ひどく短い秋が、例年よりも急ぎ足で過ぎ去ろうとしていく。
 まるで何かに追われているように、この先に待ち受けているものが追い立てていくように。

 アルフィーユよりも北に位置するジェナムスティでは、冬を迎えるための準備が着々と進んでいた。
 いくら堅牢な造りの王城と言えどもジェナムスティの冬は厳しい。
 気温が一度下がるだけでも石に囲まれた王城はひどく寒く感じるものだ。夏は涼しいから良いものの、これから迎えようとする季節はこの国の人々にとって笑っていられるものではなかった。

 寒さ避けのための分厚い壁掛けタペストリーを運ぶ女官たちを横目にちらりと収め、かつかつと硬い音を立てて長身の副官が廊下を歩いて行く。特に響かそうと思っているわけではないのだが、硬いブーツで石の廊下を歩くと思った以上の音が立つ。
 足音に気付いて振り返った女官たちは、藍色の髪の彼を認めると、あたふたと方向転換した。
 無感動にそれを見届け、更に廊下を進んでいくと今度は騎士に会う。彼もまた慌てつつ頭を深く下げ、副官が通り過ぎるのを静かに待っていた。
 この王城内でティオキアとデノンを同等に恐れる者は多い。
 ともすると激昂しがちなティオキアと、常に醒めた目をするデノン。
 どちらも、同じくらいに恐ろしい。

 しばらくそうして城内を歩いていたデノンは目的の扉の前で足を止めた。重厚で何者をも嫌うかのようにきっちりと閉ざされた扉。ティオキアが即位してからの慣例なのか、この扉の前にはいつも騎士がいなかった。今日もそうだ。誰もいないその廊下で一つ小さく息をつき、デノンはその扉に手をかけた。きちんと油の差されたその扉は音もなく静かに開いた。

「デノン、か」
 部屋にいたティオキアは姿を現したデノンを見やって、わずかばかり驚いたように目を見開いて言った。
「は」
 短いいつものデノンらしい返事がティオキアに届く。
 ティオキアはその口元にかすかに笑みを乗せた。
「珍しいな。そなたが許しを得ずに入ってくるなど」
 忘れていた。
 デノンは外見上は表情を変えなかったが、内心ではっとした。
 ただこの部屋に来ることしか考えずに廊下を進んできたために、最低限の礼儀すら守ることなく、あろうことか国王の部屋の扉を無断で開けてしまったのだ。氷のように冷静だと言われる副官にはあるまじきことである。
「申し訳ございません」
 けれどあくまで淡々と謝罪すると、これがデノンでなければ激昂しただろうティオキアは、意外にもあっさりと答えた。
「良い。それで、何の用だ?」
 堅苦しい礼服の外套を外し、ソファの方へと放り投げながらティオキアが視線を上げてデノンを見る。どこかその表情は面白がっているようだった。まるで、簡単な問題も解けない子供を、大人が見下して笑うように。
 珍しくペースを崩しているデノンが面白かったのだろう。

「……どういう、おつもりですか」

 デノンはティオキアの嘲る視線に文句一つ言うことなく、単刀直入に尋ねた。
 抑えた低い声が静かに部屋に響く。
 ティオキアは口元に浮かべた笑みを消してデノンの顔を見た。
「どういうつもりか、とは?」
 冷淡な会話だとデノンは自分のことながら思った。
 本来は声を荒げて胸ぐらを掴み合っても良いくらいの会話の内容なのに、国王もその側近も驚くほど静かに言葉を交わしていた。
「近衛がリュート平野に向かっています。……何故ですか」
 リュート平野とは、ジェナムスティとアルフィーユにまたがる広大な平野の名前である。
 国境を守るものとしてそこには砦が置かれ、常駐の兵士たちがいる。けれど、そこへ近衛である王都の騎士隊までが向かうとなると、国境を守るためという理由ではないのは明らかである。
 これでは、戦争を始めますと言っているようなものだ。
 宣戦布告なしの戦争など、最もやってはならないこととされているのに。
 過去五回の戦争と同じく、また今回も布告せずに戦争をしかけるつもりなのか。
 この話を聞いたとき、デノンは表情にこそ出さなかったが、ひどく驚いた。
 近衛の一隊の隊長を務めていた者でさえ、国を捨てているのが現状なのだ。市民の心などとうに王家や貴族から離れてしまっている。それなのにこの体勢を見直さないまま、もうじき冬になろうというのにアルフィーユに軍隊を送るなど、どうかしているとしか思えない。
 これでは、この国はもうもたないだろう。
 アルフィーユに攻め入られずとも、内側から崩壊していくに違いない。

