隊商の主に剣を向けたことをもう一度謝罪し、ティセルと神殿から同行してきたという神官を見送った後、凛華はふうとため息をついた。
 マチェスへ行くと言ったティセルの顔は、とても晴れやかだった。
 ジェナムスティからアルフィーユへ向かうことも、マチェスへ向かうことも、どちらも同じくらい危険なことだろう。マチェスはアルフィーユとの和平同盟を破棄した国で、既にジェナムスティ側についている国なのだから。国を捨てた王妃を、ジェナムスティは許さない。マチェスでも、見つかって捕らえられれば彼女は終わりだ。
 それなのに笑顔で、「またお会いできましたら」と言ってくれた。

 ティセルと話している間、傍にいなかったアイルとロシオルが、出迎えるように立っていた。
「どうだった?」
「はい、大丈夫です」
 主従のそんなやりとりを聞いたが、凛華はさっぱりわけが分からずまたしても疑問符を浮かべるだけだった。

 二人並んで凛華の部屋のある塔へと向かう。
「ねえセシア」
「なに?」
「……。……ううん、何でもない」
 何事か言おうとして、けれど凛華は何でもないと笑った。
 にこにこと楽しそうに笑うその表情に目を細めながら、セシアは彼女に尋ねた。
「なに? 気になるなあ」
「何でもないよっ」
「それならいいんだけど」
 そう言いつつも、滅多に見られない釈然としない表情を浮かべるセシアを観察して、凛華はくすくすと笑った。

『頑張って、生きて』

 ティセルの気持ちが分かると凛華は思った。
 多分あの言葉を言われたのが凛華だったら、凛華も泣き出してしまっただろう。決して悲しいわけではなく、むしろその逆で、何故泣くのかと尋ねられても答えられないほど、泣いてしまうだろう。
 セシアが、何のてらいもなくそう言う人で、良かった。
 凛華は例えこの先何があったとしても、ティオキアのように恋を失ったとしても、きっと後悔などしないだろう。
 出会わなければ良かったなどとは、思わない。



 塔の入り口に着き、ここまでで構わないと言おうとして顔を上げた凛華は、セシアがじっと自分を見ていることに気付いて首を傾げた。
「リンカ」
「うん?」
「どうしてリンカは、そこまで必死になるんだ?」
「え? 必死?」
「……アルフィーユも、ジェナムスティも、守ったところでリンカの得にはならないよ。それなのにどうしてそこまで本気になるんだ?」
 問われて、凛華は考え込んだ。
 何故と言われても、今までその理由を考えたことがなかった。
 確かにアルフィーユもジェナムスティも、凛華の生まれ育った国ではないし、何かをしなければならないという義理もない。凛華はただ、ある日突然この世界にやってきてしまっただけなのだ。

 真剣な表情で考え込む凛華に腕を伸ばし、そっと抱きしめて。その薄い肩に頭を埋める。
 ふわ、と鼻先をくすぐる柔らかな髪と甘い香りがたまらなくて、セシアは目を閉じた。
 どうして、こんなにも頼りない華奢な体なのに、強く抱きしめたら折れてしまいそうなほどなのに。どうして、そこまで必死になって、守ろうとするのだろう。
 セシアがアルフィーユを守ろうとするのは、ここが自分の生まれた国であり、自分が国王だからだ。義務でこの国を守ろうとしているのだ。

「えっと……」
 周りのことが頭に入らないほど真剣に考え込んでいた凛華は、ふと自分がセシアの腕の中にいることに気付いて、今更ながら顔を赤らめた。もがこうとして、けれどしっかりと抱きしめられていて諦める。それでも恥ずかしくて、ついと顔を背けた。
 彼女の思考が手に取るように分かるその反応に小さく笑みを漏らして、セシアは凛華の返事を待った。
「えっとね」
 やや上ずった声が、言葉を紡ぐ。
「別にね、誰かに何かをしてもらおうとかじゃなくて、ね」
「……うん」

