その情報は王城内で誰よりも早く国王の元に届いた。
国王はその情報をもたらした伝令兵に口止めし、そして信頼の置ける者たちを集めて軍議を開いた。
副官のアイルと、国の重鎮である大臣たち、そして近衛騎士隊の各隊長がずらりと並ぶ。皆一様に険しい顔をし、意見を交わす。
ある程度の方策を決め終えたところで朝早くから続いていた軍議はいったん終了となり、軍部の指揮を執る各隊長らは急いで出て行き、大臣たちもそれぞれ準備しなければならないことがあるため、辞去の言葉を残して去った。
副官と二人きりになってもなお報告書に目を通し続ける国王に、アイルは声をかけた。
「セシア」
「何だ」
「根を詰めすぎです。後ほどの会議に備えて休憩されてはいかがですか」
「……ああ……」
自分でも分かっているのだ。昨夜は徹夜で仕事にとりかかっていたし、今朝舞い込んできた報告書のため、深夜に近い今まで仮眠もとっていない。
休むべきだと分かっているのだが、眠ろうとしたところでろくに眠れないに違いない。
それでもセシアは口元に笑みを浮かべて、副官に頷いてみせた。
アイルは何も言わず、一礼して部屋を辞した。
一人きりになったセシアは先ほどから繰り返し目を通し続けている報告書に、もう一度視線を向けた。
何度読み直しても内容は同じ。
リュート平野のアルフィーユ側に設けられている砦からの報告は、戦争は避けられそうにないというもの。おそらく夜が明ければなしくずしに戦闘に突入してしまうだろう。
終わりの見えない戦争が、また。
だん、と机に拳を打ち付け、セシアは深く息をついた。
力任せに打ち付けた手はじんじんと痛むが、戦争が始まればこれくらいの痛みでは済まない。大国同士のぶつかり合いだ。何千何万という死傷者が出るだろう。戦禍を被った土地はやっと復興してきたところだというのに。
ましてこれからとなると、必然的に真冬の戦いになる。
通常どの国も冬の戦争を避けたがるものなのだ。収穫を終えているので備蓄が尽きればそこまでだし、何より大陸の北方であるこのあたりの冬は厳しく、リュート平野には雪が積もる。
戦争は、人と馬のぶつかり合いだ。
雪の降る中でそれを行うなど、正気の沙汰ではない。
兵士だけでなく戦禍に巻き込まれて家を失う者は、寒さと戦わなくてはならない。他の季節の戦いよりもひどいことになるだろう。
そしてアルフィーユ軍の指揮を執る総大将はセシアではない。
セシアはこの城に残り、離れたところから戦況を見ているしかできない。
リリスの血を引いた正統な王族は、セシア一人だから。フェルレイナは現在第一王位継承者とされているが、リリスの血を引いていない。誰も表だってそれを言うことはないが、仮にセシアが死ぬようなことがあれば、その後の王位継承には一悶着あるだろう。
だからアイルも大臣たちも騎士隊長たちも、セシアが戦場に出ることなどあってはならないと言った。
実際に指揮を執るのは近衛の長官である第一騎士隊長であり、セシアのすることは剣を持って戦うことではなく外交で戦争の被害を最小限に抑えることなのだ。それがどれだけ重要なことかは分かっている。
それでも。
『こんなつまらない戦争、絶対に止めさせるんだから!』
迷いのない目をしてそう言った彼女を思い出す。
許せないと言った。兵士たちを戦地へ向かわせ、安全な王城でそれを見ているだけのジェナムスティ国王を許せないと。
セシアもまた戦地へ赴かない国王なのだと彼女が知ったら、どう思うだろうか。
かたんと物音を立てて椅子から立ち上がり、セシアは室外へ向かった。
軍議を行っていた部屋の周りに警備兵はおらず、しんと静まりかえっている。冬も近い深夜の外気はきんと冷え切っていて、吐き出した息が白く濁った。
空を仰げば、満点の星空が広がっている。
そして視界に入る見慣れた塔に、セシアはゆっくりと瞬きをした。
自然と足がそちらへ向かう。
もう深夜だ。それでなくとも早寝をするらしい彼女は、きっともう夢の中だろう。
それにこのような時間に部屋を訪ねるのはいくら恋人という身分であっても、予め報せていない以上非常識だ。
