凛華がこの世界を訪れた時より二十年ほど時はさかのぼる。
その頃のアルフィーユとジェナムスティは、互いに敵対せず、友好的な関係を保っていた。
大陸の中でも大きな国はと言えばこの二国くらいであり、その二国に優劣があれば必然的に争いにつながるのであろうが、領土の大きさも、肥沃な土地も、経済力も軍事力も外交も、文化面においてさえ大きな隔たりがあるとは言えないほど、両国は様々な面において優れており、隣国を羨むことはなかった。
大きな争いは数十年前に一度、不作の時にあったくらいである。
争いを知らない国民の方が多かったし、知っている者ももう二度とないであろうと思っていた。
よって互いの国を行き来する者も少なくない。
アルフィーユでは短く、ジェナムスティでは更に短い、秋の季節のことだった。
地位の低い者たちの間では既に噂になっていたのだが、高貴な者たちの間にまで、ある噂が広まっていた。
噂の内容はというと、「銀の歌姫」と賞される美女がいるという他愛ないものであった。
何でも目を瞠るほどの美女で、各国の貴人たちがこぞって求婚しているのにそれを全てはねつけているらしい。手を変え品を変え求婚されても断るのだから、既に相手がいるのかといえばそうでもなく、諸国を渡り歩いている気ままな未婚女性だという。
通常貴族階級の未婚女性はそのようにふらふらと諸外国を出歩いたりしないものであるから庶民の階級と思いきや、驚くほど知性に溢れた女性であるという。彼女に付き従っている一人の男性は、物腰が柔らかで整った顔立ちをしており、貴族の青年だと言われても信じてしまうほどである。
そんな奇妙な二人組がいるのだと聞けば、好奇心旺盛な貴族たちは目にしてみたくなり、そしてまた噂が広まっていく。
「銀の歌姫」と勝手に名付けられていた彼女は、結構そのあだ名を気に入っていた。
銀というのは彼女の持つ素晴らしい銀髪からもじったものであるし、歌姫というのは歌が上手いからである。
『ちょっとミステリアスじゃない? かっこいい!』
と、そう興奮して言ったものだから、同行者の青年は深いため息を漏らしたものだ。
彼女のあだ名ではない正式名称は、リリス・レリアス・アルフィーユ。
その名の通り、アルフィーユの王族である。
しかも彼女の母は王家のたった一人の王位継承者であったから、アルフィーユの王なのである。つまりリリスは王女なのだ。現在の王家に王女はリリス一人しかいないため、第一王位継承者でもある。
他の国の王族が聞けば顔をしかめるような奔放ぶりであった。
普通王女と言えば、王宮の奥で大勢の臣下に傅かれて何不自由ない――リリスに言わせれば、面白みのかけらもない人形のような――生活を送っているものなのである。王城から出ることなど稀であるし、その場合も何十人という側仕えがつく。
その常識から言えば、リリスはとんだ変わり者である。
庶民階級に入り交じって生活をすることは勿論、傍にいるのが男性一人だけということも、奇妙極まりない。
けれどリリスはその気ままな生活を楽しんでいた。
生活におけるたいていのことは自分でやってのけられる。服を着替えることすら一人では出来ないのだという他国の王女とは違うのだ。
ものを自分で買ったり料理をしたりするには始めは慣れなかったが、いまではそれもすっかり慣れて、店先で値切ることすらできる。王宮の者たちが揃って嘆くような庶民ぶりだ。
同行者の名はセリアン・シード。
シードというのはアルフィーユの十貴族と言われる大貴族の内の一つの家名である。
本人は、ナザルグやリグフォードとは比べるのも虚しくなるような小さい貴族ですと笑うが、それでも庶民階級の人々にとっては雲の上の人だ。
それだけでなく、彼は大臣の職に就いていた。
アルフィーユの大臣たちは、揃って娯楽好きの老貴族が勤めているものなのだが、その中でたった一人だけ若くして大臣職に就いており、唯一まともな大臣と言われている。
そんな彼が何故王女とともに放浪の旅をしているかというと、始めは一人きりで城を出ようとしたリリスに、頼むから一人だけでも連れていけと父親が懇願して、彼をつけたのだ。他のどんな者が立候補しても寄せ付けなかったリリスであったが、セリアンの同行は認めた。
ただ一人リリスを容赦なく正面からしかり飛ばすのがセリアンで、リリスは結構彼のことを気に入っていたのである。
