暑い。
夏ももう終わる頃だというのに今日は風が熱をはらんでいた。自分の髪を通っていく風を鬱陶しいと思いながら凛華は小さくため息をついた。
塔の屋上は景色は絶景だけれど、今日のように暑い日は風が出ても爽快とは言えない。
けれどアルフィーユの方がましだ、と凛華は内心で思った。高温多湿の日本よりは、幾分乾燥しているアルフィーユの方がましである。夏の間も、じめじめして寝付けないというはめにはならなかった。あの寝苦しさが嫌いだった凛華にはうってつけである。
それでも髪を抜けていく風は生暖かいし、首筋に触れる髪は汗で湿って邪魔だ。
「髪、切ろうかな……」
父親が綺麗だと言ってくれたこの髪を切る気など毛頭ないのだけれど、冗談交じりにそう言って凛華は服の襟元をぱたぱたと動かした。他人がいれば勿論こんなことはしないがここでは一人きりである。造り出された風が熱を冷ましてくれる。
「あらリンカ。ここに居たの?」
ふっと後ろから声が聞こえてきて凛華は振り返った。
高所恐怖症のベルは滅多にここに来ない。というか来ることができない。セシアやロシオルは忙しいのか一回しか来たことがない。
それ以外の人は、一人しか知らなかった。
やはり、彼女だ。
「リーサーさん」
短めの茶髪を風に揺らして、おおよそ侍女とは思えないほどに元気な女性だ。
「どうしたのリンカ。こんなとこで」
「あ……ちょっと暑くて……」
風に当たろうかと思って、と付け足して笑う凛華の横にリーサーが「そうよねー」と相槌を打ちながら座った。リーサーはベルとは違い、高所恐怖症ではないのだ。
「これだけ晴れてるから洗濯にはちょうどいいんだけどね……。暑くてやる気なくしそうだわ」
どこの国でも平常より暑いというのは不快らしい。
いつもは爽快な笑みを浮かべる彼女も、嫌そうに顔をしかめた。
「ですよね。さっきまでは勉強してたんですけど……」
そう。先ほどまでは真面目に数学をやっていた。だが大きすぎる窓を開け放しても入ってくるのは熱を孕んだ風だけで、しかも外は快晴である。勉強など進む筈がなかった。
「遠乗りしないの? あのロー……なんとかっていう馬と」
「ローシャです。今日は馬屋の人に止められちゃいました。こんな暑い日にずっと馬を外に出してやってたら可哀相だからって」
肩を竦め、小さく舌を出して凛華が笑う。
きっと気持ち良いのに。思いきり風の中を駆け抜けて。ローシャだって喜ぶのに。
けれど馬番に止められてしまったのだから仕方ない。自分よりも馬番の方が馬については詳しいのだから。
「なるほどねえ……。あ、そうだ。リンカ、ベル知らない?」
これが本題らしく、リーサーは本当に困ったという顔でリンカを見た。
「え? ベル……? ……えーっと確か、ロシオルが急な仕事で家に帰られないから、代わりにベルが実家へ帰ったそうです。何か妹さんが熱を出したみたいで……。わたしも一緒に手伝うって言ったんだけど、大丈夫ですからって断られちゃいました」
そりゃそうだわ、とリーサーが笑って返した。
この天然な「預言された少女」は自分の立場をよく分かっていないらしい。
本来はセシアやフェルレイナと同等の最高の敬意を払われるべき人物なのだ。それなのに本人はそれを自分から断った。尊敬されるのはくすぐったいからやめてくれと。
ベルは賢いとリーサーは思う。
もしベルが凛華に手伝いを頼むような考え無しな侍女であれば、周りの人間が何を言うか分からない。人間の心は、誰もが願うほど綺麗なものではない。凛華に偽善だとか、そういった心ない声を浴びせさせたくはないというベルの想いが痛いほどよく分かった。
純粋で素直な主。彼女の傍にいるのはひどく心地良い。
知り合って半年経つか経たないかくらいだが、明るい笑顔を浮かべたままでいて欲しいと思う。傷つけられたくないのだ。
「ベルに何か用だったんですか?」
自分の立場を分かっていない凛華はごくごく普通にそう尋ねた。
そこが彼女の悪いところでもあるが、最大の長所だ。
思わず笑ってしまいたくなる。
リーサーはふふっと笑って彼女に答えた。
「ん、ロザリーに呼ばれてたから、ちょっと抜けようと思ったんだけど。止めとくわ。後からベルにあの笑顔で何言われるか」
