「ええーっ!?」
 王城でもっとも広いと思われる個人の部屋で、うめき声が響いた。


「は、はちにん……八人もいるの!?」
 女性の姿ばかりが載っている一枚の紙を見て凛華はとても衝撃を受けていた。
 初めに見せてもらったのは、ジェナムスティ王国のティオキア王の肖像画で、こちらは以前も一度見せてもらったことがあるのでああこの人か、という程度の感想だったのだけれども。
 それに続く八人の女性を見た時、凛華は思わずうめいた。
 年齢も髪や目や肌の色も、それぞれ違う八人だった。
 一つだけ色合いが違うものは古いものらしく、あとの七つはどれも新しい。古いものに描かれている優しげな女性は故人らしい。
 とにかく、一夫一妻制の国で育った凛華には理解するのが難しい事だった。
 凛華が目を瞬かせて驚く前で、セシアは苦笑とも微笑ともつかない顔で笑った。彼女の反応はいつだって感情に直結していて、だからこそ、楽しい。
「いま、正妻の第二妃が三十九歳で、一番若い第七妃はまだ二十になってない。亡くなった第一妃は……トーランドの第二王女だったかな。第七と第八の妃はこの三年の間に嫁した妃で、どちらもマチェス出身だ」
 話しながらセシアが肖像画を指し示してくれるので、それを目で追う。
 現在の正妻だという第二妃はまなじりが少しつり上がり、唇を引き結んでいる表情のため、厳格そうに見える。
 第七妃は確かに若く、凛華は自分とそう大差ないように思えた。ティオキア王はセシアの両親と年が近いということなので、ティオキア王と第七妃はかなり年の離れた夫婦である。
「……」
 世界が違いすぎる、といった感じで凛華は固まった。
 世界が違う。随分前にもそう思ったことがあった。
 ただの学生である自分と、国王であるセシアと。
 今も、やはり世界が違うような気がした。

 いけない。こんなマイナスの方向にばかり考えていては、先に進めない。
 ゆるく頭を振り、凛華はセシアの話に耳を傾けた。
「アルフィーユは一夫多妻はほとんどないんじゃないかな。ジェナムスティとか南の方の国とは違って、王女にも王位継承権が与えられるから、余程の理由がない限り多妻は避けられるんだ。先妻が亡くなった場合には普通後妻をめとるけどね」
「そうなんだ」
 それくらいなら理解できる。
 日本でも再婚する人ならたくさんいる。
 やっと自分の知っている世界の実情に近づいた気がして凛華はほっとした。
 こんなにも近くにいるセシアが別世界の人間なのだと、思い知りたくはなかった。


「リンカがいた所は?」
 セシアが興味深そうに尋ねた。
 政治体制も文化も全て違う場所にいたという凛華の話は国王であるセシアにとって、面白いのだ。
「一夫一妻制だよ」
 少なくとも日本は、と心の中で付け足した。どこかの国は多妻でも良かった筈だけれど、詳しいことは覚えていない。
 再婚、という言葉を思い浮かべた凛華は少し寂しそうに笑った。
「……お父さんは、お母さんが死んじゃった後もずっと一人でわたしを育ててくれたし……」
 多分それは自分の存在があったから。
 残された娘のためか、それとも亡き妻を愛していたからか、父親は再婚をする気はなかったそうだ。
 育児も何もかもが初めてだっただろうに、それでも父親は、亡くなる前までずっと凛華を大事にしてくれていた。ないがしろにされたことなど一度もない。
 愛してくれていた。
 嬉しくて、懐かしくて、――悲しい、記憶。

「それ、初めて聞いた」

 ごめん、と。口をついて出てきそうになった言葉をセシアは別の言葉に代えて呑み込んだ。
 それは言うべきことではない。
 凛華は哀れみを欲しがっているわけではない。
 その気持ちは自分もよく知っているのだから。言ってしまえば、彼女は逆に傷つく。よかれと思ってする同情は時に人をひどく傷つけるのだ。
「うん。言わなかったから」
 いつも聞くような、「凛華ちゃんは泣かなくてえらいね」や「かわいそうね」という、棘のような労りの言葉をもらわずに済んだ凛華は小さくほっと息をついた。
 そう言われるたびに、強くなくてはいけないのだと言われた気がした。弱い自分が嫌で仕方がなくて、消えてしまいたかった。

