「ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げ、ティセルはそう言った。
目の前にいるのは神殿の巫女。
本来巫女は神殿からおいそれと出てはいけないことになっているので、見送りは神殿の入り口までだった。
入り口から外へと続く幅広の階段の踊り場に立ち、左右に女神に仕えるという神獣の彫刻を従えたフェデリアがまるで女神のように見えて、ティセルは再び見えることはないだろうとの確信から、その姿を焼き付けるように見つめた。
それに相対するティセルはと言えば、商人の娘といった、可もなく不可もないこざっぱりとした装いで、とてもジェナムスティの王妃であったとは思えないほどの普通の姿である。ティセルの隣に控えている神殿の神官もまた、行商人らしい服に身を包んでいる。彼女はフェデリアが護衛のためにつけてくれたのだ。構わないと言ったのだが、身分を証明するためにも必要だろうと言われてしまえば頷くしかなく、心苦しいが同行してもらうことにした。
深々と頭を下げるティセルに眉尻を下げ、フェデリアは困ったように笑った。
「外まで送ってあげられなくてごめんなさいね」
型破りな彼女は、実は神殿の巫女は神殿外に出ないという常識を破り倒しているのだが、周囲にはティセルだけではなく神官たちがいるため、それも出来ない。
謝罪の言葉を述べるフェデリアに、ティセルは慌てて手と首を同時にぶんぶんと振った。
「い、いいえ、とんでもないです。こうしてお声をかけて下さるだけでも、身に余る光栄ですから。本当にお世話になりました」
フェデリアは微笑みを浮かべたまま、もう一度頭を下げたティセルに手を伸ばし、彼女の前髪にそっと触れた。
驚いて目を丸くするティセルに、髪についていたごみを取る、といった様子を装って耳元に唇を近づけ、囁いた。
「頑張って、生きて」
「っ」
はっとティセルは息を飲む。
ティセルはジェナムスティの国王ティオキアの妃だった。
ジェナムスティは、戦争を起こした国である。
そのような女神の意思に最も反する行為をした国の王妃であったティセルを、女神の代理人が応援することなど、本来はあってはならないことなのだ。周りにいる神官たちに聞かれたら顔をしかめられるのは巫女である。
それなのに、わざわざこうして囁いてくれた。
ティセルは泣き出しそうな笑顔を浮かべ、はいと声にはせず唇を動かして答えた。
どうしてこの人は。
全ての記憶を失わなければいけなかったのに、こんなに優しく笑っていられるのだろう。
三度頭を下げ、ティセルはこぼれ落ちそうになった涙をぐっと堪え、顔を上げた。
身を翻し、階段へ向けて一歩足を踏み出す。
女神に守られた神殿から、人の世界へと。
ティセルは毅然と顔を上げ、一歩一歩踏みしめるようにして進んだ。
神殿を振り返ることなく階段を下りきり、しばらく歩いたティセルは、いつから待機していたのかよくは分からなかったけれど、そこに隊商の集団がいることに気付いた。
斜め後ろを歩く神官同様、フェデリアが用意してくれたものだ。
この場所からティセルの行こうとしている場所へは結構な距離がある。
隊商に近づく、主らしい人物に頭を下げる。
老齢の主は目尻に刻まれた皺を更に深くして笑い、ふさふさとした自身のあごひげに手をやりながら、「こちらへどうぞ」と老人らしいゆっくりとした足取りで歩き始めた。
馬を用意してくれているのだろうか、と思ったが、主が案内してくれたのはひときわ大きな馬車だった。四頭の馬がつながれており、気のよさそうな御者が二人並んで座っている。どう見ても主のための馬車だ。
このような好待遇を受けるにふさわしくないと思いつつ、ティセルは何も言わずに世話になることにした。ここでティセルが滅相もないと断ったところで、主は困ってしまうだけだろう。