ベルは凛華一筋の侍女の鑑のようなものである。
親友と会うのも良いが、優先するべきは現在の主だ。
凛華が気にすることではないという風にリーサーは笑ったが、凛華は申し訳なさそうに睫毛を伏せた。
「ご、ごめんなさい。わたしのせいで……」
「あー。気にしないでっ。ロザリーにはちゃんと言っとくから大丈夫よ」
慌ててフォローをいれる。
けれど未だに凛華は済まなさそうな表情を浮かべていた。
リーサーもベルも、主がこのような性格だからこそ好きなのだ。そして彼女たちは、どうすれば凛華が気にしなくなるか、知っていた。見返りを求めればいいのだ。彼女は自分のせいで何かあった時に、代わりに何か要求すると嬉しそうにそれに応じる。
にやりとしか形容できないような不敵な笑顔を浮かべ、リーサーは凛華の首に手を回して抱きついてから笑った。
「そ、れ、にー。リンカ、付き合ってくれるわよね?」
凛華がリーサーの笑顔から何かを感じ取ってたじたじとなっているのを良いことに、リーサーはにこりと母親を思わせるように微笑んでから、凛華の手をとって喜々として星見の塔の中に戻った。自分のせいで予定を変えさせてしまったことに対して何かできるのは嬉しいが、何をされるのかと慌てている凛華を、爽やかに無視して。
星見の塔の最上階の部屋。
この部屋は凛華に与えられた、最初はシンプルな部屋だったのだが、いつの間にか侍女二人によって貴族の令嬢と変わらないほどのものが揃うようになっていた。ドレスや装飾品も勿論である。
「も、もういいよ〜……」
情けない凛華の声が響いた。
声の主は思いきり困った表情を浮かべ、後ろにいるリーサーを見上げる。
「だ、め、よっ。まーだまだっ」
爽やかにリーサーはその願いを無視して、凛華の髪を綺麗にまとめていく手を止めない。仕上げに、小さな宝石がいくつも並んでついている革ひもを彼女の黒髪に編み込んでいき、それを後ろに流した。彼女の黒髪はくせが全くなく、触るのも気持ち良いが、それよりも飾り付けたくなるのである。
リーサーが鏡で見せてくれないのでどんなことになっているのか分からない凛華は、ただただ早く終わるのを願うだけだった。
「よっし完成! 我ながら見事な腕前ね」
至極ご満悦な様子でリーサーが笑い、やっと凛華は解放された。
服を返して欲しいが、きょろきょろと辺りを探してみても、先ほどまで身につけていた動きやすい普段着は見あたらなかった。一体いつの間に片付けられてしまったのだろうか。
「あの……」
足に触れるさらりとした裾がくすぐったく、どこか困ったように振り返る凛華を見て、リーサーはうんうんと一人頷いた。
なかなかの出来映えである。
リーサーもベルと同じく主を飾り付けることを使命と思っているのだが、どちらかと言えば主を可愛らしく飾り付けたがるベルとは違い、リーサーは一回りほど年下の主を大人っぽく見えるようにしようと思っている。
よって、可憐な、というよりはすらりとした形のドレスを選んだ。色こそ明るい色ではあるが、すっきりした袖や広がらない造りの裾は落ち着いた印象を与える。自分と同世代の婦人たちの間で流行っている形だ。
凛華の顔立ちは幼く見えるため、ドレスと合わないかもしれないと危惧したが、それもさして問題にならなかった。
自分の仕事に満足したリーサーは、やはりここは、この姿を広めなければ、と思った。
いっそのこと王宮中の人々に見せ歩きたい気分だ。きっとそんなことを彼女は望まないのだろうけど。
とりあえず陛下のところは外せないわよね、とどういう理論なのかよく分からない考えを思いついたリーサーは未だに椅子に座っている凛華の耳元で囁いた。
「陛下の所、行かない?」
妙に優しい声音で耳元に流し込まれたそれに、頷いてしまいそうになる。
けれど凛華はその台詞をよく考えた。
沈黙。
そして、言葉の意味をようやく理解した凛華は、真っ赤になってぶんぶんと首を振った。
