両手首の傷に薬を塗られた時だけ、凛華はびくりと身を引きかけた。けれどそれ以外はどこかぼんやりとした表情で、ほとんど身動ぐこともなかった。
 椅子に大人しく座ったままの彼女を遠目に見て、セシアが小さくため息をつく。
 彼女は大丈夫だと笑っていた。どこか無理に笑っているような笑顔で。
 けれど大丈夫ではなさそうだ。
 そしてそれを知ることができても彼女自身が何ともないと言う。
 どうすれば彼女は笑うようになる? どうすれば彼女は声を出すことができる?
 一体彼女に何をしてあげられるだろう。


 顎に手をかけられ、素直に上を向いた凛華の喉は、外見上何も異常はなさそうだった。声帯を直接傷つけられたわけではない。あの暗い部屋が彼女の声を奪った。
 「はい結構ですよ」と言われ、彼女が顔を下げる。
 その動作はまるで人形のようで、セシアは眉をひそめた。
 こんな魂の抜けたような凛華を見たかったわけではない。にこにこと笑って、楽しそうにしている彼女を見たかった。
 テニグから連れ戻しただけでは彼女は治らない。
 動物たちに向けては笑っていた。彼らはいつだって凛華の味方だ。
 人に対して笑うことができないのは人を恐れているから。
 だから彼女は笑わない。こちらの手をわずらわせることなく静かに指示に従うだけ。まるでゼンマイじかけの人形だなとセシアは思った。操り糸がなく自由に動いているように見える。けれどそれは、ゼンマイが止まってしまえば動くことができないのだ。今の彼女はそれが止まってしまったかのようだった。

 何でもするから。
 だから、どうか笑って。

 自分のその考えにはっとし、セシアは凛華から目を逸らした。
 何だ今の考えは。
 これではまるで自分は、彼女に特別な感情を抱いているようではないか。
 彼女の髪を手に取った時もそうだった。綺麗だと思って触れただけの髪。それなのに気付けば口付けをしていた。
 他人などどうでも良かった筈だ。自分以外の人間は、敵意を持つ人間か、味方となる人間か。ただそれだけだった。国王に感情はいらない。統治をするための器なのだ。
 けれど今の自分は、こんなにも彼女のことばかり考えてしまっている。
 そのことが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、セシアは判断できなかった。



 凛華が声を出そうと、唇を動かす。けれど彼女の口から音は漏れなかった。
「はいもういいです」
 治療師にそう言われ、凛華は口を閉じた。
 てきぱきと薬を調合しながら彼がセシアに向けて声をかける。
「声帯に異常はないようです」
「治療師殿、声は治るのか?」
「声の方は精神的なものですのでリラックスしていらっしゃれば治られるかと。何よりもストレスを感じさせないことですね。手首と足首の傷は、しばらくは痛みますが痕は残らないでしょう。激しい運動は禁物です。頬の腫れはもう大分引いていますので、冷やしておけば大丈夫です。首の痕も数日で消える程度のものです」
「そうか……」
「ほかにどこか痛むところはありますか?」
 穏やかな笑みを浮かべながらそう尋ねられた凛華は、ゆるゆると首を振った。
「くれぐれも無理してはいけませんよ」
 こくりと凛華が頷きを返す。
「どうぞ、これを。一日に二、三度、白湯かお茶に混ぜて飲んで下さい。気分が落ち着きます」
 渡された薬を受け取り、凛華は一度頭を下げ、何か言おうと唇を動かした。
 けれど治療師はやんわりとそれを止める。
「無理に出そうとしなくても結構ですよ」
 心が邪魔をしているのに無理矢理声を発しようとすれば、更にストレスが溜まってしまう。そうなればあとは悪循環だ。
 凛華はもう一度頭を下げると今度は何も言おうとしなかった。
「では陛下。私はこれで失礼いたします。明日また参りますので」
「ああ、ありがとう」

 治療師が出て行き、広い部屋には椅子に座ったままの凛華と壁にもたれかかっていたセシアだけになる。
 彼女はぼんやりと渡された薬を見ていた。いや、本当は薬を見ていないのだろう。焦点は合っていない。
 セシアが壁から身を起こして彼女に近づく。凛華は一瞬怯えたように震えたが、それでもそれ以上は身を引かなかった。

