そうは決めたものの。
あれだけ意気込んでここまで来たのに、凛華は扉を叩こうとあげた手をそのまま宙に止め、ためらっていた。
考えなしだった。今はまだ昼を過ぎたばかりだ。
セシアがこの時間帯は仕事中だということを忘れていたのだ。
「邪魔になっちゃうかな……」
彼の邪魔をしたくない。いつも何かをしてもらってばかりなのに、その上迷惑までかけるなど、嫌だった。
夕方頃に出直して来ようと思い、凛華は引き返すためにぱっと身を返した。
丁度その瞬間にばたんと扉が開く。
「ひゃっ!」
物音に驚いた凛華は振り返り、そして扉から出てきた人を見てまた少し驚いた。
明るい橙色の髪をした長身の側近、アイルだった。凛華は小柄なので自然と見上げる形になってしまう。
「……あなたですか」
ふうと小さくため息をつき、アイルは凛華のいる廊下を一通り見回す。
「アイルさん、誰か探しているんですか?」
そう尋ねると、アイルは自分のすぐ傍の扉を指差した。つまりこの部屋の主だということだ。
「……セシアは?」
アイルの仕草を見て、扉の間へと視線をやる。そこにいつもの銀髪はなかった。
山になっている書類。
たてかけられたままのペン。
開いた窓とひらひらと揺れるカーテン。
もぬけの殻だ。
こくりと首を傾げる凛華に向かってアイルは投げやりな表情を浮かべ、言った。
「……逃げたようですよ」
しっかり今日の分だけは片付けてありますけどね、と呆れて呟く。
こういうところはあの国王はちゃっかりしているのだ。まるまる公務を放棄しているわけではない。文句を言われても「今日の仕事なら終わっている」と言い返すことができるようにと、全て終わらせてあるのだ。しかもそれを見せつけるように机の上に整頓して置いていっている。
「もしかして、今から探しに行くんですか?」
「ええ。まあしばらくしたら戻って来るんでしょうが……一応形だけは探すふりをしようかと」
ふりだけしかしないのか。
無表情で淡々と告げるアイルの言葉を聞き、凛華は笑顔を浮かべた。
「わたしも一緒に探していいですか?」
仕事をしていないのならチャンスかもしれない。
お好きにどうぞと許可をくれたアイルに大きく手を振り、凛華は駆け出した。
もう大分このドレスにも慣れた。足にまとわりつく裾を捌き、たったっと白い王宮の廊下を駆けていく。
セシアの事は嫌いではない。傍にいるととても安心するのだ。
けれど、それがベルに対するものと同じ「嫌いじゃない」なのかと考えてみると、よく分からなかった。
ベルに対する気持ちは、一緒にいると楽しくなって思わず笑顔になるような、「好き」。
ではセシアは?
(セシアは……)
ずっと傍にいたくなる、「好き」。
「好き」には色んな種類があるのだと凛華は初めて知った。
ベルも好きだしロシオルも好きだ。それにリーサーもロザリーも好きだし、ロイアやジルハやアルシィだって好きである。フェルレイナやアイルも勿論、この国で出会った人はほとんど大好きなのだ。
それでもセシアに対する「好き」は、他の誰に対するものとも違っていた。
セシアは父に似ていると思うけれど、父に対する無条件の「好き」とも違っている気がした。
(「好き」って……難しい……)
恋愛初心者の凛華は、子供だった。
思わず足を止め、うーんと唸る。
基本的に凛華は分からないことがあると分かるまで考え込む癖がある。今回もそうだった。
好きという感情はよく分からない。定義か何かあればいいのだけれど、あいにくと凛華はそんなものを聞いたことがなかった。
絡まる思考の糸。答えの見えない考えごとは精神的に疲れてくる。
風にでも当たろうと思い、凛華は窓に近寄った。
開け放たれている窓から風が吹き込んでくる。枠に手をかけ、凛華はぼんやりと外の景色を眺めた。
庭師ご自慢の庭が広がっている。
草と花で敷き詰められた絨毯のように綺麗な庭の奥にまで視線を滑らせていくと、木があった。緑の葉が生い茂る広葉樹が一直線に並んでいる。いつか登ってみたいとお転婆娘だった凛華は思っていた。だがそれを口にするたびにベルに「危ないですわっ」と泣きそうな顔で止められるので、登れなかったもの。
登りたいなと呟きながら木を見ていると、ふと光が届く。
「? 今……光った?」
窓から少し身を乗り出し、木をじっと見る。
「何だろう……」
また、光った。葉の間で何かが小さく光っている。
(……銀色?)
