凛華はその日、大変不機嫌だった。
と言っても、人前では機嫌良さそうにいつも通りでいるので注意深く見ないと分からない。
理由は簡単。
つい先日、疲れが祟って勉強中に熟睡してしまったせいで、セシアに剣や乗馬をする時間を強制的に減らされたのである。しかも一割ほどのカット、などという生やさしいものではなく、半分以下にまで、だ。
おかげで凛華はかなり暇になってしまった。
ベルに文句を言ってみても「当たり前ですわ」と返されてしまうし、ロシオルに内緒で稽古をしてくれと頼んでみると「臣下が命令に背けると思うな」と苦笑いされ。リーサーには「良い機会だからゆっくりすれば?」とあしらわれてしまうし。
ああ暇だ。
女性が憧れるようなきらびやかなドレスや夢のように輝く宝石には、凛華は全く興味がない。
綺麗なものに憧れる心は人並みにあり、それを見て綺麗だなとは思うが、それで暇を潰すことはできないのだ。
凛華には、ローシャに乗ってティオンと遠乗りしたり、シエルと剣を交わす方が余程楽しい。ロシオルの稽古は半端なく厳しいので、楽しいとは言い難いけれど。
どうせなら誰かと話していようかとも思うのだが、最近は仕事が忙しいのかセシアやロシオルには会うことができなかった。廊下でもすれ違わないし、彼らは大広間にも顔を出さなかった。
本っ当に暇だ。
「あ……ジェイドっ!」
いい加減、何もすることがないという状況に耐えられなくなった凛華は城の庭に出て、そこで真っ赤な髪の人物を発見した。
ジェナムスティの第五騎士隊長だったジルハだ。今は凛華付きの護衛騎士である。
「ああ、リンカ」
ジルハが軽く手をあげて笑う。
その彼を見て何か良い事でも思い浮かんだのか、凛華は楽しそうに彼に近づいた。その笑顔はとても爽やかだ。例え何を企んでいようとも。
「ジェイド! あのね、お願いがあるんだけど……」
「何だ?」
にっこりと、凛華は笑って。
「わたしの剣の相手してくれないかなあ? ジェイドって騎士隊長なんでしょう? 剣、上手いよね」
ジルハが大体予想していたことを、口にした。
どうやら、ロシオルが多忙で剣の稽古をつけてくれないので、彼に相手をしてもらうつもりらしい。
アルフィーユとジェナムスティ、どちらの国でも騎士隊を任せられるということは軍部の高官ということであり、剣は上手い筈である。
暇を潰せるかもしれないという思いで凛華が嬉しそうにしていると、ジルハがふうとため息をついた。
「無理」
あっさりと、それはもう素晴らしくあっさりと凛華の期待に背く。
「……どうして?」
あまりにも即答で断られてしまった凛華はいささか機嫌悪そうにそう尋ねた。
彼は凛華の護衛騎士であるから、いつもは彼女に甘かったりするのだ。それなのにどうして今日に限ってこんなにもあっさりと期待を打ち砕いてくれるのだろうか。
「国王陛下からの命令でね」
笑いながら肩を竦めるジルハに、凛華は更にむっとした。
彼女がジルハに剣の相手を頼むであろうことを予期した国王陛下は、前もって彼に根回ししていたらしい。この国を統治できる程の敏腕な陛下は、凛華より一枚も二枚も上手だった。
ジルハはその時、セシアが「リンカのことだから一週間ももたないだろう」とぽそりと呟いたのを覚えていて、さすがアルフィーユの国王だと思った。
セシアが凛華にしばらく大人しくしているように言った日から、今日で丁度一週間だったのである。
機嫌が悪くなったがその怒りを何の関係もないジルハにぶつけるのも躊躇われて、凛華はくるりと踵を返した。暇を解消できないのがこれほどイライラするものだとは思わなかった。
彼女の後ろ姿を眺めて、ジルハは額に手をやった。
「これも陛下の仰った通りだ」
彼女の相手を断ればきっと彼女はむっとした表情になってそのままどこかへ行くだろう、と言っていたセシアの言葉通りだ。
やはり彼女より上手である。
その後の彼女の動きまでも読んでしまった。
ぼそりと呟き警護騎士は塔に向かうことにした。
塔の住人は今のところ四人である。ジルハを除けば三人だけ。彼女らを守るのが彼の仕事であった。
少し先に見える凛華の後ろ姿。
くるくると表情を変える彼女はひどく可愛らしい。
生き別れになってしまった妹と似ている訳ではないが、それでも彼女はどこか自分の妹を思い出させる。楽しそうに笑っていたかと思ったら突然眉をひそめて黙り込んだり、かと思えばまた何事もなかったかのように行動したり。とにかく見ていて飽きない。
「陛下と騎士隊長のお気持ちも分かる」
くすりと一つ笑みをもらす。
この国がこんなにも爽やかで過ごしやすいのは、彼女がいるからかもしれない。
自分の部屋に戻り、発散できない怒りを持てあましていた凛華は寝台に座り、ふうとため息をついた。
『リンカ、機嫌極悪だね』