「リンカ……父親は?」

 凛華がアルフィーユにいるということは、彼女のいた場所には家族がいて当然娘のことを気にかけている筈だと思い、セシアは尋ねた。
 勿論セシアは神殿の巫女であるフェデリアには会うことができないので、フェデリアが凛華に関する記憶を全て取り去っていることを知らない。
 簡単にアルフィーユに滞在させてしまっているが、それは果たして彼女のとって良いことなのだろうか。ただ、彼女のことを思っての質問だった。
 けれど凛華はうつむく。

 認めたくない事実。
 冷たくなっていく体の感触を今でもはっきり覚えている。
 認めたくなくても。事実は事実だ。


「……事故で亡くなっちゃった……。五年前だから……わたしが十一歳の時、かな」


 その頃の記憶はショックのせいで色々あやふやなので、凛華は自分の年齢から逆算していった。






 それは新しい学年になって、そろそろクラスにも、難しくなった勉強にも慣れてきた頃だった。
 確か、算数の時間だった気がする。父親に自慢するために頑張って拙い数字で計算をしていた。ここまで出来るようになったんだよと言えば、いつものように、父親がわしわしと頭を撫でてくれる。
 それなのにあの時。
 妙に強ばった顔の先生が、浅川さん、と凛華の苗字を呼んで。
『浅川さん、よく聞いてね。……あなたのお父さんが……事故に……』
 掠れた声。
 思考が真っ白になるという経験を、凛華は初めてした。
 よく聞いてと言われても、そんなことを聞ける筈がない。聞きたくなどなかった。
 父親が事故に?
 まさか、そんな。
 だって父親は笑ってくれる。今日だって、算数のテストを持って帰ったら、よくやったな、と笑って、誉めてくれるのだ。

 訳が分からないままに連れていかれた大きな病院。
 凛華は、白い壁が怖いとその時思った。
 そして通された場所で見た、変わり果てた父親の姿。
『おとう……さん……?』
 声がどうしようもなく震えた。
 病院までずっと付き添ってくれていた先生は、凛華の後ろで泣いていた。凛華は、どうして先生が泣くのか分からなかった。

 ――どうして泣くの? お父さんはそこにいるよ。

 真っ白いベッドに横たわり、たくさんの医療機器に囲まれた体。
 血の気の引いた土気色の顔。呼吸器から見える紫色になった唇。
 凛華はただ声もなく、じっと自分の父親を見つめていた。

 ――ねえお父さん。どうしてそこにいるの? わたしはここだよ。
 お父さん、笑ってよ。凛華って、いつもみたいに、わたしの名前を、呼んで。


『おとうさん……』


 ねえ神様。
 神様がいるのなら、お父さんを、連れていかないで。
 何だってするから。
 勉強も頑張る。跳び箱だって頑張る。ずっと良い子にする。
 だから、だから……。


『凛華』
 かけつけた祖父の声にも、凛華は振り返らなかった。
 ただガラスの向こうで響く機械の音に耳を傾ける少女は、世界でたった一人になってしまったかのような顔をして、手足を投げ出して壁にもたれるようにしていた。
『凛華』
 力強くもう一度声をかけると、ぼんやりと凛華が顔を上げる。
『おじいちゃん……』
『凛華』
 しわしわの手が、感情を失った小さな顔を包み込んで、しっかりと目を合わせる。
『凛華、泣け』
 感情を出してしまわないと、心が壊れてしまう。だから泣けと、祖父は言った。
 けれど凛華はどうしてそんなことを言われるのか分からなかった。
 どうして泣くのだろう。
 泣けば、誰かが父親を助けてくれるというのか。
 この世界の果てまで聞こえるほど大きな声で泣きわめけば、誰かが助けてくれるのか。
『あのね、おじいちゃん』
『ん?』
『今日ね、お父さん、炊き込みご飯作ってくれるんだって』
『……り、』
『おじいちゃんが送ってくれたタケノコがすごく美味しそうだから、お父さん、わたしの好きな炊き込みご飯作ってくれるって。鶏肉とこんにゃくとゴボウと人参ときのこも入れるんだよ』
『……』
『だからね、今日、わたし給食たくさん食べないことにしたの。あんまりたくさん食べると、お父さんの炊き込みご飯たくさん食べられなくなるでしょう?』
『凛華』
 笑顔を浮かべずに、けれど楽しいことばかり淡々と口にする凛華が、痛々しかった。
 祖父は小さな孫を抱き寄せ、自分の肩にもたせかけた凛華の頭を、何度も撫でてやった。