そこで、はっと凛華は気付いた。あの銀色には見覚えがある。
「セシアだっ!」
銀髪の人など、セシア以外に知らない。
探していた人を偶然にも見つけることができ、凛華はたっとドレスを翻して走り出した。
途中、廊下ですれ違った騎士たちにおざなりに挨拶をし、間の会話をすっ飛ばして走り抜ける。いつもは「仕事頑張ってね」といったように何かしら声をかける凛華にしては珍しい事だ。それでも彼は「預言された少女」に話しかけられたことに舞い上がっていたのだが、そのことには気付くことなく、凛華はそのまま風のように走り去った。
言わなければいけないことがたくさんある。
ありがとうと彼に伝えたい。
この国で乗馬を教えてくれたのは彼。命を守るための剣をくれたのも彼だ。勉強を教えてくれて、この世界についての色々なことを彼から学んだ。政治体制も、知らない国のことも。そしてテニグでは、彼は自分の仕事よりも凛華を助けることの方を優先してくれた。
何よりも好きだと言ってもらって、本当に嬉しかった。
全部、今のこの気持ちを伝えたい。
王城の庭に出て一直線に木の元まで駆け抜ける。
そこまで行ってから凛華は困った。同じような広葉樹ばかりが並んでいるのだ。セシアはどこにいるのだろう。
下から見上げてもあの光は見えなかった。
困惑した顔で一度振り返って、自分が光を目撃した窓を見る。
それでもどの木かはよく分からなくて凛華は結局手当たり次第探す事にした。「下手な鉄砲も数を撃てば」と、自分の知っている慣用句を呟きながら。
とりあえず、まずは目の前のこの木。
幹に近づき見上げるが、枝ぶりの良い広葉樹は上の方まで見渡すことができない。
よし木登りだと瞬時に凛華は決定した。
そして一番低い枝に手を伸ばしてから、気付く。
ドレス、だった。
ベルがたまに着せるようなドレスならばここまで丈が長くないのだが、今日リーサーが選んだものは足首まで覆うロングドレスだ。しかも裾が広がらないタイプなので、辛うじて歩いたり走ったりはできるものの、木登りなどできるデザインではない。
もし無理にしようものなら、思いきり汚してしまうだろうし、枝にひっかけて破いてしまうだろう。
極めて庶民的な金銭感覚の凛華はこのドレスがいくらするのか考えようとしてみて、即座にぶんぶんと首を振った。凛華が普段身につけているものと桁が違うのは目に見えている。
破くなど論外である。
しばしその場で対処法を考えて、凛華は結論に至った。
「まあ、破らなきゃいいんだよね」
と、何とも無責任な言葉を発し、凛華は長いドレスの裾をひょいと持ち上げた。足首まであったドレスを膝の高さにくるまで持ち上げ、そして布の端を腰のあたりできゅっとくくる。即席の膝丈ドレスができあがった。くくっている方の裾はかなり短くなっているが、女子高生であった凛華にとってこれくらいの丈は何ら問題ではない。ただ、もしベルが見ていれば真っ青になって「おやめ下さい」と叫ぶだろう格好だった。
高貴な女性は足下を見せたりしないものなのだ。いつでもお淑やかに微笑み、足首が隠れるほどの長いドレスを優雅にまとう。例外的な王族や貴族もごく稀にいるのだが、一般常識はそういうものだった。
凛華自身は思いもしないだろうが、アルフィーユでは彼女は国王と同等に敬意を払われるべき存在であり、決して街娘のするような格好をしていい者ではない。けれど凛華はアルフィーユに来るまでは制服と言えば膝くらいのものだったし、更に言えば彼女の一部の友達は膝よりもっと上、というミニスカートでも平気だった。
足を剥き出しにして楽な格好にしてから、凛華は久々に木登りというものをすることにした。
一体何年ぶりだろうか。昔、よく父親に声をかけながら遊んでいた。
凛華はとても身軽だ。枝を軸にして腕に力を込め、それに乗りあがる。随分と丈夫な枝は少ししなっただけで折れそうな気配はなかった。
二、三度それを繰り返していると、視線の先に青い布が見えた。
どうやら適当に木を選んだだけだったのだが、この木で合っていたようである。一段高い枝に手を伸ばして身を上にあげてみると、そこに、幹にもたれかかって目を閉じている国王陛下がいた。
「……」
銀色の髪と、長い睫毛と。そして、寝ている時でさえ整った表情と。
凛華はくすくすと小さく笑ってしまった。