「お客様、まずはどちらまで?」
渡された飲み物を口にして息をついてから、ティセルははっきりとした口調で言った。
「アルフィーユ王城へ」
「承知いたしました」
主は深く一礼してティセルにくつろぐように告げ、仕切り用の分厚い布を優雅に閉めた。
自室の窓から去っていく隊商を眺めていたフェデリアは、ソファに座り込むと小さく呟いた。
「……いるんでしょ? ナツミ」
傍から見れば誰もいない部屋で独り言を言っているだけに見える。
けれど、まるで彼女の声に応じるようにふわりと白い幻影が現れた。
人の形を取っているような、けれど向こう側の壁がぼんやりと見えてしまうようなそれは、凛華が見ていたとしたら幽霊だと驚いたかもしれない。
だんだんと色をなしていくそれは、途中でぷつりと止まった。
「……無理し、……ぎた……かも」
もやのかかった声が部屋にそっと響く。
尋常ではない親友の様子にフェデリアは整った眉をひそめた。
「何をしたの?」
「……マ、チェスの偵さ……」
なるほど。夏実らしい行動だとフェデリアは思った。
手のひらを返すようにしてアルフィーユとの平和同盟を捨てた学問の国マチェス。いくら小さい国と言えども表だって黒髪の人間が行けるような場所ではない。かと言って鳥の姿をするにはフェデリアの協力がいる。だから彼女は、その体のままで何とか偵察に行っていたのだろう。
あの国が今どうなっているのかを、見るために。
たった一人の大切な存在のために。
「も……だめ……」
すぅっと目の前の幻影が薄くなり空気に掻き消えた。
窓から入り込んできた白い小鳥が机に降り立つ。少しして、その鳥がくちばしを動かした。
『やっぱりあれ以上は無理だったわね』
「ナツミ?」
『ああ、大丈夫よ、消えない消えない』
明るい声で話しているところをみると、危険な目に遭ったわけではないらしい。長い間、人の姿をとり続けるのが祟っただけなのだろう。
フェデリアは変わらない親友の態度にほっとした表情を浮かべた。
『ティセル、ちゃんと王城まで行けると思う?』
唐突に夏実がそう言う。
フェデリアは髪を後ろへと流してから、少し考えて答えた。
「きっと大丈夫よ。あの子は……あなたの娘と同じで強いから」
『……そう……ね』
アルフィーユに来てからほとんど傍にいた。
そしてその強さを知った。
それがたとえ父親と祖父の死から来る強さでも、彼女が強いならそれで良いのだ。
剣の稽古をしている彼女の表情と、ティセルの表情は似ている。夏実やフェデリアから見ればただの子供に過ぎない年齢なのに、それでもしっかりとしているものだ。
「これで、何もかもが終わるといいんだけどね」
お得意の紅茶を淹れることもせず、ぽつりとフェデリアが呟く。
命を司る巫女のくせにこの戦争を止められない歯がゆさからか、その声はひどく苦かった。
『……問題は小さくはないけど。でもきっと……大丈夫よ』
フェデリアの声とは百八十度違った明るい声で言うと、夏実は翼を広げ勢いをつけて飛び上がった。
窓に足をかけ、普通の鳥がそうするように首だけをくるりと後ろに向ける。
『何て言ったって巫女様がそう預言したんですから?』
おどけた言い方にフェデリアがくすくすと笑った。
「ええ勿論。女神のご加護つきよ」
フェデリアの台詞にぱちぱちと目をしばたかせ、それから夏実も笑い返す。
これ以上の時間に余裕がないことを知っていた彼女たちは、別れを惜しむかのようにしばらく無言で窓の外の空を見上げた。
まだ明るい。空の色は綺麗だ。この空が曇ることがないといいのだけれど。
いつまでも、晴れなら。
曇ることも、全てを白くする雪が降ることもなければ良い。
『ずっとここでフェデリアの淹れた紅茶、飲んでいたかったな……』
もう行かなくてはいけない。夏実の役目はまだ終わっていないのだから。
「紅茶なんて……後から死ぬほど淹れてあげるわ」
