比較的華やかだと言われるアルフィーユ城内にある、何とも殺風景な騎士たちの稽古場。
戦時に備えるため、勤務時間外にもかかわらず自己鍛錬に励む騎士は多い。
「ローシオルっ」
稽古場にひょこんと顔を覗かせた漆黒の瞳を持つ少女に、いつもは厳しい面持ちの騎士隊長はふっと相好を崩した。
「リンカ」
ロシオルは持っていた剣を降ろし、軽く手をあげる。凛華はこの仕草が、話しかけても大丈夫だというサインということを知っていたので、嬉しそうに笑ってから稽古場に足を踏み入れた。
むせかえるとまでは言わないまでも、この稽古場は少々他の場所より温度が高い。
その場で、凛華の格好はかなり暑いのだろう。膝丈のズボンにゆったりとした上着を着ていた凛華は、ロシオルの元まで歩くと、ぱたぱたと胸元を掴んで服の中に風を誘った。
「あっつーい……」
不快そうに眉をひそめる。
彼女の着ている服は、過ぎ始めた夏に着るには生地の分厚いもので、半袖ではなく長袖だ。暑いのも当然である。
そしてこの言い様からすると彼女は進んでそれを着たのではないようだ。
「……ベルだな?」
一発で理由を言い当てたロシオルに、凛華は鋭いねと苦笑した。
そうなのだ。
こんな暑苦しい服を着せたのはあの侍女だった。
風通しの良い塔の最上階では丁度いいかもしれない。だがただ単に涼しいからという理由で着せられたのではなく、ベルには他にも事情があった。
テニグに連れ去られたことのショックによる精神不安定ももうすっかり元に戻り、体調もほぼ通常と変わりなくなったけれど、ベルは心配なのだ。
風邪をひいたりしないように。また体調を崩したりしないように。
凛華の反対を押し切って彼女に温かい格好をさせた。
「もう大丈夫だって……。こんな分厚いの着てたら余計に気分悪くなるって言ったのにね」
唇をとがらせて凛華は文句を言ったが、本気ではない。ベルの厚意からきたものだと分かっているのだ。
「仕方ないさ。ベルは心配性なんだ」
くるくると表情を変える凛華を見つめて、ロシオルが笑った。自分の方こそ心配性であるのに、そのことは棚上げだ。
稽古場にいた他の騎士たちが驚いて目を見開く。
厳格な騎士隊長がこんな風に笑うのを見たことがなかった。それから、自分たちが隊長をまじまじと見ていた事に気付き、慌てて目線を逸らした。だがしかし当の本人であるロシオルは全く気付いた素振りはない。と言うよりは気付いていても気付かない振りをしているだけなのだが。
こんな世間話をしにきたのではないということを思い出し、凛華は笑顔を浮かべて師匠に提案した。
「あ、そうだ。あのね、ロシオル、剣の稽古つけて欲しいんだけ――」
「リンカ」
頼みごとを口にしようとする凛華の次の言葉をロシオルは遮った。
「まだあれから三日しか経ってない」
そう答えられた凛華はバレたかという表情を浮かべ、そっと目を逸らす。
この師匠は一筋縄ではいかない。凛華の絶対安静期間終了日は明日だという事をしっかり覚えているのだ。
不満げな顔をしている凛華にロシオルは有無を言わさぬ物言いで言った。
「部屋に戻ってろ」
この間まで半病人のような生活をさせられていた凛華。そんな彼女に剣の稽古など、とんでもない。
「やだ」
だが凛華はその言葉がくるのをあらかじめ知っていたかのように即座に答える。
師匠の頑固さは承知済みだ。
ここでひいては女がすたる、と脈絡のないことを考え、凛華は唇を結んだ。
「戻れ」
「戻らない」
ぷいっと子供らしく顔を背けるが、意見を変えるつもりはない。
「戻りなさい」
「いやだ」
「もーどーれー」
だんだんと、いつもは冷静沈着なロシオルも、らしくもなくむきになってくる。