 床に膝をつき、座っている彼女と視線を合わせる。
 服の汚れを気にしている場合ではない。今はそんなことよりも彼女の方が気にかかるのだ。
 あの暗い部屋から連れ出した時以上に彼女の精神は参ってしまっている。あの時彼女は今よりかは気丈だった。おそらく、時間が経ったことによって改めて恐怖を感じているのだろう。
「――大丈夫?」
 深く青い瞳を、凛華が見返す。そして彼女はこくりと小さく頷いた。
 セシアが彼女の肩をそっと掴んでもう一度目線を合わせて尋ねる。

「本当に、大丈夫?」

 するとしばらく何の反応も示さなかった凛華が、少しして首を振った。

 ――大丈夫なんかじゃ、ない。


「治療師にはリラックスするように言われたけど……。聞いてもいいかな」
 凛華が一度頷いた。意思疎通がイエスかノーかくらいしかできないのはもどかしい。
「テニグで何かあった?」
 セシアの青い瞳をじっと見て、それから「どうやって言えばいいんだろう」という表情をした。
「はい」
 セシアがすかさずペンとメモを差し出す。
 なるほど。筆談すればいいのか、と納得して凛華がそれを受け取る。
 少し考えるように沈黙してから彼女は文字を書き始めた。
『一人になるのが怖くなったの』
 書き終えておずおずと見せてくれたそれを読んでセシアが怪訝そうな顔をする。その文面では結果が分かっても、経過は分からない。
「何かされた? 殴られた?」
 頷く。
「脅された?」
 しばらくしてから頷く。
「……『愛玩人形』にされた?」
 え、と凛華が首を傾げる。やはり意味が分からないようだ。
 不思議そうな顔をしてじっと自分を見ている凛華に、セシアは少し考えてから表現を変えた。
「……身体を触られた?」
 それは、ない。
 首に手をかけられたのは脅しだ、と心の中で呟いてから凛華がふるふると首を振る。途端にセシアがほっとしたような表情を浮かべた。
「殴られたり脅されたり……だから怖くなった?」
 少し沈黙して凛華がまた首を振った。綺麗な髪が動きに合わせてさらさらと揺れる。
 ペンをとってメモに書き始め、書き終わってから同じようにセシアにメモを見せた。

『今ここに居る事が夢かもしれないのが怖い』


 寒かった――ここは暖かい。
 暗かった――ここは明るい。
 動けなかった――今は、自由だ。
 一人だった――今は一人ではない。
 色々思い出した――ここでは思い出さなかったのに。
 目の前で命が消えた――――ここでなら、きっと守ることができる。

 でも、もし「今」が夢だったら?
 本当はあの薄暗い部屋の中、枷に縛り付けられて、夢を見ているだけだったとしたら?
 何度も繰り返し恐ろしい夢を見たのだ。
 繰り返し受ける暴力。それを肯定する自分。見殺しにした野うさぎ。父や祖父の死。
 父と出かけた場面を夢に見たと思ったら、次の瞬間にはべっとりと血にまみれた父の姿を夢に見て、声にならない叫びを上げる。
 見殺しにしてしまった野うさぎが楽しそうにはね回っているかと思えば、次の瞬間にはだらりと四肢を投げ出して死んでいる。
 そんな夢を繰り返し見る内、心が病んでいった。
 もしかしたら、今のこの状況も夢なのかもしれないとずっと疑っている。
 次の瞬間に、またあの暗い部屋で目を覚ますのだと思うと、恐ろしくてたまらなかった。

 書き終わった凛華はふいと横を向いた。
 どうしようもなく、泣きたい気分だった。どれだけ泣きたくても、涙は出てきてくれはしないのに。



 かすかに震えている凛華を見て、セシアが手を伸ばしかける。
 だがぎゅっと手を握り、止めた。

 彼女を抱きしめたい。
 守ってあげたい。この手で。

 けれどその想いを彼女に押しつけるのはいけない。
 彼女はきっと自分が怖いのだ。純粋培養だったのは、男性を怖がっていたから。今こうして顔を背けたのは、彼女の近くに自分がいるから。
 ベルかリーサーかを呼んできて彼女らに凛華を任せるのが彼女にとって良いのだ。それなのに頭で分かっていてもそれを実行する気になれないのは何故だろう。

