冷たい空気が辺り一帯を支配するリュート平野。
 さほど肥沃とは言えないこの土地にわざわざ居を構える人々はおらず、あたりはどこか殺伐としていた。

 南北に延びるこの平野の南側にはアルフィーユの軍陣が張られている。そしてその陣からは到底見ることことができないが、遠い北側にはまた別の陣が張られていた。
 どちらも大きく、駐屯する兵士達の数も多い。それぞれの国力を表すそれは、同じ平野内にあってもまだ直接ぶつかり合ってはいなかった。お互いに相手の動向を見守っているといった感じだ。
 現代日本人である凛華は、ローシャに乗ってジェナムスティの軍陣を肉眼で見えるほど近くで眺めて、呟いた。
「おっきな二つの暴走族が張り合ってるみたい」
 何とも呑気な評し方である。

 しっかりと自分の目でジェナムスティ軍を見つめた凛華は手綱をひいてローシャの方向を変えさせ、アルフィーユの陣へ駆け出した。




「リンカさま、お寒くないですかー?」

 のんびりとした声が聞こえて、凛華は額を伝う汗を拭いながら振り返った。
 特に寒くはない。むしろ暑い。二つの軍陣を往復してきたのだから体温も上がるというものだ。
「ううん、大丈夫。ありがとうロイア君」
 そうですか、気を付けて下さいね、と言い残して去っていった若い騎士を眺めながら凛華は小さく苦笑する。
 ここは戦場なのに、やはりロイアだけはいつもと変わらずのほほんとしている。
 ロイアから受け取った水筒を開け、氷っていないか確かめてからローシャの口元へ運ぶ。

 凛華の服装はいつものようなふんわりとしたスカートではなかった。戦場にひらひらのスカートは似合わない。
 実はこれはベルが凛華のために作ってくれたものだった。
 ロシオルたちのものよりも柔らかい生地で、襟元もそれほどきつくはない。それでも見た目は正式な騎士服で、凛華は思ったほど動きにくくないことに少しながら驚いた。
 ふ、と口元に笑みが浮かぶ。

 ベルは凛華が兄とともにリュート平野へ行くことを告げた時、真っ青になって慌てふためき、何故か「ごめんなさい、謝りますから!」とおろおろと謝り出したのだ。
 あの時の彼女の慌てようと言ったら、思い出すだけでも吹き出してしまいそうになる。普段冷静なベルからは考えられない様子だった。
 その後セシアにも了承を得て行くのだと話すとやっと分かってくれた。
 納得してくれたベルは、何やら急にはりきりだすと凛華を立たせて採寸をし出し、きらきらと瞳を輝かせたままどこかへ出かけていった。
 凛華は何をされるのかとびくびくしていたのだが、そうして半日ほどして再び現れたベルがくれたものが、今自分が着ている服なのだ。
 凛華は普段ロシオルに剣の稽古をつけてもらう時に着ている、動きやすい服で出かけようとしていたのだが、ベルが言うには、「『ちょっとそこのお店まで』というわけではないんですから! まずは格好からですわ!!」だそうだ。確かに型も大事だが実が伴っていなければ意味がないのではと思う凛華は、それでもベルの勢いに負けた。
 たった半日ほどで売り物として出しても遜色のないものを仕上げてくれ、おまけに身体にぴったり合っているので身動きの取りやすさはこの上ない。
 なるべく汚さないようにしよう、と凛華は大事に受け取った。



