ジェナムスティ。
大陸において、アルフィーユの北方に位置する大国である。
標高の高い山々と広大な平野をアルフィーユとの国境としている。平野より南は概ねなだらかな隆起の土地であるが、北は至る所に山があり、山が街を区切っている。
国の中央から南よりに王都ジェムスが位置し、アルフィーユ王城とは趣の違う、同じく石造りの堅牢な城が大きく広がっている。
アルフィーユと異なるのは、その城壁の高さにおいてであった。
丘の上に位置するアルフィーユ王城はすぐ北に大河があり、自然の壕をなしているため、北に向かって開放されている。城壁はあるにはあるが、そう高いものではない。
一方ジェナムスティ王城は周りを山に囲まれながらも高い城壁を備えているため、近寄りがたく閉ざされた城である。
そしてアルフィーユのそれが、人々に理想の治世と安全を与えるものであるのに対して、ジェナムスティのそれは恐怖と不安を与えるものだった。
ジェナムスティはアルフィーユと同じく四季を持つ、自然豊かな国である。
土地に応じて高原では酪農を、平野では耕作をする農業国家で、かつ鉱山で取れる鉱石などの資源を利用してアルフィーユと技術の最先端を争う工業国家でもある。文化面においてもその隆盛は目覚ましく、華やかな国として知られている。
古くからアルフィーユと共に大陸を制する国であり、大きな争いはなかった。
けれど、この国は変わってしまったのだと多くの人が嘆くように、今では華々しい文化もなりをひそめ、どこか陰気である。
「デノン! デノンはおらぬか!」
いかにも不機嫌といった低い声が広い廊下に響いた。
豪奢な服に身を包んだ壮年の男性が硬い足音を立て、隙なく廊下を歩く。
背は高く、厚みもあるため、その存在だけで威圧感がある。また、暗い色の髪や髭はきっちりと撫でつけられ、その眼光は鋭く、常に険しい表情をしているため、近寄りがたい雰囲気でもある。
ジェナムスティ国王、ティオキア・チェカルト・ジェナムスティその人であった。
彼の姿を見るやいなや、仕事に駆けずり回っていた数少ない文官や武官たちは慌てて膝をつき、頭を下げて敬意を表した。
――表したのは敬意だったか畏怖だったか。
「デ、デノンさまにおかれましては……あちらに……」
頭を下げたままそう告げ、とにかく目の前の嵐が過ぎ去るのを待つ。
足音が遠ざかっていくと、それまで息を殺さんばかりに黙っていた他の臣下たちは深い安堵の息をついた。その顔には「今日は殺されなかった」という心情が浮かんでいた。
目まぐるしく軍事大国にしていったのはあの王である。
見目は悪くない。王族に嫁ぐ女性が見目麗しい者ばかりであったからか、彼もまた整った顔立ちをしていた。
けれど、彼は。
国の決議に関わるようなことであれば大臣の意見を聞き、議会制に似た制度を維持するセシアとは違い、たった一人の絶対君主なのだ。
ティオキアは王宮内では感情が荒いと言われる。
臣下たちが異議を申し立てれば牢へ幽閉。少しでも反抗のそぶりを見せれば、王都から追放。気に入らない者は手に掛ける。
まさに独裁と言われる政治を行っていた。
前代の国王も独裁ではあったが、彼の独裁は下の者のことを考えた政治だったのである。それ故に、前代の王から仕えていた文官たちは、終わってしまった夢にすがりつくようにしてこの国の政治体制に残っていた。
もっと早くに反乱を起こしていれば。
もっと早くにこの国を見捨てていれば。
ここまで悲惨なものには、ならなかったのに。
廊下を不機嫌そのものの表情で歩いていたティオキアの前に、突如すっと影が現れた。
「御前に」
低い声が聞こえ、光が差す。
臣下たちが王と同様に、もしくは王以上に恐れる側近中の側近の男性であった。
硬質的な藍色の髪に、同色の瞳。但しその片方は黒い布に覆われた隻眼である。
冷ややかな表情をしているデノンは長身のため、最初は王を少し見下ろしていたが、直後膝をつき、深く頭を下げた。
