ここから出して。わたしをこれ以上縛らないで。
嫌なことを思い出させないで。忘れたままで、いさせてよ。
心が次第に病んでいく。
始めのうちは、ディーンが部屋に入るたびに睨み付けていた凛華だったが、今では物音がしてもあまり動かなくなった。まるで叔父たちから暴力を受けていた頃の彼女と同じように、人形のように黙り込んでいる。
真っ暗な部屋。
窓がないので光がささない上に、この部屋には灯りさえない。
一日に一度、ディーンが彼女に食事を持ってくる。
彼と一緒にいるのは小柄な少女で、彼女が凛華に食事をさせた。
最初は彼が食べさせようとしたのだが、凛華が首を振ったり唇を噛み締めたりして激しく抵抗したのだ。いくら何も与えないまま放っておいても、凛華は頑としてディーンからの食事を口にしなかった。
そして代わりに彼女にやらせることになったらしい。彼女の名前はアルというそうだ。凛華が訊いた訳ではないが、ディーンがそう話しかけていた。
アルは食事だけでなく水なども凛華に持ってきたし、時間をおいては濡れたタオルで彼女の身体を拭いてくれた。辛うじて人間らしい生き方をしていたけれど。無口なアルはあまり話さない。凛華も、何も喋らない。
ただ静かに時間は過ぎていった。
「……お水です」
口に水の入った筒を近づけられ、凛華がほんの少しそれを飲む。
身動きできない状態で時間が経っていたので彼女の体力は底をつきかけていた。
だんだんと尋常でなくなっていく彼女を見つめ、ディーンは小さくため息をついた。
殺さなければいけないのに。いっそ殺してしまった方が彼女にとっては良いだろうに。
それなのに決心がつかない。
この少女はあまりにも、彼にとって大切な人に面立ちが似ていた。
(……殺せない。王に逆らうことになっても、彼女だけは)
ディーンは狭い部屋を出て、扉を背の高い棚で覆うとカツカツと音を立ててその場を立ち去った。
アルがその後ろを小走りになりながらついて行く。彼女は自分の意思でここに来たのではない。殺されなかった代わりに、ディーンの元にいるのだ。
鉄枷に縛り付けられた少女が可哀相だと思う。どうにかしてあそこから出してあげたいとも思う。
けれどそれがばれると、自分の命が危ういのだ。今はただ単に生かされているというだけで、彼女を生かすも殺すもディーンによって決まる。
助けなければと思っても、アルには凛華を助け出す勇気がなかった。
アルは死にたくなどなかった。自分の命が惜しかった。だから、囚われの少女のひどい待遇から目を逸らした。
「ディーンさん!」
後ろから声をかけられてディーンは渋々振り向く。
今はあまり誰とも話す気分ではなかった。
「……何だ?」
何人かの騎士が集まって自分の前に立っていた。ディーンの直属の部下だ。王命を受けたのはディーンと彼らだけではない。他にもいたが、彼らはディーンのことを毛嫌いする傾向があったので彼には近づいていなかった。
「……あの姫君をいつまでここに止めておくおつもりですか?」
いつまでもここに放っておけば。
それは、王への反逆。
「……お前たちに関係ない。とにかく見張ってろ」
そう言い捨てると、ディーンは振り向きもしないで立ち去った。
どうしても彼女を殺すことができない。
彼がいなくなった後に騎士たちの不満気な声が響いた。
「なあ……これって王への反逆になるのか?」
「ここにずっといればな」
「何でディーンさんはあんな小娘を……」
「……それが分かれば困りはしない」
頼りがいのある筈の上司を、疑ってしまった。ディーンは常に冷静で相手を簡単にやりこめることができ、そして剣の腕も王からの信頼もしっかりとしている。
黒髪の少女をこのままずっとここに止めておけばそれは立派な反逆罪だ。
王の腹心の部下が何故そのようなことをするのか、騎士たちには分からなかった。
