壁という壁が白で埋め尽くされ、どこか重々しい空気を含んだ神殿。
 一般人はおおよそ神殿の奥まで入り込むことはできない。最も神官たちの警備が厳しいその部屋でかすかな笑い声が起こった。


「ナツミ、久しぶりね」
 部屋の主が手にしていた紅茶のカップをかちゃりと静かな音をたててソーサーに戻し、ふわりと笑った。
『そんなに経ってないわよ、あれから』
 それに対して答えられた声も笑いを含んでいる。
 どこかもやのかかったような、はっきりとしない声。
 軽口を叩くその声を聞いて、ふふ、と笑ってから、主は自分の紅茶のカップへ視線を向けて言った。
「紅茶でもどう?」
 実は紅茶をいれるのは得意なのだ。ほぼ挨拶となっているその言葉を、いつも通り聞いていた声は、しばらく間を開けてから口を開いた。
『……この格好で?』
 声の持ち主である真っ白い小鳥はからかうような声で笑う。
 鳥に、紅茶を飲めと言うのか。
 火傷ではすまない気がする。茹で鳥のできあがりだろうか。
 紅茶を勧めた本人はああ、と声を漏らし、それから肩を軽く竦めてみせた。
「ごめん忘れてたわ。今するから」
 何を、とは聞かなくても分かった。小鳥は慣れた風体で目を閉じ、口を噤む。


 主は額にかかるプラチナの髪を鬱陶しげに掻き上げてから、ふうと深呼吸した。そして両手を広げ、胸の前で丸いものでも持つかのように形をつくる。
 彼女が唇を動かし、何事か呟くとしんとした神殿の一室で風がおこった。ゆるゆると空気を動かすその風が彼女の手に向かって集まり、辻風のようなものを造り上げていく。作った空間の中心に豆粒大の光が現れ、それはだんだんと膨らんでいった。拳骨大にまで膨らんでいったその光はその周りに風をまとい、ひゅ、と音を立てる。
 彼女はその光の塊を白い鳥に向け、そのまま小さな身体にぶつけるように光を押しやった。
 風をまとったその光は小鳥を包み込み、淡く空気にとけ込んでいく。



「――ああ。何回やっても疲れるわね……」
 少し乱れた髪を再び掻き上げて整える。集中し続けたせいか額には汗がうっすらとうかんでいた。
 ソファに沈み込んだその様子を見ていた者が声を上げる。
「何回やられたってこっちも心臓に悪いわ」
 先ほどまでのもやのかかったような声はどこにもない。
 凛とした真っ直ぐな声。直接耳に届くその声を聞き、目を閉じていた主は微笑んだ。
「久しぶりー。ナ、ツ、ミ」
 目を閉じたままひらひらと手を振る。
 ふざけたような態度を取りながらも髪を一つにまとめた彼女は、どこか静かな威圧感があった。彼女ならではのそれはいつだって変わらない。
 ナツミと呼びかけられた、先ほどまで小鳥だったものは、目を細めて彼女を見やった。
 不機嫌なわけではない。むしろどこか面白がっているような雰囲気だ。
「中身は変わっていないわよ、フェデリア」
 フェデリア──神殿の巫女の名前である。
 本来ならば呼び捨てにすることなど叶わない筈のその名前をこともなげに口にしたナツミは久しぶりに手にした「体」に慣れないのかうーんと伸びをした。
「変わったら怖いって」
「確かに」
 静かな神殿の中、ここだけはまるで別空間のように親しげな笑い声が上がった。


「フェデリアのいれる紅茶って美味しいよね」
「そう? ありがとう。このいれ方五十年以上変わってないけど」
 フェデリアが懐かしむように小さく笑って、それからナツミを見た。
 王家の花嫁修業はとても辛かったけれど全て覚えている。紅茶の入れ方も礼儀作法もダンスも全て教え込まれた。あの頃はまだ、全てが幸せだと思う時間を過ごしていた。

 時間は取り戻せない。娘はとうの昔に死んでしまっていたし、孫だって現在の国王を産んですぐに死んでしまった。もうあの頃のものは何も残っていないのだ。
 自分だけがあの頃と同じ時間のままで生きてきている。
 何だか滑稽だった。
 辛いのは置いていく方なのか置いていかれる方なのか。


 感傷に浸っている場合ではないとゆるく頭を振り、フェデリアは沈黙を誤魔化すように言葉を紡いだ。
「それにしても似てるわよね……」
 ナツミを正面から見つめながらそう言う。
 彼女は、自嘲するかのようにくすりと笑った。
「あの子は多分覚えてないわ」

