ギィという耳障りな音とともに扉が開き、暗い部屋にほのかな光が差し込んだ。
灰色の髪の青年が入って来る。
彼の持っている灯りに凛華は漆黒の瞳を細めて、彼を見据える。その視線はかなり迫力があった。近づけば噛みついてやるといった風だ。警戒心剥き出しの猫のようである。
「……何だ気が付いていたのか」
灰色の髪の青年──ディーンは興味なさげに冷たく言うと部屋にあった椅子にどかりと座った。特に何をするでもなく腕を組んで凛華を見ている。
じろじろと無遠慮に見つめられ、彼女は面白くなさそうについっと顔を逸らした。
見張られている。
ぐっと手に力を入れてみてもこの鉄枷はびくともしないのに。こうやってただ見張られるのは気分が悪い。
「お前、名前は?」
不躾に問われ、凛華はむっと眉をひそめた。
ジルハに同じようなことを言われた時は文句を返しておいたが、ディーンに同じようなことを言うつもりはない。ジルハとディーンでは最初から自分への態度が違うからだ。睡眠薬を嗅がせてこうやって鉄枷で縛り付けるような騎士に返答する礼儀を、凛華は持ち合わせていない。
何も答えず俯き通すことで凛華が自分の意思を表す。
すると、無言のままディーンは立ち上がり、凛華の首に手をかけてもう一度尋ねた。
「名前は?」
「…………」
やはり凛華は答えない。
それどころか、顔すら上げなかった。
ディーンがぐっと手に力を込める。
「……っ!」
喉を押さえつけられ、息ができない。
それでも凛華は鉄枷以上に強い意思で何も答えなかった。
こんなところで屈服したくない。諦めるのは本当にどうしようもなくなった時だけだと決めているのだ。
「俺はディーン・セルディック。名乗られたら名乗り返すのが礼儀だろう」
横柄な態度でディーンは彼女の答えを待った。
しばらくし、凛華は掠れた声で呟いた。
「人を攫ってはりつけにする人なんかに礼儀の事を言われたくない」
俯いたままのその言葉にディーンがうっと詰まる。確かに彼女の台詞は正論だった。
そして凛華の首から手を離した。
元よりここで殺すつもりなどないのだ。
ディーンはティオキアに殺せとは言われていたが、捕らえてすぐに殺せとは言われていない。だから彼女をどうしようと彼の自由だ。
やっと呼吸ができ、急に流れ込んだ空気に凛華はごほごほとむせた。あれ以上続けられていたら気が遠くなってしまうところだった。
むせながら、ディーンの表情を見る。彼は瞳の色までもが灰色だ。
賭けてみようか。
一度俯き、凛華は彼の気を引く作戦に出た。情報を引き出すにはディーンから聞き出すしかない。多くのことを喋らせて、自分の状況を判断する。
まずは、自分に興味を持たせること。
「……でも……これはわたしが勝手に言うんだからね」
「あ?」
顔を上げ、真っ直ぐにディーンを見る。
(負けない)
この賭だって成功させてみせる。
凛華はいつまでもここにいるつもりはなかった。さっさと抜け出してベルに謝るのだ。ごめんなさいと。剣も持たないままに安請け合いをしてしまったことを。ディーンたちがすぐ近くに来るまでその存在に気づけなかったことを。
「わたしは凛華。この世界の巫女が預言した通りにアルフィーユに来たの。……これ以上は何を聞かれても喋らない。脅したいなら勝手に脅せば? 悪いけど、暴力には慣れてるんだ」
そんなものに慣れたって良いことないけど、という言葉を飲み込んで、凛華は別の方向を向いた。
拉致された理由は、おそらく凛華が本当に「預言された少女」かどうかを確かめ、そしてもしそうならば抹殺するため。
本物だという証拠は凛華の瞳の色を見れば分かる。
あえて高飛車ぶった態度をとってみせたことも、彼女がいっそうただ者ではないと示していた。
目の前の騎士が自分に興味を持てば良い。
少しでも早くここから抜け出すために。
まずはここがどこなのか。それが問題だ。
「そうか」とだけ言い、ディーンは出ていった。
始めと同じように静かな音のあとで何か大きな音が聞こえたが、凛華にはそれが何なのか判別できなかった。
大したことではなさそうだったので小さく息をついて俯く。
賭は失敗してしまったかもしれない。
もう少し何か反応を期待していたのだが。
仕方ない。他の方法を考えなければ。
(あと……わたしにできることは何?)