 何よりも驚愕したのは、その情報を誰よりも早く耳にするはずだった国王の側近である自分が、事後になって知ったということだ。
 デノンはティオキアのたった一人の副官である。
 この国にもアルフィーユと同じく国王と独立した大臣たちや、系統立てた部署に配属されている文官たちがいる。しかし、デノンはそのどれにも属さない、言わばティオキアの右腕のような存在のはずなのだ。

「わたしが命令したのだ」
 額飾りや首もとを飾る重苦しい装飾品を次々と外していきながら、ティオキアはこともなげに答えた。
 その答えに、デノンは目を瞠った。
 確かに何故かと尋ねたのは自身であるが、その答えを望んでいたわけではない。
 国王にのみ忠誠を誓う近衛の騎士団に命令を下すことができる者など、ただ一人、国王であるティオキアだけなのだ。
 それが分かっているからこそ、アルフィーユに軍隊を送った理由を尋ねたのにもかかわらず、ティオキアは答えをはぐらかすように分かり切ったことを言う。
 結局、ティオキアは誰よりも傍にいたデノンでさえも信用していなかったのだ。

「……アルフィーユに剣を向けるおつもりですか」
「何度もしてきたことだろう」
「ですが得策ではありません」
 間髪入れずにそう答え、デノンはそれから口を噤んだ。
 珍しく無口な側近がよく喋る。無表情が彼お得意の表情だったが、今のデノンは苦い顔をしている。
 今まで何一つ反旗を翻すようなことをしなかった彼は、初めてここで反論した。
 ティオキアは喉の奥で低く笑うと彼の方へ足を進めた。
 外套も装飾品も、全て豪奢と言えるものは身にまとっていないのに。衣擦れの音やその風格は、国王そのものだった。

 初めて手に入らなかったただ一人の姫君だけを想い続け、結果正妃を自殺に追い込んだ哀れな男。
 そしてどこか、腐臭さえ漂うような、鬼気。
 何人をも屈服させる憎しみの炎が赤褐色の彼の瞳を更に鋭く見せた。

「デノン」

「は」
 王の声が変わった。デノンはそう思った。
 ひたすら片足を床に着けて視界に入る絨毯を見つめながら、頭を下げる。反論するまでは取ろうともしなかった臣下の礼だ。
「そなたは……変わっておらぬな」
「……」
 デノンの顎に手をかけてティオキアは乱暴に顔を上げさせた。
 歪んだ藍色の瞳と、赤褐色の瞳がぶつかり合う。
「この目が……何も映さなくなってから、何も変わっておらぬ」
 ティオキアがデノンの左目を覆う黒い布に触れたが、デノンは何も反応しなかった。
 疼くのは肉体ではない。遠い記憶だ。
「惜しいことをした」
「……何が、ですか」
「わたしが潰したこの藍色の宝石のことだ。……デノン」
「は……」
「もう一つの大切な宝石を失うようなことはしてくれるな」
 表面上を受け取れば、自分を大切にしろ、と。
 だがそれをそのまま受け取るほどデノンは愚かではない。
 裏を取れば、「余計な真似をするな」。

 これは、警告だ。

 警告を無視すれば、右目も失うどころか命すら定かではない、と。
「……分かっております」
 そう言って、デノンはもう何も話そうとはしなかった。

 ──止められ、なかった。

「下がれ」
「は」
 許可を得て、と言うよりはどちらかというと命令されて立ち上がったデノンは、ティオキアにもう一度臣下の礼を取ってから、執務室を出た。


 止められなかった。

 ジェナムスティきっての精鋭である近衛の騎士団はアルフィーユに向かってしまった。
 ジェナムスティの王都からアルフィーユの王都アルフィスまでは、リュート平野で一戦を交えなければ、二十日とかからないだろう。
 アルフィーユは軍事力でジェナムスティに劣る国ではないが、こちらが宣戦布告をせずに攻め入るのであれば、準備の出来ていないところに完全武装の軍隊が押し寄せるのだ、ジェナムスティの方が圧倒的に有利である。
 今から宣戦布告の書を届ければ。いや間に合わない。進軍は歩兵も含んでいるからそう早く進むものではなく、早馬をとばせば追い越すことも出来るであろうが、それまでにはリュート平野に着いてしまうだろう。それでは、遅いのだ。リュート平野のアルフィーユ側には、勿論アルフィーユの砦がある。一度矛を構えてしまえばもうなし崩しに戦争は始まってしまう。
 結局、こうしてまた歴史は繰り返されてしまうのか。
 何の罪もない人間が死に、そしてまたこの国は取り返しの付かない過ちを犯すのか。

 激しく舌打ちし、デノンは拳を壁に打ち付けた。
 女官たちがかけていった毛織物が、ぶわりと揺れる。
 目を喜ばせる色鮮やかな糸で、花模様が描かれているそれを視界に収め、デノンは目を閉じた。