 それを願うのは、きっと傲慢だから。

「……『ティオン』」
「何よ」
 少しむくれたような声で彼女が返事をすると、フェデリアはにこりと笑顔を浮かべた。
 忘れてなどいない。その証拠にその名前は。
「覚えてるじゃない。だってほら、その名前、あなたが……」
「はいはい。それ以上言わないで。……ちゃんと、分かってるから……」
 むっとした表情を消し、ナツミはどこかしんみりと呟いた。

 忘れないで欲しいと思うのは置いていった者の傲慢。
 置いていかれた者には一体何が残るというのだろう。


「で?」
 スッと笑いを収めてフェデリアが真剣みを帯びた声を出した。
 ナツミが紅茶を飲んでから彼女を真っ直ぐ見据える。こちらももうくだけた感じをまとってはいなかった。

「……マチェスは、止められなかったの?」
「ええ」
 簡素なナツミの答え。
 短すぎるその答えは、どんな長い答えよりも事実を分かりやすく表していた。
 言葉を飾ったところで事実は変わらない。変わって欲しくともそんなことは起こり得ない。実際にマチェスはアルフィーユとの国交を絶ってしまった。このことはどちらの国にとっても史上で重要なこととなるだろう。
 止めることができなかった。悲惨な出来事を。
「このままいくと……」
 憂いの表情で目を伏せ、フェデリアはため息を漏らす。
 何が神殿の巫女だ。命を司る者と言われながら、戦争は着実に始まりつつある。血を流さないために存在していた筈の自分。それなのに、このまま何もできずにまた多くの血が流れてしまうのだろうか。
「マチェス王家は……ひた隠しにしてる、あのことを」
 また一口紅茶を口に含んでナツミは言った。
 隠された事実は、目をそらしてしまいたくなるほど深刻だった。多分マチェスを責めることなどできない。きっと自分がマチェスの王族なら同じようにアルフィーユとの国交を絶っただろう。
「……ナツミくらいしか知らないんだもの。わたしも初めて聞いたから、他のどの王家にも情報は流れていないわ」
「もし……表沙汰になったら、神殿はどうするの?」
 隠された事実が表に出るようなことがあればアルフィーユは、ジェナムスティは──そして当の国であるマチェスはどうするのだろう。
 おそらくこのことは戦争に大きく関わってくる。
「難しいわね」
 伏せていた目を開き、フェデリアは隠すことなく答えを述べる。
 一存で決められないのだこういう国にかかわることは。
「巫女は、命を司る存在だから……いくら大切な人を護るためでも、その力を攻撃として使っちゃいけない」
 そして何度も歯がゆい想いをした。巫女さえその力でもってあの二つの国を抑え込めば戦争は終わる。けれど、それはできない。
「知ってる。だから、わたしはあなたのお願いを受けたの」
「そうだったわね」
 今度は嬉しそうに笑って、フェデリアは温かい紅茶を二つのカップに再び注いだ。ありがとうと礼を言ってからナツミが口にカップを運ぶ。

 人の命が何なのかを本当の意味で知っている彼女がいれる紅茶は、優しい味がした。

「ナツミは?」
「なに?」
「……マチェスの本当のこと、あの子に話さないの?」
「私情を持ち込むな、じゃなかったっけ?」
 長い髪を揺らしてナツミが笑う。フェデリアを嘲る笑いではなく、どこか愁いを含んだ寂しそうな笑顔だった。
 親友のその表情を見てフェデリアはまた歯がゆい想いをした。彼女の大切な存在はすぐ傍にいるのに。巫女が渡した契約のせいで彼女はその存在に真実を告げることができない。
 親友を縛り付けているのはこの自分だ。
「それはそうだけどあの子には……知る権利があるんじゃないの?」
「知る権利は誰にだってある。でも、教えるわけにはいかない……。今はまだ、話す時期じゃないから。それに……あの子に『どうしてそんな事知ってるの?』って言われたら……」
 ナツミが目を閉じる。
 電光石火で、くるくるとよく表情を変えて本当の笑顔でよく笑いかけてくれる、何よりも大切な存在。
 出来ることなら本当のことを告げていつまでもいつまでも一緒にいたかった。

 ――ティオン、傍に居て欲しいな。

 ――ありがとう! 大好き!!