とんでもない。元々和服が似合う日本人がこんな上品なドレスを着ても似合う筈がないのだ。いつもの服装は、凛華の知る服飾とそう代わり映えのないものなので抵抗なく身につけているし、時折ベルが着せるドレスも、驚くほどファンタジックなものではあるが、まだ我慢ができる。しかし今日は、童顔な自分には似合わないであろうひどく大人びたドレス。似合うはずがない。きっと、子供が無理に背伸びをしているように見えて不格好だ。
そんな姿を男性に、ましてセシアに見せるなど、恥ずかしすぎる。
「絶っ対に無理ですっ!!」
めまぐるしく様々なことを考えた凛華は、大声で否定した。
そして直後、あまりに大きな声を出したことに自身で驚き、耳まで赤くして何でもないのだと手を振り、口を噤む。
ドレスが恥ずかしいだけならば何もここまで反応することはないだろう。
彼女は、別の所に反応したのだ。
リーサーは何か思い当たったのかにんまりと人の悪い笑顔を浮かべた。
凛華付きの侍女は大変有能である。
有能ではあるのだが──同時に、主の恋路が大変気になっているのだった。
「どうして無理なの〜?」
楽しそうなにやにや顔で詰め寄るリーサーに逃げ腰になりながら、凛華は再び顔の前で大きく手を振った。
「何でもないです!」
頬を真っ赤に染めて、一頻り狼狽する。
絶対に無理だと思った。
『好きだ』
先日言われた言葉がまた脳内に蘇り、凛華は赤くなった頬を隠すように両手で覆った。
彼女はあまり異性に近寄らなかったので、告白されたことがなかった。家族くらいにしか言われたことがなかったその言葉に、頭がついていかなかった。
家族のような感じで「好きだ」と言われたのだと思っていた。泣いていた自分を慰めるために言ってくれたのだと思っていた。だって彼は優しい国王なのだから。
ただそれだけだと思っていた、のに。
けれどベルに言われたのだ。「陛下はきっとリンカのことを女性として好いていらっしゃるのですわよ」と。
ベルの中では「きっと」ではなく既に「絶対に」なのだが、真っ赤になって「うああああ」と言葉にならない言葉を発し続ける凛華を見て言うのをやめた。
後は、凛華がそれにどう答えるか、だ。
これはベルが手出しするべきことではない。熱があるのではないかと言うくらい真っ赤になったままの凛華に、ベルはやんわりと微笑んで「落ち着いて考えることが大事ですわよ」と言うに留めた。
落ち着こうとは思うのだけれど、落ち着くことなどできやしない。
「なーによう、真っ赤になっちゃってっ」
はっと、その言葉に我に返る。
すぐ傍にリーサーの笑顔があった。
「ああもうリンカってば可愛いっ。好きだわ、そういうとこ」
少し含みのある言い方。
正直な凛華に何があったのか察したリーサーはそうかまをかける。
すると案の定。
「好き」という言葉にこれ以上ないほど凛華が反応し、赤くなって俯く。
ビンゴ、とリーサーは笑った。
ふしゅうと音まで立ててしまいそうなほど赤くなっていた凛華がぱっと立ち上がる。
「あ、あ、ああ頭冷やしてきますっっ!」
「ああうん、それはいいけど……。その格好でっ!?」
リーサーは驚きの声をあげたが、その声に気付かず、凛華はそのままの格好で部屋を飛び出した。
鮮やかなオレンジ色のドレスがふわりと翻る。
編み込みを施され綺麗にまとめられていた髪を振り乱すほどの勢いで凛華はスピードを上げた。
靴がショートブーツではなく複雑な彫り込みが施された金のサンダルなのにその軽やかさと言ったら尋常ではない。リーサーが凛華に着せたドレスは長衣である。裾がからまったりしないだろうかと心配げにリーサーは扉から顔を出したが、既に凛華の姿は見えなかった。
「リンカー?」
一応声をかけてみる。が、返事はない。
見回りをしていたのだろう、ジルハがそこにいた。彼は呆然としていた。
「相変わらず元気だわ」
主の突飛な行動と警護騎士の反応に笑顔を浮かべ、一仕事終えたリーサーは通常の侍女の仕事をするべく、扉をぱたんと閉めた。
良いことをした、とその顔には自信に満ちあふれた笑顔が浮かんでいた。
リーサーが風通しをよくするために窓を大きく開き、部屋の掃除を始めた頃。
頬を染めていた凛華は、動きにくいドレスの裾を捌いて歩くことに集中していた。時折ドレスに足をとられそうになりながらも、何とか体勢を持ち直してあてもなく城の庭を歩く。ショートブーツとは違ってサンダルだと直に草が足に触れ、くすぐったい。