 おはようと。
 いってきますと。

 いつも通りに言葉を交わした。


 明日も、今日と同じようにその言葉を交わすと思っていた。


『……それなのにね』
 祖父の肩越しに見える真っ白な壁をぼんやりと見つめて、凛華は言葉を続けた。
『お父さん、動かないの』
 母親を幼くして亡くした凛華のために、父親はたくさん愛情を注いでくれた。
 頭を撫でるのは、愛情の証の一つだった。凛華が一番好きだと日頃からよく口にする父親だったけれど、それと同じくらい何度も、頭を撫でてくれた。大きくて温かいその手が、凛華は大好きだった。
 仕事も料理も洗濯もできて、ただ少し裁縫は苦手で、もう今はさすがにあまりしなくなったけれど、幼い頃は凛華を抱き上げてくれた、手。
 それが今は、ぴくりとも動かない。
『お父さん、笑ってくれないの』
 父親は、笑うことを大事にする人だった。
 最愛の妻を亡くした時は一人で泣いていたけれど、凛華の前では決して泣かなかった。いつでも笑っていてくれた。
 あの笑顔で、ぎゅうっと抱きしめられて、ぐりぐりと頬を押しつけられて「大好きだぞ」と言ってもらえるのが、とても嬉しかった。起き抜けにそうされた時は「お父さんヒゲがちくちくするー!」と非難もしたけれど、本当は何度でもしてもらいたかった。

『……お父さんの炊き込みご飯、食べられないね』

 ぽつりと、凛華は表情を変えることなく、呟いた。


 無表情な医師が「今夜が峠でしょう」と祖父に告げた時も、凛華はその医者以上に無表情で座っていた。

 目の前が真っ暗になったようだった。
 真っ白い壁も、蛍光灯の光を映して模様を作るつるりとした床も、何もかもが黒く塗りつぶされたような気分になった。
 そんな広い暗闇の中に、ぽつんと立っている。
 出口も入り口も分からない、ただ暗いだけのぽっかりと開けた闇だった。

 母親がいなくなっていた凛華にとって父親という存在は何よりも大切なものだったのだ。
 一緒に笑ってくれて、守ってくれる存在。
 これからもずっと傍にいてくれるのが当たり前だと思っていた。
 ピッピッと断続的に音が鳴る。
『おじいちゃん……』
 祖父の服の裾を握りしめ、凛華は繰り返し祖父を呼び続けていた。
(誰か、お父さんを助けて……)
 その叫びがずっと胸の中で木霊している。
 機械音の間隔がだんだんと広くなっていく。医師や看護士たちの慌てる姿。それさえも凛華はぼんやりと焦点の合わない目で見つめていて。

 ピー、と長い音が響く。

 それは小さな少女に絶望という感情を与えた音。
 何よりも大切な父親の鼓動が確かに止まったと、告げる。

 父親が目を開くことは、なかった。






「……他に……」

 親戚は、と聞こうとしたセシアの目を見ることなく、凛華がふるふると首を振る。
 伏せがちの顔であったが、その表情をセシアは見て取ることができた。
 凛華は眉根を寄せ、今にも泣き出してしまいそうな苦しげな表情をして、それでも黙っていた。凛華のこのような表情を、セシアは知らなかった。テニグで暗闇の中、鎖に捕らわれていた彼女はあの時結局泣くことはなかった。
 いつでも気丈な彼女。
 けれど、本当は。
 きっと涙を我慢しているだけで。

「……お祖父ちゃんは、お父さんが死んだ次の年に亡くなったの。お祖父ちゃん、あんまり永く生きられないだろうって、お医者さんに言われてたんだって。親戚は……叔母さんとか叔父さんとか……いた、けど……」
 親戚とは思いたくなかった。あんな人達を。
 抵抗する気もない自分を、ただ憂さ晴らしの為だけに殴り続けた人たちを。
 そんなことを思うくらいなら死んだ方がましだとさえ思った。
「……わたし、家族がいないんだ。だから心配しないで」
 フェデリアが凛華に関する記憶を消してくれていることは凛華も覚えていたけれど、それを説明するのもややこしそうだったので、ただそう言って、笑った。
 泣きながら言ってもおかしくないようなことを、凛華は、笑って言うのだ。

