アルフィーユ王城で最も多くの人が集合することのできる大広間。
 このあまりにもだだっ広い部屋に、今日は一段と多くの人間が集まっていた。その場にいるほとんどが顔に笑みを浮かべ、酒の入ったグラスをかかげて談笑している。彼らは久しぶりに公の場に出てきた一人の少女のために集まったのだ。
 表向きは凛華は体調を崩していたということになっているのだが、彼女がジェナムスティに連れ去られたことは知られている。
 だからこそ今日は常よりも大勢の人が集まり、最奥にいる黒髪の少女の帰還を祝っていた。

 大広間の最奥にはこの国の重要人物が集まっている。
 その中には、広間の人々の注目の的となっている凛華もいた。彼女はやはりどこか惹かれるようなところでもあるのだろう。傍にいたベルがグラスを渡した時に見せた彼女のはにかんだ笑顔は大広間の多くの人の目に留まった。


 一方、長い黒髪をひとつにまとめていた凛華は早くも後悔し始めていた。
 何だか、ものすごく視線を感じるような気がする。
 傍にベルがいてくれるだけましだったが、それでも居心地は悪かった。彼女と目が合い、助けを求めるような視線を送る。
「お飲み物をお持ちしましょうか?」
 だが凛華の視線の意味を少し間違えたのか、ベルはそう答えた。
 今はコミュニケーションを取ることができるような道具を持っていないのだ。唇を動かして伝えることも出来るのだが、お互いにそれは苦労する。
 いっそ視線のことは諦めてしまうことにして、小さくため息をついた。

 早速飲む物を取りに行ったベルに感謝して何気なく大広間の中央の方へ視線をやる。
 人の塊の向こう、広間に見合った大きな扉に見知った顔を見つけた。
 アイルとロザリーだった。

 少し様子がおかしい。
 いつも元気そうにしていたロザリーは彼女らしくもなく夫に支えられるようにしていた。
 アルコールの入っていない飲み物を取って戻ってきたベルに疑問の視線を投げかけると、聡明な侍女は凛華が何について疑問に思ったのか察したが、彼女に飲み物を渡してやんわりと言った。
「多分……ご本人が教えて下さいますわ」
 要領を得ない答えに首を傾げたものの、凛華はそれ以上問いつめようとはしなかった。教えてくれるというのなら、ここで無理に聞き出すべきではない。

 おぼつかない足取りでロザリーが大広間の奥の方まで歩いてくる。
 立っているのも辛そうな彼女は、それでも凛華を見て笑った。
「お久しぶりね、リンカちゃん」
 力なくひらひらと手を振る彼女にアイルが椅子を勧める。彼女は素直にそれに従った。
 挨拶代わりに凛華がぺこりと頭を下げる。
 笑っていた彼女は、そのまま表情を変えずに尋ねた。
「リンカちゃん、話したいことがあるんだけど……後で時間もらえるかな?」
 何の話か予想もつかなかったがとりあえず頷いておく。何だろうと心の中で呟いた。
 これほど体調が悪そうなのだからゆっくり休養を取っておけばいいのに、とこっそり思った。


 こくこくとベルが持ってきてくれた飲み物を飲む。
 アルコールが入ってなかったおかげでその飲み物は飲みやすかった。
 グラスに唇をつけたまま、周りをぼんやりと眺める。
 セシアが視界の端に映ったがこんな時でも彼は仕事をしているのか、彼の表情は国王らしく、アイルと話をしていた。
 何だか不思議だと凛華は思った。


 あの時。
 気付いて、と心から願った時。現れてくれたのは国王陛下。
 単に助けてもらえたから嬉しかったのかもしれない。だがそうではないかもしれないのだ。

 彼といると安心する。

 理由をはっきり言えと言われたら困るのだが、何となく彼の体温は優しい。他人が傍にいると眠れなかった凛華は、自分が彼の腕の中にいたにもかかわらず寝入ってしまったことにひどく驚いていた。
 けれど、彼をそういう対象にしてはいけない。彼はこの国を統べる王なのだ。
 世界が違う。
 基本的に異性が怖くて避けていた凛華がこんなことを考えるのは初めてだった。それでも分かる。
 彼は、この国の王は、好きになってはいけない人。
(……そんなの……当たり前だよ)
 ぽつりと心の中で呟き、凛華は持っていたグラスの中身を飲み干した。