「デノンか」
「何か」
無駄口をたたかず、短い返答しかしない。
この側近こそが、現在のジェナムスティの要であり、国を動かしているとも言われる切れ者だ。世辞や意味のない奏上をしようとしないこの側近を、ティオキアは気に入っていた。
「立て、許す」
「は」
本当に必要以上には喋らない。その無口さがまた良いのだろう。自身のことについて口だしされるのをティオキアはひどく嫌っていた。
立ち上がった彼を従わせ、ティオキアは迷いのない足取りで歩き始め、デノンはその間無言を貫き通した。
王宮内で最も豪奢な部屋へと入る。
恭しく頭を下げていた侍従をさがらせ、ティオキアは静かになった部屋をつかつかと真っ直ぐ突き抜け、一段高いところに置かれている、国王が座るに相応しい大きな椅子にどかりと座った。クッションがきしりと音を立てて受け止める。
「わたしに御用とは」
デノンは一段下に控えて先ほどと同じように膝をつき、ティオキアの返事を待った。
そんな彼を面倒くさげに一瞥してからティオキアは指を鳴らした。
直後に、この部屋から続く隣の侍従の部屋から突き飛ばすような音が聞こえ、開いた扉から何かが飛び出してくる。飛び出してくる、と言うよりはどちらかというと放り出された、と言った方が正しい。
何か──は、人間だった。
彼は毛の長い絨毯の上に放り出されても声を漏らさなかった。
落ち着いた態度で下を見続けるデノンはその光景を見ようとしなかった。ティオキアの許可なしには、この王宮では何もできないのだ。頭を上げることさえ、その自由はない。
しばらく沈黙した後で、ティオキアは「こいつだ」と呟き、頭を上げる許可を出した。
そこでやっとデノンは顔を上げる。黒布に覆われていない右目だけでそれを見てもデノンは何も言わなかった。表情すら変えない。「氷の副官」とデノンが言われる所以だった。
転がっていたものは、騎士だった。
例えば隣国の国王やその母王妃のように光ることはない、くすんだ灰色の髪。デノンは勿論彼に見覚えがあった。剣を交えたこともある。
彼は薄汚れた布で目を覆われていた。これは、デノンが左目が潰れて見えないためにしている布とは違い、単なる目隠しだ。そしてその布の所々が赤茶けているのは、きっと血のせいなのだろう。
ひどい状態だった。目だけでなく頭や頬からも血を流し、体には殴られたり蹴られたりしたのであろう傷が目立つ。剣を持つための右腕は折られているのか、奇妙な方向に歪んでおり、指も念入りに砕かれていた。
もう動けないだろう。
デノンは冷ややかにそう判断する。自身とて、左目を、意識のあるままティオキアにえぐり取られた時、灼けるような痛みのせいで動くことなどできなかった。目の前の騎士はあの頃の自分よりももっとひどい。
けれど動かないと思った指がぴくりと動き、それから辛うじて折られていない方の左腕が伸ばされた。
ティオキアがふっと唇をゆがめる。どこか鬼気迫るような表情だった。
ずるずると絨毯の上を手が這い、騎士が腕を支えにしてわずかに顔を上げた。
目隠しをされたままの彼は腕を自分の首の後ろへやり、噛まされていた猿ぐつわを無理矢理ほどく。ほどききれずにずれたくつわは、首もとにひっかかって止まった。
ティオキアとデノンが見つめる前で騎士は血だらけの口を動かした。
ぽたりと、唇の端から流れ落ちた赤い血が赤い絨毯の毛にしみこんでいく。
「――そ……れな……しあげ……っ」
「……ほう。まだ喋るか」
どこか面白げにティオキアは言い、騎士は支えにしていた腕に力を入れてまた言葉を紡いだ。
「……恐れなが、……ら! ……申し上げ、ます……っ」
「言ってみろ」
冷ややかに言ってのけて、ティオキアは緩慢な仕草で肘置きに肘をのせ、頬杖をついた。デノンは未だに片膝をついたままだ。
灰色の髪の騎士はもはや見えない目でひたすらティオキアの座る豪奢な椅子の方を真っ直ぐに見つめた。
