広い部屋を、ひんやりとした空気が覆う。
 冷えに備えてしっかりと窓の掛け金を留め、冷気が入ってこないように分厚い布をベルがかけておいたくれたのだが、それでも朝の冷え込みは辛い。
 そんな中、凛華は柔らかな毛布にくるまり身を縮めて眠っていた。
 黒髪に隠れた額には汗がうっすらと浮かんでいた。唇からは、苦しげな声を漏らしている。
 そして、かすかに彼女の唇が言葉を成した。
 お母さん、と。



 ──お母さん!!

 叫ぶ直前のように唇を開いた状態のままで、凛華はびくりと一度大きく震えて目を覚ました。
 尋常ではない。
 無意識のまま毛布を胸の前できつく掴んでいた凛華は、何かに怯えるかのようにそろそろと手を外し、上半身を寝台の上に起こした。
「な、に……?」
 はっ、はっ、とせわしなく上下する胸。
 荒い息が収まるまでには少し時間が要った。
 しばらくそうやっていると肌をしっとりと覆っていた汗が冷え、湿気を帯びた首もとや背中が急速に温度を下げ始めた。
 寒い。
 そうきっと。寒さのせいに違いない。
 また夢だと凛華は額に両手を押し当てた。
 一体何なのだろうこの夢は。
 立てていた膝を崩して再び毛布に潜り込む。
 だが嫌な汗と共に冴えてしまった目は、閉じても閉じても先ほど見た夢と同じものを脳裏に映した。
 これでは寝付けそうにない。
「夢のくせに……残酷過ぎるよ……」
 丸くなって自分の体を抱きしめてみる。
 それでも這い寄る寒気は避けられそうになく、眠ることを諦めて凛華は起きることにした。
 毛布から抜け出し、吐いた息が白く見えるのをどこかぼんやりと眺めながら衣装箱に近寄る。暖炉に火を入れていない朝にブーツを履かずに素足で床を歩くと、まるで氷の上を歩いているようだった。毛の長い絨毯も高地にあるこの王城を襲う寒さの全てを遮ってくれない。
 それでも寒さに文句を言うことなく、凛華は重い木の蓋を持ち上げて手頃な服を引っ張り出した。
 ベルが気を利かせてくれていたのか、この間まで薄手だった服が寒さをしのぐことができるような厚手の服に変わっている。それを着込み、寝台に戻ってブーツを履く途中で凛華は手を止め、そのままぽすんと後ろへ倒れ込んだ。

 また「夢」を見てしまった。

 同じ夢ばかり見てこれで何日目だろうか。おそらく一週間かそれ以上。
 悲鳴をあげるようにしながら目覚めるようになって、かなりの日にちが経っているのに、正気を保っているらしい自分にくすりと笑みが漏れた。
「わたしってタフなのかな」
 気が狂ってもおかしくなかった。
 夢はいつも同じ場面から始まり、同じ場面で終わる。
 目を瞑れば夢の内容を思い出してしまうような気がして、凛華はじっと天蓋を睨み付けて瞼を閉じようとはしなかった。
 怖い。
 自分なりに夢を見ないようにと、王宮の治療師に相談して安眠できるという薬草をもらってみたり、リーサーが作ってくれた薬湯を飲んでみたりしたのだが、全くと言って良いほど状況は変わらなかった。


 幸せな夢が覚めて後に残るのは。

 もう変えることのできない現実。



 のろのろと体を起こし、中途半端のまま放っておいたブーツをきちんと履いて、寝台から立ち上がる。
 隙間なくきっちりと閉められていた窓の掛け金を外して窓を開けると、途端に寒気が部屋になだれ込んだ。起きた後も寒いと思ったのだが、こんなものは寒さの内に入らないようだった。外の方がずっとずっと空気が冷えている。
 アルフィーユの冬は乾燥しますからと、リーサーが用意してくれた水桶の水はまだ氷ってはいない。多湿の国で育った凛華は、これがあってかなり助かっている。慣れているアルフィーユの人々でも油断をすれば乾燥に喉をやられてしまうそうだ。
 これから来る冬はそれほど乾燥しているのかと思うと少し気落ちした。
 冷たい水を手ですくい、顔を洗う。きんとした冷たさがこの時ばかりは心地良かった。
 これは現実だ。
 大丈夫。今目が覚めている。これは夢ではない。
 夢を見ているのかそれとも起きているのかが分からなくなってしまうのを恐れた凛華は、毎日のようにそうやって夢ではなく現実だと自分に言い聞かせていた。