 ロシオルたちのいる場所へ戻ろうと、ローシャの手綱を片手に歩き始める。
 周りにはアルフィーユの兵士達がいて、騒然としていた。

 そう言えばこの平野についていきたいと言った時には、ベルだけではなくてロシオルにも反対された。
 王都のような魅惑溢れる都市に行くのではない。リュート平野は戦場だ。
 ロシオルの反対ももっともだったが、頑固者の凛華は決して考えを変えようとはしなかった。
 セシアの庇護下である王城で、自分一人がぬくぬくと護られているだけなのは嫌だ。
 そのままでは自分は何の解決もできない。それでは、「預言された少女」としての存在を否定されてしまう。
 渋る師匠を、最後には凛華は屈服させた。「セシアには良いよって言われたもんね」と何とも自信たっぷりに言って。
 セシアがそれを聞いていたなら「良いとは誰も言ってない」と文句を言うだろうが、哀しいかな、彼は仕事に忙殺される身であったので恋人の無茶苦茶な言葉を訂正することは出来なかった。

 こうして凛華は第一騎士隊と第二騎士隊──彼女の師匠の隊に加わることになったのだ。



 肩に白い小鳥を乗せ、ローシャの足音を耳にしながら、凛華は周囲に目を配った。
 軍陣には実際に剣を手に取る騎兵や歩兵だけでなく、衛生兵や運搬兵も入り乱れていた。軍服の腕に白の腕章をつけているのが衛生兵で、赤の腕章をつけているのが運搬兵らしい。何もつけていないのは、全て戦線に出る兵士だ。その中には、凛華よりも年下に見える少年もいる。おそらくこれが初陣なのだろう。
 緊張した面持ちで剣の手入れをしている彼を見て、凛華はきゅっと唇を噛んだ。
 「預言された少女」だと言われた。
 戦争を止めることができるのだと、人々に期待をされている。
 けれど凛華は、ごく普通の生活をしてきたただの女子高生に過ぎない。
 何をすれば良いか分からないまま、こうして戦争が始まりつつある。
『リンカ、何でも自分のせいだと考えるのはリンカの悪い癖だよ』
「うん……」
 ティオンの言葉に、凛華はぼんやりと頷いた。
「でも、本当に止められるのかなって、ちょっと不安になって」
『やってみないことには分からないよ。やって失敗したとしても、やらずに立ち止まってるよりは良いんじゃない?』

 ――凛華、失敗を恐れるな。やらずに後悔するより、やって後悔した方が何倍も良い。

 ふと父親の言葉を思い出して、凛華はくすりと笑った。
「ティオン、お父さんと同じこと言うね」
『――そう?』
 不自然に間をおいてから返された疑問符に、そうだよ、と凛華は頷きを返し、顔を上げた。
 冬の空は高く、雪を降らす灰色の雲がどこまでも広がっている。
 晴れていたならば、ひんやりとした青空を見ることができただろう。セシアの瞳の深い青を思い出させる空色は、凛華の好きな色だ。
「……セシア、怒るかなあ」
 これから自分がやろうとしていることを。
『……すっごく怒ると思う』
 独り言に、ティオンが律儀にも口を挟んだ。
「うう」
 戦場に行くと言っただけであれほど反対されたのだ。普段のセシアなら決してしないような暴挙に出ようとまでして、反対していた。
 とてもではないが彼に言えなかった。
 たった一晩だけ、襲いくる悪夢を追い払ってくれた彼に。
 どうしてだか分からないが、セシアが居てくれたあの時だけは凛華は夢を見なかった。目を覚ました時にはもう既に彼の姿はなかったが、ぬくもりが残っているような気がして、寝台を離れがたかったものだ。
 セシアから遠く離れたこの場所では、もう夢を見ずに眠れるようなことはなさそうだった。