鳥笛は首にかかっているけれど、手は枷がついたままで動かそうとするとひどく痛む。これ以上動かすと傷が増えそうだった。
それに鳥たちには頼めそうにない。この部屋には窓がないのだ。
それなら他に、話ができる動物。
目を閉じて気配を探る。何か動物が居れば。
しばらくそうやっていると、かたんと足下で物音がした。
そこには小さな野うさぎが居た。くりくりとした目で凛華を見上げている。
『初めまして。預言された姫君っ』
どこかに穴でもあったのだろうか。
とにかく、自分以外に信頼できる存在がいて凛華が笑顔を見せた。
動物は好きだ。彼らは嘘を吐かない。
うさぎの言葉はきっと他人には聞こえないだろう。出来るだけひそひそと話すことにした。凛華の声は人間の声なので、大きすぎれば外に聞こえてしまう。
せっかくの機会をそんなことで潰したくはなかった。
「こんにちは。……ね、あなたはここがどこか分かる?」
ディーンから聞き出すことができなかったことをまずは尋ねる。
現在地を知るだけでも結構な手がかりなのだ。うさぎは長い白い耳を動かした後で、もぐもぐと口を動かしながら答えてくれた。
『ジェナムスティの辺境地のテニグだよ』
テニグ。
そう言えば以前にセシアから聞いたことがあったな、と凛華は思った。
彼の教え方はとても上手いので、凛華もはっきり覚えていたのだ。
確か、アルフィーユの王都アルフィスからは大分離れた場所だ。
頭の中で地図を思い浮かべながら自分の現在地を知った。歩いて帰るには、少しどころか、大分遠い。馬が必要だなと思うけれど、ジェナムスティに知り合いなどいない。どうやって馬を調達しようか。
けれど馬を調達することよりも何よりも、まずは自分がここにいることを知らせなければ。
まだ生きている。殺されてやるつもりもない。
「アルフィスまで行ける?」
アルフィーユに帰れるかもしれない、という一筋の希望が見えた気がして凛華は嬉しそうに野うさぎに尋ねた。
もし野うさぎ伝にセシアかロシオルに知らせる事が出来たらきっと助けが来る。
ローシャは凛華がどこにいるのか知らないので、例え非常事態だということは伝えられても、詳しい場所までは伝えられないだろう。
現在地を知らせなければ。
それか、助けが来る前に何としてでもここから自力で抜け出すのだ。
『行けるよ。……ティオンでしょう?』
野うさぎが答え、凛華は少し驚いた後ににっこりと笑った。
やはり動物は好きだ。見返りを求めないし、賢い。
「お願い、ティオンに伝えて欲しいんだ。わたしはテニグにいるって」
『了解』
もう一度耳を小刻みに動かし、うさぎは凛華の足にすり寄った。
まるで大丈夫だから安心していろとでもいうような仕草。それはとても温かくて、優しい感触だった。
野うさぎがいなくなってしまうと途端に部屋は静かになった。
どきどきと自分の心臓の音がうるさい。
大丈夫。大丈夫。
「大丈夫……」
自分に言い聞かせて落ち着く。
こんな所、さっさと出て行ってやるのだ。だから大丈夫。きっと成功する。
ふうとため息をついて動悸を抑え込んだ。
「他に……すること……」
思い出せ。
この部屋から出るにはどうしたら良い?
窓から逃げることはできない。入り口はあの扉だけだ。薄暗い中で扉に視線を向けた。あれが開いた時、何か音が。
そう音だ。何かを引きずるような鈍い音。扉の前に何かあるのだろうか、と考えてみる。
もしそうなら厄介かもしれない。いくら自分がこの鉄の枷を外せたとしても、扉の前に何か、しかも音からして結構大きい物があるなら、その時に時間がかかってしまう。
うさぎに聞いておけば良かった。
けれどわざわざ戻って来てもらうと時間がかかるし、なるべく早くここから抜け出したい。
扉は後で考えよう。
自分に運が向いてきた気がして、凛華は少し楽な気分になった。
だが。
次の瞬間荒々しく扉が開かれ、ディーンがあの野うさぎの耳を掴んだまま入って来た。
野うさぎがばたばたと暴れるのを無視して凛華の目の前にすっと突き出す。
「……お前のものか?」
うさぎは声など出さないのでディーンには分からなかったが、凛華には彼が「ごめんリンカ、バレた!」と言うのが聞こえた。
ディーンが部屋の前にいたのだろうか?
