もし、見間違いでなければ。
角を曲がり、消えかけた水色の服の後を追う。
いた。
それほど急いでいなかったのか、セシアの追っていた相手はまだその通路を歩いていた。影になった薄暗いその中でセシアは目をわずかに細め、確認する。
自分の見た色が間違いでなければ。
追いつき、セシアは彼女の手をぱしっと掴んだ。
「!?」
びくりと手を掴まれた彼女の肩が揺れるのが分かる。
「あ、すみません無礼を、」
お許し下さい、という言葉は続かなかった。
本来であれば王族として礼儀作法の全てをたたき込まれている彼は非礼を詫び、しかるべき対処を取っている筈なのに。
薄く開いた口を動かすこともできないまま、セシアは彼女を見つめた。出すべき言葉を失ってしまう。
まさか。
──いつか、現れるでしょう。
フィアラの咲く暖かい春に、運命を変える力を持つ者が。
闇に溶ける髪をなびかせ、この世界の誰もが持ち得ない漆黒をその瞳に宿して。
まさか。そんな、筈は。
「リン……カ……?」
そんなことがある筈がない。
彼の何よりも愛しい彼女はまだあの場所にいるのだ。今セシアが手を掴んでいる相手を見た時、凛華が傍にいることを確かめたのだから、同一人物ではありえない。
それなのに、どう考えても似すぎだ。
セシアに手を掴まれた拍子にふわりと落ちたヴェールから現れた髪は、凛華の持つあの艶やかな髪と同じで。
驚いたように見開かれたその瞳の色は、闇の色。
この世界に、漆黒の色を持つ人間が同時に二人もいるはずがない。
もしそうならフェデリアの預言が間違っていたことになる。
けれど。
例えば凛華がそのまま十年ほど成長していったとしたならば。この、今目の前にいる女性そっくりになるのだろう。花祭りの時の襲撃事件の彼女のようにイミテーションではなく、似せられない筈の黒い瞳は、本物だ。
凛華と呟いたきり何も言えなくなってしまったセシアに対し、急に手を掴まれた彼女の方はその瞬間こそは驚いていたものの、しばらくすると状況を把握したのかもうすっかり落ち着いていた。
前にいた筈の親友の姿が見えない。過去を捨てなければいけなかった彼女はきっと自分の子孫に会うことはできないのだろう。
ふうと前髪を煩わしげに後ろに流した彼女は、真っ直ぐにセシアを見つめ、口を開いた。
「国王陛下、ね……」
声まで。
唇から漏れる声までもが、凛華よりも少し低く柔らかいけれど、似ている。
「……はい」
変装している自分が国王だと認識しているからにはそれなりに身分の高い者なのだろうか。
セシアは掴んだままだった手を離し、謝罪した。
「申し訳ありません。驚いていたとは言え足をお止めしてしまいました」
どうしてだろう。完璧だった筈の自分が、ペースを崩していく。
彼女が、凛華に似ているから?
「気にしないで」
けれど彼女はにこりと笑ってそう言った。
相手が国王だと言うのに全く敬意を表すような言葉を使わず、本心だけで言葉を伝えてくる。
一瞬浮かんだ笑顔にセシアはわずかにどきりとした。その笑い方さえも彼の恋人と似ていた。
彼女は、一体。
「失礼を承知でお聞きいたします」
「どうぞ?」
「……あなたは……リンカの……」
まさかとは思う。
だって、彼女は以前自分に言ったのだ。
「お母さんもお父さんもお祖父ちゃんも亡くなった」と。
死人が生き返る事はない。命を司る巫女でも、一度動くのをやめた肉体を蘇らせることはできない。
そんな事はできないはずなのだ。
漆黒の髪の女性は、セシアが少し言いにくそうな顔をしたのを見て、笑みを浮かべて口を開いた。
「本物の母親よ。……浅川夏実というの。こちら風に言えば、ナツミ・アサカワかしら?」
この国では耳慣れない発音だった。
以前に凛華が、アルフィーユと凛華がいた場所ではファーストネームとファミリーネームが逆なのだと言っていた。そして浅川というのは初めて逢った時に聞いた、凛華のファミリーネームだ。
この発音の仕方をするのは後にも先にも凛華だけだと思っていた。
驚くセシアを見て夏実がふんわりと微笑む。
それから、先ほど以上の爆弾を落とした。
「あの子が……凛華ちゃんが、『ティオン』と名前を付けた白い鳥も、わたし」
聞きたかった答え以上のことをさらりと言われる。
今、何と?