 これから対峙しなければならないのは北国の国王。
 アルフィーユを統治する優しい彼とは、違う。



 軍陣の中央にある一際大きな天幕へ近づき、立っている兵士にぺこりと頭を下げて中へと入る。
 この天幕は軍の指揮官たちが集まるためのもので、総司令官の第一騎士隊の隊長を始めとして、ロシオルや他の隊の隊長が揃って何やら話をしていた。地図を広げているので、作戦の最終確認でもしているのであろう。
 凛華は彼らには近寄ろうとせず、天幕の奥へと進んだ。
 昨夜一晩、ここで寝泊まりをした。指揮官たちはそれぞれの天幕で眠り、この天幕で眠ったのは凛華だけだ。ここは戦場なのに、凛華は他の兵士たちとの雑魚寝でも構わなかったのに、気を遣ってくれたのだ。天幕の入り口を一晩中護ってくれたのも、女性の衛生兵だった。
 それほどまでに期待されているのだと思うと、胃のあたりが重くなる。
「あれ?」
 昨夜眠ったあたりに積み上げられているものを目にして、凛華はぱちぱちと瞬きをした。
 本来、戦線に支給される防寒具は必要最低限のもので、凛華も一枚の毛布にくるまって身を縮めながら寒さをやり過ごした。
 けれどそこには何枚もの毛布が置いてあったのである。
 おかしいな、と凛華は首を傾げた。
 毛布は一人につき一枚あるかないかだ。騎士の身分を持たない歩兵の中には毛布を持たないものもいるはずで、複数枚与えられることはまずない。
「あ!」
 誰のものだろうかと凛華がしきりに首を傾げていると、後ろで声が上がった。
 不思議に思って振り返れば、そこにいたのは顔見知りの騎士で、彼はばつが悪そうに頬を赤らめて視線をそらした。
 その手には、一枚の毛布。
「え……」
「あの! ……その、お寒いのではないかと思いまして。自分の毛布をお貸ししようかと……ですが、自分のなど必要なさそうですね。申し訳ありませんっ」
 早口で詫びの言葉を述べる彼をじっと見つめていた凛華は、ふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。……嬉しいです」
 いくら夜が明けていても、冬の北国は寒い。
 それなのに、こうして心配してくれている。
 毛布を受け取ると、彼が目に見えてほっと安堵したので、凛華はくすぐったい気持ちになった。

 戦争を止めてくれる少女だと、期待されている。
 その期待は凛華の肩に重くのしかかり、鬱々とした気分になっていた。
 けれど彼が貸してくれた毛布が、他の兵士たちが知らぬ間に置いてくれた毛布が、凛華の心を優しくほぐしていく。

 毛布を貸してくれた騎士が天幕から出て行くのを見送った後、凛華はその場に腰を下ろした。
 凛華の肩にいたティオンが、羽音を立てて足下に着地する。
 くりりとした黒い瞳が凛華を見つめた。
『リンカは期待されてるんだよ』
「え?」
『“リンカなら何かできるだろう”“この子がいれば何とかなるだろう”――リンカからすればそれは重苦しい期待かもしれないけど、それでもリンカがここにいることで、兵士たちの不安は和らげられる。リンカの存在は無意味なことなんかじゃないよ』
 人は、追いつめられた時、何かに縋らないと生きていけない。
 それが自身の家族への思いだったり、自身の剣の腕だったり、頼りになる司令官だったり、異世界からやってきた少女だったりする。
 ティオンの言葉に浅く頷き、凛華は兵士たちが貸してくれた毛布を肩にかけて膝を抱えた。
 北国で生まれ育ち、鍛えられた軍人たちならばともかく、高温多湿の国で育った凛華にとって、リュート平野の乾燥や底冷えは厳しいものだった。
 つい先ほど平野を駆けて暑ささえ感じていたのに、もうすっかり寒さに震えている。
 乾いてかさついた唇を舐めて湿らせ、せめて体内にある熱が逃げないように体を縮める。
 改めて、この世界は自分のいた世界とは違うのだと思い知った。
 ここには暖房もストーブもカーペットも、何もない。

