小雨が降り続ける中、二頭の馬が疾走する。
 視界の悪さをものともせず、その速度は落ちることがない。

 ジェナムスティとアルフィーユとの国境を越えた頃に、片方の人物がフードから少し顔を出して、隣の馬上の人物に声をかけた。
「陛下」
「何だ?」
「……ジルハの言っていた正確な場所をご存じなのですか?」
 ロシオルが気になっていたことだ。テニグは辺境の街と言ってもその広さは一都市のそれである。探さなければいけない範囲は広い。
 けれどセシアはロシオルに対して冷静に答えた。
「多分、正確だ。市民の住居があるテニグで、騎士たちが使う場所はそう多くはないだろう。しかも黒髪のリンカを連れていたんだ。目撃した人がいてもおかしくない」
 それだけ言うと、セシアは真っ直ぐに前を向いて口を噤んだ。
 青い瞳は鋭く、こういう時この人は「王」なのだとロシオルは思い知らされる。執務室でのあの表情も相当なものだった。彼はただの青年ではない。この国を治めることができるほどの器を持っている。彼を本気にさせてはいけない。

 視線をセシアから外し、ロシオルもフードを被り直すと同様にした。
 もう二日ほど走り詰めだったが、不思議と疲労は溜まっていなかった。


 言い知れない不安がセシアの胸を襲う。
 ロザリーが告げた凛華の様子では、はっきりとは分からないが疲労していたらしい。そして、血が広がっていた、と。ひどい目に遭っているのだろうか。何故か、凛とした瞳にかげりがある顔が浮かんだ。
 早く行かないと。
 たった三日の距離が何年もかかるような気がした。これ以上速く走ることはできないのに、馬を叱咤したくなる。
 早く。少しでも早く助けないと。全てが手遅れになってしまう。
 彼女がジェムスの王城に渡ってしまえば、ジェナムスティはこれ幸いとアルフィーユへ軍隊を派遣するだろう。その本拠地に彼女がいる限りセシアは軍を出すつもりはない。いくら大臣たちが反撃するように説得したとしても決して首を縦に振らない。徹底防戦に回るつもりだ。
 彼女を傷つけたくない。
 「預言された少女」の存在は、思っていたよりも大きくなっていた。

 あの笑顔を見た時から、彼女は自分の胸にいつもいた気がする。
 あの笑顔を見た時?
 いや違う。乗馬での時に、諦めなかった彼女を見た頃からもうずっとだ。
 怪我をしながらも何度でも立ち上がっていた彼女はとても強い。
 いなくなって初めて気付いた計り知れないほどの焦燥感。
 彼女の傍は居心地が良い。もっと近くにいたいと思ってしまう。
 そしてセシアは、いつも彼女の傍にいた白い小鳥の姿が見あたらないということが、どうも気になって仕方がなかった。ベルに尋ねてみると、凛華と遠乗りしたあの日からは全く見ていないと言う。どこにいったのだろう。彼女の傍にいるのだろうか? それとも。





 がたがたと乱暴な音を立てて扉が開けられた。
 その前に聞こえた何かを蹴るような音は、おそらく扉の前にあった何かが蹴倒された音なのだろう。ディーンやアルの物静かな開け方とは違うその荒々しい音に、ふっと凛華は顔を上げた。

 数人の騎士らしき男性が入ってきて無遠慮にジロジロと彼女を見る。あざけるような光を含んだ視線が、鬱陶しいと思う。
 ディーンが自分に指一本触れるなと言っていたことを凛華はアルから聞いていた。だからこんな風にはりつけにされながらも性的な意味では身体に触れられていない。
 けれどこの目の前の男性たちは?
 本能的な寒気が背筋を走った。
「明日、ジェナムスティの王城に向かう」
 ディーンとアル以外の人間に会っていない凛華は、何故別の男性なのか気にかかる。けれど声が出ないので尋ねたくてもできなかった。
 その男性がそれ以上何も言わないので、もうこれ以上聞き出す情報はないなと思った彼女は静かに顔を逸らす。「出て行け」と表したのだ。この状況でこういう意思表示をする彼女は、なかなかに気丈だった。へこたれてなどやらないのだ。まだ諦める時ではない。