頭では分かっていた。
それでも、まるで熱に浮かされたように歩き続けていて、引き返そうと思わなかった。
途中何度か見回りの警備兵と出くわしたが、セシアがこの塔の主と恋仲であるということを知っている彼らは何も言わずにセシアを通した。
螺旋状になった階段を上がり、部屋の前まで来て、セシアはちらりとしまったなと思った。
セシアはこの王城の主である。足を踏み入れられない場所はない。が、この部屋の鍵は今手元にない。さすがにこれだけ人気のない塔だ。戸締まりがなされているだろう。
だが、それは杞憂に終わった。
深夜に部屋を訪れる恋人としてここは喜ぶ場面なのか、それとも無防備すぎる少女に頭を抱える場面なのか、少々悩みながらも、セシアは鍵の掛けられていない扉を開けた。
当然ながら部屋の灯りの始末は済んでいて、薄暗かった。
それでも部屋に足を踏み入れただけで何故かほっとした。
「リンカ」
名前を呼ばれたような気がして、凛華はううんと唸った。ころりと寝返りを打てば、掛布が肩からずり落ちてしまったのか少し肌寒い。
ああまた夢を見ているのかと凛華は無意識に顔をしかめた。
低く、優しく名前を囁く声。
名前を呼ばれるのが好きだった。
それだけで愛していてくれると分かるような、優しい声だったから。
けれどもういない。凛華を置いていなくなってしまった。
それなのにこの優しく残酷な夢は、凛華に幸せを繰り返し与えるのだ。目を覚ませば現実に嘆くのに。いっそ覚めなければ良いと願うのに。
何日連続でこの夢を見せ続ければ気が済むのだろうと、凛華は誰ともしれない相手を恨めしく思った。夢は深層心理が見せているもので、本人が望んだものだと言うが、凛華はこんなものを望んでいない。
もう呼ばないでくれとばかりに声に背を向けたが、再び優しい声で名前を呼ばれた。それも、耳元で。
今まで夢の中でこれほど現実味を帯びて囁かれたことがあっただろうか。
不審に思い、凛華はううんともう一度唸った。
うっすらと目を開ければ、細い視界に映るのは薄暗闇と白い掛布で、やはり夢だったのかともう一度目を閉じようとする。
が。
ふわりと耳元をくすぐる唇の感触に、凛華は一気に覚醒した。
「ひゃああっ」
起き抜けの珍事に裏返った悲鳴をあげて飛び起きる。
「おはよう」
暗闇の中でも光を放っているかのように完璧な笑顔を浮かべる恋人が、目の前にいた。
「おは、おはようって、セシア!? え、セシアなの!?」
先ほどまで眠りこけていたから頭がついていかない。
「そう、そのセシア。おはようっていう時間じゃないけど、お邪魔してます」
「あ、……い、いらっしゃいま、せ?」
寝台の上で言う台詞ではないなと思ったので、最後に思わず首を傾げた凛華だった。
それから、自分が今どんな格好をしているかに気付いてあわあわと掛布を掻き寄せた。梳かしていない髪はぼさぼさで、寝ぼけ眼で、おまけに寝衣だ。とても麗しの恋人の前に出られる姿ではなかった。
「あの……セシア、どうしたの?」
色々言いたいことはあったのだが、結局そんなありきたりな質問しか出てこなかった。
国王の正装のままのセシアは苦笑めいた表情で、凛華のほつれた髪を撫でつけ、その質問に答える。
「ちょっと、リンカに会いたくなって」
直球の台詞に、凛華は「そ、そうですか」ともごもご言いながら頬を染めた。
ここ数日間、セシアの顔を見ることさえなかった。
国王の執務室にはひっきりなしに文武を問わず官吏が訪れ、夜遅くまで灯りが灯されたままらしく、ひどい時は朝方まで人気が絶えないという。セシアは自室に戻る時間もない。寂しいと思う気持ちはあったが、相手は国王なのである。そして今は戦争に突入するかもしれないという危機的状況だ。だから凛華は、とてもではないが夢のことを相談できる雰囲気ではない執務室には近づかなかった。
数日ぶりに見るセシアは、顔色が悪いような気がした。
寝台に腰掛けたセシアににじり寄り、凛華はそっとセシアの頬に触れた。
「セシア、寝てる?」
ひんやりとした一回り大きな手が凛華の手に重ねられる。