 無茶なことをしているなと自分でも思う。

 ここは戦場のまっただ中だ。
 今はまだ互いに牽制し合っており、小さな小競り合いで済んでいる。
 つい二日前までは不意を突いたジェナムスティの精鋭軍を相手に苦戦していたアルフィーユだったが、これまで何度もジェナムスティ軍を蹴散らしてきた王都の軍団がやってきてからは、何とか持ちこたえている。
 それでも、もう何人もの死傷者が出ている。
 主に被害に遭ったのは以前からリュート平野に駐屯していた辺境騎士団の者たちだが、ジェナムスティ軍を退ける間に後続の兵士たちからも死傷者が出た。
 そのうちの一人は、凛華も顔馴染みの第二騎士隊の騎士だった。
 ロシオルと争うように先陣を切ってジェナムスティ軍に向かって行った彼はそのまま還らぬ人となった。
 顔を合わせ、言葉を交わした知り合いが、命を奪われる。
 凛華は先日の戦線からは外れていたが、いつ自身が同じように死を迎えるか分からない。
 もしかしたら明日にはもう生きていないかもしれない。
 もしかしたら二度とセシアに会えなくなるかもしれない。
 怖くないはずがなかった。
 自分の死を想像するだけで体が震える。
 指先を軽く剣がかすめるだけで、ひどく痛く感じるのだ。死とはそれ以上の苦痛だろう。
 けれど来ない訳にはいかなかった。
 セシアの言うように王城に留まっていれば、少なくとも戦地で無惨に殺されることはない。戦場とは違って、護衛のための兵もついてくれるだろう。その代わり、その先ずっと後ろめたさを抱えて生きていかなければならなくなるだろう。フェデリアから“預言”を受けてこの世界に招かれ、人々から期待を寄せられていたくせに、結局は何もできなかったのか、と。
 負い目を感じながら生きていくのは嫌だと思った。
 期待に応えたいと思った。
 人を助けたいという気持ちも勿論あるけれど、ほとんどは自分のためだ。
 お荷物になることを承知で連れてきてくれたロシオルにも、気遣いを見せてくれる兵士たちにも、何より切り札である自分が戦地に赴くことを許してくれたセシアにも、迷惑をかけていると思う。
 戦争を、止めたい。