「かの者は……っ!」
「かの者、か。……『預言された娘』……か?」
同意を求めるように自分に視線を投げかけたティオキアに、デノンは「そうかと」と短く答えた。
「彼の者は……先の王妃さまに、大変似ておりました故……」
「先の王妃とは?」
くつくつとティオキアは嗤う。
彼には妃が何人もいるのだ。
自分をあざける声に、けれど騎士は憤慨した様子もなく必死に声を絞り出した。
その声はひどく掠れ、聞き取ることが難しい。
「第一……妃……で……」
ふっと、彼が支えにしていた腕から力が抜ける。
上半身が崩れ落ちたがそれでも騎士は顔だけを上げた。
「それがそなたがおめおめと娘を離した理由か」
ティオキアが少しいらついた様子で椅子から立ち上がり、騎士を睨み付ける。衣擦れの音をたてて歩き、騎士の顎を捕らえて更に上を向かせた。一瞬、痛みに騎士が顔をしかめる。
「第三騎士隊騎士、ディーン・セルディック。……騎士の位を剥奪し、一切の権利、土地、一族はもはやそなたの者にあらず。牢で己の不手際を嘆くがいい。……連れて行け」
ぱっと顎から手を離し、ティオキアが隣の部屋の方へ向かって声を荒げもせずに言うと扉が開いて何人かの騎士が部屋に入ってきた。
「王はっ! ……王は、何も分かっておられない!」
二人の騎士に引き立たされながらも、灰色の髪の騎士──ディーンは叫んだ。
この国は、おかしい。
狂っている。
いつから狂い始めたのか。
「地下牢へ」
「王……国王っ。アルフィーユは……、かの者がいる国は――」
「行け」
「王!!」
「行けっ!」
短く言い捨て、ティオキアはもう何の興味もないという風にデノンの方を向いた。
両脇から支えられた傷だらけのディーンは、騎士たちによって部屋から出された。また殴られたのか、もう叫びもせず動きもしなかった。きっと彼はそのまま地下牢へ放り込まれ、看守も何もない暗い場所で命を落とすのだろう。
デノンは、何も言わなかった。
ぱたんと扉の閉じる音が静かに響き、デノンはすっと立ち上がる。
その前を、ティオキアは重そうな外套を翻して歩いた。もう一度椅子に座り、気怠げに息をつく。
「デノン。あの男が、娘を逃がした」
逃がしたというのは本来は誤りであり、本当はアルフィーユの王と第二騎士隊長がテニグから凛華を連れ出したのだが、ディーンはそれを決して言わなかった。どれだけ酷い拷問を受けても口を割らなかったのだ。
ティオキアは知らないがデノンは知っている。
彼がそうした理由は──きっと。ディーンが、ティオキアの第一妃であり凛華に似ていると言ったサリア王妃という故人の親戚でもあったからだろう。彼は、従姉に似た凛華を殺すことができなかった。
「王。……お尋ねしたい事が」
「何だ」
何だ、と改めて問われると言葉に詰まる。
尋ねたいのだけれど、尋ねるのが躊躇われる。
「…………」
「……そなたでも言いにくいことか?」
「は……」
「申せ。そなたにはそれを許しておる」
ティオキアが許可の言葉を吐き捨て、デノンは軽く頭下げたまま指先を自分の左目を隠す布に当てた。さらりとした感触が指に届く。すっと、手を離しデノンは顔を上げた。
「……腹心の部下までを使い……『預言された娘』を手中になさっていたとしたら……どうなさるおつもりでしたか?」
「……はっ」
かすかに嗤って、ティオキアがデノンを見た。
その質問が予想に反していたからかのか、それとも予想していたからなのかは分からない、笑い方だった。
嘲るように笑われてもデノンは視線を逸らさなかった。ただじっとその藍色の瞳で見据える。嗤いを収めてから、ティオキアは右手を顎に当てた。どこかふざけたように考え込む。
「……妃に据えるおつもりですか」
どんな時でも取り乱さないと言われていたデノンが、かすかに声を震わせて尋ねた。
ティオキアが最初に妃に据えた第一妃に似た、異世界の少女。
邪魔な者ならば、排するか取り込むか。
