『あなた、あなた……わたしを見て……』

 ──まるで人形のように。

『あなた、あなた……』

 ──狂った人形。
 同じ言葉を、ただ何度も何度も繰り返す。

『あの人なんて忘れて、わたしを見て……。あの人はもう────』

 泣きながら繰り返される言葉は、いつの間にか途切れていった。最初はふりやまない雨のように絶え間なくずっと。そしてだんだんと掠れていって、最後には、何も残らなかった。
 開かれない目。動かない唇。
 人形は狂ったまま壊れた。自ら壊れることを選んで。

 最期に人形が浮かべた表情は、泣き顔。


 ──あなた、わたしを見て。わたしを愛して。
 ねえどこを見てるの? あなたの見ているところにいる人は……

 モウ、動カナイノニ。




「……っ」

 声にならない叫び声を上げ、ティオキアは跳ね起きた。
 薄暗い視界にうつったのは見慣れた自室の様子だった。寝台の脇においてあった灯りの始末は侍従がしたらしく、灯り一つない。
 じっとりと背に汗をかいていた。
「……」
 血に濡れたしなやかな手が首に絡みついている感覚が残っている。
 ため息をつき、自分の首に手を当て、そこに血の水気がないことを確認する。いつもそうだ。目覚めた後は必ず首が血に濡れているような気がしてぞっとする。
 目を閉じ、暗闇に逃げ込もうとするけれど、瞼の内側に鮮明に映し出される、決して消えることのない泣き顔。

 人形はとても健気な女性だった。
 彼女が自分に嫁いできたのは、もう何年前になるだろうか。確か二十年は前だった。

 ティオキアの最初の王妃、サリア。
 サリア・ライ・トーランド。
 彼女はトーランドの王女だった。
 ティオキアよりも少し年下で、健気で、優しかった。誠心誠意あなたに尽くします、と微笑んだのは結婚式の時だったか。
 その言葉通り彼女はティオキアに尽くした。常に一歩引いたところを歩き、いつでも微笑みを浮かべ、ティオキアを立て、身の回りの世話を好んでした。
 温暖なトーランドから極寒のジェナムスティへ嫁してきたにも関わらず、彼女は冬でも泣き言一つ漏らさなかった。平気なのかとティオキアが尋ねると、平気ではないけれど大丈夫ですと、彼女は微笑んだ。そうかと言って、膝掛けを織らせて与えてやると、涙を浮かべて喜んでいた。
 よくできた妃だと誰もが彼女を褒め称えた。彼女は賛辞を受けながらも奢ることなく、常に控えめでいた。
 そして、真っ直ぐに、ただティオキアの愛情を欲した。
 けれどその時のティオキアにはどうしても忘れられない相手がいた。
 彼は忘れようとした。二度と叶わない恋慕を持ち続けているのはやめようと努力をした。サリアを愛そうとした。
 それでも、忘れることが、できなかった。
 愛していても、サリアは愛する彼の愛情が違う人にあるのだと気付いてしまった。
 偽りの愛情を与えられるのは辛い。
 代用ではなく、自分自身を愛して欲しいと思い続けた彼女の心は次第に病んでいき、そして狂死した。
 最期まで彼の愛を求めて。最期まで、その瞳が自分に向けられることを欲して。
 涙に濡れたアメジストの瞳は涙で潤んでいた。

 塔から身を投げる、その最後の一瞬まで。



 血に濡れた手をティオキアに絡め、同じ言葉を繰り返す儚い女性。

 今更どうしろと言うのだ。もう取り返しはつかない。
 狂気に陥った彼女をそこから救い出そうと手をつくしたけれど、彼女は最後まで正気に戻ることはなかった。
 ふつつか者ですが、と笑っていた王妃。春のように温かな彼女の遺体は、春の国へと還っていった。自殺をした者は女神の元へいくことができないと言われる。だからいくら王妃であろうとも、正式に祀ってやることもできなかったのだ。ティオキアの元には彼女の持ち物は何一つ残らなかった。ただ、絵師に描かせた肖像画だけが残された。
 どうすれば良い? どう償えば良い?
 愛していないわけではなかった。愛そうと努力をした。
 けれどそれでは駄目だった。
「わたしにどうしろと……っ」
 絞り出した声は掠れていた。それはまるで、死ぬ直前の彼女と同じ。
 何をすれば良いのだろう。自分は、何をすべきなのだろう。
 どうして自分だけ、取り残されているのだろう。