「……答えられるわけないじゃない……」
 何よりも辛いことは。
 自分のせいで、大切な人が辛い想いをすること。
「そうね」
「それとも言ってみる? わたしはあなたの――」
 フェデリアが手を伸ばしてナツミの口を押さえた。泣きそうな目で、首を振る。
 それ以上彼女が彼女自身を傷つけることはない。
 ただでさえ戦争が始まりつつあるということで、彼女との契約は止められないのだ。それならばせめてこれ以上傷つくことがないように。
「ごめんなさい」
 色んな気持ちを込めて、謝った。
「……わたしも言い方が悪かったわ、ごめんなさい、フェデリア」
「そう、……そうね……。言ってもあの子は……」
「信じないでしょうね」
 冷え始めた紅茶を急いで二人して飲んだ。温かかった頃の優しい味は、今は何とも言えないからみつくような味に変わっていて美味しいとは言い難かった。
 それがまるで今の状態を表しているようで。
 ナツミはカップで隠した口元をきゅっと引き締めた。



「ナツミ、どうするの?」

 紅茶のカップなどを片付け終えてからフェデリアがソファに沈み込んでいるナツミに声をかける。
 彼女の言葉通り、フェデリアの使った力の影響はかなりのものなのだろう。顔色はそう良いとは言えなかった。
 ナツミはうん、と伸びをしてからどうしようかと首を傾げる。
「さあ……このまま戻るわけにはいかないでしょ?」
 そう言って笑い、自分の体を指した。
 どこにでもいるような何の変哲もない白い小鳥ではなく、どこからどう見てもただの女性だ。「ただの」とは言えないかもしれないが。
「戻ったら最初の一言はまず『誰?』でしょうねぇ」
 どこかのほほんというナツミに、フェデリアも笑った。
 彼女は、彼女の大切な存在とやはりよく似ている。
 本当は今すぐに泣き出したいくらいに辛いことの筈なのに彼女は笑う。それはあの少女も同じで。「やっぱりあなたたち、似てるわ」とぽつりとフェデリアは呟いた。
「ここにいる?」
「神殿に?」
「ええ。……神官たちは、ここだけには勝手に入ってこないわ。と、言うよりわたしが言えば、ナツミの部屋くらいいくらでも手配できるし」
 両手の手のひらを軽く上にあげて、フェデリアが肩を竦めた。
 神殿だけでなくとも、どこの国でも大抵の場所なら巫女の名前を出せば手配できるのだ。王城となると話は別だが。
 普段は「巫女だから」という理由で何かをしてもらうのは気が引けた。
 命を司ると銘打たれながら、実際の所はそんな大層な力は自分にはない。そうやって尊敬される度に哀しくなった。ただ今は違う。自分が巫女であることで親友を助けられるなら、巫女であることの負荷にも耐えられる気がした。
「ああ、でも風の通る場所じゃないと今は暑いわね……」
 ふと気付いたようにフェデリアが呟く。
 フェデリアは神殿の巫女だ。
 巫女は女神との契約に基づいて、力が尽きるまでは別の理由で死ぬことはないし老いることもなければ病にかかることもない。そして、人界の寒暖やあらゆる災害から女神によって守られている。だから、暑いとは感じない。自分以外の人は暑さを感じる事に気付いてフェデリアが言ったのだが、ナツミは少しだけ寂しそうに首を振った。
「この体が、寒暖を感じたら……もっと嬉しいんだろうけどね……」
「そう言えばそう、ね。ごめんなさいナツミ。わたしにもっと力があれば……」
 いくら命を司る巫女でも出来ることと出来ないことがある。
 ナツミを小鳥の姿にしてあげることはできても、完全な人間にしてあげることはできない。
「ダメよ。もしそんなことしたら怒るからね?」
 ナツミが少しおどけて言った。
 もし無理な力を使えば巫女は消える。
 そうなればもう止められない。このアルフィーユとジェナムスティとの戦争も。もし無理な力を使えばマチェスも止められたけれど。その代わりに、世界が変わってしまう。
 巫女として、一人の人間として。それはしてはならないことだった。
「……分かりました、ナツミ。そんなことしないわ」
「ほら、フェデリアは笑ってる方がいいわよ。……あなたも『彼』に似てるわ」
 くすくすとナツミは笑った。
 どうせ見ているなら寂しそうな顔よりも笑顔の方が良いに決まっている。
「男に似てるって言われてもねぇ……」
 フェデリアは笑いながらも、眉をひそめた。
「悪い意味じゃないわよ? だってあの人、ムキムキの男の人じゃないじゃない。あの子に振り回されてる可愛い人よ」
「……ふふっ」
 フェデリアがお腹に手をあてて笑った。
 あの人とは、アルフィーユの現国王のことだ。一国の王もナツミにかかれば面白く形容されるものである。