 泣けない本当の理由は。
 誰も、許してくれなかったから。

 アルフィーユに来てから、嬉しくて涙を流したことはあった。
 アルシィが、凛華が死なせてしまったあの野うさぎの墓を作ってくれたと彼女に告げた時、凛華は泣きながら笑った。あれは喜んで流したものだった。
 けれど悲しくて流す涙は、誰もが凛華を強い子だと誉めることで許さなかった。


 無邪気で明るくて、少し抜けたところのある凛華。
 動物の前で光そのもののように笑う彼女は、強くはなかったのだ。
 本当は震えている小さな少女のまま。泣くことができないで、止まっている。



「リンカ……」
 笑ってそう言ったきりうつむいてしまった凛華に、セシアはそっと手を伸ばした。
 柔らかい黒髪に触れ、側頭部を優しく撫でる。まるで親が子供にするように。慈しむように。
 何も言わず、ただ何度も撫でる。
 彼女に何かをしてあげたかった。
 失われた時間を取り戻すことはできないけれど、こんな風にうつむいている彼女を見たくはなかった。
 どうか、どうか。
 もう一度笑うことができるように、と。

『我慢しなくてもいいんだ』
 そう、凛華の耳に聞こえた気がした。

『凛華、泣け』
 あの日祖父が言ってくれた。泣いてしまえと。我慢するなと。
 その言葉がどれだけ大切なことだったのか、父親が死んで長い時間が経ってから気付いた。何度も繰り返し泣いてしまえと言う祖父の前で、凛華は泣き疲れて眠るまで何時間でも泣いた。その間ずっと祖父は傍に居て、凛華の頭を撫でてくれていた。
 祖父が死んでからは、誰も言ってくれなかった言葉だった。
 誰一人として泣いて良いと言ってくれなかった。
 「偉いね」とか「頑張ってね」とかいった言葉ではなくて。
 凛華が、一番欲しかった言葉だ。
 祖父が死んでしまってから、本当はずっと、大声で泣き叫びたかった。身体中の水分が全部なくなってしまうまで、瞼がどれだけ腫れても、喉が嗄れても、祖父が許してくれたように思いきり泣いてしまいたかった。
 けれど甘えさせてくれる人は一人もおらず、ずっと我慢していた。
 自分は強い子でいなければいけないのだと、ずっと唇を噛みしめて、涙を流さなかった。

 もう誰も許してくれないのだと思っていた。
 それなのに、父親や祖父がしてくれたのと同じように、大きな手で優しく何度も髪を撫でてくれるセシアが。
 泣いて良いよ、と。
 そう言ってくれているような気がして。


 血のつながりのある親戚よりも、赤の他人のセシアの気持ちの方が何十倍も温かくて、優しくて。
 ぎりぎりのところで我慢していたものが、自然とあふれ出てきた。

 うつむいたままの凛華は薄い肩を細かく震わせて、じっとしていた。
 ぽたり、ぽたりと。
 頬を伝って雫を成した涙が、スカートにしみを作っていく。

 泣き声をあげずに静かに涙を流す凛華の髪を、セシアはずっと撫で続けた。

 今までずっと一人で耐えていたのだろうか。
 守ってくれる両親も、祖父も亡くして。親戚はいると言った彼女の表情からして、あまり良い親戚とは言えなかったらしい。それに、他人には見せないあの笑顔。笑顔を人に見せられなくなるくらいに傷ついた小さな女の子。
 初めて、責任としてではなくて守りたいと思った。
 国を守れとか、国民の支えになれとか、そういうのではなく、本心から助けたいと思った。この何よりも大切な存在を。
 笑って、欲しい。本当に見たいのは悲しんで泣く姿などではなくて、あの、誰をも惹きつけるような、綺麗な笑顔。


 ぽたぽたとスカートにしみを作っていく涙の筋に手を当てて、凛華が小さな声で言った。
「──い……」
「え?」
 髪を撫でていた手を止めたセシアが心配そうにのぞき込む。
 溢れ出る涙を止めようともしないで、頬に手をあてたまま凛華が口を開く。また、ぽたりとしみが一つ増えた。
「……いつも、わたしは一人にされるの……」
 ぽたり、ぽたり。
 まるで彼女の感情を表すかのように静かに涙が流れていく。これだけ涙を流していても、時折息を大きく吸い込むだけで、泣き声は決してあげなかった。
「お父さん……ずっと、一番大切だって……傍にいるって……言ってくれたのに……っ。お母さんの所に……行っちゃって……。『父さんの代わりに守ってやる』って……お祖父ちゃん……そう言ったのにっ!」