「……温かいね」
 寒さに凍えながらもそう呟いた凛華に、ティオンは何も言わなかった。





 馬蹄の音が聞こえ、凛華はぼんやりと目を開けた。
 昨夜いつの間に眠りに落ちたのか、独特のひんやりとした空気で朝だということが分かった。
 かじかんだ手に白い息を吹きかけながら、凛華は毛布から抜け出した。
 ほどいていた髪を一つに結って、ずしりと重い鎖帷子を騎士服の下につけ、自分の外套に手を伸ばす。外套も冷たかったがしばらく着ている内に慣れるだろうと、震える指で留め具を何とか止めた。
 最後に、ロシオルたちの扱う剣よりもずっと細身の剣を手に取った。
 柄や鞘に細かい装飾の施された宝剣。
 この剣で人に斬りかかったことはない。テニグから脱出する際は相手の剣を奪ったが、斬りつけはしなかった。真剣を用いたロシオルとの稽古で何度か使用しただけで、そのときに綻んだ刃は既に手入れを済ませていて、切れ味は鈍っていないだろう。
 戦場で生き残るということは、この剣で他の誰かを傷つけるということだ。
 ぎゅっと剣を握りしめ、凛華はそろそろと立ち上がった。
 剣帯に剣を収めながら、天幕から出る。
 顔の皮膚がぴりぴりとするくらい、冷え込んでいた。
 天幕の並ぶ軍陣から少し離れた所に、兵士たちが並んでいるのが見える。整然と並ぶ彼らは、壮観だった。
「リンカ」
「ロシオル……おはよう」
 黒の騎士服に鮮やかな緋色の外套を羽織ったロシオルはとても勇ましく見えた。
「ああ、おはよう」
 戦場で交わすにはどこか呑気な挨拶をしてから、ロシオルはまじまじと凛華を見下ろした。
「?」
 凛華がきょとんとした様子で首を傾げる。
 ロシオルの片手だけで絞め殺せそうなほど細い首に、押せば倒れてしまいそうな華奢な体。筋肉質なロシオルに比べると体の重さは半分程度だろう。
 何度見ても砂埃の立つ戦場には似合わない少女だ。
 何かの間違いではないかと思う。
「……準備は良いのか?」
「え? あ、うん。大丈夫だよ」
 ほら、と凛華がロシオルに見せたのは、一つの革袋だった。
 ロシオルがそれを見て呆れたようなため息を漏らす。
 リュート平野からジェナムスティ王城までは直線距離にしてもかなりの距離があり、平野を迂回すれば更に時間がかかる。一朝一夕にして着けるものでは決してない。つまりそれだけ必要なものも多いということだ。
 それなのに凛華の手持ちの荷物は、ローシャに与えるための水や食料くらいしか考えていないのではと思うほど少ない。防寒具は外套があるから良いとしても、どう考えても荷物が足りない。
 ロシオルは一度その場から離れ、別の天幕から少し大きい革袋を手に戻ってきた。
 それを差し出されたので、凛華は首を傾げながらも受け取る。ロシオルが軽々と持ち運んでいたので軽いのかと思ったが、意外に重く、慌てて持ち直した。
「何が入ってるの?」
「水と食料と、念のための地図と救急道具だ」
 袋の口を開けて覗いてみれば、なるほど、包帯や薬の他に折りたたまれた地図、干し肉などの乾燥食と水袋が入っている。重いのは水の重さだろう。
「おそらくどの河川もこの時期は氷が張っているから、飲めないと思え」
「うん」
 こうして準備した荷物を見ていても、何だか実感が湧かなかった。
 凛華は戦争を知らない。
 聞いたことはあるし、本で読んだことも、学校で学んだこともある。けれどそれは全て何かを通して見知ったもので、生身の自分が経験したわけではない。
「……リンカ、大丈夫か?」
 ぽんと頭に手を置かれて、凛華は顔を上げた。
 ロシオルの表情は、リュート平野に行くと決めてから何度も目にしたものだった。
 心配していて、けれど反対しても凛華が聞かないと分かっているから半ば諦めているような、複雑なもの。
 凛華が男性で力も強ければロシオルはこんな表情をしなかっただろう。女性で力も弱く、頼りないからこそ、師匠として心配してくれている。
「多分ね」
 へへへと笑ってみせると、ロシオルは眉をひそめたが、その後には口元に笑みを浮かべた。
 ロシオルは剣の扱いにかけては厳しく、容赦ないが、本質的なところでは優しい人である。
 ふと凛華は思った。
 ――ロシオルは、人を殺したことがあるのだろうか。

「あのね、変なこと聞いても良い?」
「何だ?」
「ロシオルは、その、戦争で……誰かを……」
 どう言えば良いものか悩む凛華を見て質問を察したロシオルは、節の目立つ太い指で凛華の額を軽く突いて、凛華の言葉に続けた。
「殺したかどうか?」
 鈍く光る赤銅色の瞳に思わず言葉が詰まったが、凛華は顎を引いて頷く。
 強ばった表情の凛華を見てロシオルは眉尻を下げ、ぽんぽんと彼女の頭を撫でてやった。
 俯き加減の彼女と視線を交わらせることなく、ロシオルは静かな声で言った。
「――殺したことがないとは、言わない。戦場では情けは自らの死に繋がる。剣を手に取った時から、自分が人殺しになる覚悟などついていたさ。ただ、剣をもってしなくても解決できることには、俺は絶対に剣を使わない。殺すために使うんじゃない。この剣は……生きるために使うんだ」
 遠回しに人を殺したことがあると言うと、凛華はどう反応していいか分からないらしく、唇を引き結んで黙っていた。
 ふとロシオルは凛華に稽古をつけ始めた頃のことを思い出した。
 防御もろくに出来なかった凛華が次第に攻撃の手を覚え始めても、それはあくまで相手の動きを制そうとするための攻撃ばかりだった。決して相手に負傷させるような手は使わず、ただ「負けない」剣を使うだけだった。
 そこから察するに、凛華は人を殺めたことなどないのだろう。
 自身を助けようとしてくれた野うさぎの命にさえ、心からの涙を流して心を閉ざそうとした少女だ。
 けれどそれでは戦場で生きていけない。
 負けない剣ではなく、勝つための剣を振るわなければならない。