さっさと息の根を止めてしまえば良い。
衰弱している上に鉄枷で縛り付けられている少女。殺すのは簡単だ。けれどディーンは彼女には指一本触れるなと言う。直属の上司が触れるなと言う以上、どうしようもなかった。
目を閉じていたフェデリアはうっすらと目を開けた。
窓の外に白い小鳥がいる。
立ち上がって窓を開けるとその鳥は切羽詰まったように部屋に飛び入り、翼をはためかせた。
『フェデリア、あの子は……っ!』
「――大丈夫。まだ殺されていないわ、ティオン」
『どこにいるの!?』
ローシャが告げた言葉。凛華が、ジェナムスティに連れ去られてしまったと。
大変だ。
このままでは「予定」が狂ってしまう。彼女は、この世界にとってかけがえのない大切な存在なのに。
「テニグよ。ティオン、貴女なら場所を知っている筈」
『……っ! フェデリア、最初からこうなること知ってたの!?』
鋭い問いだった。
嘘を許さないような、強い勢い。
フェデリアは気怠げに髪をかき上げ、ぽつりと呟いた。
「……巫女には、干渉してはならないことが多い」
それはティオンの問いを肯定する言葉だった。
『だから黙ってたの!? こうなることを、最初から知ってて! あの子がどんな目に遭うか知ってて……っ!! どんな想いをするか知ってて……っ!!』
感情の高ぶりに任せてティオンはきつくフェデリアを糾弾した。
許せなかった。知っていて黙っているのはこれ以上ない裏切りだと思った。
ティオンの責めに、フェデリアは謝罪の言葉を口にしなかった。顔を伏せ、手をきつく握り、口を開く。
「……わたしには、助けられないの。……だから、あなたが助けてあげて……っ。お願い……っ!!」
掠れた声で呟かれたその言葉に、ティオンは喋るのをやめた。不安と焦燥に駆られて半ば我を忘れていた。
ティオンは知っていた筈なのだ、契約を交わした時から。
巫女は命を司る者。全てを失い全てを手に入れる。女神の制約があまりにも多いことを。
そしてフェデリアの人となりも知っていた。
フェデリアだって、何も凛華がひどい目に遭ってしまえばいいと思って黙っていたわけではない。そのようなことをする人ではないのだ。
ティオンはそれ以上の糾弾をせず、入ってきた窓から外へと飛び立った。
一方凛華のいるテニグからかなりの距離を隔てたアルフィーユ王城の執務室では、ちょっとした諍いが起こっていた。
「ジルハ! お前なら何か知ってるだろう!?」
ジルハの胸ぐらを掴んでいたのはロシオル。
可愛がっていた弟子がいつまで経っても戻って来ないことに苛立っていた。そして彼は妹まで傷つけられたのである。幸い腕の良い治療師が王城には多く、致命傷というほどの傷ではなかったため命に別状はなく、何日か療養すれば貧血も治るそうだが。
それでも、その怒りは当然のものだった。
セシアとアイルは何も言わなかった。彼らも内心では同じだったのである。
運命を変える力を持つ少女。彼女はこの戦争を終わらせることができる可能性を持っている。彼女の行方を知っている者がいればどんな手酷い扱いをしてでも居場所を吐かせたい気持ちだった。
「何とか言ったらどうなんだ!!」
ロシオルが拳を振り上げた瞬間に、その場にいたベルが彼の手を掴んだ。
「兄さん。……殴っちゃ……ダメです」
まだ顔の青白い妹を見て少し冷静になったのか、ロシオルが悪かったと言って手を離した。
冷静にならなければならないのだ。ここで怒っていたところで何も変わらない。
「何だ……殴っても良かったのに」
ロシオルから解放されたジルハはそうぽつりと呟いた。
「お前な……」
ロシオルが呆れた表情を浮かべる。
もしベルが止めなければ本当に殴ってやるところだった。さすがに国王の執務室で剣を抜きはしないが、それでも彼は鍛えている騎士なのである。本気で殴ればジルハの頬骨は折れていただろう。