 みんなみんな。
 結局は、自分を一人にしていく。

「どうしてみんな……わたしを一人にするの……?」
 凛華の心からの叫びだった。
 悲しさに溢れたその声色がセシアの心に真っ直ぐに届く。

 抱きしめたい。
 泣きやんで欲しい。

「一人にしないで……」
 どうしてこんなことを口走ってしまったのか、凛華は分からなかった。
 父親が亡くなった時のことを鮮明に思い出したからだろうか。それとも傍に、セシアがいるからだろうか?
 優しい人。父親と同じように、穏やかにそっと笑ってくれる人。
 下げていた視線を、凛華は上へと上げた。
 セシアは不思議なところがある。自分の気持ちを偽ることなく伝えてしまえるような気がする。本当は我慢をし続けるつもりだった。他人と関わってまた傷つくくらいなら誰とも感情を共有しない。もういい。そう思っていた、のに。
「置いていか、ないで…………」
 何故だかセシアの傍だと、正直になってしまっていた。
 涙で言葉が詰まり、両手で顔を覆うようにして隠した。
 泣いているなんて。
 以前は、泣いているところを見られると叔父たちにもっとひどく蹴られた。だから本当は泣き顔なんて誰にも見られたくない。それでも止め処なく涙は流れていく。

 ずっと寂しかった。
 一人きりであることがどうしようもなく寂しくて、不安だった。

 何年も口にできなかった感情が、涙になって溢れていった。


「リンカ」

 震え続ける肩に手をおいてセシアが話しかける。
 凛華は止まらない涙を拭って、手を顔から離した。それから海よりも青い瞳を覗き込むようにセシアをじっと見る。どうしてこんなにも正直になってしまうのだろう。
 セシアの傍は、安心する。
 セシアはにこりと笑うと凛華の頬に手をかけた。涙で濡れた頬を手でそっと拭ってやる。
「置いていかない」
 言葉なんて確かなものにはなれないのだけれど、彼女が、泣きやんでくれたら。
「置いていったりしないよ」
 真っ直ぐに彼女を見つめる。
 偽りのない言葉。仕事上、交渉術として嘘をつくこともあったけれど、これは嘘ではない。本当の気持ちだ。
 彼女が泣いているのは嫌だと思った。
「だから……俺より先に死ぬのは駄目。俺も置いていかれるのって嫌いなんだ」

 誰だって、置いていかれたくない。

 最後は少しおどけたように口元に笑みを浮かべ、その言葉にきょとんとしている彼女の頬にもう一度手を滑らす。
 指に触れる新しい水の感触はなかった。

「涙、止まったね」

 少しの沈黙のあと、凛華は慌てたように自分の頬に手をあて、もう涙が流れていないことに気付く。
 感情にまかせた悲しい涙など久しぶりに流したから、止まらないと思っていた。
 けれどこうやって泣きやんでしまっている。
「ほんとだ」
 ぱちぱちと瞬きをした後、凛華はセシアを見上げて笑った。
 いつか見せた光のような笑顔。泣いたせいで瞼は少し腫れてしまっているし、頬には涙の跡がしっかりと残ってしまっている。けれど。上気した頬や、曇りのない漆黒の瞳はとても綺麗だった。間近でみた凛華の笑顔にセシアが一瞬驚いたように動きを止める。

 笑ってくれた。
 自分の、言葉で。


 彼女が愛しい。
 自分の立場柄、この気持ちを告げないでおこうとずっと思っていた。自分に関わるとろくな事がない。危険が及ぶことも明らかだ。
 だから黙っておこうと思っていた。
 それなのに──

 この気持ちは、止められなかった。


「はは、泣いちゃった」
 ごしごしと頬を擦って照れ隠しのように言う凛華。
 その彼女の頬にある自分の手を離すこともなく、セシアは少し視線を下げ、まっすぐに彼女を見つめた。
「セシア……?」
「リンカ」
 低い、声。
 凛華は自分が泣いていたのを一部始終見られていたのと、近くで囁かれる低い声が恥ずかしく、セシアの言葉に集中できないまま、なに、と返事をしていた。
「リンカ」