「わたしが、誰かに何かをしてあげたくなったの」

「え?」
「セシアがわたしにしてくれたみたいに、わたしも誰かの役に立ちたいと思ったの」
 きゅ、と目の前にあるセシアの服を掴む。
 服越しに伝わる優しい体温に、凛華は目を細めた。やはり、セシアの傍にいると安心する。
「……わたし、叔父さんや叔母さんに、ずっと要らない子だって言われてきた。腹が立つ、お荷物だったんだって。何も出来ないから、要らないって」
 淡々と話す凛華の声に耳を傾けながら、セシアは腕に力を込めた。
 祖父も両親もいないと言い、親戚はいたけれど、と言葉を濁した凛華を思い出す。その親戚が、叔父夫妻だったのだろう。守ってくれる者もなく、そのようなことを言われ続けたら、人間不信になるのも仕方がないというものだ。この場にいないその親戚に、セシアは苛立ちを覚えた。
「でも、アルフィーユに来てセシアと会って……わたしでも、必要なんだって言われて、本当に嬉しかったの。途中でやっぱりくじけそうになったけど……でも、もう大丈夫だって言ってくれて、傍にいてくれて……。あのね、わたし、ここに来てから変わったんだよ」
 いったん言葉を切り、凛華はそろそろとセシアの背中に手を回した。
 逡巡し、しばらく宙にさまよわせてから、その手で手触りの良いセシアの服にしがみつく。
 いつもは彼の行為に照れ、戸惑うだけの凛華が初めてする行動だった。
「笑えるようになったし、ちゃんと泣けるようになったし、前向きになった。怖くて眠れないことも、なくなったんだよ」
 えへへ、と照れくさそうに笑って、続ける。
「セシアにたくさんのものをもらったから……だから、今度はわたしが、何かをしてあげたいって思った。一番たくさんのものをくれたセシアに、何かしてあげられることがないかなって思って……セシアが守ってるアルフィーユを、わたしも守りたいなって……」
 言いながら、凛華は無言のセシアにうろたえた。
 少しばかり傲慢な言葉だっただろうか。
「あっ、で、でもね! あの、セシアみたいに上手くやってやろうとかは思ってなくて……! え、いや、ちゃんとやろうと思ってるんだけど、でも何て言うか、あの、別にセシアを出し抜いてやろうとかは思ってないよ?」
 くす、と笑い声が聞こえた。
 肩に頭を乗せているセシアが小さく震えている。
「あーっ! セシア、面白がってるでしょ! もうっ! のーいーてー」
 凛華は頬を膨らませ、セシアを押しのけようとした。
 けれど。
 いっそう強く抱きしめられ、言葉に詰まる。
「セシア?」
 名を呼ぶが、拘束が緩むことはない。苦しいほど力を込められているわけではないから、構わないけれど、ここは人目のある塔の入り口なのだ。誰かに見られていたら、特にベルやリーサーに見られていたらどうしよう。ちらりとそんな考えもよぎったけれど。
 まあいいや、と凛華は押しのけるのを諦め、ほうと息をついた。
 この腕の中にいると何もかもがどうでもよくなってしまう。
 ずっとこんな風に抱きしめていて欲しい。
「……もし」
 そっと囁く。
「もし……フェデリアさんが言ってた、『選択』のときが来ても……わたし、セシアと一緒に居たい……。ずっとここに居たい……」
 きっとそれが何よりの幸せだ。
 甘えるように言ってしまったあとで、凛華ははたとセシアの様子がおかしいことに気がついた。
 先ほどはくすくすと笑っていたセシアが、今は静かになっている。
「……セシア?」
 もう一度、名前を呼ぶ。
 やはり拘束が緩むことはなかったけれど。
「ごめん。ちょっと、情けないから」
 かすかに掠れた、低い声。
「へ?」
 間の抜けた声を漏らす凛華にすがりつくように腕を回しているセシアの肩が、震えていた。

「もう少しだけ、このまま」

 凛華は名前を呼ぼうと口を開いて、けれどきゅっと唇を引き結んだ。
 セシアの背中に回していた手をそろそろと動かし、まるで幼い子供をなだめるかのように、その広い背中を撫でた。何だか無性にそうしたい気分だった。