国王陛下がこんなところにいるのは、何だか不思議な気がして。
余程ぐっすりと眠り込んでいるのか、セシアの睫毛はぴくりとも動かない。起こしてしまうのもどうかと思い、凛華はそのまま触れていた枝に腕を乗せ、そこに顎をついて彼の寝顔をじっと見つめてみた。
やはりあの光はセシアだった。風に揺れる銀髪が、葉の間から差し込む陽射しをわずかに反射させる。
きらきら。
綺麗だな、と見惚れる。
彼の傍にいると気持ちが安らぐ。
居心地が良い。
もう少し近くに行きたいと思った凛華は音をなるべく立てないようにと気をつけながら少し高い所にあった枝へと身を落ち着けた。
セシアの寝顔という珍しいものをまじまじと眺めてみる。そうしているうちに、先ほどずっと考えていた「好き」というものがどういうものなのか、だんだんと分かってきたような気がした。
傍にいたい。
ただ、それだけ。
「――あのね……」
小さな声で呟いてみる。セシアに何の反応もないことを確認して、ほっと息をついてから凛華はまた口を開いた。
今なら、きっと。この想いを言葉に変えることができるかもしれない。
「セシアに言いたいことがあったの……」
この想いを、言葉に。
「わたしね……セシアにお礼を言わなきゃって……。乗馬を教えてくれたり勉強を見てくれたり……それに……テニグまで助けに来てくれた時、本当に嬉しかった……」
見たかったサファイアの瞳を手に入れて。
そして、泣いてもいいのだと、甘えさせてくれて。
「わたし、感謝してもしきれないくらい、セシアに色々してもらって……わたしなんて、ただ髪が黒いだけなのにね。本当に、ありがとう」
得体の知れない「預言された少女」を。
この優しい人は、受け入れてくれた。
それがたとえ国のためという理由があったからであっても、もう構わなかった。
そこで一度話すのをやめて、凛華は深く息を吸い込む。そうしないと高速で動き続ける心臓のせいで、頭がおかしくなってしまいそうだった。
慌てた時はまず深呼吸。父親がよく言ってくれた言葉だ。
いつもは父親を思い出す度に、その後の叔父たちのひどい罵声に苦しんでいたけれど、浮かんできたのは、変わらない大好きな父親の笑顔だけだった。思わずふわりと微笑み、優しい記憶の中の父親の励ましを思い出す。
──頑張れ、凛華。
吸い込んだ息を全て吐きだして、凛華はぎゅっと目を閉じた。
こんなことをするのは初めてで、何もかも勝手が分からないことばかりなのだけれど。
「……でね……? 『好き』とか……『嫌い』とかはちゃんと分からないんだけど……」
理解したようでいて、結局はよく分からないあやふやなこの気持ち。
「でもセシアは……」
大丈夫だと言ってくれたセシアは。
泣くことを許してくれたセシアは。
「傍にいたいって思うから……」
だからどうか。
あなたの傍に。
「傍にいても……いい……?」
はぁっと凛華が息をつく。
これほど想いを言葉に変えるということが難しいとは思っていなかったので、ものすごく神経を使った気がする。
けれどこれで予行演習はばっちりのはずだ。
あとはセシアが起きるのを待って、実行すれば良い。本番はセシアが起きているので反応が気になってしまうだろうが、それでも一度口にして確かめたのだからきっと上手くいく。言葉にしてみて分かったのだが、やはりこの気持ちは他の誰に対するものとも違っていて、大切にしたいと思えた。
セシアの傍にいたい。
特別な「好き」だ。
そしてゆっくりと目を開ける。と。
「リンカ、真っ赤だ」
青い目を細めて笑うセシアが、いた。
凛華がその整った顔立ちを把握し、そして言われた言葉を反芻する。
真っ赤だろうことは分かっていた。きっと鏡を見れば笑ってしまいそうなほど赤いに違いない。
そして目をぱちぱちと瞬かせ、何故セシアが起きているのだろうと考え始めた。
彼が眠っているからこそあれだけ恥ずかしいことを言えたのに。
だんだんと漆黒の目が大きく見開かれ、それを見ていたセシアは面白いなと思った。
「〜〜〜〜っっ!!」
おそらくそれが音になっていれば王城の庭に響き渡ったであろう悲鳴は、声にならない声のまま、途切れた。
嘘だ。絶対に寝ていたはずだ。
睫毛は全く動かなかったし、静かに呼吸を繰り返していたではないか。それに話しかけていたのに何の反応も返さないで聞いているなど悪趣味である。