いつの間にか窓枠に留まっていたティオンがそんな風に彼女をからかう。
彼女は、むっとした表情のまま言い返した。
「別に? そんなに怒ってないよ」
説得力は全くない。
『……じゃ、どうして扉の前に枕があるの?』
ティオンは凛華が帰って来てしばらくして部屋を訪れたので、見た訳ではないが大体予想はつく。
恐らく怒りの向けどころを見つけられなくて、枕を扉に投げつけたのだろう。投げつけたくらいで枕は駄目にはならないし、ぶつけられた扉も傷むことはまずない。気性の荒い女性ならば花瓶をたたき割ったりでもするのだろうが、凛華はそこまではしなかったようだ。
「知らない」
ぷいっとティオンから顔を背け、凛華は膝に顔を埋めた。
『やれやれ……』
「うるさいなあ」
思わず出た凛華のセリフに、ティオンは怒らなかった。
ティオンは、彼女に怒りをぶつけられてしまった可哀相な枕を引っ張ろうとしたが、小鳥に大きな枕を運べる訳がなく、諦めて凛華の隣に留まった。
広い明るい部屋を沈黙が支配する。
少しして彼女が俯いたまま辛うじて聞き取れる程の声で言った。
「……ごめんティオン。これじゃただの八つ当たりだよね……」
先ほどの自分の態度は悪い。
体調管理もできない自分に自粛令が出ただけなのだからティオンには全く関係がないのだ。
それなのに自分は。わざわざ話し相手になってくれたこの小鳥に、八つ当たりをしてしまった。
『怒ってないよ。それに、誰かにぶつけた方がすっきりするでしょう?』
「うん。……ありがとう……」
膝に埋めていた顔をあげて、凛華がティオンに笑いかけた。
機嫌を損ねてしまっても当たり前のことを自分は口にしたのに、ティオンは凛華を全く責めようとしない。その優しさが嬉しかった。
『陛下にお願いして、遠乗りで気晴らしして来たら?』
凛華の隣から膝へと移動して、ティオンが提案する。きっとそれくらいならセシアも許してくれるだろう。ローシャは賢い馬なので迷うことはないだろうし、凛華が帯剣していれば特に危険はない。
ティオンの提案に、凛華は窓の外を見つめて頷いた。
「そうしようかな。ねえ、ティオンも行く? 明日、空いてない?」
『明日はちょっと……』
「? 何かあるの?」
『ちょっと……ね』
煮え切らないティオンの物言いに疑問を感じたが、凛華は問い詰めようとせずに「じゃあ、お土産楽しみにしててね」と笑った。相手が嫌がっているところで余計な詮索はしないというのが凛華の考え方である。
いつ許可をもらいにいこうかと楽しそうに計画する凛華を見つめて、ティオンは小さなため息をついた。
素直な凛華。
尋ねたいこともあっただろうに。
彼女はおそらく幼い頃からずっとこうしてわがままを言わずに育ってきたのだろう。
(──でも、ごめんね。……今はまだ言えない……)
翌日、悪いとは思ったが凛華は執務室を訪れてセシアに頼みごとをした。
凛華が遠乗りをしたいと言うと、最初は渋っていた彼も何度か頼み込むと仕方なく許可を出してくれた。もっとも、凛華に可愛らしく首を傾げながら上目遣いで言われて、どうやってセシアが断れようか。
ただ、その場にいた側近のアイルに警護騎士を連れて行くように言われた。
セシアもそうした方が良いと付け加える。
「どうしてですか? わたしはもう落馬なんてしませんけど……」
凛華は、落馬することを懸念して言われているのだと思い、少し不満そうな声をあげた。
まるで自分の乗馬の腕が駄目だと貶されたようで悔しかったのだ。
けれどアイルは静かな声で凛華に言った。
「念のためです。……ロザリーからも頼まれていますから。騎士をつけられないのなら、許可は白紙です」
有無を言わさぬ物言い。
鋭い明るい瞳が反論を許さない、という風に光っていた。この副官の表情はなかなかに強制力がある。
「……分かりました」
頷き、凛華はぺこんと頭を一度下げて執務室から退出した。
扉を開けるとそこには既に警護騎士が彼女を待っていた。見たことのない彼らだが、きっと近衛騎士か何かなのだろう。
「お供致します」
「あ、ありがとうございます……」
言い出さなければ良かったかもしれない。
自分が遠乗りに行こうと言ったから、この四人の騎士にまで迷惑をかけてしまった。
それでも一応許可はもらったのだ。良い方へ考えよう。
騎士たちに付き従われるという今までにない状況に戸惑いながら、凛華はローシャのいる厩舎へと向かった。
(何か、ある)
今までは一人でも何も言われなかった遠乗りに、何故今回だけは警護騎士をつけないと許可を出さないと言われたのか。何故こんなにも騎士たちが張りつめているのか。ぴりぴりとした彼らの緊迫感が凛華にも伝わってくる。
そして何故、ロザリーがこの件に関与しているのか。
彼女は元公爵令嬢で、今は国王補佐の妻だ。
特に凛華との直接の関係はないはず。その彼女が何故?