「……リンカ」

 結局は手が伸びてしまった。
 華奢な彼女を横から抱き寄せ、腕の中に収める。
 突然抱きしめられた凛華は怯える暇もなく、あたふたと慌てだした。驚いているのだと分かってもセシアは彼女を解放しない。
 抱き寄せたまま、彼女の髪に触れた。
 そして子供をあやすように優しい声で話しかける。
「……大丈夫、リンカがここに居るのは夢なんかじゃない。リンカはアルフィーユに戻って来たんだ。もう見張られることも、束縛されることもない。怖くない。リンカは自由だ」

 ──こわくない。

 セシアの言葉が、しっとりと凛華の胸の中に染み渡っていく。
 温かく優しい言葉。
 耳の当たるセシアの胸からは、規則正しく心臓の動く音が聞こえた。この音は、偽物などではない。

 大丈夫。夢ではない。自分は今、ここに、いる。
 一人きりではない。見張られることも縛られることもない。
 もう大丈夫だ。自由なのだ。何にも縛られない。自由に生きることができる。


 野うさぎを殺させてしまった。自分に関わったばかりに関係のない優しい命が消えてしまって。
 自分を守る為に傷ついてしまった騎士たちも。遠乗りをしたいと言い出さなければこんなことにはならなかった。
 一緒にいられることを優先したせいでベルは怪我を。
 それでも。
 同じことは繰り返さない。
 これ以上誰かを傷つけられるのは許せない。
 誰かを守ることができるようになりたい。
 自分の力は本当に些細だけれど、何かをしてあげられたらいいと思う。ここでは自分は自由なのだ。だからきっと何かできる。


 そう思わせてくれたのは。この、優しい人。


 ふっと凛華が顔を上げた。
 抱きしめられた腕の中でセシアの目をじっと見て、それから。

 ふわりと、嬉しそうに笑った。

 いつか見たあの光そのもののような笑顔。見とれてしまいそうなほど綺麗に彼女は笑う。
 セシアの正装の胸元を軽く掴み、自分に注意を向けさせて凛華が唇を動かす。
 文字では物足りない気がした。
 声は出ないけれど。どうしても自分の口で伝えたかった言葉。

 ――ア、リ、ガ、ト、ウ。


 先ほどよりも回された腕に力がこもる。

 彼女が愛しい。
 全くの無事とは言えないかもしれないけれど。それでも、生きていてくれて、良かった。

「リンカ……」
 少しきつめのその抱擁は、苦しくはない。彼の体温をより近くに感じられたので、苦しさよりも嬉しさの方が勝った。
 温かい。一人では、ない。
 大丈夫だ。
 もう怖くない。
(セシアの体温って……安心する……)
 抱きしめられるままになっていた凛華はその温かさと静かさにほっと安心した。セシアは何だか自分の父親に似ているのだ。
 ゆっくりと睫毛が降りていく。
 漆黒の瞳は、静かに閉じられた。



 くて、と自分の胸にあたる凛華の頭。
「?」
 セシアが不思議に思い、自分の腕の中で大人しくなった彼女の顔を覗き込むと、彼女は安心しきった寝顔でくうくうと寝息を立てていた。
 その後。思わず額に手を当てる。
「うわあ……生殺し…………」
 凛華を起こさないように小さく呟き、悩み多きアルフィーユ国王は深く深くため息をついた。


 こうやって安心しきられると少し寂しい気がしないでもない。
 自分は男性で、彼女は女性。
 幼い子供ならともかく、この年頃ならば警戒心の一つや二つ持ち合わせていてもおかしくないのに。
 それでも、彼女のこの寝顔を見ているのも悪い気はしなかった。