 あれはただの夢だ。
 叶うことなどあり得ない。それがよく分かっているから辛いだけなのだ。
 考えなければ良い。夢ばかり気にして現実が何なのか分からなくなるなど馬鹿げている。
 ぐっと奥歯を噛みしめ、狂ってやるものかと決心した。
 何故こんな夢を見続けなければいけないのか、そんなことは分からないが。夢に怯えて気がおかしくなってしまうのは絶対に嫌だった。

 ただの夢なのだから。
 そう、ただの、夢──





 ばしゃんっ

 大きく目を見開いたまま、前髪からぽたぽたと雫を滴らせ、凛華は呆然と立ちつくした。
 水も滴る、などという冗談を言っているような場合ではない。
 ほかほかと湯気が立つことから、冷たい水ではなく湯であるということが分かる。
「リンカ」
 名を呼ばれて顔をあげると赤銅色の瞳を細めている顔のロシオルがいるのに気付いた。
 その手には、彼の馴染みの剣。そう言えば、自分も同じような剣を握っていた、とやっと凛華は理解した。
 ロシオルのもう片方の手にあるのが木の器だということも、その器で湯をかけられたことも。
「……ごめん、なさい」
 しゅんと肩を落として謝罪の言葉を口にする凛華に、ロシオルは今度は柔らかいタオルを放って、遠慮なくごしごしと凛華の髪を拭った。
 そうしながら、低い声で叱責する。
「俺がもしリンカの敵だったらどうなっていたかくらい、分かるな」
「……うん……」
 稽古中に呆けていた自分が悪いのだ。
 もしも相手がロシオルではなく、そしてここが戦場であったならば、凛華の命はなかったであろう。
 これでは稽古にならない。一体何を考えていたのだろう。
「今日はここでもう終わりにする」
「えっ!? だ、大丈夫だよ、もう絶対にぼうっとしないから……っ」
 師匠にすっかり呆れられてしまったと、凛華は慌てて言いつのった。
 その額をこつんと軽く小突いて、ロシオルは苦笑した。笑うと途端に柔らかくなる彼の雰囲気がまた、凛華を申し訳ない気分にさせる。
「そのままだと風邪をひく。部屋に戻って着替えて、ベルと話でもしてろ」
 言葉だけを見れば突き放したようでもあったが、表情は気遣うもので、凛華はきゅっと眉根を寄せた。頭ごなしに叱られれば反論もできたが、ロシオルは純粋に心配してくれているのである。ここで反抗する凛華ではない。
「……ありがとう、ロシオル。目が覚めた」
 へへ、と照れ笑いしてみせる凛華に、早く行けと言ってから、ロシオルは凛華の手から剣を取り上げた。
「ちゃんと寝ろよ」
「はーい」
 にこ、と笑って、凛華は頭を下げた。
 寝不足であることを見抜かれ、眠れと言われても眠りたくないのだが、それについては触れず、凛華はくるりと身を翻すと駆け出した。


