かちりと無機質な冷たい音をたてて鈍く光る鉄の枷が細い手首にかけられた。
枷をかけられている本人は身じろぎひとつしない。いや、したくとも出来ないのだ。
漆黒の髪を持つ少女は強力な睡眠薬を嗅がされ、幼い頃の幸せな夢の中にいた。
それは、父親との決して裕福ではないが幸せだった頃の夢。
両手首とも枷で壁に止めつけて両足にも同じものをつけようとした時、未だ夢の中にいる少女は小さく「お父さん」と呟いた。本当に嬉しそうな、幸せそうな声で。
それを聞いた少女の身体を束縛していっていた騎士たちが低いくぐもった声であざ笑った。
「……何がお父さんだ」
「こんなことになってまだ気付かないなんてな」
「──うるさい。余計なことを喋るな」
冷たい威厳のある声が後ろから聞こえ、あざ笑っていた騎士たちはぴたりと笑うのをやめる。
恐る恐る振り返ると灰色の髪の騎士が彼らを睨んでいた。冷えた灰色の瞳が突き刺さる。
「す、すみませんディーンさま……」
「いい。さっさと持ち場に戻れ。……その娘には指一本触れるなよ」
そそくさと数人の男性が狭い薄暗い部屋から出ていき、一人残ったディーンは覚めない夢の中にいる少女に一歩近づいた。
騎士によく見られる硬いブーツと床がカツンと音をたて、それが狭い部屋に響き渡っているにもかかわらず、彼女は目覚めようとしない。彼女が目覚めそうにないことを悟ったディーンは今度は音を気にすることなく彼女の傍まで近づいた。
彼こそがこの少女を攫った本人である。
保護欲をかき立てられるような、そんな繊細さを感じさせるまだ大人ではない少女。
手加減せずに掻き抱けば折れてしまいそうに華奢で、体格の良い騎士たちからすれば弱々しくしか映らない。実際ディーンは凛華よりも一回り以上身体が大きく、凛華の頬に伸ばされた手は彼女の顔の小ささと比べると随分大きく見えた。
こんな、守られなければ生きていけないような彼女が、二つの国の運命を握っているのだ。
神殿の巫女の預言はまず外れることがないと言われる。
だからこそそれを知ったジェナムスティの高官たちは「黒髪の人間は殺せ」と教えられてきた。
国の邪魔をする疎ましい存在。
戦争など止めなくて良い。
高官たちの中には、戦争で利益をむさぼる者がいる。彼らにとっては戦争で命を落とす者など関係なく、ただ利益がありさえば良いのだ。
彼らにとってジェナムスティは生きやすい。
ディーンは王命を受け、彼女を殺せと言われた。
けれど彼女は。
「指一本触れるな、か……」
先ほど自分が口にした言葉をもう一度呟き、苦笑する。
「王妃さま」
目の前の少女の黒い髪に触れる。
決して触れることの叶わなかった尊い女性。
儚げに微笑んで、そして泣きながら死んでいった愛しい人。
「……似ている」
高い位置でまとめられていた髪の紐をほどき、さらさらと滑り落ちるそれを手にとった。
愛おしげに髪に口づけようとした時、寝息をたてるだけだった少女の唇から微かな声が漏れる。
「ごめ、なさ……。謝る、から……殴らな……で……」
先ほどの幸せそうな声とは全く違う、明かに何かに怯えた声。
彼女は他人がいると眠ることができない。
一度セシアがいるにも関わらず眠ってしまったことがあるし、ベルが部屋の中に入ってきたのにも気づかず目覚めなかったこともある。けれどそれはいつもとは違う状況であって、いつもはどうしても他人がいると嫌な夢に襲われるのだ。
嫌な記憶はいつも彼女を苦しめた。
ディーンはぴたりと動きをとめ、髪から手を離した。
──あなた、わたしを見て。あなた……。
今の少女のように震えていたあの人。
──王妃さま、お気を確かに!
──わたしを、見て……。
この少女も、狂っていくのだろうか。
彼女と同じように。
ただ一人の人を愛し続けて、けれどその相手から愛してもらえずに、静かに涙を流して。そして最後には、愛してもらえないままに、死んでいってしまうのだろうか?