そんなわけで、高貴な身分の奇妙な二人連れは、密かに噂になりながらも、自由気ままに放浪していた。
ごく穏やかにと言いたいところではあるが、リリスの類い希な容姿が人目を惹くのは仕方のないことで、普通の庶民だけでなく性質の悪い者たちの目まで惹いてしまい、軽いいざこざはいくらでもあった。が、リリスは王女ではあるがか弱くはなく、それなりに腕が立ったし、セリアンも文官でありながら護身術程度は身につけていたため、大事には至らなかった。
リリスとティオキアが初めて出会った時も、そういう物騒な状況だったのだ。
「やっちまえ!」
「身ぐるみ剥いで売っぱらっちまうぞ!」
その日、ティオキアは王太子として、小さな街に視察に訪れていた。
このあたりは比較的遅くにジェナムスティと併合された地区であり、あまり治安がよろしくない。そのため心配した彼の母親が何人もの護衛をつけ、人に囲まれた状態でどう視察しろと言うのだと心の内で文句を言っていたティオキアは、けれど今は、何故いないのだと憤慨していた。
いつもはどこへ行くにも鬱陶しいくらいについて回ってくるくせに、どうしてこういう非常時にはいないのだ。
自国の王太子がこのように街中で暴力を振るわれるとは。
暴漢に数人がかりで暴力を振るわれながらも、ティオキアはある程度は護身術を学んでいたため、応戦した。
ただでさえ身なりがよいということでこうして因縁をつけられていたのに、応戦したことが更に彼らのかんに障ったのか、いっそう暴力はひどくなった。
路地の薄暗いところでなされる理不尽な暴力に、けれど街の人は気付いていても素知らぬふりをする。
誰だって巻き込まれたくはないのだ。身なりからして平民身分ではないのだから、きっと付き人が助けに来ると踏んで、ティオキアと目が合ってもさっと視線を逸らす。それは責められることではない。ティオキア自身、他者が路地裏で暴力を振るわれていたとしても、見て見ぬふりをするであろうから。
腹を殴られ、ぐっと息が詰まる。
「……っ! 離せっ」
掴まれた髪の付け根に痛みが走り、ティオキアは目の前の男に向かってつばを吐いた。それに激昂した男の目が血走る。
今にも拳がティオキアの頬に届こうとした時。
「……そこで何してるの?」
場違いな声が、凛と響いた。
その声に呆気にとられたのは、ティオキアだけではなかった。暴漢たちでさえ、目を剥いて路地の入り口を見ている。
竪琴の弦を弾いたかのような軽やかな声の持ち主は、類いまれな美貌の少女であった。
片手に露店で購入したのであろう、野菜の入った紙袋を抱えている。
膝が隠れる程度のスカートをはき、柔らかな色の上着を身につけている。いかにも町娘らしい格好だ。
けれど最高級の銀糸のような髪とはっとするほど整った顔立ちが、不釣り合いだった。
突然舞い込んできた彼女に、暴漢たちは下品な笑みを浮かべた。
「上玉じゃないか」
いやらしい笑みを浮かべ、いかにも下品にぴゅうと口笛を吹く。
最初に動いたのは先ほどまで血走った目でティオキアを殴りにかかっていた男で、彼はにやにやと気味の悪い笑顔を浮かべて彼女に向かって歩き出した。
彼女が悪い。
誰もが見て見ぬふりをするこのような場所にわざわざ足を向けただけでなく、声をかけたのだ。
何をされても文句は言えないと、街の者なら言うであろう。
けれど彼女は歩き方さえだらしない男を一瞥しただけで、視線をティオキアへとやった。
「ねえあなた、もしかして恐喝でもされているところなの?」
何とも呑気な疑問を投げかけてくる。
「え……いや、あの……」
確かに財布を盗られていたので恐喝と言えば恐喝なのだが、それにしても彼女は何を考えているのであろうか。すぐにでも逃げるべき場面であるのに。
とっさに上手い言葉が出なかったティオキアが気に入らないのか、彼女は軽く眉をひそめ、どうなの、と目の前に迫りつつある男に向かって尋ねた。
「おい嬢ちゃん、そいつは言いがかりって言うんじゃねえのか? 俺たちはなーんにもしてないぜ。オトモダチと喋ってただけじゃねえか。あー、傷ついたなあ」
なあ、と同意を求めるように彼は仲間を振り返り、仲間の方も心得たもので、口々に彼女の言動を責め立てた。この手の輩の常套手段なのだ。