 見返りを求めない彼女。
 彼女が、愛しい。


 すっかり深い夢の世界に入ってしまった凛華をすっぽりと抱え込み、しばらくその温かさを楽しむ。
 だが寒くなってきたのか凛華が小さく震えているのに気付き、セシアは誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
「もう少しこうしてたいけど……このままだとリンカが風邪ひくか」
 本当は惜しかったが、彼女に風邪をひかせるわけにはいかないと、セシアは彼女を抱え上げた。
 治療師が調合してくれた薬を取り、凛華の手の上に乗せてなるべく起こさないようにそっと歩く。彼女は驚くくらいに軽いけれど、それでも人間一人を抱えているのだから、明日は腕がしびれるかもしれない。そんなことを考えながら。

 セシアの私室がある場所から凛華の部屋がある星見の塔に行くまでの距離はかなり長い。
 何人もの宮廷女官や警備の騎士たちに会ったが、彼らは彼女を気遣って黙礼するだけだったのでセシアが寝台に彼女を降ろすまで、彼女は全く起きる様子を見せなかった。その上、寝台に降ろしても何の反応もない。
 ただ、安心しきったあどけない表情を自分に向けたまま、小さな寝息を立てている彼女を見つめてセシアは心底ため息をついた。
 こんなに信用されてしまっていると手は出せない。
「…………無防備にも程がある……」
 それから凛華の額に軽く口付けてからセシアはくるりと踵を返した。
 彼は感情よりも理性を優先する。


 早くジルハと交代しないと。
 本来その責務を負わされたのは自分であって彼ではない。いつまでもこうやっているわけにはいかないのだ。おそらく彼はひどく困っている事だろう。
 せっかく彼女の寝顔を見ていることができるのに、と少し勿体ない気もする。
 振り返り、穏やかな寝顔の彼女を脳裏に焼き付けてから、今度こそセシアは彼女の部屋を後にした。






 見慣れた大きな木の扉。
 それを視界に入れた時、セシアはしまったなと思った。

 そのままの格好で執務室に戻ってきてしまった。
 扉を守っている騎士たちに不思議に思われてしまう。
 「王」は扉の中にいるのだから。
 まあいいか、と特に気にした風でもなくセシアは扉に近づいた。
「こ、これは陛下!」
 騎士たちがざっと膝をつく。
「い……一体いつお部屋をお出になられたのですか?」
 きたか。
 さすがは国王執務室の扉を守る騎士。
 セシアは笑みを浮かべ、扉を自分で押し開けた。
「ちょっとしたマジック、だ」
 どこか機嫌良さそうな国王。こんな彼は珍しい。訳が分からないという顔をしていた騎士たちは、けれど国王自ら扉を開けていたことに今更気付き、慌てて深々と頭を下げた。
 上手く、というにはいささか無茶があるが、彼らをあしらったセシアは、執務室に入るとそのまま真っ直ぐ奥へ向かった。
 何だか文句を言っているような声が聞こえるのは気のせいだろうか?

「あ!!」

 がたんと大きな音が響く。
 銀髪に赤い瞳の「王」が椅子から立ち上がっていた。
「お帰りなさいませ、セシア」
 セシアに気付いたアイルが軽く頭を下げ、いつも通りに淡々とそう言った。
「ああ。予定より少し遅れてしまった。悪いな」
「いいえ、仕事の方は順調ですから」

 順調にさせたのは、アイルだ。
 しかも多分、強制的に。

 ちらりとジルハの方を見ると、彼は机に手をつき、ぱくぱくと口を開閉させていた。
「……ジルハ、ありがとう」
 そう声をかける。
 すると。
「国王陛下ーー! 俺、もう……絶っっ対に!! 国王の代役なんて嫌ですっっ!」
 セシアに掴みかからんばかりの勢いでジルハがまくし立てた。
 とりあえず一通り文句を言わせてやることにし、セシアは何も言わない。
「な、何なんですか、あの書類の量はっ! 埋まります! 人一人くらい簡単に埋まります! 王の謁見ではいちいち細かく返事や許可をしなきゃならないですし! 廊下では誰かとすれ違う度に頭下げられてかしずかれて……っ!! この側近は何を言っても何一つ聞いてくれませんでしたし! 自由な時間なんてほぼないじゃないですかっ!! 国王なんて、国王なんて……っ」
 どうやら相当アイルにひどい目に遭わされたようである。
 セシアはくすくすと笑ってからジルハの肩を軽く叩いた。
 君主に絶対的な忠誠を誓う騎士が、国は違うと言っても、この国の国王であるセシアに延々文句をぶちまける。それほどにジルハは参っていたのだ。
「国王なんてそんなものだ。私は久しぶりに自由で楽しかったよ」
 げ、という顔をしたジルハに、とどめの一言。
「……今度からもジルハに頼もうか」
 にっこりと実に爽やかに笑うと、ジルハが逃げるように後じさった。