『きれいなお花をいっぱいお母さんにあげたいんです』

 花は、冬には咲かない。


「……目くらい、いくらでもくれてやる」
 たとえ残りの右目を潰されようと、命を脅かされようと、構うものか。
 近衛の軍団を止めることは最早できないが、他のことならば何とかできるかもしれない。
 ティーレとカルディナ。
 つい先頃、ジェナムスティと軍事同盟を結んだ小国だ。
 北からは本軍のジェナムスティ軍、そして東から、この二国とマチェスを合わせた軍を送り、二方向からアルフィーユを攻め入るというのがティオキアの考えであろう。だからマチェスはティセルという人質をもって、あとの二国は恩賞をちらつかせて、引き入れた。
 マチェスは早くから組み入れられているため止めることはできないであろうが、後の二国ならば何とかなるだろうか。元々、小国に、大国同士のぶつかり合いに入り込むような力はない。冬の戦争に備えるだけの兵糧もそれほど多く蓄えていないだろう。
 二国の外交官を思い浮かべながら、ぐっとデノンは拳を握りしめた。
 せめて、巻き込まれる者の数だけでも減らさなければ。
 まだ完全に手遅れだというわけではない。これまで成し遂げてきたことは無駄ではない。

 ふうと深く息をつき、肩の力を抜いて、デノンは壁から手を離した。
 石造りの王城の、小さな窓から見える中庭に目をやり、ふと二月ほど前のことを思い出す。  まだ夏の暑さが残る頃のことだった。
 追われている第七妃を見て、とっさに体が動いていた。
『……どうして?』
 自分よりいくつか年下の妃は、ひどく驚いた顔をして返り血を浴びたデノンを見ていた。まるで信じられないといった様子だった。
 それは、これ以上戦争に、この国に縛られる者を出したくなかったから。
 だから妃を逃がした。ほとんどの者が知らない王城から抜け道を教え、アルフィーユまでの行き方を告げ、そして殺した追っ手を隠した。

 王への反逆だと、分かっていながらそうした。

 あの時から、いやもうずっと前から、決めていたのだ。
 たとえ全てを失ったとしても、この戦争を止めてみせると。

『すごいすごい! きれいな目ですねっ』
 覗き込む方向を変えるだけで色が変わるのかと、無邪気に喜んでいた、あの少女。
 そういう少女こそ不思議な色をしていると言えば、本当ですかと瞳をきらきらと輝かせて。飛び跳ねるようにして嬉しがっていた。
 彼女は、右目さえもなくなった自分を見たら、どう思うだろうか。
 ふとそんなことを考え、何年も前のことなのだから彼女が自分を覚えているはずがないだろう自嘲し、デノンは中庭から視線を逸らす。
 そして顔を上げ、前を見据え、硬い音を立てて歩き始めた。





 今日も厳しい師匠に稽古をつけてもらった後、ふらふらしつつも前よりかは幾分元気に凛華は王宮の庭を歩き、自室のある塔へ向かっていた。
 随分と汗を掻いたはずだが、一月ほど前のように顔をしかめるほど不快には感じない。
 というのも、もう秋も終わりに近いからなのだ。
 すっかり汗も冷えて、薄手の服を身につけているので、少し肌寒く感じるほどである。
 アルフィーユに来たのがうららかな春だった。
 日本のような梅雨はなく、そのまま夏を迎え、そしてその夏にジェナムスティへと連れて行かれた。
 夏の終わりには花祭りを楽しみ、そしてセシアの気持ちを知り、自分の気持ちに気付いた。
 そして気付けばもう秋も終わりである。
 セシアに教えてもらったことなのだが、アルフィーユもジェナムスティも、秋と言われる期間がとても短いらしい。その分冬と言われる期間が長く、ひどく乾燥し、夏との気温差は大きいという。
 高温多湿の国で育った凛華は冬を越すのが大変そうである。
 嫌そうな顔を隠さなかった凛華にくすりと笑い、王宮の中は大丈夫だよとセシアが言ってくれた。

「……」
 セシアと会う時間が格段に減り、どことなく緊張した城内の空気に、誰も何も言わないが、戦争が始まりそうなのだということに凛華も気付いている。
 けれど当たり前のように王宮内にいれば、というセシアは、凛華を戦争に関わらせる気がないようである。

 この春から一年弱、たくさんの知り合いができた。
 大切な人も、尊敬する人も、一緒にいたいと思う人もできた。
 そして大切に思う人が増えた分、そこから離れることが怖いと思うようになった。