「どうしてくれんだよ。慰めてくれんのか?」
にや、と口元を歪め、肩に手を伸ばそうとする。
「……」
へえそういうこと、と小さく呟いた彼女は、次の瞬間。
肩に伸ばされていた男の薄汚れた手を居丈高にぱんと払い、すっと素早く腰を落として目を剥く男に足払いをかけた。
折れそうに細い少女が大の男にやったところで効果は知れていただろうが、派手な音と共に地面に倒れたのは、男の方だった。
彼女は不敵に微笑んで、足しか使っていないのに、ぱんぱんと荷物を片手で抱えたまま手を払う真似までしてみせる。小馬鹿にしているのだった。
この態度に、暴漢たちは頭に血を上らせ、ティオキアのことなど放っておいて、彼女に一撃を食らわせようと次々に打って掛かった。
けれど。
「……甘いわね」
ティオキアが呆然と壁に背を預けている前で、面白いくらい次々と、暴漢がはっ倒されていった。
顔面に小さな拳を食らってティオキアのすぐ横に崩れ落ちた者もいるし、彼女の足下で呻いている者もいる。
到底女性とは思えない身のこなしだった。
彼女は騎士が身につけるような動きやすい服を着ているのではないし、何より何人もを相手にしている。それなのに、大人が子供をあしらうかのように簡単に倒してみせた。
最後に大柄な男を背負い投げの要領で地面に叩きつけた彼女は、さすがに重かったのか肩で息をしていた。
とどめとばかりに呻く男の首に手刀を叩き込んで気絶させ、ふうと立ち上がる。
そしてつかつかとティオキアの元まで歩いてきたかと思うと、ぱんとティオキアの頬を叩いた。
「っ」
小気味の良い音はしたが、痛みはほとんどない。
それでも王太子であるティオキアは頬を撲たれたことなど数えるほどもなく、しかも何故撲たれたのかもわからず、衝撃を受けた。
「あなたもあなただわ。自分の思ったことも言えないの? わたし以外にもここを通った人がいたでしょう? どうして『助けてくれ』って言わないの? それとも一人で何とかできたの?」
立て続けに責められ、ティオキアは目を白黒させた。
「はっきり言いなさいよ! 子供じゃないんだから」
いえ、子供なのですが、というティオキアのなけなしの抗議は彼女によって無視された。
助けてくれたのかと思いきや、その女性に被害者である自分が撲たれている。
何なのだと未だにティオキアが呆然としていると、路地の入り口から別の声がかかった。
「リリス、どこにいるんですか? リリス――っと、ここでしたか」
彼女がやってきた入り口からひょこりと顔を見せたのは、ティオキアやリリスよりもいくらか年上に見える青年だった。
彼女の名前はリリスというのかとティオキアが思っている間に、ざっと通りの様子を見回した青年は、リリスに向かって苦笑した。
「……またやったんですか」
「だって……すっごく馬鹿らしいことをやってたんだもの。思わず手が出ちゃった」
手だけではなく口も足も出ていたが。
「それにしても、遅いわよセリアン」
むうと唇を尖らせてセリアンと呼ばれた青年を見上げるリリスは、先ほど暴漢をあしらった時とは違って、とても可愛らしくティオキアの目に映った。
「どうせあなた、手間取らなかったでしょう?」
くすくすとセリアンが笑う。
「当ったり前じゃない。わたしを誰だと思ってるのよ」
ふふんと彼に向かってリリスは胸を張ってみせた。他の者がやれば腹立たしく見えるその仕草も、何故だかリリスがやると爽やかに見えてしまう。
そうやって両手を腰に当て胸を張っていたリリスは、けれど次の瞬間はっとして自身の両手を見下ろした。
何も持っていない。
「あーっ!!」
リリスは悲愴な叫びを発した。
視線を落とした先、気を失うか身動きを取れないでいる暴漢たちに混じって、買ったばかりの野菜や果物が無惨に地面に転がっている。ほとんどのものが傷だらけだ。
数人がかりで襲って来られたものだから、つい手に持っていた買い物袋を落としてしまったのだ。
驚くほどの強さを見せ、かと思えば愛らしい仕草も見せ、そして今はしおしおと泣き崩れている。
「買い直せば大丈夫ですよ」とセリアンに慰められているリリスを見て、やっと茫然自失の状態から抜け出せたティオキアは、そっと彼女に近づいた。
無事だったらしい果物を両手に抱えて「でも高いもの」と呟いている彼女に、「あの」と声をかける。