フェデリアは最後ににこりと笑って手を振った。それと同時に白い小鳥は窓の枠を蹴る。
小鳥もまた、アルフィーユの王城へ。
ジェナムスティ国王の妃だった彼女と、終わらない役目のためだけに存在する親友を見送った預言者は、たった一人になると銀の髪を掻き上げ、長いため息をついた。
「紅茶なんて……いくらでも、淹れてあげるわよ」
そんなものでいいのならいくらでもしてあげたいと思う。
巻き込んだのは、預言した自分。
巻き込まれたのは、少し寂しげに笑うあの母娘。
「だから……」
どうか。この長い苦しみに、終止符を。
ギィン、と金属音が響く。
どう考えても小柄な人間の方が今は不利だ。押さえつけるような剣の力が強く、自分の剣を手放さないように押し返すことくらいしかできない。
また鈍い音が響いて。その次は鋭い音。数瞬後に、がつんという剣が地面に落ちる音。
「参り……ました」
くぅ、と凛華は悔しそうにロシオルの涼しい顔を見上げた。
これで何敗目だろうか。首を傾げて考えようとした凛華に、ロシオルは凛華の剣を拾い上げながらにっと笑って言った。
「記念すべき二百敗目」
そんな物を記念にしないで欲しい。
そうは言わずに、凛華は黙ってロシオルから剣を受け取った。
二百一敗目のための勝負だ。どうせこの鬼師匠は休む間など、くれない。彼が必要だと判断した時は何が何でも休ませられるのだが、不要だと判断すれば稽古は続けられる。
いつの間にか、師匠と弟子の勝負は、ロシオルの配下たちに見守られるようになり、そして彼らは負け通しの凛華を応援してくれるようになった。
自分の稽古はどうした、とロシオルが注意したせいで、まじまじと見られることはないが、それでも剣が危うい箇所に突きつけられるたびにどこからかはっという息を呑む音が聞こえてくる。
それがささやかな応援にもなっていて、凛華は嬉しかった。
その重みにも慣れてきた長剣を両手で構えて深く呼吸をし、腰を落として攻撃の体勢に入る。
だが。
「何だこれっ!?」
静かだった稽古場に響いた誰かの声に、思いきり体勢が崩れた。
ロシオルはさすがにそれほど驚かなかったが、何事にも一直線に集中する癖のある凛華はものすごく驚き、がくんと上体を前倒しにしてしまい、かなり格好の悪い体勢になってしまった。
少々恥ずかしい思いをしながら、声がした方向へと視線をやる。
稽古場の入り口の方だった。そこには見慣れない光景があった。
うさぎやら鳥やらリスやら、とにかく小動物がたくさん、ばたばたとその場で暴れている。強烈だったのは狐で、傍に恰好の餌が群れているにもかかわらず、きゃんきゃんとひときわ大きな鳴き声を出しながら暴れていた。
拍子抜けしてロシオルが呟く。
「……リンカ、知り合いか?」
普通、人の食事となってしまうことを知っている彼らは、そう簡単には人の前に出てこない。
とくれば、彼らが用があるのはこの弟子くらいだろう。
「うーん……会ったことない子ばっかりだけど……。わたしに用かなあ……」
いきなりの動物集団訪問に驚く騎士たちにかかわらず、のんびりと答えてから凛華は師匠を上目遣いで見上げた。
「……今日の稽古はこれまで」
凛華の言いたい事が分かり、ロシオルはぽんぽんと頭を軽く叩いてやった。そして自身も剣を鞘へと収める。
「ありがとっ」
にこりと笑って凛華は剣を鞘に収め、そのままぱたぱたと入り口まで駆けて行った。
それを見送ったロシオルは一つため息をついて、他の騎士たちの稽古でもつけようと、凛華に背を向ける。
その直後。
「ロシオルっっ!!」
凛華の声に、足を止めた。
再び息をつきながらロシオルは肩越しに凛華を見たが、彼女の表情を見てただ事ではないことを知り、凛華の元へ駆けつけた。
「ど、どうしよう!」
慌てきった様子で凛華がロシオルの騎士服の裾を引っ張る。
「どうかしたのか?」