 稽古場を抜けて廊下を足音も高らかに駆け抜け、人目のないところで足を止めた凛華は、はあとため息をついた。
 何だかとても情けなかった。
 夢に怯える自分など嫌だと思ったばかりであるのに、結局夢のことばかり考えて、稽古にも全く身が入らない。
 凛華は遊びで稽古をつけてもらっているわけではないのだ。自分の身を自分で守ることができるようになりたいと思って、頼み込んでロシオル直々に稽古をつけてもらっている。それなのにこのざまだ。
「もー……へこむなあ」
 こんな顔で部屋に帰ってもベルやリーサーに心配をかけるだけだ。
 少し回り道をして部屋に帰ろうと決め、再び歩き始めた時、後ろから足音が聞こえて、凛華は振り返った。
 すると廊下の先から追ってきていたのは、ロイアだった。
 ロシオルの配下であり、第二騎士隊に所属している騎士である。
「リンカさま!」
「ロイアくん」
 ともすると近衛の騎士というエリートには見えないのほほんとしたロイアは、凛華がロシオルの次に懐いている騎士である。
 今日のロイアは誰にも仕事を押しつけられなかったらしく、にこにこといつもの笑顔で笑っていた。
「大丈夫ですか? リンカさま、髪も服もびしょびしょですよ」
「うん……大丈夫だよ。ロシオルのおかげで目、覚めたから」
 ロシオルが拭ってくれたので、そこまでひどく濡れているわけではない。服も、上着を脱いでしまえば事足りるほどだ。きっとあの器には少ししか湯が入れられていなかったのだろう。鬼師匠ではあるが、ロシオルは根本的なところでは優しいのだ。
「でも隊長ってばひどいことしますよね。リンカさま、風邪には注意してくださいよっ」
「わたしタフだから平気。それに、もしあの時ロシオルが目を覚ましてくれなかったら、何秒か後にげんこつでがつんってやられてたんじゃないかなあ」
 ごつ、と自分の頭に拳を当てて、凛華は冗談交じりに言った。
 隊長ならそれくらいはやりますよね、と身も蓋もないことを言ってロイアは笑った。
「それよりロイアくん、どうしたの? ロシオルから何か伝言?」
 きょとりと首を傾げると、ロイアははっとして、慌てて手に持っていたタオルを凛華に渡してくれた。
 ロシオルと変わらず、押しつけるようにするのではなくて、ごく自然にタオルで髪や服の水気を取ってくれる。
「……ありがと……」
「いいえ。一つより二つの方が乾きも早いですから。はい、お気をつけて」
 ぽん、と頭を撫でられて、凛華はへらっと情けない笑みを浮かべた。
 ロシオルだけでなく、ロイアまで気を遣ってくれる。
 嬉しいと思うが、その反面やはり迷惑をかけているということが情けなく、凛華はロイアと別れると、後ろを振り返ることなくその場を後にした。
 乾燥した空気は前髪を素早く乾かしてくれたけれど、溢れそうになった瞳の水分までは渇かしてくれなかった。



 幸い駆け戻った自室にベルもリーサーもおらず、凛華はほっとため息をついた。
 ごそごそと濡れた服を脱いで、新しい服を頭からかぶる。
 袖から手を出し、一息ついて、凛華は寝台へ向かった。寝台へ腰掛け、ブーツの革紐をほどくことなくぱふんと横になる。
 誰もいない寝室はやけに広く見えて、少しだけ怖かった。

 眠りたくない。
 眠ればきっとまた、同じ夢を見てしまう。

 ぼんやりともやがかかったように見える視界は、いくら頬を抓ってみても晴れてくれない。
 寝不足に加えて、少女にはきつい剣の稽古。
 これだけ悪条件が揃っていては眠気に勝てるはずもなく、何度目を擦ってみてもだんだんと瞼が重くなる。かけなければ寒く感じるのに毛布をかけないまま、凛華は呟いた。
「寝たく……なんか……ない、のにな……」
 精一杯の抵抗もむなしく、数分後には凛華はすうすうと寝息をたてていた。重なった寝不足は強敵だった。





 ──変わらない、いつもと同じ夢。
 引きずり込まれた夢の中で、凛華は嬉しさを隠しきれない様子で走っていた。


 わたしは大きなランドセルを背負ったままで、家まで走る。

(ランドセル? ああ、このわたしは……小学生の時だ……)

 お父さん、お父さん。わたし、頑張ったんだ。
 跳び箱の八段、身長よりも高かったのを跳べたんだよ。先生に頑張ったねって誉めてもらったんだよ。
『お父さーんっ』
 ばたんと元気よくドアを開けると、そこにはお父さんがいた。
 今日は仕事が早く終わる日だったから、お父さんはいつものスーツじゃない。日曜日に見るような、普通の格好だ。
『凛華、おかえり』
 優しいお父さん。仕事がいつも忙しいのに、こうやってわたしが家に帰るたびにおかえりって言ってくれる。
 でもわたしはこれが夢だって知ってるよ、お父さん。
 ねえお父さん、どうして笑ってるの?
 このわたしは小学校六年生なんでしょう?
 お父さんは──わたしが五年生の時に、死んじゃったんだよ。
 白いマフラーをしているこの時のわたしには、もうお祖父ちゃんもいなかったんだよ。暑い暑い夏に、お祖父ちゃんもわたしを置いていっちゃったんだよ。
 それなのにどうして。

 どうして「わたし」は、お父さんと笑ってるの?