傍らに転がっていた、こちらも傷の少ない果物を彼女に渡しながら、ティオキアは照れくさそうな表情をして、言った。
「……助けてくれてありがとう、リリス」
渡されるがままに果物を受け取ったリリスは一瞬きょとんとした表情を見せたけれど。
ティオキアを見上げて、「いーえ!」とにっこりと笑った。
初めて出来た友人だった。
初めて出来た思い人だった。
──出会わなければ良かったのかもしれない。
『ねえ、わたしたちは友達でしょう?』
だから一人だなどと思うなと、言った。
『……親友だと、思っています』
だから何でも話して欲しいと、言った。
幸せだった。ティオキアがジェナムスティの王太子なのだと自身の身分を口にしても、二人は全く態度を変えることはなかった。「それならわたしだって、実はアルフィーユの王女さまなのよ」と、内緒話をするように言った彼女の笑顔が綺麗だった。「お転婆王女ですがね」と茶々を入れた彼の苦笑する柔らかな声が耳に心地よかった。
幸せだった。
三人でいつまでも幸せでいられると信じていた。
けれどそうはならなかった。
出会わなければ、良かった。
出会わなければ、叶わぬ恋に心を焦がすことも、嫉妬にかられて親友だと言ってくれた相手を憎悪することもなかった。
鮮烈な想いを知ることはなかっただろうけれど、憎しみを知ることもなかったはずだ。
けれど。それでも。
『あなたは一人なんかじゃないのよ、ティオキア』
彼女に対する気持ちを止めることができなかった。
時間が、止まってしまえば良かったのに。
時間が彼らの関係を壊してしまった。
出会って数年する頃には、ティオキアもリリスも少年と少女ではなく大人になったし、セリアンはもうずっと前から大人だった。
そのころにはもう、リリスは文句のつけようがないほどの美女に成長しており、彼女の心を射止めるのは誰なのだろうと多くの人が関心を寄せた。
周囲の目が、彼女を変えた。
彼女の抱く気持ちが恋心なのだと、世間が彼女に教えた。
リリスは、セリアンに想いを寄せていたのだ。
即位の条件は他国の姫と結婚することだと父に言われ、ティオキアが思い浮かべたのはリリスただ一人であった。
彼女のほかには誰もいらないと思った。
親友よりも彼女が欲しかった。
だから、決死の覚悟で彼女に想いを告げたのだ。
『ごめんなさい』
彼女が選んだのはティオキアではなく、セリアンだった。
――憎しみを知った。
父に言われるがままトーランドから王女を妻に迎え、ティオキアは即位した。
けれどリリスを忘れることなどできなかった。
儚く微笑むサリアを嫌いだと思ったことはなかった。
それでも、リリスではないのだと思うと、上手く愛せなかった。
憎しみの欠片が降り積もっていく。
セリアンとリリスの間に王子が生まれた時。
その王子が一歳の誕生日を迎えるのだと知らせを送ってくれた時。
もう歩き始めているのだと、子煩悩な知らせを受け取った時。
産後の肥立ちが悪く、床に伏しがちになっていたリリスが、死んだ時。
サリアが半狂乱になり自らその命を絶った時。
『あの人なんて忘れて、わたしを見て……。あの人はもう──』
もう、動かないのだ。
王宮の者が眉をひそめるような丈の短い服を身につけ、平気で街中を歩き、時には酒屋でへべれけになるまで酒を飲み、陽気になって何曲も披露し、王女が二日酔いとは何事かとセリアンに説教され、けれど懲りもせずまた街に繰り出して、いつでも笑っていたリリスは。
もう動かないのだ。
セリアンが憎かった。
何もかもを持っていたくせに、リリスまでを手に入れたセリアンが、アルフィーユが憎かった。
誰よりも、生まれてきた王子が憎かった。
子供を産まなければリリスは死ぬことはなかった。
許せなかった。
戦争の原因は、たった一人の歌姫。
セリアンに密かな好意を寄せていた一部の女性以外のほとんどの者から好かれ、憧れを抱く者さえいた、そんな彼女が終わりの見えない戦争の引き金。
純粋な好意が、奇妙に捻れて戦争へと発展した。
ティセルはティオキアの元へ嫁ぐように言われた時、嫌だとは思わなかった。
セリアンの死後すぐのことであり、ちょうどセシアの即位の時期と重なったため、アルフィーユもジェナムスティもどちらも浮き足だった。
もしかすると、これを機に戦争を終わらせることができるのかもしれない、と。
