、遅れて指がかたかたと震えた。
「あなた、無茶をするのね」
「え?」
「普通、見ないふりをするものじゃない?」
 確かに無茶をしたと思う。たった一人で、軍人らしい男性三人に向かって斬りかかった。ティオンもローシャも止めたのに。
「……自分でも、無謀だったと思います」
 やっと、ぎこちないながらも笑うことができた。

 人に、斬りつけた。けれど不思議と後悔はなかった。
 こうして次第に慣れていくのだろうかと思い、少し背筋がひやりとした。

「――あなた」
 はっと彼女が息を呑む気配がした。
 見れば、じっと顔を見つめられている。
「その目……」
「っ」
 しまった、と凛華は思った。
 彼女の反応からして、瞳の色に気付かれたことは明らかだった。
 アルフィーユにもジェナムスティにも、この世界のどこにも生まれることのない、黒い色素を持った人間。
 預言は、アルフィーユの人々だけが知るものではない。ジェナムスティの人々も知っている。だからこそ一度は命を狙われた。

 そして凛華は、彼女の表情が憎しみに彩られていくのを、呆然と眺めた。





 暑い、と思ったのは気のせいだっただろうか。

 大臣たちが寒い寒いと子供のように文句を言うのが不思議で、セシアは眉根を寄せた。
 側頭部がじくじくと痛み、重く感じる。目頭が熱く、視界がぼやけていた。大臣たちと大事な話をしなければならないのに、考えがまとまらない。声を出そうとして、いがらっぽい咳が出た。
「おや陛下、喉を痛められましたか?」
 大臣の一人が目を丸くして尋ねるのに、セシアはゆるくかぶりを振った。
 体は明らかに不調を訴えているが、大臣の口ぶりから察するに、外見にはあまり出ていないらしい。
「大事ない」
 意識して出した声は掠れることもなく、平常通りのものだった。
 隣に座したアイルがちらりと視線を寄越したのを感じたが、セシアは何でもない様子で会議を取り仕切り、前線の状況や後方支援部隊からの応援要請、リュート平野周辺の被害状況の報告を受け続けた。

「休憩を入れましょう」
 話し合いも終盤に差し掛かった頃、唐突にアイルが声を上げた。
 彼が会議の途中で時間を挟むと言い出すのは初めてで、大臣たちは何を言い出すのかと目を瞬かせ、控えていた書記官たちも驚いて顔を上げた。
「アイル殿? ……休憩、と仰ったか?」
 仕事嫌いの大臣たちにも、仕事の鬼と影で言われているアイルである。まして今は戦時だ。この会議は極めて重要度の高いもので、早く結論を出さなければならないものである。
 だがアイルは涼しい顔で頷きを返した。更に、言葉を加えようとする。
 が、それにセシアの声が重なった。
「いや、今は時間が惜しい。休憩は入れない」
「ですが」
「アイル」
 短く名前を呼び、セシアは静かな瞳で副官を見据えた。
 四六時中共にいるアイルが自分の不調に気付いて休憩を言い出したのだと分かっていたが、セシアは手を振り、続きを促した。


 話し合いを終え、大臣たちが退室し、アイルが何人かの伝令に指示を出すのを見ながら、セシアは熱っぽい息を吐き出した。
 耳鳴りと共に視界が奇妙に歪み、さすがにまずいなと自分でも思った。
 けれどここで倒れるわけにはいかないと分かっていたから、拳に力を入れて堪える。
 長年の大敵と剣を交えるという非常時に国王たるセシアが不調で倒れるなど、周囲に不安を与えるどころか、前線に伝われば兵士たちの士気に影響しかねない。
 体調管理ができないようでは国王など務まらないのに、今にも意識が薄れそうで、セシアは不甲斐なさを感じた。
 伝令を出し終えたアイルが、気遣わしげな視線を向けてくる。
「熱が」
「大したことはない」
 額に向かって伸ばされる手を、すいと避けた。この分ではひどく発熱しているだろうから、触れられれば分かってしまう。
「昨夜、寝ませんでしたね」
「寝たよ」
「嘘ですね」
 即座に否定され、セシアは苦笑した。
「大方、あのふざけた申し出について考え込んでいたんでしょう」
「……考えるまでもないことだ」
 それ以上この話はしたくないとばかりに、セシアは立ち上がった。膝に力が入らず一瞬体勢を崩しかけたが、肘掛けを掴んで真っ直ぐに立つ。
「どこまでも意地っ張りな」
 意地でも背筋を伸ばそうとするセシアを、アイルはどこか諦めたような表情で見やった。
「倒れたら言ってくださいよ」
「……倒れたら、喋られないだろう」
 きょとんとした表情を見せるセシアに、「それでも言って下さい」と無茶を言い、アイルはそれ以上セシアに休養を促さなかった。