どきどきと、何かが心の中で訴えている。
何かある。何か。きっとそれは自分にも関係がある、何か。
そう言えば最近やけにロシオルが忙しそうにしていた。
彼は城内警備の責任者だ。それを担当する彼が何故あそこまで忙しくしているのだろうか。
セシアとも、最近はあまり会うことができない。先ほど執務室に入った時も、難しそうにアイルと話をしていた。
王城内が水面下で慌ただしい。
(わがまま言わなきゃ良かったな……)
ため息をついたところに、後ろから声をかけられた。
「どうかなさいましたか? リンカ」
考え事をしていた最中だったので、びくりと驚く。
凛華が振り返ると木の籠を持ったベルが心配そうに自分を見ていた。
「あ……ベル。何でもないよ」
何でもない。そう、何も起きなければ良いのだ。
自分に関することなら自分で解決してやろうではないか。
「ちょっと遠乗り行ってくるね」
「遠乗りに行かれるのですか? あ、わたしもご同行させて頂けます? お部屋にお飾りするお花を摘みたいんですけど……」
「ベル、馬に乗れるの?」
素朴な疑問を凛華が口にすると、ベルはにっこりと笑った。
「リンカに乗せてもらいます」
「……落ちてもしらないよ?」
「リンカと一緒に落馬するなら別に構いませんわ」
何だこの侍女は。
しばし絶句した凛華は、こっそりとため息をついた。
それでも男性の騎士四人と自分一人というのはあまり嬉しい状況ではなかったので、彼女の同行を快く承諾した。異性ばかりというのは苦手なので、ベルがいれば気が楽だ。
「まあありがとうございます」
ベルは嬉しそうに笑った。
何だか最初から凛華が承諾することを知っていたかのような喜び方だ。このままでは五十年経っても、ロシオルはおろかベルにすら勝てないかもしれない。何だかそんな予感がした。この予感が当たらないことを祈ろう。
「ロザリーいる?」
ひょこりと久しぶりに部屋を訪れた親友に、ロザリーはふっと表情を崩して笑った。
「珍しいね、リーサーがここに来るの」
予見をしてしまったせいでひどく体調が思わしくない。
そうアイルから聞いたリーサーは早速ここへ訪れたのだ。
予見――未来を見てしまう力は、時としてそれを見た者を傷つける。
何を見てしまったのかは知らないが、リーサーは彼女の侍女をしていた時からその内容については深く尋ねないことにしていた。
その内容は誰か一人が知っていれば良いことで、アイルが先に聞いているのなら他の人が再び思い出させるようなことをしなくても良い。
「まあね。さっきリンカとベルが一緒に出かけたのよ。わたしは留守番ってわけだわね」
ぴくりとロザリーの眉が動く。
「――リンカちゃんが、出かけた?」
「え? うんそう。なーんか警護騎士がついてたけど、何かあったの?」
がたっと大きな音を立ててロザリーは立ち上がった。
体調が悪いくせにそのようなことをするから、すぐにふらついてしまう。それでもロザリーはリーサーを見据えて、半ば詰問する勢いで口を開いた。
「リンカちゃんどんな格好だった!?」
「ええっ? ちょっと待ってよロザリー、一体なにが――」
「良いから教えて! リンカちゃん何色の服を着てたの!?」
いつもと違うロザリーの迫力にたじろぎ、リーサーはひとまず彼女を座らせてから、今日の凛華の姿を思い出した。
ベルはいつもの侍女服だったが、凛華は確か。
「白っていうか……違うわね、もう少し色がついていたような気がする。アイボリーの膝丈くらいのズボンで、コーラルピンクのチュニックを着てて……ブラウンのブーツ……だったと思うんだけど」
普通ちらりと見ただけの相手の服装など思い出すのは難しいのだが、リーサーは記憶力が人一倍良いのだ。確か今日の彼女はそんな格好をしていたような気がする。