ティオンが、凛華の母親。
昔から驚くことが少なく感情の起伏が人より少なかったこの国の主は、今はただ一人の女性の言葉に翻弄され、ただそのサファイアの瞳を見開いたまま立ちつくすだけだった。
人が鳥に?
まさかそんな馬鹿げたことが。
わけの分からないことが多すぎる。
死んだ筈の凛華の母親が今現在こうして生きていて、そしてその母親が、常に凛華の傍にいたあの白い小鳥だと言うのか。
頭の回転の速いセシアでも、それを上手く理解するのに時間を要した。
呆然としたままで夏実を見る。彼女は、微笑んだままだった。
(ああ……分かった……)
だから凛華は、彼女は、あんな風に綺麗な笑顔で笑っていたのだ。
自分でもあの心優しい侍女でも厳しい師匠でもなく、こんな風に柔らかく微笑む母親が傍にいたから。凛華の態度からして、彼女はおそらくこのことには気付いていないだろうけれど。
ずっと傍で見守っていたのだ。
「そう……ですか……」
他に何を言えば良いのか全く分からなかった。
だからそれだけを口にして、セシアはもう一度非礼を詫び、それ以上何も言わずに表通りの方へと踵を返した。
凛華に危害を加えることがないのなら特に口を挟むことはない。危害を加えるどころか、夏実は凛華の母親なのだ。同じ家族でもない自分は余計なことをしてはいけない。
あっさりと手を離し、そして今来た道を戻ろうとするセシアに、夏実は声をかけた。
「他に聞くことはないの?」
少し拍子抜けだった。
何故この世界にいるのか、死んだはずなのに何故生きているのか、何故小鳥の姿になっているのか、もっと根掘り葉掘り聞かれるものだとばかり思っていた。
別に知られても困ることではないから、聞かれても良かったのに。
セシアが振り返る。
そして真っ直ぐに夏実を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「リンカが、待っていますから」
一瞬きょとりとしたあと、あてられるわね、と夏実は小さく笑った。
セシアは変わった。
夏実はティオンとしての目を通して、彼を見てきた。
国を救うという異邦人を、初めは国王の義務として迎えに行った。そして王城へ連れて行き、居場所を与えて。
多分しばらくの間は恋愛感情など欠片もなかったはずだ。
けれどその内義務ではなく情で凛華を想うようになり、自らの手で守るようになった。
良い変化だわ、とセシアには聞こえないほどの小さな声で囁いた夏実は、一礼して通りへ出るところだったセシアを呼びとめた。
「陛下」
まだ何か、とはセシアは言わなかった。
「はい?」
角の位置で振り返り、影の中でふわりと微笑む夏実を見る。明るいセシアの位置からははっきりと彼女の表情を見ることはできなかった。
夏実の位置からも逆光でセシアはよく見えない。ただ明るい方に面した左目だけが綺麗に輝いていた。
偽りのない綺麗な青の瞳。それは親友のものとよく似ている。
もしかしたら彼ならばと、思った。
「……あの子の傍に……居てあげて……」
契約が果たされれば自分は娘と一緒にいることはできないだろうから。
だからどうか、彼女を何よりも大切だと思う人が、彼女の傍に。
「勿論です」
セシアは宝石のように澄んだ瞳を細めて綺麗に笑った。
言われなくても、だ。
たとえ彼女にいらないと言われても、絶対に離さない。この先何が待っていても彼女だけは離さない。
あの日、護ると決めたから。
「あと、これは、秘密なの。凛華ちゃんにはこのことを言わないでくれる?」
凛華とそっくりな仕草を、夏実はした。
可愛らしく首を傾げて儚げに笑う。
「ええ」
壁に当てていた手を離し、セシアは通りの中へと入って行った。
凛華を見守ってきた母親なら良い。きっと彼女は凛華を傷つけるようなことはしない。それで凛華が笑っていてくれるのなら、彼女自身がこのことに気付くまでは絶対に言わない。
遠ざかっていくセシアの後ろ姿をしばらく見つめていた夏実は、落ちたヴェールを拾い上げ、それをぱっぱっとはたいてから再び髪を隠し、通路の奥の方へと歩き出した。