 どうか、答えを。


『分からないことがあるなら分かるまで努力したらいいじゃない! あなたは分かるまで努力したことがあるの? 努力する前から諦めてない? 努力しようよ。……それでも分からなかったら、ティオキア、わたしも一緒に悩むから。分かるまで、一緒に頑張るから。だから、一人だなんて思わないで。ねえ、わたしたちは友達でしょう?』

 吹き抜ける風そのもののように自由で強い女性だった。
 控えめなサリアとは全く違った性格をしていた。
 ティオキアが誰よりも手に入れたかった相手。それが彼女だった。
 リリスはいつも笑っていた。一緒に悩む、と笑って言ってくれた。
 自由で、強くて、他人にひざまずかれるのを極端に嫌った。跪かれると顔が見えなくなるから嫌なのだと笑った。そして、彼女は誰とでも対等な目線を持ちたがった。それがティオキアのような一国の王太子の身分であっても、城に勤める者たちであっても、道ばたですれ違うような一般の市民であっても。
 憧れだった。

『あなたは一人じゃないのよ』

 その彼女さえもういない。
 一緒に悩もうと言ってくれた人は、もういない。
 答えの分からない迷宮に迷い込んだ自分は、求めている答えを見つけられず、立ち止まるしかない。


「――ス……リリス……っ!」
 どうか、答えを教えて欲しい。
 芯が強く前を毅然と見つめていた愛しい人。

 もう、何も分からないのだ。
 何をするべきなのかも。どうして、たった一人で無様に生き続けているのかも。

『わたしを見て……』
 サリアの言った言葉の意味は、嫌だと思うほど深く知っている。
『あの人はもう……』
 手の届かない人になってしまったのだから。





「王」

 ずっと静かだった部屋に声が響き、ティオキアは頭を上げた。扉を叩く音さえ聞き取ることができていなかったのだろう。
 執務室の扉の近くに、醒めた藍色の瞳を自分に向けているデノンがいた。その手にあるのはおそらくアルフィーユに関する報告書。そしてそれを求めていたのはティオキア自身。
 そうやって今までずるずると生きてきた。
 目的もなく、ただ一人きりで、明るい場所から取り残されたかのように。
「……何だ」
 目覚めの悪い夢のせいではっきりしない頭をゆるく振り、ティオキアはそれに答えた。
「これを──」
 デノンの声がどこか掠れて聞こえる。
 ───頭の中で響く声は、こんなにもはっきりと聞こえるのに。

 わたしを見て。
 わたしを見て。
 わたしを見て。

「……うるさいっっ!!」
 書類の広がった机に、手が傷つくほど拳を打ち付ける。
(もういい。それ以上言わないでくれ)
「……王、どうかなされましたか」
 冷めたデノンの声。とても静かで低い声。
 それすらもうるさく聞こえる。頭の中で渦巻く涙混じりの声と、遠くで聞こえるデノンの冷ややかな声。

 一体どちらが。
 一体どちらが現実なのだ。

 わたしを見て。
 ──王?
 わたしを愛して。
 ──どうかなされましたか。
 あの人はもう……。

 やまない耳鳴りと、聞こえ続ける泣き声。
(黙れ、黙れ。それ以上言わないでくれ)


「王?」

「何もない。……出ていけ。一人になりたい」
 何も聞きたくない。これ以上何も思い知りたくない。
 分かっている。どうせ自分は置いていかれた者なのだ。サリアもリリスも全て、明るい場所へと去って行く。ただ自分一人だけが暗い場所へ残されたまま。
「は……」
 肘を突き、組んだ手に額を押し当てているティオキアを見て、そう答えてからデノンは膝をついて頭を下げた。
 彼は側近としては文官でもあるが、元々は軍団長を務めあげていたほどの騎士だったのであり、文官のするような礼ではなく騎士の挨拶を終えたデノンはティオキアの希望通り何も口にせず、静かに部屋を退出した。