「ごめ……なさ……」
何に怯えているのか、がくがくと震えている少女を一瞥してから、ディーンはカツカツと足音を立てて部屋から出た。
たった一人、手足を縛められた少女は暗い部屋に取り残された。
ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きそうな声で繰り返して。
(お父さん、お祖父ちゃん……。わたしを一人にしないで……)
「凛華ちゃんの髪はお母さんに似て綺麗ねえ」と頭を撫でてくれた叔母。
「将来はとびきりの美人だな」と、いつも笑っていた叔父。
父や祖父が生きていた時はあんなにも優しかった人たち。
けれど父が亡くなった時から、凛華は彼らが怖くて仕方がなかった。
父親の葬式の場で、とてもひどいことを言われたのを、ずっと覚えていたのだ。そして祖父が亡くなってからは、それが、もっとひどくなった。
祖父という身よりをなくしてしまった凛華は、結局叔父の家に引き取られることになった。
あんなに優しかった彼らは、大人しく手のかからない姪を、ひどく嫌い始めた。
凛華は一体自分が何をしたのだろうと、叔父たちに怯えながら思っていた。
(何かしたなら謝るから……だからもう……殴らないで……)
『何てムカツク子供なのよ!』
『ごめ……なさ……。も、殴らないで……』
顔の前で両手を組んで歯を食いしばりながら必死に謝る黒髪の少女。
叔父たちは厳しかった祖父の目がないのを良いことに、彼女に暴力をふるった。何度も、何度も。
目障りだったのだ、彼女が。祖父に可愛がられ、遺言によりその遺産の大半を手中に収めた彼女が。
溜まったストレスは全て暴力という形で彼女にぶつけられていく。
守る者は誰もいなかった。母親が亡くなってしまってからずっと彼女を一人で守り続けていた父親は既に亡く、厳しく目を光らせていた祖父も一年後には他界している。
彼女は食事を抜かれても学校にだけは通っていたが、それでも教師も友達も気づけなかった。ただ一人、凛華が一番親しくしていた子だけは気づいたけれど、子供にできることは何もなく。
誰にも言えず、ただじっと嵐のような暴力がやむのを待つだけ。
青あざが出来ても血が出ても彼女はごめんなさいと繰り返す。
それが更に嗜虐心を煽るのか、叔父たちは彼女に容赦なくあたった。華奢な少女に大の大人が暴力をふるっていいものではないのに。
そんな事が続いてしばらくすると、少女は泣きもせず笑いもせず一切の表情を出さないで、何も話さなくなった。
彼女の友達や担任教師がいくら話し掛けても何も答えず、何の反応も示さない。
まるで人形のよう。
その彼女が眠る時だけは人間らしい表情を浮かべる。
父親と祖父の夢を見て。幸せそうに微笑んで。
そして叔父たちは彼女が眠っている間にも暴力を振るうようになった。また人形のようになるまで殴る、蹴るの暴行を加え続ける。
肉体への暴力だけでは飽き足らず言葉の暴力までもがまだ幼い少女を傷つけた。
体の傷はいつか治るが、心の傷は治らない。
ついには、周りの人たちがいくらあざ笑っても撲っても、彼女は眉ひとつ動かさなくなってしまった。
笑わない。
泣かない。
怒らない。
ただいつもぼんやりどこか遠くを見ているだけ。
彼女が思い出すのは彼女を守り、育ててくれた父親と祖父の影。
『凛華〜。父さん、今日の晩は肉じゃががいい!』
『はーいっ。あ、お父さん、今日ね、お祖父ちゃんから電話あったんだよー。さっさと凛華を連れて帰って来んか、だってさっ! お祖父ちゃんにかかればお父さんも子供みたいだねっ』
『ははっ。ほーんとあの人は凛華を溺愛してるよな……。まあじいさんの孫の中じゃ凛華が一番可愛いからなっ』
そう言って、大きな手で頭をわしわしと撫でてくれて。
凛華は「ぐしゃぐしゃになる〜」と楽しそうな悲鳴を上げて父親の手から逃げ回った。
けれどあっさりと捕まって。弱点を知っている父親に脇腹をくすぐられて、凛華は今度こそ本気で悲鳴を上げた。
『きゃはははっ! お父さん、卑怯だよーうっ! 仕返しだっ!』
実は父親も脇腹が弱いことを凛華は知っている。
スーツを脱ぎかけていた父親は、突然小さな娘が弱みを突いてきたことに驚き、笑い声を上げた。
二人で笑いあって、腹筋が痛くなるほどになって。
ようやくお互い手を引いて、息を整える。
凛華はちらっと父親を見上げて、尋ねたかったことを口にした。
『……お父さんは?』
愛してくれている?