凛華には何か力でもあるのだろうか。どうしても彼女の前ではらしくもない行動をとってしまう。
「いーやー」
「戻って下さーい」
「いやでーす」
実に子供染みた押し問答。
今や稽古場の騎士たちは鍛錬の手を止め、それぞれ信じられないという視線を彼ら二人に向けていた。
どうしよう。その辺りの宝石より貴重かもしれない。
あのロシオルが、むきになっている。
これに負けたのは若き騎士隊長の方だった。
「……リンカ、頼むから戻ってくれないか。お前に怪我なんかさせたら俺がベルに怒られる」
威厳ある騎士隊長にしては情けない顔をしてロシオルが言った。
本当に困るのだ。彼女に傷でもつけようものなら、妹に怒られるどころかもしかしたら殺されてしまうかもしれない。
ベルのことを持ち出され、凛華が少し怯む。
それでもじっと上目遣いでロシオルの赤銅色の瞳を見上げて口を開いた。これでだめなら諦めよう。
「……本当に、だめ?」
本人は至って無意識なのだが、首をこくりと傾げ、少しだけ潤んだその目で見つめられるとたまったものではない。殺人的なその表情に本気で騎士隊長は参った。
彼女には、勝てない。
ひっそりとため息をつく。
残念ながら最強騎士であるロシオル・カナルツは、この国の王であるセシア・レリアス・アルフィーユほど、凛華のこの表情に強くはなかった。
これはもう諦めてしまうしかない。せめて彼女に怪我だけはさせないようにしなくては。
「一時間……だけだぞ」
ため息混じりに言うと凛華がぱあっと笑顔になった。
その笑顔にまたどきりとする。
「やった! ありがとうロシオル!」
その笑顔に稽古場にいた騎士たちは見惚れ、当の騎士隊長はがっくりと肩を落とした。
アルフィーユでも最強の騎士だと言われる彼は妹には勝てない。それなのに、更にもう一人勝てそうにない相手が出来てしまったようだ。肉親ではない分、更に厄介である。
目の前でにこにこと笑う少女の耳には届かないように再び小さくため息をつくロシオルであった。
約束通り一時間だけの稽古が終わった。
ふぅっと息をついて、まだ荒い息を何とか抑えようとしている凛華の前では、ロシオルが涼しい顔をして立っていた。勿論彼は汗一つ流していない。普通一時間も体を動かし続ければ汗くらい流れそうなものなのに、彼は至って普通だ。それだけ凛華の方が無駄な動きをしているということなのだろう。
「ありがとう、ございました」
「ああ。ちゃんと部屋に戻っておとなしくしてろよ」
師匠の言葉に素直に頷くと、凛華は顔を上げた。
「明日になったらもう自由に外に出てもいいから! そしたらまた、稽古つけてね?」
にこりと笑うと、凛華は稽古場を出ていった。
これ以上ここにいては他の騎士たちの迷惑にもなってしまう。約束はきちんと守るのが当たり前だと思っている凛華は、素直に一時間の稽古に満足した。
ロシオルは、その笑顔を眩しそうに見つめるだけだった。
今度こそはおとなしく部屋に戻り、教科書を開いたりティオンと話したりして凛華はしばらく過ごした。
だが、数学が一段落つく頃にはすっかりやる気がなくなってくる。
「うー……。だるーい」
手を組んで、伸びをする。
やる気を持続させない凛華にティオンが笑った。
『リンカ、気晴らしにお話でもしてあげようか?』
「ティオン……。わたしを子供扱いしてるでしょう」
『あれー? この間子供でいいもんって言ってたの誰だっけー?』
ティオンがどこかからかうように言う。凛華は自分がそう言った事を思い出して黙った後、ふれくされるように口を開いた。
「そんなのもう時効だよ」
凛華の中の時効はやけに早いようである。