「リンカ」

 後ろ側からかけられた呼びかけに凛華が振り返る。
 赤い髪がまず目に入った。ジルハだ。今のところ凛華の知り合いに赤い髪の人は彼一人しかいない。セシアの身代わりとしてこなしていた多量の政務から解放されて、濃い色の瞳が楽しそうだった。彼に会うのはとても久しぶりな気がした。
「お帰り。元気そうで良かった」
 赤い瞳をふっと緩め、ジルハがぽんぽんと凛華の頭を撫でる。
 父親と似た仕草に凛華は嬉しそうに照れ笑いをした。
 別の男性に向けられる笑顔。それを見てアルフィーユの国王陛下と第二騎士隊長が顔をしかめた事には幸か不幸か誰も気付かなかった。どうやらジルハは、彼に何の他意もないにしても、この国の重要人物二人から睨まれる対象となってしまったらしい。哀れな男である。

 空になったグラスに気付き、ジルハがそれを凛華から取り上げる。
「何か欲しいものは?」
 グラスを取り上げられた凛華は一瞬何を訊かれているのか分からなかったが、少ししてアルコールが入っていないやつ、と唇を動かして伝えた。
「了解」
 彼女の行動によって命拾いをしたジルハとしては、何か彼女にしてやりたいのである。
 彼はなかなかに甲斐甲斐しかった。妹と生き別れになってしまったからか、凛華というこの少女が妹のように見えて仕方ない。
 凛華の希望通りアルコールの全く入っていない果実のジュースを持って来ようとしたジルハは、それを彼女に渡す直前にぽろりと落としてしまった。


 がしゃん、と派手な音がする。
 凛華は目を丸くしてジルハを見た。彼は目を見開き、一点を見つめている。
「?」
 そしてその視線を辿り、入り口にいた人影を確認する。リーサーとアルがそこにいた。
「……ジルハ?」
 ロシオルが声をかけたが彼はまだ入り口を凝視していた。

「……お」

 集まった視線の中、かすかな声が漏れた。

「お兄ちゃんっ!?」

 アルの声だった。それを聞きとがめた人々が声をあげた少女と声をかけられた青年を見比べる。
 赤い髪と茶色い髪。赤い目と茶色い目。
「兄妹……っ?」
 そんな声がちらほらと上がる。
 あまりにも似ていない兄妹は、けれど二人とも驚いた様子で、その表情はどこか共通な雰囲気があった。アルがいても立ってもいられなくなったのかその場から駆け出す。
 ジルハは呆然としていた。死んだと諦めていた妹が生きていて、今、ここに。
「お兄ちゃん……っ!」
 抱きつかれてからやっとジルハはこれが現実なのだと悟った。
「ア、アル……?」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ!」
 しがみついてそれ以外何も言わない妹の頭を撫でてから、ジルハはそっと体を離した。
 泣き笑いの顔を見て表情を緩め、苦笑する。
「無事、だったのか……」
「うん……うん……」
 ジルハが凛華に向ける笑顔と同じような優しい顔でアルを見る。
 周りにいた他の人々は兄妹の再会を邪魔しないように、驚いた瞳や優しく見守るような瞳で遠くから眺めた。
 二人のジェナムスティの人間。本来ならば入国を許されない筈の二人。けれどその兄妹の再会には誰も口出しをしなかった。国が違っても人は人なのだ。幸せを邪魔する権利は誰にもない。

 しばらく感傷に浸ってから、アルは「良かったね」と笑顔を浮かべている凛華に向かってぺこりと頭を下げた。
「すみっ、すみません……、申し、遅れました。わたしは、アルシィと申します。リンカさま……助けて下さ、……ってありがとうございました」
 彼女がいなければ。たった一人の家族を再び見ることはできなかった。
 彼女が、あの時手を差し出してくれなかったら。
 そう思うと奇跡のような出来事に涙が溢れそうになる。アル──アルシィは、泣かないようにとぎゅっと唇を噛みしめた。泣くのは後だ。今は笑っていたい。
「リンカが?」
 ジルハが妹と凛華両方に確かめる。
 アルシィは大きく頷き、凛華は大した事はしていないのだと少し慌てた。
「……本当に、ありがとう……」
 騎士の礼をとってそう言うジルハにあわあわと焦りながらも凛華は照れたように小さく笑った。
 役に立つことができた。ここでは自分は……誰かの役に立つことができる。