危険な目に遭わされた筈のジルハは不敵に笑う。
「一回殴って落ち着いてからじゃないと話にならないだろう?」
おおよそその通りだったのでロシオルは言葉に詰まった。
そんな彼は放っておいて、ジルハはセシアの方を向いた。
騎士風の礼を取り、これから自分が話す内容が、セシアとジルハではなく、「アルフィーユ国王」と「ジェナムスティの第五騎士隊長」としての話だと、暗に示す。彼は自分の知っていること全てを話すつもりだった。
「ロザリーさんの『見たもの』と俺の記憶からすると、多分リンカを攫ったのは……ディーン・セルディックだと思います」
そう言い終えてから、アイルに支えられているロザリーを見た。
白い服を着た彼女は体調が優れないらしく浅い息を繰り返している。貧血気味のベルよりも更に体調が悪そうだった。
彼女の「見たもの」とはどういうことなのか、この場の誰もそれを今更尋ねようとはしなかった。ほとんどの者がこのことを知っているのである。
元公爵の令嬢であるロザリーには、よからぬことがあると決まってそれがぼんやりと予期できてしまうという力がある。それは、神殿の巫女と言われるフェデリアほど確かなものではないけれど、時折「見えて」しまうのだそうだ。
ロザリーは今回のことも「見て」しまった。だから凛華にも注意をするように言ったのだが。
結局は、「見たもの」そのままが起こってしまった。
「その男は灰色の髪をしていたんですよね?」
確かめるように言うとロザリーはこくりと小さく頷く。
「灰色の髪で……つり目ぎみの鋭い目……だったわ」
ロザリーは途切れがちに言って最後は完全にアイルにもたれかかり、目を閉じた。
「それなら間違いありません。ディーンは……ティオキア王の腹心の部下です」
ジルハが言い終わると同時に、アイルは失礼しますとだけ言ってロザリーを抱えあげて出て行き、しばらくして戻ってきた。おそらく彼女をどこか別の部屋で寝かせたのだろう。
同じように、ロシオルもベルに部屋へ戻るように言った。彼女は申し訳なさそうに頭を下げると早足に部屋を退出した。
「……ジルハ。そのディーン・セルディックがどこにいるか分かるか?」
詳細な地図を広げ、セシアがジルハに尋ねる。
「恐らくは。……辺境あたりだと思います。特にこの街は……彼の出身地ですし」
ジルハが地図をさしながら答える。
指し示された場所はテニグだった。
「遠いですね」
ぼそりとロシオルは呟く。
「ここからだと馬をとばしても三日はかかる……か」
何かを考えながらセシアがじっと地図を見る。
往復するだけでも六日以上はかかってしまう。
「ティオキア王の命令でリンカを連れ去った理由は……彼女が『預言された少女』で、戦争の邪魔をされたくなかったからだな」
彼女はどちらの国にとっても見逃すことのできない存在。
アルフィーユにとっては大切な者。
ジェナムスティにとっては邪魔な者。
「それなら、その『切り札』をティオキア王の下に完全に連れて行くまではアルフィーユへの攻撃はない筈だ。……アイル、どう思う?」
セシアの知恵袋でもあるアイルに尋ねる。
彼はどんな時でもやはり冷静だった。
「もし既にリンカがジェナムスティの王城へ行っていたらどうするおつもりですか?」
それを考えなければいけない。
もし王城へ既に連れていかれたとしたら? 恐らく彼女は生きてはいない。
「いや、それはないと思う」
きっぱりと言い切るセシアに、アイルは口を開こうとしたが、その前にジルハが口を挟んだ。
「俺もそう思います。ロザリーさんが仰るように、暗い狭い部屋ならそれは王城ではありません。ティオキア王は……あの人の王城には狭い部屋などありません」
「ジルハの言うことも一理あるが、ここからテニグまでは三日はかかるし、テニグからジェナムスティの王城までは八日以上かかる。時間的に不可能だ」