けれどそうはならなかった。
むしろより悪い方向へと転じていった。
ティセルが、何故ティオキアの元へ嫁ぐように言われたのかを知ったのは、結婚後間もなくのことだった。
亡くなった正妃の他、五人もの妃がいたにもかかわらず、何故自分が選ばれたのか。
それはティセルの真の名前が理由。
ティセル・ロウランド・マチェス。
ティセルの父親は当時の国王の弟。母親は貴族出身。ティセルは、歴としたマチェスの王族の一員だったのだ。
表向きは国王の弟に子供はいないということになっている。王位の継承権を巡る確執を避けるためにと、ティセルは王立の学院で育てられた。王族の娘であると知る者は数えるほどもいなかった。それが他国に知られているなど誰一人思わなかった。だから、ただ、学問の国であるマチェスの王立学院の中でも特に優秀だったティセルを、その知識のために求めたのだと誰もが思った。
けれど実際はと言うと、ティセルは人質だった。
マチェスの王族にアルフィーユとの和平同盟を破棄させるよう脅しをかけるための、道具であった。
『あなたのせいではありません』
デノンはそう言ったが、ティセルは違うと思った。
結局父親である現在のマチェス国王はアルフィーユとの和平同盟を破棄し、ティセルも戦争を招く原因の一つとなってしまったのだから。
この世界の国々の関係に詳しくない凛華にも分かりやすいようにと、丁寧に説明を交えながらのゆっくりと聞かされる話で、凛華は戦争の背景を知った。
領土争いのためだと思っていた。
アルフィーユもジェナムスティも大国で、けれど今以上の大国になることをジェナムスティが望んだからこその戦争なのだと思っていた。
けれど違う。
見た夢も、ティセルの話も、ただの領土争いではないのだと教えてくれる。
そして理解した。
ティセルの置かれた立場も、それによるマチェスの行動の意味も、夢に出てきたティオキアの切ない気持ちも。
誰かが悪い、というものではない。
リリスがセリアンを選んだことを、凛華は責められない。
セリアンではなくティオキアを選んでいたところで、もしかするとセリアンがジェナムスティを憎んだかもしれない。
リリスは自身の気持ちに正直に行動しただけ。
ただ、それだけだったのに。
一つの恋が、戦争へ。
「これが……この戦争の、原因です」
「……そう、なんですか……」
人を好きになるというごく当たり前の気持ちが、こんな事を引き起こしてしまうなんて。
初めて恋を、恐ろしいと思った。
そして凛華はちらりと隣に座ったセシアを見上げた。
やや暗いこの馬車の中でもそっと輝く銀髪。海のように深く澄んだ青い瞳。
ティオキアが恋した彼女の色。
「わたしは」
改めて口を開いたティセルに、慌てて凛華は視線を戻した。
話し終えたティセルはほっと肩の力を抜き、けれど暗い顔でうつむきがちに言った。
「わたしは、マチェスの今の国王夫妻の子供であることを、誰にも言いませんでした。学院の人たちは知っていましたが……。どうしてティオキア王がそれを知っていたのかは、分かりません。伯父夫婦や両親が脅されていると知ってからも、誰にも言えませんでした。わたしの国は、脅されているんです、なんて……っ、言えなかった……!!」
でも、とティセルは続けた。
「でも……ティオキア王の副官は、知っていたんです」
「副官?」
きょとりと凛華は首を傾げた。
「デノン・シェイア。ジェナムスティ王唯一の側近、でしたね」
確かめるように言ったセシアに、ティセルは頷き、続ける。
「知っていて、あの人は、国を捨てようとしたわたしを助けてくれたんです。何度もこのまま逃げてしまおうと考えました。……ですが、それは卑怯な気がして……。だから、せめてリンカさまとお話だけでも、と……」
「え、あ、ありがとうございます」
何と言っていいのか分からず、凛華は軽く頭を下げることしかできなかった。
一触即発状態にある中、王の妃が敵国に赴くことに、どれだけ勇気が要っただろうか。見咎められれば捕らえられ、殺されるともしれないのに。それでも、ただ会って話をするためだけに、ここまで。
すごいと、凛華は思った。
「わたしは、この戦争を止めたいです」
「アルフィーユもそれに同意です。もう無駄な血を流したくはない」