「セ、セ、セセ、セシア……っ!! い、い、いつから……いつから起きてたのっ!?」
凛華が必死に言葉を口にする。少しずつ言葉を紡いでいた時とは比べものにならないほど頬が赤くなっていた。
彼が起きていたことへの驚きと、起きていることに気づけなかった自分のふがいなさと、ある種の悔しさから思わず声が上ずってしまう。
耳まで赤く染めて驚愕する凛華の目はうっすらと潤んでいて、それがまたどうしようもなく可愛らしくセシアの目には映る。もう少しからかってみたい。そんな底意地の悪い考えまで起きてしまうのだから。
口元に笑みを浮かべたセシアは、至極楽しそうに彼女の問いに答えてやった。
「最初からって言ったら……どうする?」
とっさに返事を返すことができなかった。
まさか。最初から、ずっと。
ずっとセシアの寝顔を見つめていたことや、一世一代の告白、の予行演習を、全て聞かれていた、なんて。
俯いた凛華は細かく肩を震わせ、乗り上がっていた枝をしっかりと掴んだ。そうしていないと今にもこの枝から真下の地面から落ちてしまいそうで。
まさか。狸寝入りだった上に、全部最初から聞かれていたとは。
「お……」
「お?」
呟きかけた言葉をおうむ返しにセシアが言い、続きを尋ねる。
凛華はきっと顔を上げ、寝ているふりをしていた王様を睨み付けた。
「怒りますーーーーっっ!!」
絶叫だった。
大声で叫んだ後で黙り込んだ凛華の目尻には涙が浮かんでおり、頬は赤く上気し、素直な凛華にしては珍しく拗ねてしまったのかぷいっと顔を逸らしている。
可愛いと言ったらなかった。
今にも泣き出しそうな目でそんな風に上目遣いに見つめられたら誰だって心を動かされるだろう。しかもセシアは凛華に想いを伝えたばかりだったのだ。
ここが王城の庭でなく、こんな不安定な木の上でなければ、今すぐにでも組み敷いているところだった。
(やられた……)
自分の方がある意味加害者であるくせにセシアはそんなことを心の中で呟く。
純粋な凛華の行動は何もかもが新鮮で。
計算しつくした優雅な笑みを浮かべる貴族の娘や、婚姻を結びたがっている外国の王女たちとはまるで違っている。彼女たちはいかに自分が綺麗なのかを証明してみせようと、常に煌びやかに着飾り、セシアの気を惹こうとしていた。
けれど凛華は計算など何もできなくて、ただ純粋にその感情を表に出して、セシアの目を捕らえる。
王宮という汚い思惑も少なくない場所で育ってきたセシアにとって、凛華の純粋さは希有過ぎるもので、どんな美女の微笑みよりも、どんな素晴らしい宝石よりも彼女だけがこの世界で一番綺麗なのだと、そんな大げさなことさえ思うのだ。
「たまには仕事もさぼってみるもんだな。リンカにそんな返事をもらえるなんて、夢みたいだ」
ふっとセシアが笑うと、凛華は頬を赤くしたまま唇をとがらせて文句を言った。
「セシアの嘘つきぃ……」
まさか国王が狸寝入りするだなんて。
勝手に告白に対する返事をしたのは自分なのだが、やり場のない恥ずかしさがまたこみ上げてくる。
子供らしく唇をとがらせる凛華に、セシアは飄々とした表情を浮かべて笑った。
「俺は嘘ついてないよ。寝てる、なんて言ってない」
そんな滅茶苦茶な。
そうは思ったものの確かに正論ではある。勝手に勘違いしたのは凛華の方なのだ。
何か言い返そうとした凛華は結局何も言えずに顔を背けたまま口をぱくぱくとさせた。
少し悔しい。
いつだってセシアは凛華より大人で、いつだって凛華はセシアに翻弄されてしまって。
もっと格好良く、はっきりと返事をするつもりだったのに。
凛華が視線を合わせようとしないことを良いことに、セシアは手を伸ばし、彼女の腰にその腕を回して自分の方へとぐいっと引き寄せた。一瞬体勢を崩した凛華を、枝の上で器用に抱きとめる。
「わ……っ」
「怒ってるリンカも可愛い」
くすくすと笑いながら、この上なく優しい、けれどどこか甘い声で彼女に囁く。
セシアの予想通りに彼女は落ち着きかけていた頬を再び染めた。
「な……っ!」
火が出そうなほど頬が熱い。それを理解してしまった凛華はうつむき、照れ隠しにぽかぽかとセシアの胸を軽く叩いた。セシアは「痛いよ」と笑いながら言っているが、全然痛がっているようには見えない。それがまた悔しかった。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