きっとこの先ではフェデリアが待っているのだ。
一緒に神殿を抜けてきた親友が、複雑そうな表情を浮かべて、けれど決して何も言わないで。
彼女はそういう巫女だから。
「……もう二度と、笑顔をなくさないように」
──だから凛華、笑ってろ。
祈りに力があれば良いと思う。
命を司る巫女だけでなく。ただの「影」のような自分の祈りでさえも。
どうか。どうか、この願いを。
誰か、聞き届けてくれるというなら。
『あの子の傍に、居てあげて……』
すみませんともう一度謝って通りを抜けながら、ふとセシアは自分の手を見下ろした。先ほど夏実の手を掴んだ手。
先ほどは気付かなかったのだけれど、温かく、なかった。
かと言って冷たいわけでもなかった気がする。不思議な温度だった。
通りを渡り切った時、セシアはちらりと先ほどの裏道の方を振り返ってみた。そこにはもう淡い色の服も漆黒の髪も見えない。けれど何となくまだその場に夏実がいる気がして、先ほど彼女と会話を交わした場所を射抜くようにじっと見ていた。
どうして彼女はあんなことを言ったのだろう。彼女が凛華の傍に居ればいいではないか。家族が傍に居れば心強い。きっと凛華は、光そのもののような笑顔を浮かべて喜ぶのに。それなのに、どうして。どうして彼女は彼女自身が傍にいるのではなくて、自分に、言ったのだろう?
(もしかして……神殿が何か関与してるのか?)
直感的にそう思った。
中立でいなければならない神殿の巫女。けれど戦争を止めたいという願いはあった筈だ。
そして、死んだ筈の夏実と、その不思議な体温。
きっと神殿が関わっている。
一度目を閉じ、ゆっくりと開いてセシアは頭を振った。
たとえ神殿が関与していたとしても、夏実は凛華の母親だ。何かすることがあるから彼女はああして凛華の傍にいるのだろう。そしてそれはセシアの関わるべきことではない。
本来は国王は預言された少女には関わるべきではないのだ。
国王は実際の為政者。預言された少女は、人心の支えとなる不確かなもの。
食事をした店の方へと早足で戻っていくとそこに彼女の姿はなかった。店の入り口付近には誰もいない。
先ほど夏実に、凛華の傍にいると言ったのに。
約束を交わして間もなくそれを破ってしまうなんて。
「リンカ……っ!?」
彼女がいないとひどく心臓がうるさく騒ぐ。
あの、焦燥感。
「セシアっ」
明るい声がかけられる。
「リン、カ……」
ほっとした。自分でも情けなくなるほど、彼女がいないと思うだけで不安になる。
「誰か知ってる人がいたの?」
帽子のつばをちょんと触りながら、凛華が不思議そうに首を傾げる。
夏実と凛華。よく似た母と娘。
セシアはいつもと変わったところを欠片も見せず、彼お得意の穏やかな笑顔を浮かべて答えた。
「人違いだったんだ。視力、落ちたかな」
わざと話を逸らす。案の定彼女は話を逸らされたことに気付かなかった。
「えー。セシアたちはわたしよりもかなり目いいじゃない。いいなあ」
じっと、本当に羨ましそうに凛華がセシアの青い瞳を覗き込む。
傍に母親がいるのに。教えてやることさえできない。
セシアは思わずその場で凛華を抱きしめそうになった。
可愛い凛華。けれど、あまりそんな無邪気な表情をしないでもらいたい。言えないものを抱えてしまった自分は、その真っ直ぐな瞳で見つめられるのは心臓に悪いから。
小さくため息をついてセシアは凛華の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。
凛華は一瞬戸惑ったものの、セシアの温かい手をぎゅっと握って楽しそうに歩く。決して凛華は歩くのが遅いわけではないけれど、こうやって歩調を合わせるようにゆっくり歩いてくれるセシアの優しさが嬉しかった。
ここは、温かい国。
「アルフィーユに来て良かったな」
セシアからもらった彼の瞳と同じ色のイヤリングを音を立てて揺らし、凛華がぽつりと言う。