「……リンカは、苦しんで死ぬか、苦しまずに死ぬか、どちらが良い?」

 自分の身は自分で守るしかない戦場では、テニグで凛華が見せたような峰打ちは使えない。相手が殺す気で向かってくる以上、同じ気持ちで立ち向かわなければ、生き残れない。
 戦闘になれば相手を殺せと、それも一息に息の根を止めろと、ロシオルは言うのだ。
 勿論凛華はロシオルの言う意味を正確に理解したが、返した言葉はその二択から離れるものだった。
 にっこりと、あのロシオルをひどく魅了する笑顔で、笑う。

「わたしは、死にたくないよ」

 何てわがままで、自分勝手な答え。
 けれどそれは誰もが思うことで、ロシオルも死んでも良いとは決して思っていない。
 あまりに素直で分かりやすい答えを聞いて、ロシオルは思わず噴き出して笑った。
「……なるほど」
「うん。死にたくない。……だって、セシアと約束したもの。生きて帰るって」
 にこにこと笑みを浮かべながらそう言う凛華はどこか幼く、そしてどこか達観したようなところもあり、ロシオルは弟子の成長に目を細めた。
「これを持って行け」
 言いながら、ロシオルは剣帯に挿してあった短剣を引き抜いて凛華に渡した。
 小振りなそれは、凛華の手には少し大きかったが、長剣とは比べると随分軽い。長剣は容易に相手を殺せるが、筋力のない凛華に長時間振り続けられるものではない。その点、短剣は使い方さえ間違えなければ長剣同様の威力を発揮する。
「剣を持つ腕を狙うと良い。戦意を失わせるには利き腕を傷つけるのでも十分だろう。ただ、容易に相手に近づくなよ。……それと、俺はリンカに死んで欲しくないと思っている。陛下も同じだろう。それだけは忘れるな」
 飾り気のない短剣を手に取り、検分するように見つめていた凛華が顔をあげ、視線が合うのを待ってから、ロシオルは続けた。
「自分の身が危ないと思ったら迷わずに倒せ。お前は動きの速さは人一倍だが、持久力と筋力は男に劣る。絶対に持久戦に持ち込むんじゃない。……できれば、敵兵を見かけたらすぐに隠れろ。それは、弱さではない」
 はい、と凛華は頷いた。
「……絶対に死ぬなよ」
「うん……。やってみるよ」
 そうは言ってもおそらく凛華に人を殺すことはできないだろうなと思い、ロシオルは頭一つ分小さな騎士を見下ろして、死んで欲しくないと強く願った。
 どうかご加護を、と女神への祈りの言葉を呟き、ロシオルは凛華に尋ねた。
「援護はいるか?」
「いらない」
 どこかからかいを含んだ言葉に、凛華はきっぱりと答えた。
 仮に今援護が欲しいと言ったところで、ロシオルは司令官の一人だ。凛華一人を護るわけにはいかないことくらい、凛華はよく知っている。
「ロシオルこそ死なないでよね。ロシオルがいなくなったら、わたしの剣の稽古、誰が見てくれるの?」
 付け足すように言うと、ロシオルは笑った。
「俺くらいしかいないだろう。だいたい他のやつはリンカに甘過ぎるんだ。俺くらい容赦がないと、剣の腕は上がらない」
 容赦がないという自覚はあるのだと、凛華は変なところで感心した。
「やっぱりロシオルって、鬼師匠だよね」
 くすくすと笑うと、ロシオルが嫌そうに眉根を寄せたので、それがまた面白くて凛華は笑った。