 早速手配させた部屋へとナツミを案内していたフェデリアは、彼女からかけられる声に振り返った。
「ねぇフェデリア。聞きたかったんだけど……」
「なに?」
「……花祭りの夜に『あれ』をやらかしたのって、あなたでしょ」
 詰問するようではなく、軽く笑いながら聞いたナツミに、フェデリアがにこっと笑った。
 そして悪びれた様子もなく答える。
「正解。ほら、巫女だって……花祭りくらい遊んでもいいじゃない?」
「遊んでたの?」
 今度はナツミが笑う。
 別に怒っているわけではないけれど。
 巫女様が遊んでいていいのだろうか。
「『あれ』だけよ。それに、あの子は……光で見えなかったでしょ?」
「半分くらい見えてたって。……全部見えても、ただの幻だと思うでしょうけど」
「……会いたい? その姿で」
 くくっていたプラチナ色の髪を降ろして、軽く頭を振りながらフェデリアが問うた。
 けれどそれに答えたのは全く迷いのないナツミの一言。

「会うのは一度だけ」

 肩にかかっていた長い髪を後ろに流して、ナツミは凛とした瞳をかげらせることなく口元に笑みを浮かべた。
 一度目を伏せて、フェデリアが頷く。
「巻き込んでごめんなさい、ナツミ」
「何言ってんの。自分から巻き込まれただけよ」
 そうだ。確かに自分はあの時、自ら巻き込まれた。契約だと言われた時も素直に同意した。

 たった一つ。大切な存在の傍にいられるという条件のために。

「それに、もうわたしは充分あの子と会ってるわ」
「……『ティオン』で?」
「そう」
 柔らかく笑って、ナツミは開けられた扉の奥へと進んだ。
 さすが神殿というべきか、その部屋もやはり上から下まで白で統一された清潔な部屋だ。
 恭しく頭を下げる神官を下がらせたフェデリアはぱたんと扉を閉じた。
「この部屋なら大丈夫。他に足りないものがあったら遠慮なく言って」
「ありがと。充分過ぎるくらいよ? 何だかあの子がここに来た時の気分、分かるわ」
 くすくすと楽しそうな笑い声を漏らしていたナツミは、それから肩越しに振り返って巫女を見た。
「フェデリア」
「なに?」
「……お出かけしない?」
 神殿の巫女を外へ誘うなど、とんでもないことである。
 けれどナツミのその誘いに巫女様は嬉しそうな笑顔で、答えた。
「勿論お供するわよ、喜んで」
 「預言された少女」やこのナツミは、やはり不思議だ。身分とかそういったものをまるっきり無視して対等に付き合ってくれる。それだからこそ嬉しいのだ。

 足音を忍んで自分専用の部屋の前まできたフェデリアは、唇に人差し指をあててからまた目を閉じ、光を発生させた。
「見てるだけは楽だわね」
 先ほどはやられる側だったナツミはそう冗談を口にし、それに応じて笑ったフェデリアと共に歩き始めた。
 ひそかやな神殿の最奥、巫女のいる部屋。
 静かになったその部屋には彼女そっくりの別物が安らかな寝息を立てて寝台に沈み込んでいた。
「便利ねえ……」
 半分感心し、半分呆れたようにナツミが呟く。
 本物の動く巫女様はとびきりの笑顔を彼女に向けて笑った。
「息抜きは必要なのよ?」
「――いま、分かった」
「何が?」
「……アルフィーユ国王って、やっぱり貴女の子孫だわ」
「そうみたいね」
 二人の仲の良い茶飲み友達は、面白そうにくすくすと笑い合いながら神殿の廊下を音もなく進んで行った。確かにフェデリアの力というのは結構便利である。
 フェデリアの計らいで神殿を出るまでは人に見えないようにしていた二人に、神殿の神官たちが気付く事はなかった。おそらく巫女に干渉しない彼女たちは、フェデリアが戻ってくるまで気付きもしないだろう。


 アルフィーユの現国王と言い、その義妹である第一王女と言い、更には元王妃の現巫女様に及ぶまで。
 アルフィーユの王家にはどうやらお忍び好きの血が色濃く流れているようである。

 彼女たちは影の者。
 女神に託されたこの世界を破滅させないために、寂しさを押し隠して、笑う。