 ――パンッ


 衝撃が彼女を襲う。呼吸が詰まる。脳裏が一瞬真っ赤に染まった。
 しばらくしてから、じんじんと頬が熱く痛み出した。
 けれど眉ひとつ動かさず凛華はそのまま目を逸らし続けた。
(お生憎様。撲たれるのには慣れてる)
 心の中で悪態をつくと彼女は目を閉じた。
 これくらいの強さで撲たれてもそう痛くは感じない。昔は、もっと徹底的に殴られ続けた。
 彼女の不遜な態度に腹を立ててもう一度振り上げられた男性の手を、別の男性が止めた。
「顔に傷をつけるな。ティオキア王に引き合わせるんだから」
「……ちっ」
 彼らがやはり荒々しく出ていった後で、凛華は先程言われた言葉を頭の中で繰り返した。

 ──ティオキア王に引き合わせる。

 自分からでも会いに行って一喝してやろうと思っていた。
 あの時は周りに味方の人がいたからたいそうな事が言えたのだ。それなのに今は背中が冷たい。まだ、ティオキア王に会いたくない。
 会えば殺されるのだろうとは薄々気付いていたけれど。

 いま会いたいのはセシアやロシオルやベル。
 彼らと話がしたい。太陽の下で笑い合いたい。
 アルがディーンに頼み込んでこの部屋においてくれた灯りは小さく、光は弱くて。もっと、明るい日差しが見たい。


 ここから出して。
 束縛しないで。


 ここにいると凛華は嫌なことばかりを思い出す。忘れ去ってしまいたいことが頭の中を占めている。まるで、「思い上がるな」と耳元で囁かれているようだ。
 暗闇がこんなにも怖いものだと、思いもしなかった。
 殴られ続けたあの頃は夜が怖いというわけではなかった。眠れば父親が笑ってくれる。眠っている間は嫌な想いをしなくてすむ。
 けれど今はこの暗闇が怖い。


 ――外に、出たい。





「どうも」

 ロシオルが赤銅色の瞳を細めてにこりと笑うと、彼の目の前にいた二人の女性が頬を染めて俯いた。情報を得るためには普段はかけらもない愛想も作る。それで彼女らから情報が引き出せるなら安いものだった。
 愛想良く手を振り、彼女らに引き留められそうになるのを回避すると、急いで自分の馬の元にとって返す。
 銀髪に青い瞳のセシアはあまりにも顔を知られ過ぎてしまっているし、インパクトが強いので、念のため代わりに彼が情報を集めていたのだ。ジェナムスティ国内で彼がアルフィーユの国王だと知られるとかなり厄介である。
「あそこだそうです」
 ロシオルがすっと指した先には煉瓦れんが造りらしい塔があった。
 それはアルフィーユでもジェナムスティでもどこでも見られるような普通の塔である。けれど、セシアとロシオルがいる位置から少し離れた場所にあるその塔には、窓がない。何かを周囲から隠れてするには絶好の場所だと言える。
「……行こう」
 手慣れた様子で馬に乗ると、軽く腹を蹴る。
 疾走してはいけない。それは目立ち過ぎる。それでも彼らは不審に思われない程度の速度を出し、まばらになってきた雨の中を走った。

 辺りは暗い夜の支配下だ。
 闇に乗じてあの塔に侵入することができる。
 前髪から額を伝い落ちる雫を鬱陶しげに手で払い、セシアは空をちらりと見上げた。星の位置で時間を確認し、ため息をつく。いくら急いだところで、アルフィスに帰るには三日はかかる。走り詰めの馬を休ませたり凛華を塔から連れ出す時間も合わせると、もっとかかるかもしれない。
「もう少し頑張ってくれ」
 馬の首を叩き、そう呟く。
 五日後の昼にはマチェスとの会談があるのだ。
 いくらジルハがセシアのふりをしてくれているとは言え、他国に国王が不在だとばれるわけにはいかない。騎士だった彼は政治のことなどあまり分かっていない。アイルがフォローはするだろうが、それでもセシアでないと分からないこともある。出来れば四日後の日没までには帰城したい。
 自分がらしくもなく焦っていることに気付き、セシアはしっかりしろと自分に言い聞かせた。後のことよりも、今はとにかく凛華を奪還することだけを考えなければならない。