「仮眠は一応取ってるよ。そんなにひどい顔してるかな?」
そんなことはない。くまも出来ていない。ただ何となく、辛そうだなと思ったのだ。
首を左右に振ったが、それでも眉根を寄せてしまった。
「俺は慣れてるから大丈夫だよ」
「……この後も、お仕事?」
セシアは曖昧に笑うだけだったが、それは肯定なのだと凛華でも分かった。
「今は休憩時間なの?」
「そんなところかな」
「じゃあ寝なきゃ駄目だよ」
たとえ眠れそうになくても横になるだけでも身体は十分休まるものだ。凛華は寝不足だと頭がぼんやりとして行動が怪しくなることを自覚しているので、睡眠がどれだけ大切か身をもって知っている。いくら国王であるセシアが睡眠不足に慣れているとは言っても、凛華にとって基本中の基本である睡眠を取らないというのは問題だ。
年下の彼女にこんこんと睡眠の大切さを語られたセシアは、今度は曖昧に笑うだけでは見逃してくれなさそうだと苦笑した。
どこか抜けているところのある凛華であるが、生活面に関してはセシアよりもきちんとしているのである。そこはやはり女性だからと言うべきか。
お説教されては仕方がないので、休憩時間が終わるまでは自室で仮眠を取ろうかと思ったセシアだったが。
「ね?」
なんて、可愛く首を傾げた恋人が寝台の端へ寄って、一人分のスペースを空け、ぽむぽむと叩いた。「さあここで寝ろ!」と目が語っている。
「…………」
とっさに上手く反応できなかったセシアはしばらく沈黙に徹した。
キスをしようと頬に手を伸ばせば頬を赤らめて及び腰になるし、抱きしめようとすれば身体を強ばらせるし、未だに恋人としての触れあいに慣れない初心な凛華は、何故この非常にまずい状況を理解しないのか。
自分を何だと思っているのだろうとセシアは束の間遠い目をした。
セシアは国王であり紳士だが、同時に普通の青年である。聖人君子ではないから恋人と居れば情欲に揺らぐこともままあり、それでも慣れない凛華のために理性を総動員させて欲望を抑え込んでいるのが常なのだ。それなのに同じ寝台で寝ろとは何の拷問だと問いつめたくなる。
「……お誘いはありがたいけどやめとくよ。眠れなさそうだから」
若干心が傾きかけたのだが、何とか平常心を取り戻して丁重にお断りをした。
が、凛華はむうと眉をひそめて、ご不満の様子である。
「でも、寝なきゃ倒れちゃうよ、セシア」
「大丈夫だよ。これでも身体は丈夫なんだ」
「顔色の悪い王様に言われても説得力なんてないんだから」
唇を尖らせるようにしてそう言った凛華からセシアは視線を逸らした。どうも彼女相手だと分が悪い。他の人であれば上手くごまかせるようなことでも、彼女は見抜いてしまう。しかしこればかりは辞退しなければ理性を保てるかどうか自信がないと、再度固辞しようとしたセシアだったが、凛華が先手を打った。
「わたしが居たら眠れないって言うんだったら、わたし出ていくから。だからここで寝てね?」
言いながら、既にもそもそと動いて寝台を抜けだそうとする。
セシアは慌てて彼女を抱き留めた。
顔を上げた凛華の嬉しそうな表情を見て、観念する。
「……分かった、ここで寝るから。廊下は寒いよ」
「やったっ」
どちらが「やった」と言うべきなのか分かっていないな、とセシアは思った。
この部屋の寝台は大の大人二人が並んで眠っても有に余りができるほどだったので、なるべく端で眠ろうとしたセシアだったが、凛華がぴったりと身を寄せてきたのですぐに諦めた。
「一緒に寝るの、初めてだね」
なんてにこにこ笑いながら言うものだから、セシアとしては脱力するほかない。
「……そうだね」
凛華はセシアの寝ぼけたところを見たことがあるし、寝顔も一度目にした。セシアは何度か凛華の寝顔を見ていて、寝台に運んだこともある。だがこうして二人で並んで眠るのは初めてだった。
凛華が目を開けているから理性が揺らぐわけで、早く眠ってくれればどうにでもなるのだが、とセシアが思いを巡らせていることを知ってか知らずか、凛華は不意に真顔になってセシアをじっと見つめた。