 彼女が、愛しい。

「リンカが、好きだ」

 本当は好きという言葉では片付けられないくらい愛しいのだけれど。
 それだけで凛華の動きを制するには充分だったらしい。ぴたりと凛華が頬をこすっていた手を止める。漆黒の瞳をいつもより大きく見開いて、セシアをじっと見つめた。
 相当驚いたらしい。
 しばらくしてから、凛華はぎこちなく首を傾げた。
「……え?」
 唇から漏れた疑問符つきの言葉にセシアが苦笑する。
 どこまでも抜けているのだ、凛華は。
 けれどこのままで終わらせるつもりなど全くない。伝わらないのなら伝わるまで何度も気持ちを言葉にするまでだ。
 凛華の頬にあてていた手を頭へと回し、力を込めて自分の方に引き寄せる。「わっ」という驚きの声と共に凛華はセシアの方に倒れ込んだ。抱き留めた彼女をぎゅっと抱きしめる。太陽の香りがした気がした。太陽に香りがあるかどうかは知らないけれど。
「ご、ごめんなさい!」
 彼女のせいではないのだが、それでも彼女は顔を赤くし、慌てて彼から離れようとする。けれどセシアは抱き込むことでそれを制止した。
「……好きだ」
 繰り返して言うと凛華がおずおずと顔を上げてセシアの顔を見る。
 首を傾げると、黒い髪が揺れた。
「……ほん……と……?」
 まだ動揺が見て取れるその漆黒の瞳。瞼にキスをして、セシアは笑った。

「ホントウ。王様、嘘吐カナイ」

 その言い方に、ぷっと凛華が吹き出した。
 安心する。
 低い声を聞いているよりも、こうしてそっと抱きしめられる方が安心する。テニグから帰った時も抱きしめられたが、その時はただ単に暗闇の恐怖から逃れることができたからだと思っていた。
 けれど今は。違う。セシアの傍にいるとほっとするのだ。
 セシアがいるから、こんなにも温かい気持ちになるのだ。

 目の前にある国王の正装の端をきゅっと掴み、凛華はセシアに向かってにこりと笑った。
「ありがとう、セシア」
 どうして彼はこんなにも嬉しい言葉ばかりくれるのだろう。
 温かい言葉と、優しい瞳。
 安心する。嬉しくなる。泣きたくなる、そんな幸せ。


 少しの間凛華を抱き締めた後で、いざセシアが彼女の気持ちを尋ねようとすると。
 呪いの如く、扉を叩く音が響いた。
「っ!」
 その音の発生元をセシアが鋭い視線で睨み付ける。
「わ、わわあっ!」
 凛華は彼の怒りにも気付かず、他人の存在を知らせるノックに、あたふたとセシアの腕の中から逃れた。
「誰だ?」
 ほぼ詰問するような声色でセシアが問いかける。こんなことなら政務室でなく自分の私室で彼女と話していれば良かった。公室なんかで話していたりするからこうして邪魔が入るのだ。
 少しして扉の向こうから、聞き覚えのあるのほほんとした声が聞こえてきた。
「ロイア・サルヴァノです。陛下、こちらにリンカさまが見えていらっしゃいませんか? ベルさんがお探しなのですが」
 「ベルが?」と首を傾げている横でセシアが小さく舌打ちした。
 国王の仕草とはおおよそ思えないその舌打ちには、隣にいる凛華や、まして扉の向こうのロイアは全く気付かなかった。
「あ、えっと……」
 どうしようかと悩んでいる彼女に「行っておいで」と促して、セシアは銀色の髪を気怠げに掻き上げた。
 凛華は嬉しそうに頷くとぱたぱたと広い部屋を駆け、扉に小走りに近付いていった。
「ま、またねっ!」
 扉を開ける前にそう言って凛華は笑った。
 頬をほんのりと赤くしたまま、少し照れくさそうに。


 笑顔を浮かべひらひらと手を振っていたセシアは、大きなため息をついた。
「……俺に何の恨みがあるんだ……」
 誰にでもなくそう呟いて、邪魔をした騎士の顔を頭に浮かべる。
 のほほんとした邪気のない笑顔。
 何だか無性に腹が立つ。
 もう一度軽く舌打ちするとセシアは机の上の仕事を片付けるべく立ち上がった。

 感情を隠すのが上手い国王に舌打ちをさせることができるのは、恐らくアルフィーユ中を探しても第二騎士隊所属、ロイア・サルヴァノくらいしかいないだろう。