見つかって、しまった。
どうする? どうすれば良い?
希望が見えた瞬間にどん底に突き落とされ、愕然としたが、凛華は努めて自分を落ち着かせてディーンを見る。
「もしそうだと言ったら……?」
「殺すまでだ」
冷たくディーンが言い放った。
窓もなく寒いわけがないのに、凛華は背筋が凍るような気がした。
もう嫌だ。自分のせいで誰かが傷つくのはもう嫌だ。
「じゃあもし違うと言ったら……?」
「逃がす」
少しほっとして、慌ててまた自分を落ち着かせる。
落ち着け。
大丈夫。
うさぎは助かる。
「……知らない、そんな汚い野うさぎなんか」
なるべく冷たくあしらっている風に聞こえるように言った。一筋の希望を賭けて。
(知らないから。だから、逃げて。もうここには戻ってこないで)
「そうか。……では」
そう言うなりディーンは持っていた短剣を野うさぎの首に突き刺した。
「っ!! 何するのっ!?」
凛華が目を見開いて叫ぶ。
その目の前でディーンがゆっくりとした動作で野うさぎの耳を放すと、それは重力に従って床に落ちたきり、ぴくりとも動かなくなった。
赤い血がじわじわと床に広がっていく。
真っ白な野うさぎの毛が、赤く染まっていた。
小刻みに動いていた耳。
すり寄ってくれた小さな身体はとても温かくて、優しくて。
ついさっき、了解って。笑っていたのに。
さっきまで、生きていたのに。
血の匂いが、また。
頭の中を真っ赤に染め上げていく。
「どうしてっ!? 逃がすって言ったじゃないっ!!」
鉄枷が手首についているのを忘れたかのように凛華がその場で暴れた。
がちゃがちゃと耳障りな金属の音がする。乾きかけていた傷口から新たな血が流れ出した。つっと腕を伝い、凛華の袖口も野うさぎの毛と同じように赤く染まっていく。それでも凛華は暴れるのをやめなかった。
「どうしてっ! 逃がしてくれるって……っっ!」
動かなくなった野うさぎを見つめたまま凛華は悲鳴に近い声をあげた。
もしかしたら既に半狂乱になっていたかもしれない。
「どちらにしろ最初から殺すつもりだった」
冷たい声でディーンが言う。
彼の持った短剣も、彼の手も。うさぎの血で濡れていた。
生きていた野うさぎの血。その命を奪った剣。
「どうして殺したのっ!?」
目を瞑り、大声で叫んだ。
声が大きく反響して耳にうるさいけれど。怒鳴ることをやめられない。
何故。どうして。逃がしてくれると言ったではないか。
だからあんなひどい態度をとったのに。
殺されてしまわないように、あんな言葉を吐いたのに。
「殺さないって言ったのに!!」
がちゃがちゃと金属音が続いて。
相当痛む筈なのに、凛華はその痛みさえ感じていないかのように暴れるのをやめない。
ディーンは血がべっとりとこびりついたナイフを床に落とすと、カツカツと音を立てて凛華に近寄った。動けない彼女の両手首を鉄枷の少し上で後ろに押しつける。傷口に直接ディーンの指が触れ、鋭い痛みが凛華を襲った。
「うぁ……っ!」
自分が造り出した痛みではなく与えられる痛み。その痛みに息が詰まり、凛華は暴れるのをやめた。
ディーンが手を放し、そして今度は凛華の顎に片手を当てて上向かせる。
今にも泣き出してしまいそうな、悲壮な凛華の表情。
その表情を間近で見つめながら、ディーンは静かに唇を開いた。
「……お前は先ほど『これ以上は何を聞かれても喋らない』って言ったろ? それなのにあれを見て口を開いたのは何故だ? あれが、お前の味方だったからだろう? お前が動物と話すことができることなど知っている。見くびるな」
まるで野うさぎを、ものと同じようにディーンは言う。
醒めた目で血に汚れた毛の塊を見下ろしながら。
「……っ!」
凛華が息を呑む。
まさか。まさかうさぎが死んでしまったのは。
(……わ、たしの……せい……?)