「ん? どうかした?」
「セシア」
「なに?」
「あのね、ロシオルたちがリュート平野に行くって聞いたの」
誰がそれを彼女の耳に入れたのかは考えるまでもなかった。彼女は、ロシオルの弟子なのだから。
今リュート平野に駐屯している兵だけでは、到底太刀打ちできるものではない。
リュート平野で攻め落とされればそのままジェナムスティ軍はアルフィスに侵攻してくるであろうから、市街戦を避けるためにも何としてもリュート平野で食い止めなければならず、それには王都の騎士団を向かわせなければならない。
進軍の準備は大急ぎで始められており、明日には出立できる。そして真っ先に出陣するのがロシオル率いる第二騎士隊と近衛の第一騎士隊の連隊なのだ。
薄々凛華の次の言葉が予想できた。
案の定彼女はひたとセシアを見つめ、言った。
「わたしも一緒に行きたい」
「駄目だ」
ぴしゃりとはねつければ、凛華はぐっと息を呑み込んだが、それでも目を逸らすことはしなかった。
決して引かないという決意を込めた目だ。
「駄目って言われても行くもん」
「……リンカ」
冗談ではない。リュート平野は夜が明ければ悲惨な戦場になるだろう。人馬が入り乱れ、誰もが自分の命を守ることで精一杯で、他人を守っている余裕などない。そして死は誰にでも訪れ得る。人間の身体は脆く、剣があたれば、矢が刺されば、馬から振り落とされ踏みつけられれば、簡単に死んでしまう。まして凛華は剣の使い手ではあっても、まだたった十六歳の少女なのだ。
「絶対に許さない。危険過ぎる」
「分かってる! 怪我をするかもしれないし、もしかしたら……死んじゃうかもしれないって、分かってる。でも、何かしたいの。だってわたしは『預言された人間』なんでしょう?」
それしか存在意義がないから。
そうするために凛華はこの世界に招かれたのだから。
それができなければ、この世界に認めてはもらえないと思ったから。
「分かってない」
冷ややかに言われて、凛華は言葉に詰まった。
身体を起こしたセシアに覆い被さられて、手首を寝台に押さえつけられる。顔を上げた先のセシアは、どこか傷ついたような表情で凛華を見下ろしていた。
「……俺が、そんなこと許すと思う? リンカに何かあったら俺がどう思うか、分かってる?」
「でも!」
「でもじゃない。リンカ、これまでの戦争の中で、戦場へ行って無傷で帰ってきた者は一握りもいない。多くは負傷して、何人も死んだ。……死んだら、それで終わりなんだ。それはリンカも知ってるだろう?」
凛華は両親も祖父も亡くした。
人間は命を終えてしまうと、もう二度と目を開けない。どれだけ泣き叫んでも、願っても、祈りは届かない。骸という物体になって、動かなくなる。
「それでも、何もできないなんて嫌だよ」
重ねてセシアに責められそうな雰囲気だったので、凛華は間を置かずに言った。
「駄目ならセシアの手は借りない。ローシャに乗せてもらわないし、もらった剣も置いていくし……。もし掴まっても、絶対にセシアの名前出さないし、迷惑がかからないようにするからっ」
数学の次に教えてもらうようになったのはこの世界の地理についてだった。
王都アルフィスからリュート平野までの道は頭に叩き込んでいるし、そこからジェナムスティのジェムスまで行くことだって出来る。馬も武器もどこかで調達すれば済むことだ。
「……何しに行くつもり?」
短いため息をついたセシアに問われて、凛華は一瞬視線をさまよわせたが、しっかりとセシアを見つめて答えた。
「ロシオルの手伝いを」
それは即ち、人を傷つけるということだ。
戦場では衛生兵や物資を運搬する兵もいるが、ロシオルはそれらではない。第一騎士隊長を軍の総司令官とし、ロシオルは副司令官として軍をまとめ上げ、先陣を切って敵軍の中を突っ切っていく戦士だ。そこでは騎士につく従士も例外なく武器を手に取る。
「人を殺すことになる。平気なの?」
「平気なんかじゃ、ない。ロシオルも言ってた。殺したくて殺すわけじゃないって。嫌な夢にうなされることもあるって」