 側近だけではない。
 違う。この国の国王の方が、もっと怖い。

 ぶんぶんと頭を左右に振るジルハに、アイルが小さく笑う。とても楽しそうだった。
 自分がいない間ずっとジルハで楽しんでいたのだろうか、と想像してからセシアは少し彼が可哀相になった。が、自分があれだけ他人から干渉されない境遇は大変楽しかったらしく、またいつか頼もうかとひっそり考える少々大人げない国王陛下であった。
 常に人の目を感じさせられる国王はたまったものではないのだ。これは実際に体験してみないと分からないだろう。ジルハは今回体験してみて地獄を見たに違いない。


「あ……陛下、義妹姫が寂しがっておられましたよ」
 一頻り文句を言ったおかげかかなり落ち着いたので、ジルハが思い出したようにそう言った。
「分かった。後で行く」
 自分がつけていた外套をばさりと椅子の上に放り出し、ジルハから渡された国王の正式なものを羽織る。彼はそれを脱ぐことができてどこか嬉しそうだった。
「アイル」
「何でしょう」
 セシアがアイルの方に向き直り、真剣みを帯びた表情をした。
 先ほどまでの少しくだけた感のある表情ではない。

 その顔は。────国王。

「……ロザリーさんの様子は?」
「もう大分落ち着いてます。リンカが戻ってきた事を伝えたましたので、安心したようです」
「そうか……」
 何かを考えるような表情をしてから、セシアは顔を上げて口を開いた。
「ジルハありがとう。もう塔に戻ってくれていい。アイル、フェルの所に行ってくる。仕事はその後だ」
「かしこまりました」
 国王に、休む暇はない。
 貧乏暇無し。ではなく、国の頂点に立つ国王にも暇はなかったりする。



「お義兄さま! おかえりなさい!!」

 扉を開けた瞬間飛び出してきた義妹を抱き留めて、セシアは彼女を床に降ろした。
 相変わらずこの王女は彼にだけは人なつこい笑顔を浮かべる。
 部屋にいた女官たちもその様子を微笑ましそうに眺めている。
「ただいま。ジルハと話をしたって? ……彼は、面白い人だ」
 セシアが小さく笑うと、義妹は手を口元にあてて笑い返した。彼女は義兄の前では普通の女の子である。一応これでも王位継承権を持つ正当な王族なのだが。
「うん。ものすごく困ってたよ。わたしに、お義兄さまはいつもこんなことをしてるのかって訊いてきたから」
 何だかそう尋ねているジルハの表情が手にとるように分かる気がした。
 セシアは慣れてしまっているが、確かに国王の仕事というものは膨大なのだ。そうやって愚痴をこぼしたくなる気持ちもよく分かった。
「フェル、かなり仕事が溜まってるようだから……また食事の時に」
 寂しそうな表情を浮かべる義妹に「それにそろそろ先生が来る時間だ」と笑って付け加えると、フェルレイナはそのことをすっかり忘れていたのか「あ……」と小さな呟きを漏らした。
 彼女に王族としての礼儀作法全てを教えている教師というのは高齢の女官で、フェルレイナは彼女が苦手だったりする。それ故に彼女は度々家出ならぬ城出をやらかしていた。
「頑張れ」
 逃げようかなあという考えが顔に出てしまっているフェルレイナの頭を軽く撫でると、セシアは部屋を後にした。
 部屋を出て少し歩いた所で教師とすれ違い、ぺこりと頭を下げる彼女に宜しくと頷いてからセシアは人知れず苦笑した。
 どうやら王女様の脱走計画は未遂に終わりそうである。

 ああ、アルフィーユは、平和だ。