『――勿論。一番凛華が大切だよ』
当たり前だとでも言わんばかりの力強さで、父親はそう言ってくれた。
『凛華が結婚しちゃったら、父さん寂しくて泣いちゃう』
何だか可愛らしく言われたその言葉に、凛華はけらけらと笑った。
『お父さんご飯すぐにできるから、お風呂先に入っててね』
父親の大きなスーツの上着を受け取り、凛華は軽やかな足取りでハンガーを取りに行った。
その小さな背中に、ネクタイを緩めながら父親は声をかけた。
『凛華。勿論母さんだって、凛華が一番大切だったんだからな』
凛華は振り返り。
それから、光そのもののようなあどけない笑顔で笑った。
『知ってるよー。わたしもお母さん、お父さんと同じくらいに大好き!』
(お父さん、お母さん……お祖父ちゃん。大切だって言ったくせに、どうしてわたしを一人にするの……?)
いつまでも傍にいてやるからと。
そう言ったくせに。
(ねえどうしてわたしは笑えないの……?)
鏡に映る痩せた子供はまるで自分ではないみたいで。
必死に笑顔を浮かべようとしても、空回りを続けるだけだった。
(どうして……声が、出ないの……?)
喉が痛い訳ではない。それなのに声を出そうとすると、何故か怖くなってしまって声が出せない。
何か余計なことを言ってしまったらどうしよう。
怒られる。殴られる。蹴られる。
――それは怖い。
もうここにいるのは嫌だ。
中学三年になってから、凛華は叔父たちの家を出た。
周囲の人たちは反対したし、子供が一人暮らしなどできるはずがないとさんざん担任にも言われたが、凛華は決して考えを変えようとはせず、何が何でも家を出るのだと主張を続けた。
叔父たちの傍にいるといつか自分は気が狂ってしまうのではないかと、そんな風に思って。
一人で暮らすのは苦痛でしかなかった。
叔父たちは何の干渉もしてこない代わりに、何の援助もしてこなかった。けれど凛華はそれでいいと思っていた。あれ以上叔父たちに少しでも借りをつくるのは嫌だったのだ。
家を出て最初の内は、一人暮らしをしているという担任の家に泊めてもらって。
受験を控えている学年だというのに、担任も親身になって一緒に家を探してくれた。
中学生を雇ってくれる筈もなく、最初の一年は祖父の遺産を少しづつ使って生活をし、そして高校に合格してすぐに高校生可のバイトを始めるようになった。
親代わりの叔父たちは何もしなかったが、親友や担任は助けてくれた。
やっと誰とでも普通に会話できたり笑うことができるようになった時には、叔父たちから受けた身体の傷はほとんどなくなっていた。
けれど。心は。
心の奥の、傷だけは――――
「……ん」
はっきりしない目を擦ろうとしたが、腕が動かない。
怪訝に思って横目で見ると、自分の手首には冷たい鉄の枷がはめられていた。そこで一気に凛華は目覚める。
「何……これ……!?」
何かの薬でがんがんする頭を何とかフル稼働し、自分の身に何が起こったのかを凛華は思い出そうとした。
――あの時、何があった?