顔を背けずにいる凛華の真意を探るように見つめ返したが、凛華は表情を変えなかった。
「……どうしても行くっていうなら、この部屋から出してやらない」
「え?」
目を丸くする凛華の手を拘束する力を強め、わざと恐怖感を与えるように乱暴に唇を重ねた。
思わず目をきつく閉じた凛華がくぐもった声を上げてもがいたが、セシアを押しのけるほどの力はなく、良いように弄ばれるしかなかった。
先ほどまでの戦争であるとか人を殺すであるといった、寝台の上で交わすには何とも物騒なやり取りに比べれば随分恋人らしい光景ではあったが、長い口付けから解放されたあとの凛華は、息を弾ませながらも意思を変えはしなかった。
「……行くからね」
今度はセシアが目を丸くする番だった。
手を拘束されたままで、凛華はそんなセシアを見上げてにこりと笑う。
「それにセシアは、そんなことしないよ」
自信たっぷりな言葉に、セシアは毒気を抜かれた。
「その自信はどこから?」
尋ねてみれば、彼女はひどく幼くも見える笑顔を浮かべて、言った。
「だってセシアはセシアだもん。そんなこと、しないよ」
訳が分からない。
セシアはがっくりと肩を落として、敷布に縫い止めていた彼女の手を離してやった。
自由になった手を開いたり閉じたりしながら、凛華は脱力したセシアに「ね?」と確認するように首を傾げた。正解しただろうと言わんばかりの笑顔だ。
いつもはのんびりしているくせに、どうしてこういう時は頑固なのだとやけくそ気味に考え、セシアは凛華に覆い被さるのをやめてごろりと寝台に転がった。
「あーもう……。リンカ、その頑固さは誰に似たの……」
「お父さん。あとね、ロシオルのもうつったかな?」
上半身を起こし枕に頬杖をついて、凛華はくすくすと笑った。
ロシオルはおそらく騎士団の中でも一、二を争うほどの堅物だろう。
確かにそうかもしれないとセシアは苦笑した。
「セシアに怒られたのって、初めてかも」
セシアがもし感情に駆られて乱暴をはたらくような男性だったらどうするつもりだったのか。そんなことはまるで考えもしなかったというように無邪気に言いながら、凛華は仰向けに転がったセシアの腕にぴったりとくっついた。凛華がセシアに寄せている信頼は絶大なのだ。
「行っていいよね?」
確認のために尋ねれば、こちらを向いたセシアが呆れたようにため息を零し、凛華を抱き寄せる。
「……絶対にここに帰ってくること。約束できないなら許さないよ」
「うん。ちゃんと帰ってくるよ」
根拠もないことを口にし、凛華はこくりと頷いた。
「もし行方不明にでもなったらアルフィーユの兵士全員を動員して捜索するつもりだから、覚悟しといて」
「セシアならやりかねないかも」
「ローシャは良い軍馬だから、必ずローシャに乗って行くこと。俺のあげた長剣を絶対身につけておくこと。ロシオルからもらった短剣も離さないでおくこと。なるべく相手の槍が届くような範囲には行かないで、盾はちゃんと持って、鎖帷子も重くても脱がないで、それから……」
「そ、そのあたりはちゃんとロシオルに相談してやるから!」
延々と注意が続きそうだったので、凛華は思わず途中で口を挟んだ。
ちらりと視線を寄越したセシアが、しかめ面で更に言う。
「怪我もしないように」
「……それはちょっと無理かも」
アルフィスの城下街に遊びに行くのとは訳が違う。
どれだけ怪我をしないよう気をつけても、かすり傷一つ負うなというのは無茶だ。
無理なことは無理だと正直に言ったのだが、セシアは意見を翻さなかった。
「駄目。怪我しても許さないよ」
だが先ほどと違うのは、目が笑っているところだ。あまり迫力はない。
「怪我しちゃったらどうしよう?」
「何してもらおうかなあ」
思わせぶりな顔つきで見てくるセシアに、堪えきれなくなって凛華は吹き出した。
「もうっ。何それー」
「何だろうねえ」
ふふっと一頻り笑った凛華はセシアに抱きつき直して、囁いた。
「……ありがと、セシア」
存在を認めてもらいたいから戦場に行くのだという、ひどく自己中心的なわがままを聞き入れてくれて。
「いいよ、もう。リンカが頑固なことはよく分かったから」