 戦争など、知らない。

 関わらないで良いのであれば、一生関わりたくない。
 けれどきっと、そうはならない。
 神殿の巫女の預言は外れることがないのだと聞いた。
 必ず何らかの形で凛華は戦争に関わることになるのだ。いや、もう関わっているのかもしれない。何せ凛華は、ティオキアの策略によりテニグまで拉致されたことも、暗殺者に命を狙われたこともあるのだ。
 凛華が関わらないようにしても、セシアが関わらせないようにしても、きっとティオキアは放っておいてはくれないであろう。
 それならば凛華は自分から関わっていく方がましだと思う。
 自分の意思の届かないところで勝手に巻き込まれるよりは、その方がましだ。
 元々凛華は、戦争など終わらせてやると宣言していたし、ここに居たいと思うようになってからは、そのためにも戦争を止めなければと思っていた。

 けれど、もしも預言通り、戦争を止めることができたのなら。
 フェデリアの言っていた、「選択」の時が来てしまう。
 何が起こるのか凛華は知らないし、フェデリアは教えてくれなかった。
 「選択」は凛華の未来を決めるのだという。
 多分それは、元居た世界を選べばその先二度とアルフィーユを訪れることはなく、アルフィーユを選べば二度と元居た世界へは戻れないということなのだろう。
 アルフィーユに来たばかりの頃は、勿論早く戻りたいと思っていた。
 凛華はただの女子高生で、まか不思議な力を持っているわけではなかったし、戦争など関わりたくなかった。いくら身内と呼べる人がいないとしても、元居た世界は凛華の生まれ育った場所だ。凛華の知る日常は学校へ行き、アルバイトをし、友達と笑い、試験に苦しむ、そんなありきたりな日常であった。
 けれど、世界を知り、人を知り、恋を知り、戻りたくないと思った。
 ずっとこの世界に居たいと思った。

「……だ、大丈夫だよ。わたしは、絶対こっちに残る方を選ぶんだから」
 震える声で、けれど自分を落ち着かせるように、凛華は言った。
 怖いと思った。
 もしも、明日にでも自分がただの女子高生に戻ってしまったとしたら?
 優しく細められる青い瞳を見ることも、柔らかな銀の髪に触れることも、親友と遊ぶことも、厳しいけれど尊敬する師匠との稽古も、全て出来なくなってしまう。
 夢を見ていたと思うには、あまりにこの世界に執着がありすぎる。

 戦争など、いつまでも始まらなければいいのに。
 「選択」など、こなければいいのに。

 自分の立っている場所がものすごく不安定な気がして、今この時にも崩れ落ちてしまいそうな気がして、凛華はそっと身震いした。


「ティオン」
『なに?』
 稽古が終わった時から肩にいた親友に、凛華は声をかけた。
「前にティオンに言ったのにね。考えないことにしたーって。でも、何でかな……ものすごく怖い。ティオンとさよならするのも絶対に嫌だからね、わたし」
 自分以外の誰かにそう宣言することで自分の意志を保とうと、凛華は必死だ。
 今にも泣き出してしまいそうな凛華の横顔を見ながら、「離れないよ」とティオンは簡単に答えられなかった。
 離れなければならないことは最初から決まっている。
 分かっていて承諾したのだから、守らなくてはいけない。
 預言は最初からそうなることを想定されたからこそ、預言であり、夏実はそれを受け入れたのだ。「選択」を凛華に与えたら、もうこの姿でさえ保つことができない。

『……うん。離れるのはいやだね』

 結局それだけしか言えずに、ティオンは凛華の頬にすり寄った。

(選ぶのは、この子。どちらが自分にとって幸せかを決めるのは凛華ちゃんで、それ以外の誰でもない。自分でも、和彦かずひこによく似た国王でも、フェデリアでもない)

 きっと泣いてしまうだろう。もしかしたら、もう笑ってくれないかもしれない。
 「選択」は、彼女に幸せな夢を見せるから。
 それを拒んだ時はどうなってしまうのだろう。一緒にいてあげられないからこそ気になって仕方がない。

「セシアに言ったもん。わたし、絶対にアルフィーユに残るんだから」
 何故か、明日にはこの幸せが手に届かなくなってしまいそうで。
 そんな嫌な予感がするのを知らないふりをして、凛華はもう一度「残るんだから」と呟いた。


 凛華の黒い髪がティオンの小さな体にあたる。
 この感覚だけが、暑さも寒さも感じられず風すらも感じられない夏実に、現実のことなのだと教えてくれた。

 幸せになって欲しい。
 もう辛いだけの涙は流さなくていいように。
 辛い想いをするのは先に死んでしまった自分だけで充分なのだ。
 笑うことすらできなくなった娘を、ただ知ることしかできなかった愚かな母親。この役目が、そんな母親に与えられた機会なのだとしたら。

 どうか、どうか──願わくは。
 自由に笑うことのできる幸せを、誰よりも大切なこの子に。