ティオンは今度は声を立てずに笑うと、部屋の窓枠に足をかけた。
「え、ティオンどこか行くの?」
凛華がぱっと顔をあげてティオンを見た。
白い小鳥は器用に──と言っても鳥類には当たり前なのだが──首だけを後に向けると、ぴっと小さく鳴いた。
『ちょっと、ね』
言葉を濁して告げ、凛華が声を出す前にティオンはその真っ白い翼を広げて窓枠から足を離した。
青い空に白い鳥が浮かび、やがて見えなくなっていく。
「いってらっしゃい」
遅すぎたかなとは思ったが凛華は空に向かってそう声をかける。
話し相手がいなくなってしまった。どうしようか。
しばらくの間、空を見上げていた凛華は、ふうと息をつくと殊勝にももう一度教科書に目を落とし、転がっていたシャープペンシルを持ち上げた。
白い翼を休め、音を立てずに降り立つ。
降り立った先のふわふわした布はとても心地よかった。
『話って何?』
凛とした声が響く。
澄み渡るそれは、声帯から発せられるものではなく直接頭の中に響くような、それでいてどこかもやのかかったような声だった。
「声」が話しかけた人物は、香りの良い紅茶の入ったカップを静かに置いて白銀の髪を揺らした。
「久しぶり、ティオン」
鈴を転がしたような声に、ティオンと呼びかけられた小鳥は不機嫌そうにふいっとそっぽを向いた。
『からかってるのか、本気なのか……どっち?』
少しばかり凄みを帯びた声が響いた。
その矛先の人物は肩にかかっていた艶のある髪を手で後に流す。それからやんわりと微笑んだ。
「ちょっとからかっただけよ。すねないでちょうだい、──ナツミ」
形の良い唇に人差し指をあててにっこりと笑う。いたずらっぽいその笑顔に、白い小鳥は変わらないわねと小さく笑った。その「声」に先ほどまではいたずらっぽく笑っていた人物は、自嘲的な笑みをその端整な顔に浮かべた。
「変わるわけないじゃない」
どれだけ願っても、手に入れられない──普通の人間なら当たり前の、変化。
『そう。……で、話って?』
気まずい雰囲気をあっさりと壊して本題に戻そうとする「声」に、相変わらず、と柔らかな微笑みを浮かべると、紅茶のカップを手にして一口嚥下した。
「ナツミ……どう、する気?」
何をとは言わずにそう尋ねる。
小鳥は少しのあいだ全く動かず、それから真っ直ぐに白銀の髪の人物を見た。
何も映していないような漆黒の瞳が何を考えているのか悟らせない。
『それを訊くの? ……私情は持ち込んじゃいけないって最初に聞いたけど?』
どこか揶揄するような声色。そう答えられるのを分かっていたかのようにくすくすと笑い声があがった。
「嫌なら変える事も出来るんだけど……ね」
またしても「何をどうする」という具体的な事を言わずにそう意志を告げる。
第三者が聞いていたとすれば、その内容を理解するのは難しいだろう。もっとも、それを危惧してこのような曖昧模糊とした話し方をしているわけではない。この部屋は完全に周りから切り離されているので、いくら中で声を上げようと外には聞こえないのだ。
『そんなことしたら、自分がどうなるか知ってるくせに』
むっとしたその「声」は表面だけのもの。
その奥底にあるのは相手に対する心配だけだった。
「そうね、多分『消え』ちゃうかしらね。……きっともっと酷いことになるわ。アルフィーユも、ジェナムスティも。ティーレもマチェスもトーランドも、エルカナツ、ルティレシア、フローラも。勿論カシュガルもね。それだけじゃない。それ以外の国もとんでもないことになる。……わたし自身が必要なわけではないけれど。こういう存在は、なくてはならないから」
国名を並べ立てていく。