言い終えてリーサーがロザリーを見ると、彼女は息を呑んでいた。
予見の中の、彼女の服装と全く同じで。
「……ロザリー?」
「……っ! リーサー、アイルか陛下を……っ!」
最後まで言い終えない内に、ロザリーの頭の中が真っ白になっていく。
慌ててリーサーが手を伸ばしたが、彼女は既に気を失ってしまっていた。
「ロザリー、ロザリーっ!? アイルさんか陛下って……一体何が……っ?」
ロザリーは、一体何を見たのだろう。
後方と左右を騎士たちに守られたまま、ローシャを走らせる。
二人乗りをしていたのでスピードはかなりゆっくりだった。
手綱を引いてローシャを止め、凛華がふわりと飛び降りる。最近では飛び降りることにも慣れてきた。足がふらつくこともない。
「はいベル、気を付けてね」
馬に乗り慣れないベルに手を貸して彼女を馬から下ろす。
「ありがとうございます」
ベルは少し申し訳なさそうに笑った。本来ならば主に支えてもらう侍女など侍女失格なのだ。けれど凛華はそれを気にしていないようだった。
近くにあった木に手綱を引っかけ、水を入れていた水筒を出してローシャの口元に当てる。
「お疲れさま、ローシャ」
二人も乗せていたローシャの背を凛華が軽くたたくと、ローシャはこれくらい何ともないとでも言う風にカツカツと蹄を鳴らした。
周りを見渡すと、辺りは素晴らしい景色だ。
その景色に凛華が表情を明るくさせる。
辺り一面に明るい色の花がたくさん咲いている。足下で揺れていた白い花を摘み取って凛華は冗談交じりにその花を髪に挿した。
「ティオンのお土産っ」
そんなことを呟きながら早速木の近くを中心に散策し始めた。
同じく馬を繋いでいた騎士たちは、緊張した面持ちを崩さないまま彼女らに用心深く視線を向けていた。まるで何かを警戒するかのように辺りを見回す。
その様子をちらりと見て、凛華は首を傾げた。
(……やっぱり何かあるのかな。どうしてここまでなんだろう……)
いつもはジェナムスティとの国境近くまで一人で行っていたのに、今日は城から少し離れただけ。
王都から出てはいるものの、前の凛華の遠乗りからすると遥かに王城に近い。大河を渡ろうとした時、傍にいた騎士たちに「この辺には綺麗な花がたくさん咲いてますよ」と言われ、遠回しにそれ以上国境に近付くのを止められたのだ。
国境に近づいてはいけないということとこのぴりぴりとした緊張感は、ジェナムスティが関わっているのだろうか?
まさかこんな王都の近くまで国境を越えてくるとは思わないけれど。
「リンカ、あちらに綺麗な花が咲いてますわ」
楽しそうにしていたベルが凛華に声をかけ、その声にはっとした彼女はベルを追いかけて木が並んでいる裏手の方へ歩いていく。
一箇所で動いていなかった彼女らから、一瞬騎士たちが目を離した。
その直後。
彼女らから一番離れた所にいた騎士が、糸の切れた操り人形のように突然崩れ落ちる。
声もなかった。
その騎士が倒れた音にばっと他の三人が振り返る。
脇腹を鮮血に染めた騎士がうずくまっている後ろに、フードで顔を隠した人間が数十人居た。一番手前にいる人物の剣が血で鈍く輝いている。倒れた騎士の血によるものだ。
王城で最も先鋭の近衛騎士を一瞬で地に倒す程の相手。
凛華の予感は、当たってしまった。
咄嗟に状況を判断して騎士達の内の一人が声をあげる。
木の裏の方にいる凛華たちに聞こえるくらいの声で。
「ここから離れて下さい!!」
敢えて呼びかける目的の人物の名前を言わずに言った。
もし目の前の顔を見せない集団の目的があの黒髪の少女だったとしたら?