一世一代の告白をしっかりと聞かれていたなんて、とんでもない。
「リンカ」
「何よぅ……」
凛華は完全にいじけてしまった。
(可愛い……)
一度抱き締め直して、セシアは笑ったままで凛華の耳元に囁いた。
「リンカ」
ぞくりとする、低い声。
「なに……?」
絶対に言うことなんて聞かないんだから、といじけた凛華は決心してうつむき続けた。
「こっち向いて」
「やだ」
顔赤いから、と付け足して凛華は意地でも顔をあげない。一度決めたらてこでも動かないのは父親譲りなのか、それともアルフィーユに来てから師匠に似たのか。
その様子に苦笑してから、セシアはすっと凛華の脇腹に手を伸ばしてくすぐった。
「ひゃぁあ〜〜っっ!!」
途端に凛華の唇から漏れる裏返った声。
凛華は顔を上げ、とんでもない声を出してしまった自分の口元を抑えた。だがもう遅い。
しっかりと聞いてしまった、聞いたことのない彼女の声にセシアがぷっと噴出する。弱みを、発見した。
「すごい声……っ」
少し驚かそうと思っただけなのに、こんなにも、ものすごい反応が返ってくるとは。
セシアは結構な策士かもしれない。くすぐるだけで結局は凛華に顔を上げさせることをやってのけた。
「リンカ、脇腹弱い……?」
くすくすと笑いながら尋ねる。
「弱くなんかないも……っ!」
涙目のまま言葉半分に抵抗しようとする凛華に、爽やかな笑みを浮かべたセシアはまた手を伸ばした。
そしてまた、裏返った悲鳴が凛華の唇から漏れた。
くっくっく、と笑いのつぼにはまったのか心底面白そうに笑うセシア。その前で、凛華は腹の前で手を組み脇腹をガードしていた。
涙を浮かべたままセシアを睨むが迫力は全くない。随分とセシアに遊ばれたようだ。
「意地悪……っ」
「リンカの前でだけだよ」
とびきりの言葉をさらりと口にする。凛華は何か言い返そうとして口を開くが、言葉が出なかった。
セシアが、くすぐったせいで自分から少し離れていた凛華をまた抱き締める。
「もう一回」
そうして言われた言葉に凛華はこくりと首を傾げた。複雑に結い上げられた髪がふわりと揺れる。
「え?」
また脇腹をくすぐられるのではないかと緊張していたので、セシアの言葉を聞き取れなかった。
そこでセシアは律儀にももう一度言い直した。
「もう一回さっきの言って欲しい。ああ、今度は目を閉じないでね」
「無理!」
と、凛華は即答。
けれどセシアはここで終わらせてやる気はなかった。
とっておきの一言を彼女に投げかける。
「言わないと……また、くすぐるけど?」
そう良い、笑みを浮かべたままセシアは彼女の脇腹に手を伸ばすそぶりを見せた。慌てて凛華は身を引こうとするが、抱きしめられている今の状況ではこれ以上後ろには下がることができない。
「っ!!」
「なに、それともくすぐられたい?」
(それ、脅しですっ!)
心の中で呟いて凛華が真っ直ぐにセシアを見つめた。
安心する、海のような青い瞳。
言わなければいけない気持ちがたくさんある。フェルレイナにも言われたのだ。誰かに遠慮して本当の気持ちを押し隠すのは許さないと。
この気持ちに嘘をつきたくはなかった。
セシアが、視線をうろうろとさせる凛華を抱き寄せ、凛華の返事を待つ。
ここは、居心地が良い。
凛華はセシアの胸に手をつき、震える声を絞り出した。
「セシアの……傍にいても……いいですか……?」
彼が眠っていると思っていた時は、ここまで緊張しなかった。
空よりも海よりも深い青の色。その瞳に見つめられているだけで、声が震える。
最後まで同じ言葉を言い切った凛華は恥ずかしさのためにふいっと横を向いた。けれど本当に嬉しそうに笑ったセシアが彼女の顎に指をかけ、くいと自分の方を向かせる。
「セ、シア?」
戸惑った声。
「……リンカなら、大歓迎」
「え──」
その意味を問いかけようとした唇に、そっと唇を重ねて。
セシアは、腕の中にいる誰よりも愛しい少女を、抱きしめた。
凛華は、ひどく驚いた表情のまま固まっていた。
想いを言葉に変えて手に入れたのもは、国王陛下と甘いキス。
その日厳しい側近に、静かに文句を言われ続けたにもかかわらず、アルフィーユの国王陛下は、始終機嫌良さそうに机に向かっていらっしゃったとか。