 ──乾杯しようか。

 唇を動かしてそう提案した凛華に、ベルは微笑み、アルシィは嬉しそうに笑った。





 これ以上騒ぎ続けると明日に響くという時間になった頃、やっと大広間のお祭り騒ぎは終わった。
 国王であるセシアは既にアイルと退出していたが、それでも騒ぎは続いていたのである。この国に来て以来、だんだんと凛華は城の人々の心に定着していっていた。
 片付けに勤しむベルに手を振ってから、凛華はロザリーの座っていた場所に小走りで近寄る。ロザリーは初めて凛華と会った時のようにいたずらっぽく笑って彼女を緊張させないようにしてくれた。
「わたしの部屋かリンカちゃんの部屋で話したいんだけど……」
 そう言いかけたロザリーの言葉を凛華は身振りで遮った。
 ここから凛華の部屋は遠い。けれど、ロザリーの部屋は更に遠いらしいのだ。この体調不良な彼女にそれほどの距離を歩かせる気にはなれなかった。帰りはアイルか誰かを呼ぼう。
「じゃあリンカちゃんの部屋にお邪魔してもいい?」
 こくこくと頷き、凛華は彼女の手を支えて歩き始めた。
 螺旋階段は辛い。途中で会ったロイアが助けてくれたので何とか部屋までたどり着くことができた。

 ロザリーは一言も喋らなかったし、凛華は喋ることができない。ロイアは最初に「手をお貸しします」と言ってからは何も喋ろうとはしなかった。何とも言えない沈黙が支配する。ただ、その沈黙を凛華は不快だとは思わなかった。


 部屋の前でロイアに礼を述べてから室内に入る。
 椅子を出して来ようかと思ったが、結局は一番近くにあったソファをロザリーに勧め、自分もその隣に座った。
 長い話になるなら、唇で伝えるのは面倒だ。ちょっと待ってて下さいと伝えてから、凛華はペンとメモを持って戻ってきた。本当は自分の言葉で話したかったのだが仕方ない。
 とにかく、自分の思っていることが伝わればいいのだ。



「あの……ね、リンカちゃん。わたしまだ言ってないことがあったの……」
 言葉を濁して言いにくそうにしていたが、瞳の色はしっかりと決意を映していて、ロザリーはぎゅっと自分の手を握った。

 言わなければ。
 伝える責任が、自分にはある。

「リンカちゃんがジェナムスティの問題に巻き込まれること、わたし……分かってたの」
 一気に一息で言われた言葉を理解し、凛華は目を丸くする。
 漆黒の瞳が映したのは嫌悪ではなかったが純粋な驚きだった。
 ひどく驚いた様子の彼女を申し訳なさそうに見てから、ロザリーは自分の手に視線を落とした。
 彼女には事実を知る権利がある。そして自分は事実を伝える義務がある。
 たとえ嫌悪の視線を向けられたとしても。たとえ責められたとしても。

 彼女を巻き込んだのは、この国なのだから。

「巫女さま程じゃないけど……そういう予見の力は少しだけあったから……。ジェナムスティの問題に巻き込まれるのも分かってた。わたしにはそれがどれだけ危険なことかも知ってたの。でもそんな大した力じゃなくて……正確な時間と場所が分からなかった。だから、陛下とアイルに頼んでリンカちゃんに護衛をつけてもらうようにしたの」

 ああ、だから。
 彼らは自分が遠乗りに行きたいと口にした時にあんなことを。
 乗馬の腕を信じられていなかったのではない。
 彼らはただ、心配してくれていたのだ。

「でも。結局は……予見通りになって……。情けないよね。こんな事になるなら、リンカちゃん本人に言えばよかったのに……っ!」
 ごめんなさいとロザリーは掠れた声で告げた。
 起こってからでは遅い。最初から伝えていれば良かった。
 話しながら落ち込んでいくロザリーの手を軽く握って視線を自分に向けさせてから、彼女はペンを取ってメモに字を書き始めた。
 さらさらと文字を綴っていく。
 書き終わると、ピッと手で持ってロザリーに紙を見せた。

『でも、ロザリーさんの予見のおかげでセシアとロシオルがわたしを助けてくれたよ』

 にこにこと笑っていう凛華。
 こうしてここにいられるのはロザリーの予見のおかげだ。
 ロザリーはもう一度頭を下げた。何かに許しを求めるように。懺悔ざんげをするように。
「違うの……それだけじゃないの。リンカちゃんがどんな思いをしてるか……どんな事を思い出したのか。それも見えた。でも! わたしは何もしなかった。出来なかった。……力は、何の役にも立たなくて……。リンカちゃんは辛い思いしてたのに……。わたしには何も出来なかった……。ただ、見た事を他人に伝えるだけしか……」
 そう。いつも見るだけ。
 何もしなかった。何も出来なかった。
 今にも泣きそうになるロザリーを労るように見てから、凛華はまた手を動かした。
 今度は少し長い。
『嫌な事も思い出したけど、お父さんの大切な思い出もちゃんと思い出したよ。あそこはすごく怖かった。嫌だった。泣きたくなった。でも……わたしは今ここにいるから。それはロザリーさんの力のおかげだから』
 ロザリーを安心させるかのようににっこりと笑ってから、凛華は彼女の手をとった。
 かすかに震えているそれを額を軽く押しつけて目を閉じる。