──彼女が、危ない。
それは騎士の賭けだった。あの少女が危険を察してこの場から少しでも離れて欲しかった。
十人以上を三人で相手するには無理がある。
ほんの少しの時間稼ぎにしかならないだろうが、それでも、彼らは凛華を守るのだ。王命を受けた近衛騎士は命を省みない。忠誠を誓った相手の言うことは絶対だ。
(どうか戻らないで下さい)
集団を食い止めるために剣を抜き、構える。
悲鳴が、届いた。
「リンカさま!?」
振り向いている暇はなかった。
飛びかかってくる相手の剣を受け止め、後退する。
「ちっ」
舌打ちし剣をなぎ払う。けれどすかさず別の剣が振り下ろされ、慌てて飛び退いた。
多勢に無勢。いくらアルフィーユの近衛騎士でも、こんなにも数の差があると十分に実力を発揮できない。
相手もなかなかの使い手のようで、苦戦を強いられる。
(リンカさま……っ!)
今の悲鳴は一体何だったのだろうか。
虫を見つけてしまった、といった可愛らしい状況ではないことだけは確かだ。
キインと剣のかち合う音が高らかに響き、咲き誇っていた花は踏み荒らされていく。気晴らしの遠乗りがとんだことになってしまった。
「ベルに触らないでっ!!」
そんな声が聞こえた。警護騎士たちの守るべき対象の声だ。
前方の十数人だけではないのか。
三人の内の一人が、彼女を気にして相手の息の根を止めてから踵を返す。
凛華の剣の腕を信用していない訳ではなかった。近衛の中でも、最強騎士を師匠に持つ彼女のことは噂に上がっている。彼の厳しい稽古にも根を上げない少女がいて、上達のスピードも素晴らしいと。
けれど彼女は華奢な少女で。
そして相手は近衛の自分たちでも手こずるほどの騎士だ。
彼女を、守らなければ。
だが彼は、後ろから放たれた矢に倒れ、それ以上凛華に近づくことができなかった。
凛華がティオンへの土産にしようと笑って摘んでいた白い花が、彼の血で赤く染まっていく。
残る騎士は二人。
「リンカさまは!?」
「分からないっ!」
剣の打ち合う音が野原に響く。
その音も、長くは続かなかった。残った二人と数十人では勝ち目は無きに等しい。
体につけられる傷が増えていく。囲まれてしまっては終わりだ。そう思い騎士二人が背を合わせて何とか防御しようとするが、二本の剣では防ぎようがない。
「くそ……っ」
膝から力が抜ける。
振り下ろされた剣を、避けることはできなかった。
「放してぇっ!」
地に伏した騎士たちの耳に凛華の叫び声が届いた。
薄れていく視界の中、彼らは見る。
腕をつかまれた黒髪の少女。
怪我は負っていない。そして彼女を捉えている男性。その灰色の髪がフードから零れ出ている。
(あれは……ジェナムスティの……国紋……)
国境を越えてここまでジェナムスティの人間が来たのか。ここは王都の近く。アルフィーユの中で最も騎士の目が厳しく、守りが堅い。その守りをくぐり抜けてまでして凛華を攫いに来た。
その、目的は?
そんなもの今更尋ねるまでもなかった。
いけない。
彼女はこの国にとって重要なのだ。国王の賓客。そしてこの長く続く戦争に終止符を打つことができる存在。
彼女ならこの国を救える。だからジェナムスティは何としても彼女を消したかったのだろう。
あの国まで連れて行かれればきっと彼女は殺される。
「わたしに触らないで……っ!」
騎士の腕の中で暴れてそこから抜けだそうとしている凛華。
その口元に手があてられ、直後彼女の身体からかくんと力が抜けた。何か薬でも嗅がされたのだろうか。
力の抜けた彼女を肩に担ぎ上げた灰色の髪の騎士は、一度振り向き、地に伏している四人の騎士たちを見てふっと笑った。あからさまな嘲笑がその顔に浮かぶ。
「近衛騎士もこの様か」
ひとしきり侮蔑の視線を向けると、彼らはその場を後にした。
灰色の騎士に担がれた凛華は、ぴくりとも動かなかった。彼女の侍女は騎士の視界にはいない。ローシャも見あたらなかった。
ごほっと血を吐き、倒れた騎士が顔を上げると、何頭もの馬が国境に向けて駆けていっていた。
助けなければ。
ジェナムスティは運命を変える力を持つ彼女を消す気だ。
立ち上がって、彼女を取り戻さなければ。
「リン、カさ……」
ああでも。
意識が、遠のく────
(やはり、陛下とロザリーさまのご予想は当たっていらっしゃいました……)
あれは……ジェナムスティの……騎、士……
そこで、視界が暗転した。