「そこまで頑固かな?」
「そりゃもう」
否定してくれることを期待していたのだが、ずばりと肯定されてしまった凛華は「そうかなあ」と不満げな顔で呟いて、何やら思うところがあるらしかった。
ふと、この部屋に来てからの時間に気付いたセシアは、不満げな凛華の背を撫でて眠るよう促した。
「もう遅い……っていうか遅くに来たのは俺なんだけど。リンカ、眠らないと」
「うん……。おやすみなさい」
「おやすみ」
ほどなく静かな寝息を立て始めた凛華を見つめて、セシアはため息をついた。
凛華は年齢にそぐわないほど幼く見える時があり、危なっかしくて目を離せず、そのくせ時折はっとするほど大人びた表情になる。先ほど戦場に自分も行くと言った時もそうだった。頑として自分の意見を変えずに挑むような目をしていた。
いっそ見捨ててしまえれば楽なのだけれど、そんな彼女も愛おしく思ってしまうのだから仕方がない。
より多く愛した方が負けなのだと言ったのは誰だったか。
真理だなと思いながら、セシアは凛華の額に口づけた。
眠りに落ちた凛華が楽しい夢でも見ているのか、ふふっと笑う。
「……俺は、リンカに甘いなあ」
一歩間違えば凛華は二度と手元に帰って来ない。
血と汗の飛び交う戦場では、誰にでも死が襲いかかる。
本音を言えば、今でも行かせたくない。腕の中に閉じこめて、王宮から一歩も出さないようにしたい。
けれどそんなものは「彼女らしく」ない。
無邪気なだけではなく時に無謀なことをしようとするのが、凛華の性格で、生き方なのだ。
セシアは彼女の恋人という立場にいるが、彼女の決心を覆すことができなかった。そうである以上は、止めることはできず、心配することくらいしかできない。
眠ってしまうことが惜しくて、セシアはしばらく凛華の髪を手で梳き、柔らかな身体を抱きしめ、額や頬や唇に飽きることなく口づけた。
いっそのことこの後の会議をすっぽかして朝までこうしていられたら良いのだが、そうは行かないことも、そうできない己の性格も知っている。この国の王であるセシアがいなければ、会議は始まらない。諮問機関である大臣たちでは最終決定を下せないからだ。
そして以前の自分ならば一にも二にもなく「国王」を優先していた。国王と私情を秤にかけることすらなかった。それなのに今は凛華の添い寝と国を左右する会議を秤にかけ、前者に揺らぎそうになっている。どうにもしまらない国王だが、そんな自分も新鮮で悪くはないと思った。
「死んだら、許さない」
耳元で囁けば、ううんと寝言らしき返事が上がる。
くすりと笑みを零して、セシアはもう一度触れるだけの口づけをして、そっと寝台から抜け出した。
音を立てないよう静かに扉を閉め、そこに背を預ける。
やけに彼女の唇の柔らかさがリアルだった。
結局は紳士面をしていても普通の男性と考えることは変わらないものだと苦笑し、セシアは呟いた。
「……終わったら、我慢なんかしてやらないから」
彼の誰より大切な彼女は、アルフィーユで最も安全だろう王城を出て行く。
向かう先はリュート平野。戦場だ。血と汗と、そして死の地である。
そこでは誰もが自分の身は自分で守らなければならない。戦闘中に他者を守っている余裕はないからだ。凛華は最強騎士仕込みの剣の使い手で、テニグから脱出する際には相手を気絶させるだけに留めるという技を披露してみせたが、戦場ではああは行かない。剣を握り始めてまだ一年にも満たない少女と戦争に慣れている軍の兵士では比べものにならない。
そして腕が立つという点では近衛の騎士にも退けを取らないセシアは、王宮を離れるわけにはいかず、自身で彼女を守ることはできない。
凛華はテニグへ連れ去られたり、ジェナムスティからの侵入者に襲撃されたりと危ない目に遭ってきたし、神殿の巫女に見える時は一人で対峙しなければならなかった。
けれどそれは予定されていたものか、あるいは相手側からもたらされたものだ。
凛華が彼女自身の意思でセシアの元を離れるのは、これが初めてである。
厳しい冬がすぐそこに待ちかまえていた。