 セシアは、ずっと笑顔を浮かべていてくれた。
 凛華の知るセシアは、いつでも大人びていて、穏やかで、凛華を安心させてくれた。一度だけ見た、ジェナムスティの兵士を相手にしていた時のセシアの表情は冷たくて、まるで知らない人のようだったが、その表情を自分に向けられることはなかった。
 仕事が辛くないわけがない。
 国王の責務がどれだけ重いのか凛華は知らなかった。
 それなのに、それが当然だと思っていた。セシアは大人で、どんなことがあっても優しい笑みを浮かべたまま、簡単にこなしていけるのだと信じていた。
 そう思っていた自分を、凛華は恥じた。
 セシアは凛華と同じように一人の人間で、笑いもすれば、泣きもするのだ。

 セシアは、凛華に泣くことを許してくれた優しい人だ。
 それならば、今度は彼が泣くことのできるような相手になりたい。
 守られてばかりでは嫌なのだ。
 きっとセシアはアイルやフェルレイナの前では弱気な部分を見せたりしないだろうから。きっと他人に心配をかけたりしないように、穏やかに笑うから。

 だから、今だけは。

 初めてセシアが見せてくれた弱い部分を、愛しいと思った。



『わたし、セシアと一緒に居たい……』

 ──どうして。
 いつも、そんなにも。

 幼い頃から、必要なものは能力だけだと言われてきた。
 国王としての能力だけを求められてきた。
 生まれた時から国王となることを定められた子供で、周りにいるのは政治的能力を備えた大人ばかりだった。セシアに学問を教えた文官も、武術を教えた武官も、セシアより一回りも二回りも年かさで、そして国王とは有能でなければならないとことあるごとに言った。
 父親でさえもそうだった。
 元々大臣であった父は、セシアが勉強を疎かにすれば良い顔をしなかったし、剣術を習いたての頃、上達が遅かったことに、そんなことではいけないと言った。
 幼い頃から傍にいた教育係のアイルは取り立てて何も言わなかったけれど、彼以外の人は、セシアに能力ばかりを求めた。
 アルフィーユは大国である。
 その頂点に立ち、国を統べる者として、王となる者には並々ではない努力と能力が求められる。
 セシアは、どうして王家などに生まれてきたのかと出生を恨めしく思ったことも一度や二度ではなかった。
 貴族階級の者は、何かと王子に生まれたセシアを羨み、出来ることならば王族に生まれたかったと言われたこともある。けれどセシアは、何故人一倍努力し続けなければならない者に生まれてきて喜ばなければならないのか、それが分からなかった。
 有能でなければならなかった。有能でなければ、王とは認められない。
 仮にセシアにリリスの血を引く兄弟がおり、そしてその能力がセシアよりも優れたものであったなら、その者が国王になっただろう。
 誰でも良いのだ。より優れた能力を持つ者ならば。

 それなのに、凛華は。
 国王としてのセシアではなく、個人としてのセシアが好きなのだと、笑ってくれるのだ。

 変わったというのは、凛華ではなくむしろ自分だとセシアは思う。
 打算のない笑顔を向けられ、傍に居たいのだと求められ、嬉しかった。

 彼女が傍にいてくれて良かった。
 そう思ったら、胸のつかえがすっと取れた気がして、堪えきれないものが溢れた。





『セシア……? どうしたの?』
 何度目かの凛華の声に、セシアはやっと顔を上げた。
 にこ、と柔らかく笑うその顔に、涙は見あたらない。
 いつもの笑顔に凛華はほっとした。セシアが泣いているのだと知っても、どうすることもできなかった。気の利いたことも言えず、ただその背を撫でるだけで、そんな自分を不甲斐なく思った。