「……うん。セシ……陛下の言うように、わたしも、血を流させたくないです。戦争を知らないわたしがこんなことを言うのは自己満足なのかもしれないけど……わたしは、この戦争を止めたいです」
きっと現代でただの女子高生として生きていたら、こんなこと考えもしなかったであろう。
凛華の中で戦争とは遠く離れた所でなされることで、危機感を覚えるときと言えば試験前の勉強中やアルバイトに間に合うか間に合わないかの瀬戸際の時なのだ。
戦争を知らず、飢えに苦しむことも、明日の暮らしを心配することもなく、生きてきた。
戦争は教科書やテレビの中の出来事だった。
それでも何の因果かこのような世界にやって来て、実際に戦争を間近に控えている人々を知った。
彼らにとって戦争とは遠い場所でのことではなく、目の前にある実際の危険を伴うことなのだ。
そういう場所で生きる人々に、戦争を知らない凛華が言えるのはきれい事でしかない。きっと自分勝手だと言う者もいるだろうし、止めてみせると宣言した凛華を浅はかだと思った者もいるだろう。
それでも。
「誰かが傷つくのも、誰かが涙を流すのも、そんなの……嫌だから……」
それでも、戦争などなくなってしまえばいいと思う。力のある巫女が預言したというのが本当に自分なら、止めたいと思う。
嫌だと言った凛華の髪に手を伸ばし、セシアは頭を撫でてやった。
アルフィーユもジェナムスティも、凛華が生まれた国でも、彼女が住む国でもない。
それなのにまるで自身のことであるかのように、必死になってくれる。やらなくていいことまでしようとする。
セシアは損得を考えて合理的に物事を捉え、行動する。だから、彼女には何の得もないであろうに、必死になって人を守ろうとする凛華が、無性に愛おしいと思った。それがたとえ他の誰かのためであったとしても。
見ているこちらが恥ずかしくなるほどの優しい笑みを浮かべているセシアを見て、ティセルは目を丸くした。
『──血も、涙もない』
そう言ったのは誰だったか。
アルフィーユの新王は血も涙もない冷血な国王だというのを、ティセルは何度も耳にした。
けれど今の彼は、そんな風にはとても見えなかった。
「ティセルさん」
考え事をしていたティセルは凛華に名を呼ばれ、はっとして顔をあげた。
「ありがとうございました、教えてくださって」
「いえ」
「それで、あの……。こんなことを訊くのは失礼かもしれないんですけど……ティセルさんは、これから、どう……?」
ティセルは、ティオキアへの、ジェナムスティという国への反逆者である。
ジェナムスティに戻ることは彼女の死を意味するであろうから、きっと戻ることはできないであろう。
心配そうに目を瞬かせる凛華に、ティセルはしばらくためらって、そして口を開いた。
「マチェスに行こうと思います」
これからどうするかなど、考えていなかった。戦争の事実を「預言された少女」へと伝えることができたらと、国を捨ててきたけれど、その先どうしようかは考えたことがなかった。
けれど、するりと言葉が出てきた。
たった今決めたことだった。
「お送りしましょう」
言ったセシアに、ティセルは静かに首を振った。
「陛下、お気持ちだけ受け取らせていただきます。マチェスはアルフィーユに反旗を翻した国です。公式ではなくとも、わたしはマチェス国王の身内です。陛下がそのようなことをなさるわけにはいかないでしょう」
きゅ、と一度唇を引き結んで。
「わたしは、自分の力で行きたいんです」
「……わかりました。では、頑張って、生きてください」
青い瞳を細めて言われた言葉に、ティセルはひどく動揺した。
「どうかしましたか?」
「いい、え……何でも……っ」
ない、という言葉を言い終える前に、涙があふれ出ていた。
どうしてその言葉を言ってくれるのだろうか。
デノンも、神殿の巫女であるフェデリアも、そしてセシアも。
ティセルは生まれ育ったマチェスを戦禍に巻き込みつつあるのだ。それでいながら、ティオキアを止めることができなかった。傍にいたのに、憎しみを止めることができなかった。
ティセルがいなければ、マチェスが戦争に身を投じるようなことはなかった。
どうしようもなく、無力なのだ。
それなのに、何故。
「生きて」と、言ってくれるのだろう。
ありがとうございますと繰り返しながら、ティセルは流れる涙を止めることが出来なかった。