凛華ならまず首を傾げて分からないという顔をするであろうが、小鳥は不思議そうな顔をするでもなく全てそれを理解した。
『だったら変える必要はないでしょ。私情を持ち込んじゃいけないことは……分かってるから』
「それで……ナツミだけが全てを負うつもり?」
繰り返すことはできない一時の幸せを。
そしてそれが終わった時の永遠の哀しみを。
『……全てが収まるならそうするつもり。勿論協力してくれんでしょう?』
ふざけるように最後の部分を言うと、かすかな笑い声が部屋に響いた。
これで良い。悲観的になるくらいなら笑い飛ばしてしまった方がいいのだ。笑い事ではないことは、お互い知っている。
「そりゃあ勿論。大切な友人のお願いですから? ……それに、わたしにも責任があることだし」
『最善の策よ。いくらわたしが責められても、あの子が泣くことになっても。こうすることしかできないんだもの』
「……涙を見せられても平気?」
もう一口紅茶を口に運んでから、彼女は白銀の髪を揺らした。
大切な者の涙ほど、心に痛いものはない。
その声にもやはり心配そうな気持ちが含まれている。ただ、それを露わにしようとはしない。
白い小鳥はしばしの沈黙の後、真っ直ぐに目の前の人物を見た。
『たとえどれだけ泣かれても、どれだけ恨まれても……、わたしは、あの子の幸せだけを望むわ。あの子が幸せであることだけが、わたしの願いだもの。……平気なんかじゃ、ないけど』
平気などではない。
大切な者の涙を平気で見過ごせるほど強くはない。
けれど。幸せであって欲しいのだ。
『……それにね、多分あの子は、そんなに弱くないと思う。泣くのも、恨むのも、一時のことだわ。だって、毎日笑ってくれるもの……。だからあの子はきっと大丈夫。幸せになってくれるわ』
「声」が本当に嬉しそうに響いた。
何か懐かしいことでも思い浮かべるかのように柔らかく言う。
「それは分かるわよ。わたしだって……そんな気持ちを持っていたから」
『あら、過去形?』
小さな笑い声と共に聞こえてきた「声」に、小鳥の前の人物はふふっと笑った。
「間違えたわね。勿論現在形よ。……じゃなきゃ、こんな面倒なことさっさと放り出すか誰かに押しつけるかして、とんずらしてるもの」
およそ顔に似合わない言葉を使った彼女は、ちらりと小鳥にいたずらっぽい顔を見せて。
『……とんずらって』
小鳥は呆れたような色を瞳に浮かべて。
そして二人して、幼い子供のように笑い声をあげた。
「やっぱりあなた、似てるわ」
そう言って彼女は髪を結い上げ、首筋に風を通してからカップに残っていた紅茶を全て飲み干した。少し冷めてしまった紅茶は、良い香りと共に喉を通っていった。
『誰に、とは今更訊かないけど。でも……知ってた?』
入ってきた時と同じように窓枠に止まり、振り向いて漏れた小鳥の言葉に部屋の主は首を傾げた。
「何を……?」
『あなたこそ、その優しい性格。血は……変えられないわね』
彼の傍で、あの子は笑っていた。
嬉しそうに、楽しそうに。
この優しい人に似て、彼もまた優しい部分がある。
「それ、誉め言葉として受け取っておくわ」
『……誉め言葉、よ』
軽く笑ってからティオンは白い翼をのばした。青い空に飛び立つ為に。
ぱさぱさという羽音が耳に届かなくなり、質の良いソファに身を沈めて前髪を掻き上げた後で、部屋の主は呟いた。
「それでも……ナツミも。全ての人に……幸せになって欲しいと願うのは、傲慢なのかしら……」
綺麗事なのかもしれない。
人の傲慢なのかもしれない。
それでも全ての人が幸せであれば良いと願う。光をなくしてさまよう人も、悲しみを押し隠して笑う人も。
呟きは他人の耳に入ることなく、澄んだ空気に溶け込んでいった。