 途中アイルと別れて執務室に戻ったセシアは、座り慣れた椅子に腰を下ろし、途端ぐらりと揺れた視界に慌てて机に手を突いた。強く目を閉じる。
「――リンカ」
 小さく掠れた声で、愛しい名前を呟いた。
 不思議な輝きの瞳や楽しそうに笑う顔を脳裏に描き、セシアは肺に籠もった熱い息を吐き出して、口元に笑みを乗せた。まだ大丈夫だ。
 目を開け、霞む視界の中、セシアは未処理の入れ物に放り込んでいた封書を手に取った。



「――いさま、お義兄さま!!」

 何度目かの呼びかけでセシアがはっと顔を上げると、馴染んだ焦げ茶色の瞳が目の前にあった。随分な近距離に思わずセシアは身体を引く。
「……フェル……」
 執務机の前に立ち、腰に手をあててこちらを覗き込んでいた彼女は、ようやく反応を返した義兄を訝しげに見つめた。
 そして唐突に身を乗り出し、ぺたりとセシアの額に手のひらをあてる。避ける暇もなかった。
 みるみる内にフェルレイナの顔色が変わる。
「なにこれ……。お義兄さま、ひどい熱が」
 動揺して声を乱す妹の手を、やんわりと引きはがす。熱を持った指先が震えていることに、フェルレイナは気付いただろう。
 けれどセシアはいつものように穏やかに微笑んでみせた。
「何ともないよ」
 が、いつもはここで引き下がるフェルレイナは、今し方感じたあまりの熱に、踏みとどまった。
「お義兄さま、きちんと睡眠は取っていますか?」
「もちろん」
「……わたし、嘘つきは嫌いです」
 尋ねていながら、始めから答えを決めつけていたフェルレイナは、難しい顔をした。
「お義兄さま、何かわたしに仰ることがあるでしょう」
 難しい顔のまま、話を変える。
「何のことかな」
 が、彼女の兄は手強かった。
 埒が明かない、とフェルレイナは実力行使に出た。執務机に広げられていた一枚の紙に手を伸ばす。気付いたセシアが止めようとしたが、遅かった。
 書かれた内容にさっと目を通したフェルレイナは、きゅっと眉間に皺を作り、唇を歪めて兄を見つめた。
「……どうして、一人で全部なさろうと……」
「フェルには、関係のないことだよ」
「関係あります!! だってこれはっ!!」
「フェルレイナ」
 言いつのろうとしたフェルレイナを、たった一言名前を強く呼ぶだけで、セシアは封じた。
 兄に愛称ではない名前で呼ばれるのは珍しく、フェルレイナはびくりと肩をすぼめた。余計な口出しをするなと、兄の表情が物語っている。昔から、兄はこうだった。フェルレイナのする小さな悪戯や、時折勉強を怠けることなど、大抵のことは笑って許してくれた。けれど度を超した振る舞いには厳しかった。
「……フェルが気に掛けることじゃない。こんなものは、届いていない」
 いつになく厳しい口調でセシアは言い切り、フェルレイナから取り返した紙を暖炉の火にくべた。炎に舐められた羊皮紙はあっという間に灰に変わる。王侯貴族の間で結婚を申し込む際によく交わされる文章だった。数行で終わる簡素なそれも、差出人の名も、全ては灰となり戻らない。
 あのふざけた申し出、とアイルが言ったものだった。
 ジェナムスティ国王ティオキアから、アルフィーユの王女フェルレイナに宛てられた、結婚の申込み。
 それは祝福されるべきものではなく、誰の目から見ても、フェルレイナを人質に差し出せというもの。
 「無数の星の祝福を」と末筆に記されていた、ありふれた祈りの言葉。無数の星とは即ち、戦場にいる兵士たちの命を指すのだろう。
 フェルレイナが嫁げば、その代わりに戦争を切り上げると言うのだ。
 国力に大差がありアルフィーユが劣勢であるならばともかく、互いに計り知れない軍事力を有しており、拮抗している現在、このような脅しがなされるのは尋常ではない。