けれど。急がなければ。
「リンカがティオキア王に渡ったらおしまいだ。彼はそれを切り札にしてアルフィーユへの攻撃を始めるだろう」
彼女を殺されたくなければ戦争を放棄しろと。
彼女が生きているかどうかに関わらず。
「……リンカがジェナムスティの王城にいる限り、こちらはジェナムスティに手が出せない」
アルフィーユにとって重要な少女であるけれど、それ以上に凛華はこの国の人々にとって大切な存在なのだ。
それはセシアも例外ではなかった。
彼女には何故か惹かれてしまう。どうしようもなく、彼女が大切で。傍に居て欲しい。
「……で? セシアは自分が行くと仰りたいんですね?」
アイルに見透かされ、セシアはくすりと笑った。
「かなわないな、アイルには」
「長い付き合いですから」
セシアは自らテニグに行くつもりだ。
それがどれだけリスクの高いものか彼はきちんと分かっている。国王がそう軽々しく敵国に赴いたりしてはいけない。けれどその常識を破ってまでも、彼女を取り返したかった。
彼女は誰のものでもないのにそう思ってしまう。
きっとその気持ちはロシオルも同じで。ふっと笑み、セシアは低い声で呟いた。
「リンカを……返してもらおうか」
それは為政者の顔。
成功をつかみ取る者の表情。
ジルハはその表情を見て自分がぞくりとしているのに気付いた。この国王を敵に回してはいけない。彼はやると決めたことはやり通す力を持っている。
(ティオキア王は牙を剥く相手を間違ったのだ)
セシアを本気にさせてはいけない。十九という年齢でこの広大な国を治める国王にはそれだけの力がある。ティオキアは、本気にさせてはいけない相手を本気にさせてしまったのだ。
「ロシオル、同行するか?」
「──御意」
ロシオルは赤銅色の瞳を細め、すっと膝をついた。
広大な国を完璧に統治する国王と、アルフィーユ最強と謳われる騎士。ジェナムスティは彼らを敵に回してしまったのである。たった一人の少女を彼らの元から奪ったことによって。
テニグに赴くのは少なければ少ないほど良い。人が多ければ目立つのだ。
結局はセシアとロシオルだけが行くことになった。一人は国王として全ての知識をたたき込まれ、一人は騎士の最高位を持つ人物である。危険は少ない。
「アイル、わたしがいない間、城は任せた」
「かしこまりました。セシア。……『王』は?」
そのアイルの質問にセシアは、サファイアのような瞳を細めて笑った。
それから、視線をジルハに固定してにこりと笑う。
「適任者がいるだろう?」
「……そうですね」
「…………何ですか?」
国王とその側近に視線を向けられたジルハが怪訝な表情を浮かべる。
適任者? ……一体何の?
「身長もセシアと近いですし……まさしく適任です」
アイルが小さく頷きながらジルハの肩をたたく。
いつもの無表情は、少しばかり何かを企んだ顔をしていた。どこかそう、少年のような。
「よろしく、ジルハ」
セシアも笑って肩をたたく。
二人に肩をたたかれ、さっぱり訳の分からないジルハはかなり慌てた。
「一体何なんですか!?」
そんなジルハにセシアはにっこりと──普通の女性なら笑顔だけで卒倒しそうなほど綺麗に──笑って一言。
「身代わり、頼んだぞ」
目は、笑っていなかった。
「ええええーー!?」
そんな叫び声は国王とその側近には届かなかった。……ようである。
その日の午後。アルフィーユ王城の正門から離れた場所にある小さな門から、騎馬が二頭出て行った。
馬に乗った人間は二人とも外套を深く被っていて顔が見えなかったが、片方のフードの影から輝く銀髪が見えた、とある宮廷女官が言い、正体が誰なのかを仲間内で囁きあった。彼女らは城内のゴシップが大好きなのである。
そして、その日の謁見の間では、銀髪で何故か瞳の赤い王が少しばかり不安げな顔で話を聞いていたそうだ。