『ただいまっ!』
『おかえり、凛華ちゃんっ』
 お父さんの後ろからひょこっと顔を出したのは、わたしにそっくりな人。
『お母さん!!』
 わたしは現れた人に、とびきり嬉しそうに笑うけど。
 どうして笑っているの。
 わたしのお母さんはわたしが幼稚園に入る前にはもう死んじゃったんだ。
 どうしてわたしはお母さんの笑顔をちゃんと覚えてるの。そんなこと、覚えていないはずなのに。

 これは夢だ。
 父親と母親が並んで笑ってくれているなど、そこにいる自分と、祖父の家へいつ帰ろうかと仲良く話をするなど。
 そんなものは、都合の良い夢だ。
 どれだけ願っても叶うことのなかった、残酷な夢なのだ。

『ね、来週の連休は三人一緒?』
 きゃっきゃとはしゃぎながら言うわたしに、お父さんとお母さんはにっこりと笑って。
 けれど何も言ってくれなかった。
『お父さん……?』
 お父さんはどうしてなのか少しだけ寂しそうな顔をした。
『お母さん……?』
 お母さんは両手で顔を覆った。


 そして気付けば、凛華は一人。
 たった一人、暗闇の中に取り残された。



 ──お母さん!!

「はっ、はあ……はあー……」
 目が覚めたままの体勢で、凛華はかぶっていた柔らかい毛布を目元まで引き上げた。
「……も……わけ、分かんない……。……わたしに何を言いたいの……?」
 目を覚ましたくないと願うほど、幸せな夢。
 夢が覚めてしまった後は泣きたくなる。
 暗い廊下で誰かが手を引いてくれる夢を見てから、凛華はずっと同じ夢ばかり見る。いる筈のない父親と母親。その二人に囲まれてはしゃいでいる自分。最後に一人きりになるまでは、幸せそのものの光景。
「覚めない夢なら良かった」
 枕に顔を埋めて、凛華は独り言を言った。
 同じ夢ばかりみて何日目だろう。もう、数えることすらしなくなった。数を数えても、何にもならないのだと、途中で気がついたから。

 凛華は、まだこのことをセシアに話していなかった。
 会議があったあの日から、セシアは国王として以前にも増して仕事が多いらしく、凛華はセシアに話す機会も見つけられず、まだ夢のことを誰にも話せていないのだ。
 何でも相談して、と言ってくれた優しい人には会うことすら難しくなっている。
 それに話したところでどうなるというのだ。
 人間は眠らなくては生きていけない。そして眠っている間のことはどうしようもないのだ。
 眠らなければまた心配をかけてしまう。
 寝よう寝ようとするのに、夢が覚めた後、眠気はいっこうに訪れてくれない。寝たくない時は決まって寝てしまうのに、何て理不尽なんだろうと凛華は笑った。