「お義兄さま……」
 呆然と、フェルレイナが呟いた。
 兄が燃やしたその紙は、戦況を一気に変えることができるものだった。
 フェルレイナがそれに署名をして送り返せば、婚約が成立する。通常婚約が成立すれば結婚が破談になることはまずないことで、一般的にはその時点で婚姻を結んだと解される。そうすれば兵士を退かせるとティオキア王は言った。
 勿論フェルレイナはそんな婚姻を望んでいない。
 けれど、王女として王族に生まれた以上は仕方のないことだと知っていた。王族が敬われ大事にされるのは、こうした時にその身を以て民を助けるものだからだ。
 それなのに。
「部屋に戻っていなさい」
 命令口調で、けれど優しくそう言われ、フェルレイナは泣き出したい気分に駆られた。
「……どうして、そうやっていつまでも子供扱いするの? わたしじゃ、お義兄さまの手助けなんてできない?」
「十五歳は、子供だよ」
「もう十六になるわ。お義兄さまは十六歳で王位を継いだじゃない。なのに、わたしだけのけ者にするの? 政略結婚なんて怖くない。それに、わたしにだってお義兄さまの仕事を手伝える」
「王女は、そんなことはしない」
「でも王族よ!」
 小さな身体で必死に言いつのるフェルレイナと、いつかの凛華の姿が重なった。
『わたしは、ジェイドを殺すのには反対だよ』
 気丈に顔を上げて、王に意見した。

 セシアはしばしの無言の後、諦めのため息をついた。
「……この後、平野に送る物資の最終報告が上がってくるから、大臣の作った一覧と違うところがないか確認して、もしあればゼラ補佐官に報告、なければそのまま出立するように。多分この先医者と薬が大量に必要になるから、各領主から届く薬の確認と、城医たちの派遣準備、リュート平野付近に安全な治療場所の確保を。薬と医者についてはジルオール医務長に伝えてあるから最終確認だけで良いけど、治療場所の方は一からやること」
 矢継ぎ早にセシアが言った内容を急いで書き留めながら、フェルレイナは息すら呑んで一言も聞き漏らすまいと意識を集中させた。
 その後いくつか言われた仕事を含めると、考えるだけで途方に暮れるような量だったが、それでもセシアがしなければならない仕事のごく一部なのだろうなと思った。フェルレイナに与えられた仕事は王宮内にいたままで出来るようなものばかりで、しかも有能な文官が担当者として挙げられている。他国との渉外は全く必要ない。そういったことは全てセシアか、アイルがこなしているのだろう。
「もし分からないことがあれば、俺かアイルに聞くように」
「はい」
 初めて与えられた王族としての仕事に浮き足立たないよう、フェルレイナはくっと顎を引いて心を落ち着けた。
「それから、婚姻については考えなくて良い」
「……」
「フェルが幸せだと思わないような結婚は、絶対にさせない。命令だよ」
 柔らかく笑まれて、フェルレイナは肩の力を抜いた。
 一方はセシアが譲歩してくれたのだ。もう一方にフェルレイナが拘れば、セシアは与えてくれた仕事を取り上げるだろう。
 頷く代わりに、フェルレイナはじっと兄を見つめて、言った。
「お義兄さま、休養を取ってください。……これは命令ですよ」
「……命令?」
「そうです。わたしは今のところ一人きりの王位継承者ですから。継承者は、国王が不在の場合、もしくはやむを得ない事情で政務に就けない場合、大臣たちの承認無くして国王を代行できる。いまのお義兄さまは、とてもじゃないけど政務に就ける体調じゃないわ。だから国王の代行者として命じます。休んでください」
 精一杯居丈高に振る舞おうとする妹の様子に小さな笑みを漏らして、セシアはわざとらしく恭しく頭を下げてみせた。
「……『陛下のご命令とあらば』」


 満足げに執務室を出て行く妹を見送り、一人になったセシアは、深く背もたれに沈んで、目を閉ざした。
 主張が認められたことに歓喜していた妹は、セシアが自分の体調についてうやむやにしたことに気付くだろうか。
 なるべくいつも通りに振る舞ったつもりだが、あれ以上話し続けるのは無理だっただろう。
 途中で何度か意識が薄れかけたが、何とか乗り切った。
 懐に、アイルに無理矢理手渡された、城医自慢の解熱剤がある。白湯か薬湯で飲んでも良いし、なければそのまま飲み込めば良い。そうと分かっていたが、懐を探ることさえ億劫で、セシアはそのまま意識を手放した。