夕焼け時のこの国が一番綺麗だと思う。
見守るように、温かくて、優しい。
戦争をしていていつ死んでしまうか分からないのに、この国の人々は笑う。
「ロシオルは厳しいけど……でも、わたしに自分の守り方を教えてくれた」
結局最後には自分を守るのは自分だけなのだから。
「ベルはいつも一緒にいてくれる」
赤銅色の瞳を細めてにっこりと笑う優しい人。
いつだって笑顔を浮かべていて、どれだけ支えになったことか。
「王女はね、最初は……ほ、本当は怖いなって思ってたんだけど。でも。ものすごく、優しいの」
大人ぶっているけれど本当はとても幼い王女。
「ロイア君も、リーサーさんもアイルさんもロザリーさんもシエルもね、ジェイドもアルも、みんな良い人なの」
励ましてくれる人。
一緒にいてくれる人。
助けてくれた人。
だからここまでやってこれた。たった一人、放り込まれたこの世界で、生きていくことができた。
前を見つめて話す凛華。背筋をぴんと伸ばして、ただ前だけを見つめて。
彼女の言葉を反芻してみる。
色々な名前が出てきたけれど一番聞きたいものは、まだ聞いていない。
「リンカ」
「なーにー?」
「……俺は?」
凛華は即答する代わりにぱっと繋いでいた手を離した。
そのことにセシアが驚いている間に彼の前へと回り込み、後ろで手を組んでにこりと笑う。
夕日を受けて淡くオレンジ色に輝く笑顔。
とてもとても綺麗な、光そのもののような彼女。
ふふっと笑ってから凛華は口を開いた。
セシアは?
その答えは、もうとっくに決まってる。
「大好きだよっ」
何気なく言ったつもりでも本人の頬がかすかに赤く染まる。
だから困るのだ、そういう表情は。
できればこちらの我慢の限度というものも考えて行動して欲しい。
大きくため息をついたセシアは、不思議そうに覗き込む凛華を今度は躊躇なく抱き締めて、その肩に額を乗せた。人気がないとは言え、王都の中でこんなことをするなど馬鹿げているとは思う。理性的な自分は一体どこにいったのだろうか。
衝撃でずれた帽子がそのままぱさりと落ちる。夕日の光を鈍く反射する漆黒の髪がさらりと広がった。
「セ、セシアっ!?」
先ほどよりも格段に赤くなり、おろおろと慌て出す凛華。
その反応まで、いちいち可愛らしい。
「ひ……人が見……」
「見ない」
「だ、誰か来たら……」
「来ない」
凛華の抗議をあっさりとはね除けて、セシアはしばらくその姿勢のまま凛華を抱き締め続けた。
王都の露店を開く者たちの視線をほんの少しだけ感じるけれど、この際それは気にしない。
今はただ彼女の存在を確かめたくて。
彼女は、夏実のように不思議な体温ではなくて、温かいのだと知りたかった。
男性の自分よりも余程柔らかく、華奢な体。
そこから感じるのは確かな熱。
「あ、あの……セシア……?」
「……」
何も言わないセシア。
凛華はどうしようかと悩んだが、少しして抵抗することを諦め、抱きしめられたまま空を見上げた。
夏にはもう二度と見たくないとまで思ってしまった太陽は、今は柔らかく照らしてくれる。
普通の茶髪だったセシアの髪がその光を受けて金色に見えて凛華は驚いた。
綺麗。
そっと髪に手を伸ばしてみる。
セシアから何の制止も入らなかったので凛華は静かにその頭を撫でた。本当は国王陛下にするような仕草ではない。けれど、何だかそうしたくなった。
これが愛しさだというなら、溢れかえりそうなこの想いにも納得がいく。
オレンジ色に輝く夕日も他の人の笑顔もほっとして優しい気持ちになれるのだけれど。何よりも、セシアの腕の中が、一番安心する。
「大好き……」
ぐっと、背中と腰に回された腕に力がこもる。
セシアは凛華の肩に額を当てたまま、それに答えるように小さな声で囁いた。
「俺はもう……好きどころじゃない……」
失ったものは、冷徹な国王の仮面。
得たものは、誰かが傍にいることの温かさ。
「預言された少女」が、彼女で本当に良かった。