『セシア?』
『エネルギー補給完了』
 笑ってセシアが言う。何のためのエネルギーなのか聞こうかと思ったけれど、そんな雰囲気ではなかったので聞けなかった。
 抱きしめてあげるだけで何かのエネルギーになるのだろうか。
 ふと、笑顔は誰かの力になるのだと教えてくれた父親の言葉を思い出した。
 凛華は一度だけ、父親が泣くのを見たことがあった。母親が亡くなった時に、幼い凛華には見せないようにしてたった一人で、棺に向かって泣いていた。その時も凛華は、父親の広い背中をよしよしと撫でたのだ。笑って、と凛華が拙い笑顔を浮かべて言うと、父親は涙目で笑ってくれた。
 背に回した手を止めることなく撫でながら、凛華はくす、と笑った。
『セシアは赤くならないんだね』
『ん? 何が?』
『目が。普通、泣いた後って赤くならない? わたし、泣いたら目が真っ赤っかだよ』
 首を傾げながら不思議そうな顔で尋ねる凛華に、セシアは答えた。
『泣いてないよ』
 よくもまあここまでさらりと言えるものだ。
 一瞬ぽかんとした表情を見せ、それから凛華は更に笑った。そういうことにしておいてあげる、と彼の弱みを握ったかのように歌うように口ずさんで。


 ぐっと突き出すようにして腕を伸ばし、凛華は組んだ指の間から見えた高い天蓋を何とはなしにぼんやりと見つめた。
 いつもならローシャと出かけたり、ベルの淹れてくれる紅茶を楽しんだり、勉強したりして有意義に過ごすのだが、今日の凛華はこうやってずっと寝台に寝転がっている。
 何も考えていないようで、頭の中では凛華なりに色々と考えていた。
 セシアのことだ。
 穏やかに微笑むこの国の王。
 地図で見ても分かるほどの大きな国を統治している王。
 つまりそれはたくさんの制約を受けているということで。
 凛華は自由に外に出かけることも、自分のしたいものを勉強することも、友達と遊ぶこともできる。
 けれど彼はその立場柄、勝手に王都へと出ることは出来ないだろうし、学ぶものは帝王学や武術や交渉術といった王族ならではのものだろうし、そして交友関係も限られてくるのだろう。会議にも出なければいけない上に、凛華と三つしか年が違わないのに毎日仕事をしなければいけない。国王には、凛華のいた場所のように休日があるわけでもない。
 全てが拘束された場所で、教えてくれる人もいないままにきちんと「国王」をこなしているのだ。
 そして、自分は何の手助けもできない。


 うーん、と眉根を寄せて考え込んでいると、聞き覚えのある羽音が聞こえてきて、凛華は跳ね起きた。
「ティオンっ!」
 風を入れるために開け放たれた窓に走り寄る。
 しばらく見なかった白の小鳥がさんに降り立ち、ぴいと高らかな鳴き声をあげた。
『リーンカ。久しぶりー』
 本当に久しぶりである。
 この鳥は常に凛華の傍にいるわけではないが、それでも二日に一度は顔を見せていたのに、ここしばらくは全くと言っていいほど、顔を見なかった。
「久しぶりってティオン……。ねえ、どこ行ってたの?」
『ヒーミーツっ』
 凛華をからかうようにティオンはひょこりと首を竦めて言い、それから、これ以上は訊くなとでも言う風に彼女にすり寄った。
「えー」
 言葉上は不満そうなのだが、久しぶりに会えた親友に、凛華は嬉しそうに笑った。
 日にちにして一ヶ月以上経っただろうか、というくらい会っていなかった。ティオンが「夏実」として神殿に滞在したり、アルフィーユの街中でセシアに会ったりといったことを凛華は知らないため無理はないが。

 ふと、ティオンは気付いたことがあり、すり寄せていた彼女の頬から距離を取って顔を覗き込む。
『リンカ、しばらく見ない内に大人になっちゃってー』
 からかいの言葉だった。
「え? ……あ……ぅ……」
 かっと頬を赤くする凛華にティオンが優しげな視線を向ける。
 それから、いつものように明るい声で尋ねた。
『はい。順を追って説明しようね』
「あー……。うん……」
 だいたい予想はついているのだ。
 凛華とセシアに何があったのか。
 二人でいるところを昨日見てしまったのだから。
 頬を染めて嬉しそうに笑っていた凛華と、そして彼女を慈しむように優しそうな表情を浮かべていたセシアを。