『フェデリア!!』

 さほど大きくはないがはっきりと聞こえた羽音に、目を閉じて神経を集中させていたフェデリアは静かに目を開いた。
 深い青い瞳に真っ白い小鳥が映る。
「……ナツミ……」
 他のものとの関わりを断ち切るために一度頭を大きく振った後で、フェデリアは小鳥の姿の夏実を招き入れた。
『フェデリア、』
「言っておくけど……やめられないわよ」
 夏実が何か言いかける前にぴしゃりと拒絶して、フェデリアは銀髪を掻き上げた。
「もう『選択』は始まってるの。始まってしまったら……わたしにもナツミにも。あの子……リンカちゃんにも、止められない」
 これ以上の問答を許さない、といった雰囲気だ。
 けれど小鳥の姿をした夏実はフェデリアに詰め寄った。
『でも……っ! あの夢は残酷過ぎるわ!! 早く止めさせないと凛華ちゃんが前みたいになっちゃう……』
「ナツミ」
 力を使ってしまったことで血の気の引いた顔を片手で覆いながらフェデリアはソファに沈み込む。けれどその唇から漏れるのははっきりとした声だった。
「リンカちゃんは、あなたの娘でしょ? 傍に居てあげたら?」
 珍しく棘のあるような物言いに夏実はむっとする。
 相手がいくら自分の親友であっても、何よりも大切な娘を傷つけるのであれば、許さない。
 ばさばさと羽音を立てながら夏実は怒鳴った。
『分かってるわよ、どうにもならないことくらいっ!! でも……お願い……せめて和彦だけは出さないであげて……。あの子、和彦だけが心の支えだったのよ。凛華ちゃんを育ててきたのは和彦だもの。和彦しかいなかったんだもの……。──勝手に先に死んでおきながらこんなことを言うなんて……わたし、駄目な母親ね』
 言っている内に少し落ち着いてきたのか、最後の方は静かな自嘲だった。

 フェデリアは何とか助けてあげたいと思う。
 アルフィーユも、ジェナムスティも、夏実も凛華も。
 けれど、そうするにはこれしか方法がない。

「ナツミ、ごめんなさい。勝手なのは分かってるつもり。でも……『選択』だけは変えられない。きっとあの子自身がもうすぐ選ぶ筈だわ。夢も終わる」
『どうしても……和彦を夢に出さないわけにはいかないの……?』
 ごめんなさいと謝る代わりにうつむいたフェデリアを見て、夏実は諦めたように小さくため息をついた。
『分かった』
「……ナツミ」
『なに?』
「言わなきゃいけない情報があるの」
『何よ』
「────」
 手で顔を覆ったままかすかに掠れた声で言われた内容に、夏実は黒い目をぱちぱちと瞬かせた。
 明朗活発な巫女らしくもなくぼそぼそとしか聞こえなかったその言葉。
 聞けば、誰でも驚き愕然とするもの。

 ――ジェナムスティの近衛の兵士たちがリュート平野まで来たのよ。

 フェデリアの言ったリュート平野とは、アルフィーユとジェナムスティをまたぐように広がっている大平原のことである。王都から真っ直ぐ北に向かうとそこにも国境はあるのだが、これは厳しい山々が聳えているため戦場になるようなことはない。そこから西に逸れた場所にあるのがリュート平野で、過去五回の争いは全てこの場所で起こっている。
 そしてこのリュート平野においては国境線がいまいち曖昧である。はっきりしているのは、平野を抜けたテニグはジェナムスティの街であり、反対側に位置するタサーリはアルフィーユの街であるということくらいだ。
 一触即発の状態になった頃から、この二都市の住民は移動している。そこに駐屯するのは両国の軍人だけだ。
 今回の戦争も、おそらくここで起こるであろうと予想されている。勿論フェデリアも夏実もそのことを知っており、だからこそ夏実は鳥の体を借りて、空からの偵察をしていたのだ。

『嘘……っ!』
「こんな時に嘘なんか言わないわ」
『だってジェムスからリュート平野までこんな短い間で来られるはずが……っ!』
 夏実が偵察にと鳥の目から見た情報は、もっと違っていた。
 こんなに早くつくはずがないのだ。
 このままの早さで来ると明日か明後日には剣を交えることになる。
 それでは、間に合わない。
「では、ジェムスから出たのがもっと前だったとしたら?」
 巫女らしく、何か物事を暗に指し示すように言われた言葉に夏実は声を失う。
 まさか。空から得た情報が間違っていた……?
「間違ってないわ」
 夏実が考えたことを、まるで自分のことのように言い当てて、フェデリアは額にかかる髪をもう一度邪魔だとばかりに掻き上げて夏実を見た。
「確かにナツミが見た情報は間違っていないわ。ジェナムスティ軍は騎馬も歩兵も、リュート平野に向けてジェムスを発っていた。まだ、『彼ら』は平野についていない。これが、どういうことか分かる?」
『──他の部隊が他の何らかの道を通って移動している』
「正解。ジェムスとはちょっと離れたところから、リュート平野まで地下通路が掘られていたの。それも何百年も前の古い通路が。わたしもナツミもそれに気付かなくて当たり前だわ。あの通路はもう伝説上のものだし迷路のように複雑らしいもの。それに、誰ももぐらみたいに地下から近衛兵団が来るなんて思わないわ。本当に細い道みたいだから、よく崩れなかったわね。地上の兵士たちは目くらましのようよ。多分下から来るのが、本当の近衛兵団だわ」
『……参ったわね』
「ええ、本当参るわよね」
 結構な大事なのに、神殿の巫女と実態を持たない小鳥は、まるで「あら料理が焦げてしまったわ」「本当、どうしましょう」といったような日常会話のようにさらりと言ってのけた。
 慌てたところでどうしようもないのだ。
 リュート平野にジェナムスティきっての近衛兵団が到着したことは変えようのない事実で、まさか「あなたたち、こちらの予定より来るの早いのでもうしばらく待って下さい」など敵国の兵士に言える筈がない。