パニックになりかけの彼女を落ち着かせるようにことさらゆっくりと言うと、彼女は掴んでいた服を更にきつく掴み、何か言いたそうに漆黒の瞳を揺らしたが、口から漏れたのはどうしようという言葉だけだった。
それから、はっと思いついたように稽古場に向かって言った。
「ロシオル借ります!!」
(俺は物か)
ロシオルはそう思ったが言葉には出さなかった。
突然慌てだした凛華に呆然としている騎士たちは、彼女の慌て様につられたようにぶんぶんと揃って頷いた。現場監督のロシオルがいなくても王城に勤める彼らは自分の仕事を疎かにしないので、彼がいなくても問題はない。
ロシオルの服をがしっと掴んだまま、凛華は階段になっている稽古場の入り口を段とばしで駆け下りた。
「リンカ、ずれるから離してくれ」
「あ、ご、ごめんっ」
ぱっと手を離し、けれど速度を緩めることはない。
向かっている方向は王宮の本宮だった。
凛華は足が速い。ロシオルは凛華と出会った時から知っていたためある程度覚悟していたのだが、帯剣していて鞘が足に当たり、走りにくいはずなのに、凛華ときたらものすごい速度で走っている。師匠であり騎士でもあるロシオルは意地で凛華と併走しながら、声を張り上げた。
「リンカ、どうしたんだ?」
凛華はロシオルの方を見ようともせずに前を見つめて、半ば叫ぶようにそれに答えた。
「さっき、あの子たちが教えてくれたの! ジェナムスティの人がこの王城の中にいるって!」
「待て、ジルハじゃないのか?」
「違うって言った! 赤い髪じゃなかったって!! アルでもないって!」
やっと凛華の焦りの意味に気付いたロシオルは、顔を引き締めてできる限り速度を上げた。
アルフィーユ王城は比較的開放的である。
王城であるから城壁も備えているのだが、その正門を含む全ての門は、身分証さえあれば抜けることができる。さすがに王宮内へ入れるのはごく限られた人物だけだが、衛兵たちの警備の目をくぐれば入れないこともない。
王宮の中でも最も厳重な警備がなされているのは国王のいる本宮だが、そこにジルハではないジェナムスティの者がいるとなると、少々問題である。
ジルハやアルシィのように国元から逃亡し、そして正式な手続きを踏んで国王に面会を求める者なら構わない。
けれど、もしそれが不法に侵入した者で、狙いが本宮の国王であったとしたら?
ジェナムスティと一触即発の状態にあるだけに、ぞくりと寒気が走った。
本宮へと続く回廊を駆けていた凛華は、本宮の入り口に銀色の髪を見つけて、「いた!」と声をあげた。
ロシオルはその声に弾かれたように、とっさにあたりを見回す。
入り口に立ち、槍を垂直に構えている衛兵が四人。国王であるセシアと、副官のアイル。そして、大きな馬車とその主と見える老年の男性。
視界に入ったのはそれだけだった。
あの男か、とロシオルは思った。
「セシア!」
凛華は足を動かしながら長剣を鞘から引き抜き、セシアと老年の男性の間に滑り込んだ。
足を止め、セシアを背に、剣を構える。
これ以上ないほどの速度でここまで駆けてきたため、自然と息が上がる。呼吸と同じリズムで剣先がゆらゆらと揺れたが、それでも凛華は剣を下ろさなかった。
亡くなった祖父と同じくらいの年頃の老人だ。顔にも首にも袖から覗く手にも、皺が無数に刻まれている。白髪は禿げ上がってはおらず、たっぷりとした口ひげと長い眉が、気のよさそうに見えた。
こんな風に割り込んで剣を突きつけるなど、もってのほかの行為だと凛華も分かっている。分かっているけれど、動物たちが教えてくれたことに気が動転していた。
遅れてやってきたロシオルもまた、剣を鞘から抜きはしなかったが、その柄に手をあて、いつでも抜けるようにした。
突然の闖入者たちに、向き合っていたセシアとアイルと老人は目を丸くした。
「……これはこれは。随分と可愛らしい守護騎士をお持ちのようですな、陛下」