 一通り、凛華がティオンがいなかった間の事を話し終えた後で、ティオンは口を開く。
『リンカ……今、幸せ?』
「うんっ」
 光そのもののような笑顔を見せて笑う凛華に、ティオンは思わず言ってしまいそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
 自分が母親なのだと。
 そう言えたらどれだけ良かっただろう? 傍に居られなかった時間をまた造ることが出来たら、どれだけ嬉しいだろう?
 だが思うだけで、願うだけで、夏実には出来なかった。

「ティオン? どうしたの?」
 きょとんとしている凛華。この素直で愛らしい少女を、いつまでも傍で見守っていたかった。
 この気持ちを伝えることができたなら。
『ううん。何でも……ないよ』
 凛華の耳に届くのは明るい声で、凛華は首を傾げながらも「ふぅん?」と特に気にした風でもなく言った。

 心の中で、もう楽になりたいと思うのは自分勝手なのだろうかとティオンは自嘲した。
 何も知らないこの子の傍にこれ以上いたくない。
 フェデリアから頼まれた時、自分からそれでもいいと、この子の傍にいるだけでいいと言ったのに。
 どんどん欲張りになってしまう、弱い心。
 きっとこのままでは、いつか言ってしまうだろう。
 言えない。言いたい。
 矛盾した想いが、きりきりと胸を締め付ける。

「あったかーい」

 ふわりと、温かな体が傍に近づくのを感じて、ティオンは慌ててそちらを見た。
 嬉しそうな笑顔で頬を寄せる凛華がいる。
 「夏実」と良く似た黒髪がさらりと白い羽に触れた。
 そう言う凛華の方こそ温かいのに、笑顔で温かいと言う。
「ティオンと居ると安心する。セシアと同じだね。あ、そう言えば……お父さんとセシアって、どことなく似てるんだよねー」
 ふと顔をあげ、そんなことを呟きながら、凛華は「そう思わない?」とティオンに視線を向けた。
『そうかな?』

 ――似ているのかも、しれない。
 ただのサラリーマンであったのに、時折詩人のようなことを言うかと思えば、子供のような無邪気な笑顔を見せたり、静かに笑ったりと、不思議な人であった。

「そうだよー。あの、逆らえない笑顔とか、結構似てると思う」
 むう、と唇を尖らせる凛華に、ティオンは軽やかに笑った。
「だってさ、お父さんってば、わたしがピーマン食べ残した時なんか、にこにこ笑ったままでわたしが食べ終わるまで見てるんだよー? にんじんもナスも、食べ終わるまで席立っちゃ駄目って、笑顔で迫ってくるんだもん。薬飲みなさいって言った時のセシアとそっくり!」
『で、野菜嫌いは治った?』
 くすくすと笑いながら問われ、凛華は不承不承頷いた。
「それにね、買い物の時に、カゴにお菓子をいっぱい入れたら、やっぱり笑顔で『元に戻しておいで』って言ったり――」
 次々と凛華が口にする父親とのエピソードに素知らぬ顔で聞き入り、時にはからかいの言葉を入れながら、ティオンはそっと目を閉じた。

 ティオンの知らない、凛華の日常。
 話のそこかしこに現れる父親や祖父の姿は、「夏実」の知る彼らと少しも変わらない。
 けれどそこに、「夏実」はいない。
 凛華が物心つく頃に存在しなかった母親は、凛華の語る日常に現れない。

 それが無性に切なくて、ティオンは、鳥が流さないはずの涙をぽろりと一滴流した。


 言いたいと思う。
 言えたらと思う。

 けれど、言ったところできっと凛華は戸惑うだけであろう。ずっと鳥だと思っていたものが、実は母親なのだと知らされても、きっと信じないであろう。
 そして知ったところで、ずっと傍にいることはできないのだ。
 最初から、そういう契約であったから。
 残された時間を思って泣かれるよりも、少しでもこの笑顔がかげることがないよう、傍にいようと思う。
 戦争はもうすぐそこに迫っている。
 もう「預言」は始まってしまっているのだ。
 ティオンはそれを止めることができない。
 ただ見守っているだけしかできない。