 塔の入り口が見えた頃に馬から下り、傍の木に手綱をくくりつける。これ以上騎馬での接近は危険だ。
 入り口に茂みから視線をやる。けれど見える限りに人間はいなかった。
 全て中にいるのだろうか?
 セシアとロシオルは一瞬視線をかわし、走り出した。既に二人とも剣は抜いていた。



 ロシオルが塔の扉を蹴飛すと、それはけたたましい音を立てて吹き飛んだ。おそらくこの塔は長い間使われていなかったのだろう。舞い上がる埃の量が多い。腕で鼻と口元を庇い、セシアとロシオルはその奥を睨み付ける。
 ディーンの部下だろう、体格の良い騎士たちがにやにやと笑っていた。数の差でこちらに勝ち目がないと判断したのだ。
 どうやら彼らは目の前にいるのがアルフィーユ最強の騎士だとは知らないようだ。もし知っていれば彼に剣を向けるなど、そんな命知らずなことはしないだろう。
 彼の瞳は見る者に恐怖を与える無慈悲の瞳。腰を低くしたその様子に、攻撃を受けるような隙はない。こうした様子のロシオルは凛華が今までに見たことがないものだった。稽古で手加減している時の彼ではない。

「……返してもらおうか」

 ロシオルが怒りを押さえつけた低い声で言った。
「何を?」
 一番手前にいた男性がにいっと笑った。

 彼は口を噤み、一見さり気ない動きでセシアに近づく。
「陛下は、上へ」
 それだけ言うと彼は一瞬で手前の男性の剣をたたき落とした。
 それが合図。
 戦闘開始だ。
 ロシオルはその場を動かず打ちかかってくる剣を全て打ち払い、腕に斬りつけるか腹部を刺すかして彼らの動きを封じる。致命傷にはならなかったがロシオルに刺された騎士たちは次々と崩れ落ちていった。
 セシアはロシオルとは対照的に前に進む。剣を向けてきた相手には全て剣をひらめかせた。最強騎士のロシオルにこそ少々劣るがセシアも剣術は得意なのだ。彼は昔から嫌と言うほどアイルに叩き込まれていた。セシアは国王だが、剣の使い手に守られているだけの無力な王ではないのだ。

 背後に剣の打ち合う音を聞きながら、手当たり次第に探して行く。一体彼女はどこにいるのだろう。
 階段を駆け登る時にも数人の騎士に襲いかかられたが、彼は難なく突破した。


 アルフィーユの騎士随一と言われるロシオルが十数人の騎士を倒すのは造作もないことだった。だが凛華を探していたセシアと容易く再会できたのも束の間、また何人もの騎士が湧いてでてくる。
「何人いるんだよっ」
 短く舌打ちしながら、ロシオルはセシアの道を確保するために立ち止まり、彼らの剣を止めた。
 その辺りの騎士にやられるような彼ではない。セシアはその場を彼に任せ、自らも襲ってきた騎士の腕を切り落として階段を上った。アルフィーユ城の星見の塔と同じように螺旋状になった階段は、どのくらい登ったのか分からなくさせるような妙な感覚がした。

 彼らの頭はどこにいる?
 それを突き止めればその近くに凛華はいるのだろう。下にいるような体力しか脳がないような相手は問題にならない。
 剣についた血と脂を振り払うために一度大きく振ってから、足を止めた。
 階段はここで終わっている。ではここが最上階か。


 息を潜めて耳を澄ませるとセシアの耳に話し声が届いた。
 ぼそぼそと、薄暗い中数人が喋っている。窓がない上に篝火かがりびもないこの最上階は、驚くほど暗かった。
「──ディーンさんは?」
 その名前にはっとする。
 ディーン・セルディック。
 凛華を連れ去った張本人だ。ここの塔の頭はやはり彼か。
「地下室さ。気を失ってもらった。邪魔されては、困る」

 仲間割れだろうか?