ベルに促されて、一緒に花を見に行った。
野生のアネリスクという花が広がっていて。すみれによく似たその花はベルが一番好きな花らしく、二人で綺麗だと感想を言い合って。
花に気をとられてしまっていたせいで、ベルの方を見ていなかった。後ろにも、全く気を向けていなくて。
聞こえてきたベルの悲鳴。
振り返った時には遅すぎた。
足から血を流しているベルが地面に押さえつけられている。凛華よりも日焼けしていない白い肌に、血が滲んでいた。
「あ……っ!」
たくさんの、血が。
花は血を見たいのではなくて。自分たちを見て笑顔を浮かべる人の顔が見たい筈なのに。
油断をした。凛華はあの時剣を持っていなかった。剣さえあれば太刀打ちできたかもしれない。ベルに怪我をさせずに済んだかもしれないのに。
ロシオルだっていつも言っていたではないか。
剣を手放すなと。それなのにどうしてそれを守ることができなかったのだろう。セシアは注意してくれたのに。アイルも警護騎士をつけるようにと注意を促してくれていたのに。
「ベル、ベルっ! ベル、どこっ!?」
周りをきょろきょろと見回す。
けれど暗い室内には凛華一人しかいないようだ。
頭が、痛い。
「いた……っ」
無理に手を動かしたせいで手首にも痛みが走る。
ああ血だ。
赤い、血。
ベルが流していた血。
倒れた警護騎士たちを染めていた血。
父親の側頭部をべっとりと覆っていた血。
祖父が、苦しげに吐いた血。
錆びた鉄のような匂いを思い出して、凛華は眉間に皺を寄せた。
血なんて、思い出したくないのに。
どうしてこんなにも血の光景ばかり思い出してしまうのだろう。
自分の身は自分で守ると決めたではないか。
誰かを守ることができるように剣を習ったではないか。
それなのに。どうして、ベルを守ってあげられなかったのだろう?
どうして、傍に居たのに。怪我を負わせてしまったのだろう?
守ってあげなげればならない、大切な友達だったのに。
「痛い……」
つうっと手首を血が流れていく。
記憶の中の血の匂いが現実となり、気持ち悪くなった凛華はゆるく首を振った。
手首が痛い。薬のせいで頭が痛い。
けれどそれよりももっと痛いのは、心。
悲しいのに。こんなにも辛いのに。涙は溢れてこなかった。
「どうしてわたしは泣けないの……」
どうして涙が出てこないのだろうか。こんなにも悲しいのに。まだ、泣くことはできないのだろうか。
「ここ……どこだろ……」
恐らくジェナムスティの何処かだ。
肩や首は押さえつけられていなかったので、凛華は可能な限り首を動かして状況を把握しようとした。
そこである事に気付く。
窓がないのだ。
彼女がいる部屋は窓がなく灯りもないので薄暗い。
足につけられた枷は手首ほどきついものではなかった。足を軽く動かす。とんとん、と伝わってきた感触は恐らく木だ。大きな木材か、木製の壁に鉄の枷ではりつけにされてるのか、と納得する。
そこまで自分の現状を理解して、凛華は長いため息をついた。
目が覚める直前まで見ていた幸せな夢。
『一番凛華が大切だ』
そう言ってくれた優しい父親の笑顔が凛華の頭の中に浮かぶ。
なのに目が覚めたらこれだ。
自分の髪が頬にかかるのを感じ、くくっていた筈の髪がおろされているのに気づいた。
「髪に勝手に触るなんて……最低だ」
くくり直したいが手に枷がついている為にままならない。凛華はもう一度息を漏らした。
(大丈夫。ベルは大丈夫だ)
ベルはあの時しっかりとローシャにしがみついていた。ローシャは賢い馬だ。ベルを落としたりはしない。
あのままアルフィーユ王城まで連れて行ってくれた筈。
ローシャは何か言いたげにしていたけど、頼み事を無視するような友達ではないから。
そしてローシャはきっとこのことをティオンに伝えてくれる。
ティオンだって頭の良い鳥だ。鳥の脳は小さいと言われるが、ティオンはものすごく知的な動物だった。
「ベル……」
王城には治療師がたくさんいるからきっと診てもらえる。手当を受けられる。
ベルが王城についたら、倒れていた騎士たちにも助けが来る。
「死なないで」
自分のせいで死んだりしないで。
もう見たくない。誰かが傷つくのは見たくない。
セシアやロシオルはもう自分がいなくなった事を知っただろうか。
両脇を騎士に支えられたベルが、国王の執務室に入る。責めは後で受けるからと頼み込んで騎士たちに開けてもらったのだ。
「陛下……っ!!」