やんわりと皺を刻んで口元を緩めた老人に、セシアはちらりと視線を寄越した。
そして、自分の目の前で剣を構えている少女に視線を落とし、ひょいとその腰に腕を回して引き寄せた。
「わぁ!?」
前方にしか注意を払っていなかった凛華は突然後ろから引き寄せられ、素っ頓狂な声をあげた。両手で構えていた剣から片手が外れ、物騒な武器がぶらりと揺れる。慌てて両手で掴んだが、明後日の方向を向いた剣はもう既に老人を脅す役には立っていなかった。
「守護騎士ではありません。彼女はわたしの恋人です。……少々、心配性なようで」
赤くなりおろおろとうろたえる凛華を余所にしれっと訂正したセシアは、凛華を自身の左横に下ろすと、その剣を取り鞘に収めた。
「え? ええ? あの、セシア……この人、ジェナムスティの人じゃ……?」
どうして武器をしまうのだと、セシアに問いかける。
「違うよ」
ぽん、と凛華の肩を軽く叩き、セシアは改めて老人へと視線をやった。
「ええ、わたしではありません。小さな騎士どの、わたしはメルレイという国からやってきた商人なのですよ」
愛想よく微笑む老人に、凛華はきょとんとするしかなかった。
が、動物たちが教えてくれたジェナムスティの者ではなく、勘違いで剣を突きつけたのだということを理解するやいなや、さっと血の気が引く。慌てて頭を下げ、非礼を謝罪した。
やってしまった。
これではセシアを守るどころか、セシアの顔に泥を塗るようなものである。
自分が恥ずかしい。
繰り返し謝罪の言葉を口にし、頭を下げる。気にしていませんと老人がなだめてくれるが、凛華は消えてしまいたい気分を味わった。
と、がた、と老人の後方にある馬車から物音がする。
自身の情けなさに目を潤ませていた凛華は、驚いて顔を上げた。
老人も振り返って馬車を見たが、何も言わなかった。言葉を発したのは、セシアだ。
「いま出てこられるのは少々問題ですから、そのままそこにいらして下さい」
馬車へ向けた言葉だった。
「セシア?」
誰に向けて言ったのだろう、とセシアを見上げる。
「ほう、さすがですな。もうお判りになられましたか?」
凛華はさっぱりわけが分からないのに、老人は感心したような顔つきでセシアを見ている。
セシアは曖昧な笑みを浮かべるだけで何も答えず、傍らにいる自身の副官とロシオルをちらりと見やった。
アイルは視線だけで主の考えを読み取り、浅く頷く。
そしてアイルはロシオルへ向き直り、奇妙なことを注文した。
曰く、第二騎士隊の腕の立つ何人かに町民の格好をさせてアルフィスの出口に配置しておいて欲しいとか、馬を十数頭用意して欲しいとか。
ロシオルは疑問を唱えずすぐさま身を翻したが、凛華の頭の中は疑問符だらけであった。
そんな凛華においで、と手を差し伸べ、セシアは柔らかく握った凛華の手を引いて馬車の方へと歩き始めた。
凛華とセシアの二人だけである。
老人は一礼してその場に留まったし、アイルは微動だにしなかった。
何が何だかさっぱりわけが分からない。
さくさくと音を立てて背丈の低い草を踏みしめ、凛華は歩調を合わせてくれるセシアを見上げたが、セシアは真っ直ぐに前を向いていて、問うに問えない。
向かっているのは明らかに目の前の馬車であるから、そちらへ行けば分かるだろうと諦めた凛華は、視線を落とした。
セシアは凛華の予想通り馬車の前で足を止め、薄いレースのカーテンがかかった窓越しに、二言三言会話をし、扉に手をかけた。
「リンカ」
名を呼ばれ、凛華はセシアの手を借りて乗り降りに用いるはしご段に足をかける。明るい場所から少し暗い場所に入ったため、すぐには目が利かず、凛華は危なっかしい足取りで椅子に腰を下ろした。続いて入ってきたセシアもすぐに腰を下ろし、ようやく凛華は向かいに座っていた人物へと視線を向けた。