「奇策は確かに効果的だわ。不意を突かれた軍ほど脆いものはないもの。リュート平野に今いるアルフィーユ軍は辺境領主の私兵団と、ごくわずかなアルフィス騎士団だけ。向こうは精鋭揃いの近衛兵団。アルフィーユの近衛兵団が着く頃には、もう戦争に突入しているでしょうね。持ちこたえられなければ、ジェナムスティ軍が一気にアルフィスになだれ込むことになるわ。そうすれば市街戦になる。不利ね。……でも。ティオキア王は、一つミスをした」
『……凛華ちゃんのこと?』
「そう。あなたはあの子の母親なんだから……あの子がこれからしようとしてることくらい、もう分かったでしょう?」
 目配せをすると、夏実は眉尻を下げ、泣き出すような表情を見せたが、それでも涙は見せずにくすくすと笑った。
『ほーんと、あの子ってば向こう見ずよね。思い立ったらすぐ行動なんだから……。ちょっとくらい考える時間を作れば良いのに、いつまで経っても無鉄砲だわ。そういうところ……本当に和彦にそっくりよ』
 今しかないと思って、と出会って二日目にプロポーズしてきた亡き夫を思い出して、夏実は吹き出した。
 おそらく凛華は、この間近に迫った戦争から逃げ出すことはしないであろう。むしろ自分から積極的に関わっていく。
 凛華の外見は誰もが認めるほどの母親似であるのだが、性格の方は、かなり父親の影響が色濃い。性格形成の年頃に傍に居たのが父親なのだから当然と言えるかもしれない。
「……女の子は、父親に似ると幸せになるって言うわ」
『それ、外見の話じゃない?』
 フェデリアの下手な慰めに笑って、ティオンは顔をあげた。
「一緒に行くんでしょう?」
『そのつもり。……あの子が預言を成し遂げるのを、見届けなくちゃ、ね。わたしがここにいる意味がなくなっちゃうわ』
 うっすらと白んできた空に目を向け、窓の桟に留まった夏実に視線を向けることなく、ソファに身を沈めたフェデリアは祈るように囁いた。
「死なないで、あなたも」

 もう誰も、泣きながら死に行くことがないように。

 空の眩しさに目を細めながら、夏実もフェデリアを振り返ることなく、明るい声で答えた。
『巫女の加護つきだもの。また、紅茶を浴びるほど飲みにくるわ』
 じゃあね、と囁き、夏実は桟を蹴った。
 たたいた軽口は現状に不似合いなほど明るく響き、そして羽音と共に消えていった。


 一人部屋に残されたフェデリアはうつむき、一筋の涙を流した。
 また来ると言いながら、最後に別れの言葉を残した夏実を思って、こみ上げる涙を押し込めるように、歯を食いしばる。
「悲しくないわ」
 自分に言い聞かせるように呟き、フェデリアは先ほど見ることができなかった窓を見やった。
 朝が来る。
 もう何度も目にした景色。これからも何度も目にするであろう景色。
 柔らかな光に包まれながらフェデリアは女神への祈りの言葉を捧げ、頬を伝った涙を流れるままにした。

 最後の戦いの、始まりだ。