 一分一秒でも、凛華と一緒にいる時間を大切にしようと、ティオンは言葉では表現できないほどの切ない気持ちで、そっと誓った。


 ――夏実、この子はどう育つんだろうなあ。

 生まれたばかりの小さな我が子をおそるおそる腕に抱き、頼りない頬を突きながら柔らかく笑った、愛した夫の顔を思い出す。
 セシアよりも誰よりも、彼に似ているのは凛華だ。





 一枚また一枚と書類をめくりながら、セシアはほとんど物音のしない広い執務室で、大きなため息をついた。
 状況は悪化していくばかりである。
 目を通していたものは、辺境警備の騎士団からの報告書であった。そこにはセシアにため息をつかせるような内容しか書かれていない。
 国境の要衝には、精鋭揃いの近衛騎士隊に引けを取らない騎士団を配置してある。勿論ジェナムスティとの国境にも砦があり、常駐の兵士がいる。ジェナムスティと矛を構えることになってからは、その兵士の人数も多くなっている。
 同じように国境のジェナムスティ側には砦があるのだが、報告書によると、そこに駐屯する兵士の数が増えてきているらしい。兵士だけでなく兵糧や武器など、戦争をするには欠かせないものも続々と運び込まれているとのことだ。
 アルフィーユの兵士の内、斥候に出ていた数人が行方不明になったことも記されている。捕らえられたか、あるいは既に殺されているか。騎士団側は抗議を入れたが、それに対する返事はないときている。
 これは、戦争の準備以外のなにものでもない。
 目と鼻の先でそのようなことをされて放っておくことはできず、アルフィーユも国境あたりに数多くの兵士たちを送りつつあるし、おそらく数日中には王都に留まっている近衛の騎士隊も動かさなければならなくなるだろう。
 宣戦布告を受けていないが、これはもう歴とした戦争だ。
 一度でも兵士たちが接触すれば、あとはもう泥沼だろう。
 季節は間もなく冬である。
 北国にとって、冬の戦争など、食糧は乏しくなる上に厳しい寒さであるから、通常ならばもってのほかだとされる。
 きっと両国ともに悲惨な目に遭うだろう。
 こんな戦争は続けても何にもならない。犠牲者だけが増える一方で、どちらの利益にも繋がらない。

「……『終わりの見えない戦争』、か……」

 ぎしりと背もたれに背を預けて、セシアは額に手をあて呟いた。

 過去五回の戦争で、総大将として国王が出陣したことはない。アルフィーユもジェナムスティも、である。
 今回も、おそらくセシア自身が戦地へ赴くことはないであろう。
 現在神殿の巫女に連なる直系の王族はセシアただ一人である。異母妹のフェルレイナにはリリスの血が流れていないため、たとえ現在の第一王位継承者と謂えども、血筋を重んじる貴族階級には受け入れがたいだろう。だからセシアは、決して死んではならない。
 出来ることならば一兵士として生きたかったとセシアは思う。自身と国とをその腕で守って、「生きて」死に行きたかった。こんな、最も安全な場所で、死ぬことのないよう、隠れて生きているような国王にはなりたくなかった。

 そんな取り留めもないことを考えながら、ふとセシアは、我が侭になったなと苦笑した。
 以前ならどれだけ納得のいかないことであっても、それが国王に求められることであるからと自身の感情を押し殺していた。

『セシアが守ってるアルフィーユを、わたしも守りたいなって……』

 きっとそれは、彼女のおかげ。

 心から、誰かを大切に守りたいと思うようになった。
 生きていることがこれ以上ないほど幸福だと思えるようになった。

(……よし、リンカに会いに行こう)

 ふと脳裏に浮かんだ無邪気な笑顔に会いたくて堪らず、セシアはそう決心した。
 そうと決まれば面倒な仕事も終わらせてしまわなければならない。
 ここのところとみに増えた要決裁の書類にげんなりしながらも、未決済の書類に手を伸ばした。