殺さず、もしもその少女を妃にするつもりなら。
――歴史が繰り返される。
「それもまた一興」
ふっと笑ってティオキアは立ち上がり、これ以上の問答は無用だとでも言うように手を軽く振った。
デノンが再び膝をつき頭を下げる。ティオキアは彼を一瞥することもなく、今度は静かな足音をたてて部屋を後にした。
行き先は、知っている。
扉が閉まってしばらくしてから静かに立ち上がり、長い藍色の髪を揺らしてデノンは別の扉から部屋を後にした。
王があの少女を妃にするつもりなら、不興を買っても全てを剥奪されても、止めてみせる。
第一妃が亡くなった原因は、直接ではないにしても間接的にアルフィーユの元王妃が関わってくる。国と国との間の恋愛感情がこんなことを巻き起こしたのだ。
もうこれ以上同じ歴史を繰り返させない。止めなければ。
例えこの行動が、ディーンと同じく王への反逆であったとしても。
カツン、カツン―─
ティオキアの他には誰も立ち入らない部屋への廊下を、彼は足音以外の音をたてずに歩いた。
古びた音と共に扉が開く。デノンにさえも立ち入りを許さない為、そう綺麗ではなく、隅にはほこりがうっすらと積もっている。
燭台の灯りだけが暗い部屋を照らす。
それを手近な場所に置いて、ティオキアは壁に近寄った。
歴代の王妃の肖像画が生前と変わることなく穏やかな笑みを浮かべたまま並んでいた。ここは、代々の第一妃の肖像とともにその骨の一部が収められている場所なのだ。正式な墓は地上にあるが、ここは違う。王のためだけの場所であった。
一番扉側の、まだ新しい木枠に収まった絵。複雑な彫りを施されたその木枠の中に、椅子に腰掛け、にっこりと笑った女性が居た。
ティオキアの第一妃だ。
淡い水色の長衣を身に纏い、最低限の装飾品だけをつけた姿だったが、それでも、王妃の威厳を表すには充分だった。
アメジストの瞳は優しく、少し儚い。
ただひたすらティオキアを愛し続け、それ故に死んでいった女性。
もう一度、この手に抱けるなら。
白い骨が柔らかさと暖かさを取り戻すなら。
何だってしてみせる。
「サリアと似ている……娘……か」
皮肉なものだと自嘲するように笑った。
「愛しています」と彼に囁き続けたサリア。戦争を止めてみせると宣言し、反意を見せたという「預言された少女」。
容姿は似ているというのに、ティオキアに対する気持ちは全く違うのだ。
ティオキアは木枠に手をかけ、ほんの少しずらした。
現れた壁を押すと、大人一人が通れるくらいの穴が現れた。燭台を手にとって静かにその穴を通る。
王城にはこういった隠し扉や隠し部屋がいくつもあった。王家だけに伝わる秘密である。
至って地味なその部屋は広いが、物らしき物は少しもなかった。
あるのは壁に飾られた一枚の肖像画。普通の肖像画のように正面や横を見つめているのではなく、どこか遠くを見ている女性。
今にも風音を立てそうなほど緻密に描かれた丈の低い草。そして咲き乱れる青と白の小花。
そこに背筋を伸ばし、立っているだけの姿だ。
届かない存在。
遠すぎた存在。
輝きを失わない銀髪は風を受けて靡くように描かれ、思わず手を伸ばしたくなるほど美しい。
そして、凛とした真っ青な瞳は決して自分を振り向いてはくれない。
その瞳が向けられる唯一の男性は、自分ではない。
手を伸ばす。
彼女に近づきたくて、触れたくて、触れて欲しくて。
かさりと指先に触れたのは、冷たい画布の感触。
サリアも彼女も、もう、生きてはいない。
それを再び思い知らされた気がして、王はダンッと壁に拳を打ち付けた。
掠れる声で呟く。
「……リ……リスっ……」
どうして自分は生きているのだろう。
たった一人、明るい場所から取り残されたまま。
完全に防音されているこの部屋。ティオキアの拳を打ち付けた音もかすかな囁きも、外に漏れることはなく壁に消えた。
――貴方は一人なんかじゃないのよ、ティオキア。