「そう、ですね」
 どこか納得のいっていないような声がそれに返事をした。どうやらこの塔の派閥はディーンと奥にいるもう一人の男性に分かれているようだ。
 それなら面倒だなとセシアは思った。彼女はどちらの傍にいる? 地下室ならまた階下まで降りなければいけない。最上階にいるのなら彼らを倒さなければ。
「明日にはジェムスに出発するんだぞ。さっさと準備をしろ」
 それを聞き、セシアは決心した。

 連れて行かせない。
 彼女は、殺させない。

 神経を集中させ、奥にいる人数を数えた。五人。いや、六人か。
 短剣を片手で三本持つ。これは彼の最も得意とする剣技だった。ナイフを投げて相手の動きを止める。集中力さえあればできるので、集中力を要する仕事柄、彼には有利なのだ。
 勢いをつけてそれを暗闇に向けて投げつける。
 悲鳴と、派手な物音。

(……よし、あと三人)

 誰だという誰何の声を口にしない内に、四人目も倒れた。
 目隠しをさせられたまま気配を感じ取るというやり方で鍛えられたセシアは、暗闇で相手の居場所を特定することを簡単にやってのけるのだ。わざと灯りを落としているのだろうがセシアにとっては明るい場所とそれほど変わらない。こんな時ばかりはめちゃくちゃな稽古方法をしてくれたアイルに感謝せざるを得ない。

(あと、二人)

「だ──」
 騎士が声をあげかける。
 そんなことをすれば自分の居場所を知らせているようなものなのに。ほぼ特定されていた居場所が確実なものとなる。
 最後まで言い終えない内に、その騎士はセシアの剣によって言葉をなくした。

(あと一人──)

「お、おいどうしたんだよっ!?」
 仲間たちの声がしないことに慌てた最後の一人ががむしゃらに剣を振り回す。
 セシアはそれを避け、姿勢を低くして彼に足払いをかけた。
「うわあっ!」
 どさりという音。
 それに続き、剣を突きつける金属の音。
「彼女はどこだ?」
 セシアとしては脅しのつもりで彼に剣をつきつけたのだが、彼にとっては目の前で鈍く光る剣が自分の命を奪うものに見えたのだろう。勘違いし、恐怖に顔を引きつらせたまま気を失った。こんなことでは実戦でも使い物にならないだろう。
「……答えてから気絶して欲しいんだけど」
 物騒なことを口にし、セシアは一度剣を鞘に収めた。他に騎士の気配はしない。この場にいる騎士は、気絶している一人を除けば苦悶の声を上げている者だけだ。
「リンカ?」
 暗闇の中呼びかけてみても返事は聞こえてこない。

「リンカ……?」

 セシアは辺りを見渡した。
 階段はここで終わっていたのだからこれ以上上はない。
 だが、ここには扉らしきものがどこにもなかった。下の階のどこかで扉を見落としたのだろうか。それとも地下室にいるというディーンの傍に彼女もいるのだろうか。
(一度ロシオルと合流するか)
 余計な邪魔者が現れても面倒なだけだと思い、セシアは引き返そうと身を翻した。


 ────セ、シア……。


 ふと誰かに呼ばれた気がしてセシアは振り返った。だが、暗いそこは静まりかえっていて人の気配はしなかった。
 気のせいか、と今度こそ引き返そうとすると、奥からがちゃがちゃという小さな金属音が聞こえた。

 まさか。
 彼女は、ここに。

「リンカっ!?」

 耳が判断した音の方向へ近づく。
 突き当たりは壁だ。
「リンカ!」
 壁を拳で殴ると、またその向こう側から金属音が届く。
 壁の奥に、まだ部屋がある。
 視線を横にずらしそこにあった大きな棚に目を留める。隠し扉だ。この確信は間違ってはいない。
 自分の背丈よりも高いそれを渾身の力を込めて押し動かす。中に何がいれてあるのか確かめる暇もなかったが、相当重かった。ぱらぱらと埃が舞い落ちる。完全に棚を移動させると、先ほどまでそれが隠していた壁に扉があった。小さめのその扉には鍵はつけられていない。中から開けることができないように扉を押さえていた板を手でたたき割り、セシアはそれを勢いよく開け放った。

 かすかな灯りが漏れる。
 開け放った扉の近くで、火がゆらゆらと揺れていた。
 視線を火から奥に向ける。燃え続ける火のせいかここは空気が悪い。

 がちゃりとまた金属の音がした。
 先ほどよりも明確なそれ。セシアははっとし、その方向を向く。


 そこには、ずっと探していた黒髪の少女が、いた。