『ありがとう』

 たくさんの人に助けられた。
 セシアは政務を置いてまでしてテニグに来てくれたし、ロシオルだって警備の仕事があるはずなのに「大丈夫か?」と真っ先に尋ねてくれた。
 ベルは庇ってくれて、その上帰ってきた時にはリーサーと笑顔で迎えてくれた。
 ジルハは無事を喜んでくれて。
 アルシィは、あの暗い部屋の中、ほのかな灯りをくれた。
 そしてロザリーは、助けようとしてくれたのだ。

 目を閉じたまま、それぞれの顔を思い浮かべる。
(……本当にありがとう)
 感謝しても感謝しきれない想いに、凛華は何故か切なくなった。
 本当に今、声が欲しいと思った。



 ロイアに頼んでアイルを呼んでもらい、ロザリーを彼に任せた後で凛華は寝台に倒れ込んだ。
 窓から入ってきた小鳥に顔を上げ、じゃれつく。声がなくてもティオンとは意思疎通を取ることができる。それが嬉しかった。
『ロザリーさんに聞いたんだ?』
(うん。嬉しかったよ)
『……何が?』

 全てが。本当に全てが。
 人の優しさも、掠れた声で告げられた懺悔も。
 嬉しいと思える。

(わたしは、色んな人に助けられたんだな……って思って。だから声が出なくても落ち込んでる場合じゃないから)
 寝台の上で頬杖をつき、凛華は嬉しそうに笑った。
(勿論ティオンにも助けられたんだよ。ありがとう、来てくれて。言葉が話せなくても、ティオンとはこうやって話が出来るから……ものすごく嬉しい。声ってさ、いつもは何気なく口にしていたけど……本当は大切なものだったんだよね)
 声がこれまで大切なものだとは思わなかった。
 以前に声を失った時はそう思わなかった。あの時は本当に自分はいらない存在だと否定され続けて、声を自分から出さなくなっていた。
 声などいらない。
 声を上げれば叔父たちはまた殴りに来る。
 だから一人暮らしを始めて声を取り戻した時は嬉しいとは感じなかったのだ。ただその事実を受け止めただけで。こんな風に、話ができることが嬉しいとは思えなかった。

『リンカが嬉しいならそれでいいよ……』

 にこにこと笑っている凛華にそう告げた後で、ティオンはそっと視線を彼女からずらした。


(いつか……本当のことを知ってから、同じようにお礼を言える? リンカ……凛華、ちゃん)


 それから、ぷるぷると小さな頭を振った。
 私情を持ち込んではいけない。
 役目を果たす為に、ここにいるのだから。





 声を取り戻すことができるのなら。
 一番最初に、ありがとうと伝えたい。


「リンカ、お茶にしません?」
 足の包帯が取れ、大分回復したベルが凛華を誘った。
 すると彼女がぶすっとした顔で振り向く。せっかくの愛らしい顔が台無しのようにも思えるのだが、その表情があまりにも可笑しくてベルは笑った。
『外に出たい』
 彼女が示したメモを見て、更に笑う。
 この「預言された少女」は現在、国王と騎士隊長から絶対安静を言い渡された身なのである。
 何日もろくに動いておらず、思いきり身体を動かしたかった凛華はかなりご不満の様子。
 まったく、セシアもロシオルも極度の心配性なのだ。絶対安静を言い渡された時の凛華のひどくショックを受けた顔を思い出して、ベルは再びぷっと吹き出した。

 不満そうではあるのだが、それでもベルの誘いに乗って紅茶を飲み干してから、凛華はほうっとため息をついてベルに笑いかけた。
 ベルの入れる紅茶は本当に美味しい。彼女の優しさがにじみ出ているようで心が温まる。

 声を取り戻すことができるのなら。
 一番最初に伝えたい。


 ふと口を開いた。
 空気が漏れるだけだった凛華の口から零れる、確かな音。

「……あ、りが、とう……」

 赤銅色の瞳を驚きに見開き、感極まったベルは涙を浮かべた笑顔で凛華に抱きついた。
 それから、二人で笑った。