『返してよ!!』

 何故、もっと早く現れなかったのか。

『どうして!? どうして、あと一年……ううん、あと三ヶ月でも……っ。どうして、もっと早く戦争を止めてくれなかったの!?』

 巫女に預言を与えられた客人ならば、何故もっと早くに、戦争を未然に食い止めなかったのか。


 出て行って、と彼女は怒りに身体を震わせながら、凛華に出口を指し示した。





 全ての人と上手く付き合うのは不可能だと、父親が言った。
 一時だけならば、周囲に良い顔をしてみせるのは簡単だ。だがいずれそこにはひずみが生まれる。十人いれば十人の、百人いれば百人それぞれの考え方があり、全ての人に合わせようとすれば、自分が壊れてしまう。
『お父さん、でもわたし、みんなと仲良くなりたいよ』
 母親がいないことをからかわれ、泣き帰ってべそをかいた凛華は、それでも父親の言葉に反論を唱えた。
 父親は、「凛華の気持ちは間違ってないよ」と前置きをして、少し哀しそうな顔をした。
『人の心は難しいんだ。凛華が、相手にとって良いことだと思ってしてあげたことでも、その子からすれば嫌なことかもしれない。その子が喜んでくれたとしても、同じことをした他の子は喜ばないかもしれない』
 頭がこんがらがりそうだった。
 結局父親が言いたかったのは、「無理して相手に合わせなくても良い」ということだったのだが、その時の凛華は納得がいかなくて膨れっ面をしてみせた。



 この街に入った時よりも更に深くフードを被り、凛華は通りの隅で小さくなってうずくまっていた。
 誰も彼もが好意的に自分を受け入れてくれるとは勿論思っていなかった。それはエゴイズムに過ぎない。
 けれど実際に手ひどく拒絶されると、想像以上にやるせなくて、自分がひどく駄目な存在に思えてきて、きりきりと胸の奥が痛んだ。

 ――恋人を返せと、罵られた。

 戦争を止められる少女として預言され、この世界に厄介になっている身であるならば、何故もっと早くに行動しなかったのかと。
 そうすれば彼女の恋人は戦禍に巻き込まれて命を落とすことがなかったのに、と。
 ありがとうと笑ってくれた彼女は、けれど流れ落ちる涙を拭うこともせず、敵を見るような目で凛華を睨み付けた。
 暴力を振るわれたり、軍に突き出されたりはしなかった。凛華が、彼女を暴漢から助けたからだ。そうでなければその場で殺されてもおかしくないほどの怒りだった。

 セシアは、そんなふうに考えることはなかったのだろうか。

 彼女の罵倒を黙って聞いていた凛華は、ふとそんなことを考えた自分が、たまらなく嫌になった。
 目の前にいる相手に怒りをぶつけられながら、一方で保身を考えていたのだ。きたない、と凛華は小さく呟いた。
 自身が純真無垢であると思ったことはないが、少なくとも卑怯な真似をするような人間ではないと信じていた。信じていたかった。けれど実際は、詰られ、それに耐える場面で、保身に走るような卑小な考えをする人間だった。
 少女の潔癖さから、ひどい自己嫌悪に陥った。


 ひん、と湿った馬の鼻が頬に押しつけられて、凛華は顔を上げた。
「……ローシャ」
 首のあたりに潜り込んできた小鳥が、なだめるように凛華にすり寄る。
「ティオン……」
 一頭と一羽は、何も言わなかった。ただ黙って傍にいてくれた。一刻も早くティオキア王に逢わなければならないのに、座り込んでどん底気分を味わっている凛華を急かすこともない。
 凛華は彼らの優しさに甘え、少しだけ泣いた。

 すっかり陽が落ち、あたりが急激に夜に支配されていく。
『大丈夫。リンカが間違ってたわけじゃないよ』
 耳に届く優しい慰めの言葉に頷きを返しながら、凛華はふと妙な既視感を覚えた。

 思い返してみれば、これまでに何度か同じように感じたことがある。
 ティオンの傍は居心地が良かった。勿論他の動物たち、ローシャの傍もそうだが、ティオンだけは別格だったような気がする。
 今までそれを不思議に思うことはなかった。

 どうしてティオンは、これほどまでに父親に似ているのか。

 偶然にしてはできすぎている。


「……ティオン……」
『なに?』
「ど……して、ここに、いるの……?」

 忍び寄る寒気に震えながら、凛華は肩にいる小鳥の目を見ることなく、小さく呟いた。
 人と話す時は相手の目を見て話なさいと言われて育ったが、今はティオンの目を見ることができそうになかった。
 どくどくと、鼓動が高鳴る。

「お、母……さん……?」

 返事はなく、いっそうきつくなった風の中、真っ白な雪が空から落ちてきた。