「ね、ねぇセシア」
「なに?」

 ──何かが、おかしい。

 いつものように勉強で分からないところを教えてもらいに彼の私室までやって来たはずなのだが。
 どうして、先ほどから自分は抱きしめられているのだろうか。
 いつもなら、テーブルを挟んで向き合っているはずなのに、何故今日に限って、彼は真後ろにいるのだろう。
 いつの間にか彼の膝の上に座る形になっていた凛華は、上ずった声で、広げてあった数学の教科書を指さした。
「あ、あの、こ、ここ! ……ここ、教えて欲しい、んだけど……」
 セシアが要領よく教えてくれるため、もうこの教科書の範囲も終わりつつある。残すは最後の章と、この応用問題だけなのだ。
 そう、自分は勉強をしに来たのだ、と改めて思い直して、凛華はちらりとセシアを見上げた。
「ああ、ここは――」
 ふわ、とセシアの吐息が首筋に触れて、凛華は心の中で悲鳴をあげた。
 うろたえている凛華に気付いているはずなのに、セシアはいっこうに体勢を変えてくれる気などないらしく、紙に数式を書き付けながら、凛華がつまずいた点を説明してやる。
 低すぎない、聞き取りやすい声で説明してくれているのに、凛華の頭は混乱中で、そのほとんどが通り抜けていった。
 別に、抱きしめられるのが嫌いだというわけではない。むしろ、セシアの腕の中は安心するので好きである。
 けれど、恥ずかしいことに変わりはない。
 それに膝の上に乗せられるなど初めてのことである。

「セ……セ、セ、セセセシア……」
「そんな長い名前じゃないよ」

 セシアに耳元で囁かれて、凛華はわたわたと身じろぎしたが、やはり逃げることはできなかった。
 セシアはロシオルや他の騎士たちと比べると細身ですらりとしているのに、どこにそんな力があるのかと思うほど、力がある。今も腕一本で軽く抑えられているだけなのに、びくともしない。
 無理矢理脱出するのを諦め、凛華は作戦を変えた。説得策である。
「あ、あの……離して、くれない、かな?」
「どうして?」
「だ、だって……お、お勉強中……だし……」
「このままでもできるよ」
「できないよ! 今教えてくれたこと、頭に残ってない自信がある!」
 息巻いて言う凛華に、くす、とセシアは笑った。
 いつまで経っても初心な反応を返してくれる凛華が可愛らしく、もっと、と思ってしまう。
「そんなに離して欲しい?」
「うん!」
 セシアは即答した彼女の肩に腕を回し、「う?」と驚く彼女の耳元に、そっと囁いた。

「――今日、リンカがここに泊まるなら離してあげてもいいけど?」

 背筋がぞくりとするほどの、美声だった。
 始めは意味が分からなかったのだろう凛華はきょとんとした顔でセシアを見上げ、しばらくしてその意味を知り、首まで赤くして硬直した。
 泊まるというのは朝まで共にいるということで。
 うっかり彼の寝室で眠ってしまったことはあるけれど、それとは意味が違うと分かる。
「あ……うぇ……」
 多分、嫌ではない。
 セシアのことは好きだし、ずっと傍にいたいと思う。
 けれど。
 これ以上どきどきしたら、心臓が壊れてしまうのではないだろうか。

 ろくに身動きもとれず言葉にならない声ばかりを出している凛華に吹き出しそうになりながら、セシアは目の前にある細い首に口づけた。
 びくんと腕の中の体が跳ね上がる。
 うっすらと残った赤い印に満足しながら顔を上げると、凛華は今にも泣き出しそうな顔をしてまだ固まっていた。
 あからさまな動揺を見せる凛華に、からかいが過ぎたかと少々反省して、セシアは凛華の頭をぽんぽんと軽く撫でてやった。

「……冗談だよ」

 セシアとしては冗談にしなくても何ら問題はないのだけれど。
 「本当?」と見上げてくる少女に頷きを返して、解放する。
 そろそろと離れていく恋人を引き戻したい衝動にかられるが、ぐっと我慢して、セシアはにっこりといつものように笑顔を浮かべた。

(……耐えるって、辛い……)