草の広がる部分を歩くのを諦め、凛華は王宮の廊下へと戻った。
それから、どこまで続いているのか分からない白い廊下を歩いていく。
最初は歩きにくいと思っていたけれど、歩き慣れてくると、足を動かすたびに聞こえるカツカツという音が何だか楽しくなり、凛華は足を緩めることなくずっと奥まで歩みを進めた。
普段はこんなところまで足を踏み入れることはない。王宮に部屋をもらったとは言っても、居候であることに変わりはないのだから、王宮の奥まで勝手に入りこむのは気が引けていたのだ。
「あれ?」
ふっと凛華が顔を上げ、周りをよく見ると、そこは凛華が知らない場所だった。
大変だ。考え事をしている間にどうやらいつもは来ない場所まで来てしまったようである。
花の香りが漂ってくる。視線を廊下から外へ移すと庭師によって手入れされた素晴らしい庭園が広がっていた。
庭園を荒らしてはいけない。
塔に戻ろうと凛華が踵を返し、歩きにくいドレスの裾を翻した。
その時。
丁度、先ほど見た庭園の方から声がかかった。
「リンカ」
誰もいないと思っていたが、人がいた。そのことに驚きながら凛華が振り返る。
いつもは三つ編みにしている髪を背中に流して、その焦げ茶色の瞳で真っ直ぐに凛華を見るフェルレイナがそこにいた。アルフィーユの王女殿下だ。
「王女……」
『お義兄さまが、あんな風に声をあげて楽しそうに笑ったのは……即位してから初めてなのよ』
ふっと、この間フェルレイナが言った言葉が凛華の頭に浮かんだ。
それと同時に海よりも深い青い瞳と、好きだという台詞を思い出して凛華がまた頬を染める。やはり、落ち着けやしない。
「? どうしたの?」
頬を染めて固まっている凛華に気付き、フェルレイナが不思議そうな声を出す。
その声にはっとした凛華はおおげさにぶんぶんと手を振った。
「な、何でもないです……」
言える筈がない。
義兄を慕っているこの王女に、まさかその義兄本人に告白された、など。
睨まれるだけでは済まなさそうな気がしてならなかった。
「リンカ。ちょっとだけ、付き合ってくれる?」
「え……は、はい……」
頬を両手で覆った凛華は、何の用かは分からないが、特に行く当てもなかったし、断る理由がないと、頷いた。
フェルレイナはちらりと後ろを向いて、口を開いた。
「二人だけにして」
そう言った瞬間に、彼女の侍女らしき女官たちが庭から出てきて「いけません」と厳しくフェルレイナに言った。アルフィーユの王位継承者を、いくら剣が使えるとはいえたった一人の少女に任せるわけにはいかない。
フェルレイナはしばらく沈黙してから彼女たちを鋭い視線で見つめた。
凛華が少しどきりとする。同じ血が流れているからだろうか? いつか見たセシアの鋭い瞳と今のフェルレイナの視線が重なって見える。
どうしてこんなにもセシアにばかり反応してしまうのだろうと、凛華は赤くなるな、赤くなるなと言い聞かせるように繰り返し心の中で呟いた。
凛華が一人で焦る前で、フェルレイナが女官たちに向けて王女然と口を開いた。
「行って」
有無を言わせないような言い方。
彼女たちは困ったように顔を見合わせ、女官長だと思われる最高齢の女性を見やった。
若い彼女たちは「どうしましょう」と、どうすればいのか分からないといった顔だ。ふぅっと息をついて、最高齢の女性は皺を深く刻んでにっこりと笑った。
「王女、分かりました。ですが何かあったらすぐに呼んで下さいな」
手を振って退散しろと合図を送ると、女官たちは凛華とフェルレイナに視線を向けながらも引き下がった。
命令し慣れているフェルレイナの横顔を見て、凛華はすごいなあと素直に思った。
「ありがとう」
微笑し、フェルレイナが言うと、女官長はいいえとおっとりと呟いて歩いて行った。
「……さて、と」
腰に当てていた手をおろし、フェルレイナが視線を横に向ける。
未だおろおろとしている凛華の手を引き、白い廊下から綺麗に手入れの施された庭園へと凛華を招いた。
凛華は、フェルレイナのされるがままになっていた。