 廊下に出てまず目に入るのは壁に広がるタペストリー。デノンはそこで立ち止まり、何年前からこの花を見なくなったのだろうと考えた。
 丁寧に刺繍されていたのは、小さな青い花。
 もう何年もこの国では見ていない。あの国には確か溢れるほど咲いていたけれど、極寒のこの国には咲かなくなった。
「……フィアラ、ね……」
 ティオキアの第一妃の瞳の色からするとこのタペストリーは違和感がある。彼女の瞳はアメジストの宝石のような色をしていた。彼女が王に嫁いできた時、この壁にかけられていたのは、幼いデノンの覚えている限りではアネリスクという紫色の花を模したものだった。
 現在かけられているタペストリーは一体誰が織ったものだっただろうか。
 記憶力の優れているデノンはそれをすぐさま思い出し、なるほどと小さく呟いた。
 これを織ったのは八人の中で最も若い王妃。聡明だと言われている彼女は何故ティオキアが青色をわざと避けるようにしているのか、気付いたのだろう。

 青は彼女の瞳。

 ティオキアが誰よりも手に入れたいと思い、けれど手に入れることのできなかった彼女の色。
 そして現在のアルフィーユ国王の瞳もこの色なのだ。

 カツカツと整った音を小さく響かせ、デノンは廊下を歩き始めた。



 ティオキアはもう限界だ。
 彼に最も近く、「氷の副官」とまで呼ばれるようになったのだからデノンにはよく分かる。
 この国は何もかももう限界なのだ。
 いつから狂い始めたのだろう。
 元凶は、あの銀の歌姫。

 噛み合わなくなった歯車が少しずつ、少しずつずれていく。今に全体を壊す勢いで崩れ始める。その日も近い。
 どうして誰もそれを止めようとしなかったのだ。
 大臣や貴族と呼ばれる人間たちは狂っていく国で欲に走り、それに拍車をかけた。国が狂っていけばいくほど、彼らに取って好都合なことが増える。例えば困窮した者から土地を取り上げたり、資産を手放さなければならなくなった下級貴族のものを手にいれたり。甘い汁が吸えるから、止められる立場にある者は誰も止めようとしなかった。
 その結果がこれなのだ。
 確かに二十年前はアルフィーユとこの国は肩を並べるほどの大国だったかもしれない。けれど、国というものは狂っていけば、弱まるものだ。穏和に統治を続けたアルフィーユは栄え、押しつけるように悪政を続けたこの国は、すさんでいった。

『王……国王っ。アルフィーユは……、かの者がいる国は──――』

 灰色の髪の騎士。かの者、「預言された少女」を捕らえることができなかった騎士。既に投獄された彼に何もすることはできないが、デノンはディーンのあの言葉を忘れられなかった。
 ディーンも、この国がおかしくなっていくことに気付いていた。
 彼女のいる国すなわちアルフィーユ。
 あの国は、どこか水のようだとデノンは思う。穢れなく輝き続ける濁りのない国。
 先代の王も、現王も、不正を少なくさせるようなまさに理想的な治世をしている。
 花と水と笑顔の溢れた綺麗な国。
 同じ軍事大国でここまで違いが出るものだろうか。

 銀の歌姫と漆黒の少女が何故アルフィーユを選んだのか、よく分かる。


 どうしてティオキアは気付かないのだろう。
 第一妃は還ってはこない。彼女が還ってきたとしても、狂ったように同じ言葉を繰り返すだけだ。
 銀の歌姫は彼のものにはならない。自由を愛した彼女は彼ではなく、彼女の自由を縛ることのない人物を選んだ。
 銀の歌姫──リリスは彼女の生まれた国で。王妃として、生きた。
 そして漆黒の少女は決して、彼には屈しない。
 風のように自由な者を籠に閉じ込めてはいけない。人は限りなく自由に憧れ、その象徴を手に入れようとする。それで自由を手に入れた気になり、喜ぶ。けれど風は、自由に野を駆け回るために存在するもの。手に入れてはいけない。
 風は手に入れるものではなく、呼び込むもの。
 それなのにこのままではこの国は、二度と風を呼び込むことのできない国になってしまう。
 無益な争いを続ける限り風は吹かない。
 歴史を繰り返してはいけないのだと、どうして、気付かないのだろう。

『デノン。お前の好きなように生きなさい。お前は、自由に生きていいんだ』
 育ての親の言葉を自分はこれからも忘れないだろう。
 根本からの解決はできないだろうが、少しでも歯車を元の位置に戻したい。
 ほんの少しで良い。全てを戻そうとは思わない。
 もう少しだけ。ティオキアが、間違いに気付くくらいの、少しでいいから。