 リュート平野に発つ直前、凛華は自分の考えをロシオルにだけ伝えた。

 ティオキア王に逢いに行くと。

 こんなことは勿論セシアには言えなかった。戦線につくことでさえあれだけ反対されたのだ。前線より更に危険な、ジェナムスティ王城へ忍び込もうと言うのである。
 無茶を通り越して無理だと、ロシオルは反対した。
 けれど凛華が頑として意思を曲げなかった。
 ティオキア王に逢うには今しかないと思った。
 戦争に突入する間際の、国内が不安定な時でなければ、大国の王城へ足を踏み入れることなどできはしない。
 ロシオルは非常時ほど厳戒な警備がなされているから近づくことさえ出来ないと言ったが、凛華は首を振った。
『抜け道を教えてもらったの』
 ロシオルは怪訝な表情を見せたが、すぐに理解した。
 数日前、王宮にはティセルがいた。ティセルは、王族や重臣しか知らない王城からの抜け道を知っている。
 最後には何とかロシオルを説き伏せ、凛華は単身でジェナムスティへ向かうという意思を貫いた。



 ロシオル自ら連れてきてくれていたローシャに鞍を乗せ、革帯を腹で留める。
 鞍の後ろに荷袋を結びつけ、凛華は鐙に足をかけた。
 始めは跨ることさえできなかった軍馬だが、今ではすっかり慣れたもので、するりと鞍上に収まり、首のあたりを撫でてやる。馬は臆病な動物のはずだがローシャは戦闘を前にしても落ち着いていて、不思議と凛華も平静を保っていた。
 平野を大きく迂回してジェナムスティに入るため、ここで別れるとしばらくはロシオルに逢えないだろう。
 既に準備の整っている兵士たちを一瞥し、すぐ傍にいる師匠に視線を落とす。本来ならばロシオルも第一騎士隊の隊長を始めとする指揮官たちと並んであそこにいるはずだったのだ。それなのに出立のぎりぎりまで見守ってくれている。
 凛華は精一杯の笑顔を見せて、言った。

「行ってきます、鬼師匠!」

「『鬼』は余計だ、『鬼』は。……行って来い」
 赤銅色の瞳を細めて笑う師匠をしばし見つめて脳裏に焼き付けた後で、凛華は前を向いて手綱を取った。
「行こう」
 ローシャに声をかけて、ぽんと腹を蹴る。
 緩やかに走り出したローシャの動きに合わせて体を揺らしながら、凛華は空を見上げ、片手で胸元から引っ張り出した鳥笛を吹いた。翼を広げて空を飛んでいたティオンが人の耳には聞こえないそれを聞きつけてすぐさま降りてくる。
「ティオン、天気は?」
『下り坂だね。今日も雪になりそうだよ』
「そっか」
 肩に留まったティオンにそっと頬を寄せ、凛華は口元に笑みを浮かべた。
 ここから先、物事を判断するのも自分を守るのも、自分だけだ。
 ちらりと後ろを振り返れば、風になびく緋色の外套が見えた。そしてその向こうには、幾千もの兵士たちが並んでいる。

 どうか、彼らが苦しみながら死ぬようなことがありませんように。



 ──必ず生きてお戻り下さいね、リンカ。
 ──リンカこれだけは約束して。絶対に、帰ってくるんだ。いいね。

「……はい」



 冷たい冬の風が平野を吹き抜ける。

 高い位置に結い上げられた黒髪を絡め取り、呟かれた小さな囁きを容赦なく吸い込む。
 風に頬をなぶられながらも、凛華はぴんと背筋を伸ばして前を見据えた。
 右手後方に見えるのはアルフィーユの兵士たち。そしてずっと前方にいるのであろうジェナムスティの兵士たち。
 戦争を止める方法はただ一つ。
 兵士たちを、止めなくては。
 そしてそれができるのは――


 目指すはジェナムスティ王城。
 ティオキア王に逢い、兵士たちを止めるため。