執務室で書類に目を通していたセシアとアイル、その前で警備の書類を手にして彼に承認のサインを貰おうとしていたロシオルが驚いて扉の方を見る。
「ベルっ!?」
ロシオルが、扉に手を付き足から血を流している自分の妹を確認して声を掛けながら近寄った。
二人の騎士に支えられていた彼女は肩で大きく息をし、貧血を起こしているのか真っ青になっていた。まだ手当されていない傷から血が流れ落ちる。
「ご無礼をお許し下さいっ。ですが非常事態です! ……リンカが……っ!」
騎士から離れてロシオルの手を借り、ベルはセシアを見た。出来事を全て知っているのはこの場ではベルだけだ。まだ倒れる訳にはいかない。気を失ってはいけない。全て伝えないと。
「リンカがどうかしたのか?」
ただ事ではない雰囲気にセシアが手にしていた書類を置いた。
あの人を惹きつける少女に何が。
嫌な予感から目を背けながらも、ベルの次の言葉を待つ。
「ジェナムスティの……っ、兵士に連れ去られました……。一緒にいた四人の騎士は全員重傷です。生死は分かりません。リンカがどこに連れ去られたのかも……分かり、ません。リンカについていながら……申し訳、ございませんでし、た」
言い終えたベルは流血による貧血でふらふらとへたり込み、ロシオルが慌てて彼女を支える。
ベルの呼吸は浅く、できるだけ早く治療をしなければ血を失い過ぎるだろう。ロシオルは応急処置にと、妹の傷に裂いた布を巻き付けた。みるみる内に布が赤く染まっていく。
話を聞いた室内の三人は、驚きに目を見開いていた。
「一緒にいた四人の近衛が全員重傷だって? ベル、お前はどうして足の怪我だけなんだ?」
妹の顔を覗き込んでロシオルが尋ねた。
「リンカが、ジェナムスティの騎士たちに、わたし……には手を出すなと仰って下さったから、ですわ……。逃げてと……ローシャを放して下さいました」
たった一人で乗る馬は初めてで。
けれど落馬する訳にはいかなくて。
ただ必死にしがみついて、やっと王城へたどり着くことができた。
「リンカは何か眠り薬みたいな……ものをかがされたようです……。倒れかけていました。……申し訳ございません! わたしなどが……一人戻ってくるなど……」
「いやいい。ベルだけでも……よく帰ってきてくれた。ロシオル、治療室へ」
「はっ」
近衛騎士の中でも精鋭に近い騎士たちだった筈だ。
最強騎士のロシオルとまでは言わなくても、相当な実力の持ち主だ。だからこそセシアは彼らに凛華の警護を命じたのだ。
その騎士が四人とも重傷?
凛華が攫われた?
アルフィーユにとって、国王と同等に重要な「預言された少女」を?
王都から近い場所で?
彼らが退出した後で、セシアはだんと机を拳で叩いた。
その勢いでペン立てが倒れ、インク壺が倒れかける。それを見ていたアイルはとっさに掴んで元通り直した。
「……セシア」
声をかけるが、いつも冷静な国王は珍しく感情が高ぶっているらしく、きつく握った拳が微かに震えている。
行かせるべきではなかったのだ。
まさか王都の近くまでは深入りしてこないだろうと踏んで彼女を危険に晒した。
「ジェナムスティに……」
――行かなければ。
立ち上がりかけ、しばらく逡巡してセシアはまた椅子に座り直した。
アルフィーユ国民全ての命を肩に負わなければならない立場にいる彼は、そう簡単に動いてはいけない。
彼がジェナムスティまで行ったとしたら、その間アルフィーユは王が不在ということになる。それは何としても避けなければならないことだった。何よりもジェナムスティ兵に見つかれば彼とて無事では済まされないだろう。凛華と同等かそれ以上に彼はこの国にとって重要な人間なのだ。
王に即位した時から分かっていたつもりだが、たった一人の少女も救えない立場にいる自分に苛立つ。
助けたいのに。
またあの笑顔を見たかったのに。
「――リンカ……っ」
「……焦って闇雲にジェナムスティに乗り込むよりは……リンカのいる場所の特定を急ぎましょう」
アイルがいつものように落ち着いて言った。その落ち着きが羨ましいとセシアは思う。
けれど確かにそれが最善の方法なのでセシアはそれに賛同した。一刻も早く居場所を探し出して、そして殺されない内に取り戻さなければ。
彼女は二つの国の運命を握る者。
どちらの国にとってもその存在は放ってはおけないものである。
けれど国政のためだけでなく。彼女は人を惹きつける。心が彼女に向かってしまう。
何としても無傷で助け出したかった。
「どうか、無事で……」
セシアは祈るようにそう呟いた。