 そしてまた風が通る国へ。何年も前、この足で踏み入れたあの国のように。



『きれいなお花をいっぱいお母さんにあげたいんです』
 不思議な色の瞳を輝かせて、少し大きかったのか真っ白いフィアラの花冠を手で支えながら、少女はにっこりと笑って言った。
 綺麗な花を、母親に。
 母親想いなのだろう。きっと彼女は何か母親にしてあげたいだけなのだ。
『母親は喜ぶ?』
 デノンは、そう訊いていた。
 確かに花は綺麗だと思うが、花で生活が変わるわけではない。路傍に咲いている花など売ることもできないだろう。それでも、その少女は笑った。
『はいっ! にっこり笑って、頭を撫でてくれるんです』
 それはそれは、嬉しそうににっこりと笑った。
『ふーん』
 別に納得したわけではない。
 たかが花で、人間が救われるわけがないと知っていた。
 けれど何となく。
 高い木の枝に咲いていた花を、デノンは背を伸ばして取り、彼女に渡してやった。想像通り彼女は嬉しそうに笑う。もらっていいんですかと、瞳をきらきらと輝かせて。
 想像通りの事なのに最初から分かっていたのに、何だか嬉しくなったのを覚えている。
 名前も知らないけれど。いつかこの狂った国を前のように戻せたら、あの国へ行ってみたい。たとえ彼女が覚えていなくても、自分はあの不思議な瞳の色だけは忘れない。

 いつか、この国を以前のように花の溢れる綺麗な国に戻せたら。







 その、花の溢れる綺麗な国では。
 漆黒の少女が与えられた自室でたじたじとなっていた。

「ひどいですわーっっ!!」

 部屋中にベルの高い声が反響し、また彼女を苛む。
 キンキンとする耳を押さえた凛華は赤い顔を、叫びを発したベルに向けた。
「だ、だって……」
 言いわけをしようと必死に唇を動かす。けれど。ベルの方が口は達者だった。
「わたしはずっとリンカのことを考えておりましたのに! リンカってばわたしがいない間に陛下と……っ!」
「わ、わわーーっ!」
 廊下に響いてしまいそうなほどの声で嘆くベルの口を慌てて凛華が塞ぐ。
 もし外にジルハがいたりしたらどうするのだ。聞かれてしまうではないか。
 原因が自分にあるのは分かっている。分かってはいるのだが、一応秘密のことなのだ。他の人に知られたくはない。

 実はベルが怒っている理由とは、自分が実家に帰っている間に凛華とセシアが何やら良い方向に急進展しているのをつい先ほど知らされたから、だった。
 リーサーはもう知っていると言う。
 これはちょっと、許せない。罰として全て話を聞き出してやらないと。
 凛華の手をやんわりと外し、にっこりと微笑んでからベルは楽しそうに言った。
「最初から最後まで、話して下さいますわよね?」
 何だか怖い笑顔だった。
 ますか、ではない。ますよね、だ。
 これはもう脅し以外の何物でもないだろう。
「……は、はいぃ……」
 元よりきちんと事情をベルにも話そうと思っていた凛華は、更にベルの笑顔に押され、そう答えるしかなかった。

 頬をほんのりと赤く染め、凛華は言葉を選びながら話し始めた。
 自分の恋話を自分から話すというのはなかなかに恥ずかしかった。


 そして、今日も城の見回りを同僚に押しつけられた騎士ロイアは、星見の塔の中程を歩いていた時に、きゃあきゃあと、二人の少女の騒ぐ声を聞く事になる。
「楽しそうですねぇ〜」
 のほほんと呟いてから、また元気よく歩き始める。
 だが、ロイアの判断には少し誤りがあった。
 楽しそうに騒いでいるのは侍女のベルだけで、凛華はからかうベルに冷や汗を流しながら焦っているだけだったのだ。
 楽しそうと言えば楽しそうだったのだけれど。


 アルフィーユはこうして穏やかな時をゆっくりと過ごしていく。
 人が人として豊かに生きていくことのできる国。ゆっくり、ゆっくりと。季節に沿った花が広がり、豊かな暮らしを支え、笑顔を見せることのできる国。それは何年も変わることのない人の営み。

 狂い始めたジェナムスティとは違う。
 ずれた歯車は放っておけば自然とずれを増していく。誰にも止められないと思われていたもの。
 けれどそれを止めるのは。大幅にずれていくという運命に逆らい、直すことができるのは。

 狂死したサリアでもなく、風のように自由だった銀の歌姫でもなく。
 たった一人、何も出来ない自分を嫌う少女だけ。