商家の娘が身につけるようなこざっぱりとした服に身を包んだ、凛華とそう年の離れていない女性。薄茶色の髪はありふれた色だったが、そのモスグリーンの瞳を凛華はどこかで見たような気がした。
そしてわずかな間じっと彼女を見つめ、凛華ははっとした。
見覚えがあるのも当然であった。
その若々しい顔立ちを驚きとともに目にしたのは、この間のことだ。
最も若い妃。
――ジェナムスティ王の、七番目の妃だったのだ。
「あ……っ」
思わず声をあげた凛華に、ティセルはぺこりと頭を下げた。
「レリアス陛下、『預言された』神聖な異世界の方。初めまして。ジェナムスティの第七王妃……『元』をつけた方が正しいのかもしれませんが。ティセルと申します」
涼やかに響く声に、凛華は賞賛の眼差しを送った。
物怖じしない態度とはきはきと話す口調。
第七妃と第八妃はマチェス出身だと凛華は聞いていた。マチェスは小さな国で目立った特産物もないが、学問に長けた国である。新しい学の全てはこの国から生まれると言われるほどだ。
その智の国に生まれ育った者らしい知的な雰囲気が、凛華よりわずかに年上であるはずなのに、やけにティセルを大人びて見せた。
呆けた顔をしている凛華の隣で、セシアが軽く頷いてティセルの口上に言葉を返した。
「セシア・レリアス・アルフィーユです。ようこそ我が国へ」
慌てて凛華も、セシアに倣う。
「あ、えっと……は、初めまして、ティセル王妃。……凛華といいます」
浅川という苗字をつけるべきかどうか少しだけ悩んでから、結局凛華は自分の名前を言うだけに留めた。ティセルも、自身の名前だけしか口にしなかったからだ。
「どうぞ、ティセルとお呼び下さい」
凛華に向けて口元に笑みを浮かべてティセルはそう言い、すぐに唇を引き結んだ。
「時間が、ないんです」
「え?」
驚きの声をあげたのは凛華で、セシアは浅く頷いた。
対照的な二人の反応を見て、ティセルはほうと息を吐き出す。
「……ご存じなんですね、陛下は」
「ある程度は」
疑問符が頭の近くをうろうろとしているのは凛華だけのようだ。
「ですが、わたしが話すよりは、あなたが話された方が正確でしょう」
ティセルが話すべきだ、と言ったのである。
こくりとティセルは頷き、そして膝の上で重ねていた手に力を込めた。
『あなたのせいではありません』
違うのだと、あの時心から叫びそうになった。
犠牲になることはないというのも、違うと思った。
犠牲になるべきなのだ。
ティセルは、ティオキアの妃であったのだから。
国を出て嫁し、生活を共にし、その心に触れた。その傍にいた。
止めるべきであった。止めなければならなかった。けれど、ティセルにはそれができなかったのだ。
それでも、まだ間に合うと信じている。
「リンカさま。……あなたに、全てをお話するために参りました」
神殿を出る前から決めていた。
「預言された少女」に会おうと。
「……マチェスが……アルフィーユとの和平同盟を失効させ、その他ネーヴァもカルディナも、ジェナムスティと軍事同盟を結ぶことになりました」
着々と進む戦争への準備。
もう戦争はすぐそこまで迫ってきている。
「時間がないんです」
ティセルはもう一度繰り返した。
「……わたしは……あなたに、どうしてジェナムスティとこの国がこうなってしまったのか、知って欲しいんです」
戦争を止める具体的な方法など何一つ分からない。
数万の兵士をたった一人で止められるとは思わない。
それでも、ただ知って欲しいと思った。
「預言された少女」に。
知った彼女がどう行動するかなど彼女の自由で、ティセルは、彼女に自分のできなかったことを押しつけようと思ったのではない。
嫁した国を捨て、王の妃ではなくなったティセルにできることは、知っていることを伝えることくらいだった。
だからティセルは、妃だった自分が知っている、戦争の発端を話し始めた。