「その沈黙が立派な答えだな」
ディーンは手を引き、そのまま振り返ると大きな音をたてて扉を閉めた。
「あっ……う……」
再び暗闇に閉ざされた部屋。
凛華は何度かその場で暴れたが、鉄枷は彼女に傷をつけるだけで解放してはくれなかった。
(ごめん……ごめんね……)
あんなひどい態度をとって。
あの野うさぎは助けようとしてくれたのに。温かさと優しさを分けてくれたのに。凛華が最後に口にしたのはひどい言葉だった。汚いなど、本心ではない。
「ごめんね……っ」
また助けることができなかった。
目の前で命が消えていくのを見ていることしかできなかった。
(お父さんの時も……お祖父ちゃんの時も……)
凛華はただ死なないでと繰り返して思っているだけで、何もできなかったのだ。そうして結局は父親も祖父も、亡くなってしまった。
(ごめんね。こんなにも悲しいのに……涙が出ないんだ)
これは罰なのだろうか。
「預言された少女」だと好意的に受け入れられ、そしてつまらない戦争など絶対に止めてみせると無茶なことを言い張っていた自分に与えられた、罰なのだろうか。
何かできるかもしれない。
そうやって、少し良い気になっていた。自分にも何かできることがあるのだと。
それが傲りだったというのなら。
この罰は、一番重い。
助けることなどできないのだと思い知らされることは、何よりも深く凛華の心に突き刺さった。
頭が、痛い。
泣くことができないおかげか、まぶたは腫れてはいなかったけれど、手首も足首も肩も痛かった。
鉄枷に痛めつけられた傷は空気に触れ、乾いていき、ひりひりと痛い。
どうして泣けないのだろう。
どうして助けられなかったのだろう。
──助けてくれようとした相手を、見殺しにした。
目の前で誰かが傷つけられるのをもう見たくなかった。
助けることができない自分が一番みじめになり、そしてそんな自分が腹立たしい。
どうして何もしてあげられなかったのだろう。あのようなことを頼まなければ、あの小さな野うさぎは生きていられたのだ。凛華さえ、自分のために助けを求めたりしなければ。
もう嫌だ。もう何がどうなっても良い。
もう、疲れた。
『ごめんなさい。ごめんなさい。もう殴らないで……』
『うるさい! 何もできないくせに文句ばっかりは一人前ね!!』
頬をぶたれ、踏みつけられ、なじられていたあの頃。
叔父や叔母は、よく凛華が「何もできない」子供だと蔑んでいた。「何もできない」くせに大半の遺産を手に入れた姪があまりにも憎らしくて。
何も、できない。
凛華はあの野うさぎにお礼も何もしていなかったのだ。
(……お父さん、叔母さんの言ってたこと……正解だったよ……)
結局、自分は何もできないただの子供なのだ。
「……っ」
がしゃんと響く金属音と声にならない自分の叫び声で目が覚める。
いつの間にか、凛華は寝てしまっていた。
絶望のふちにいても人間の体は欲求に素直なのだ。空腹を覚えるし、眠りに陥る。そして夢を見る。
(……また……夢……)
それはとても嫌な夢だった。
殴られ続けながら、どこかで自分はそれを肯定している。仕方がないのだと思っている。
現実では常にそれを否定していたのに。それなのに今になってあれを肯定しようとしている。
うさぎを見殺しにした自分は、自分が助かることばかりを考えていた自分は、過去の彼らの暴力まで仕方のないことだったのだと肯定しようとしているのだ。
あれは肯定されるべきではない。
肯定してはいけないのだ。
ここにいるからそんな気分になってしまう。暗く、狭い場所に閉じこめられているから、思い出したくもない事ばかりが凛華の頭の中を駆け回る。
そんな夢を見た時は、思いっきり体を動かして笑って。人と過ごして。暖かい場所で眠って。そうすれば、大した夢ではないと思えるのに。
だが、ここに縛り付けられている今の状況ではそれも出来ない。
「ぁ……」
最悪だ、と呟こうとして凛華ははっとした。
声が。
そしてもう一度声を出そうとする。
「……っ!!」
凛華は枷ががちゃがちゃとうるさく響いても暴れた。壊せないことは分かっている筈なのに、それでも外そうとする。
(どうしてっ? ……これって、まるで前のわたしだ……!)
いくら暴れてみても、人間の、しかも一人の少女に鉄の枷が壊せるわけがなく、やっと暴れるのをやめた。痛みを気にせずに暴れたせいで手首からまた血を流れる。
もうどれくらい血を流しただろう。どれくらいここにはりつけにされたままなのだろう。
(どうして……また……声が出なくなったんだろう……)
何度音を発しようとしてみても、唇から漏れるのはかすかな吐息だけ。