凛華が着地してすっと前を向く。
 手にはそろそろ馴染んできた長剣。
 誰かを斬りつけたことはないけれど、脅しくらいにはなる。
 彼女が飛び降りる前に肩から離れていたティオンは、しばらくして彼女の肩に再び舞い降りた。

 地面に足をつけると青年の顔がはっきりと見える。
 赤い髪に、髪よりも濃い色の瞳。
 左耳には瞳と同じ色のピアスが光っていた。凛華の記憶に間違いがなければ日本でいうルビーだ。
 とにかく目立つ風貌をしていて、アルフィーユに来て以来初めて見た髪色にしばらく凛華は見入ってしまっていた。
 この世界においては凛華の黒髪の方が希少価値は断然に高いのだが、凛華にしてみれば真っ赤な髪を見たのは初めてなのだから仕方がない。
 青年はセシアよりは少し低いがそれでも背が高い。
 なので必然的に凛華は青年を見上げる事になった。

「──名前は?」
「自分から名乗るのが礼儀だと思いますけど」

 少し意地悪く凛華が言う。
 相手は凛華の言葉を聞いてばつが悪そうに頭を掻き、膝を折って騎士風の挨拶をした。前にロシオルがしていたのとよく似ている。今現在騎士であるか、騎士だった人のようだ。

「俺はジェイド」
「……わたしは浅川凛華。あなたの言うように表現するなら……リンカ・アサカワ、です」
 今の騎士に似た服装のままではベルのするような女性の礼が出来ないので、凛華は軽く頭を下げた。
 会った先から不躾なことを言ってしまったけれど、彼女は元々礼儀正しい人間なのだ。

「変わった名前だな。……どうしてこんな所にいる? ここはジェナムスティとアルフィーユとの国境近くだ」

 ジェイドと名乗ったその青年は、どこか凛華の師匠を思わせる険しい表情で凛華を睨んだ。
 この辺りならば山脈が守ってくれているので安全だが、西側の平野はここ数年は危険地帯として知られている。山脈には大分高さは劣るが、平野を覆うようにして城壁が連なっている。それでも、そこから進入しようとするジェナムスティの人間は多いのだ。特に最近は。
 それ故にこの辺りに住居は少ないし、またあまり近づこうとする者もいない。
 踏み荒らされていない綺麗な土地なのだが、剣呑けんのんな空気がいつでも流れている。

 そんなところで見かけた少女。
 ジェイドからすれば彼女こそ不審人物である。
 アルフィーユの人間か。
 それともジェナムスティの人間か。


 ジェイドの詰問に、凛華は首をこくりと傾げて素直に答えた。
「え? 遠乗りしてて……。この森がすごく綺麗だったから」
 ただそれだけである。
 凛華は一応国境の位置は知っているし、それより西にも北にも行かないようにしているが、ただ単にこの景色が綺麗だったから休憩していただけた。
 あまりにもあっさりとした返答を聞いて、ジェイドは眉根を寄せた。
「リンカはアルフィーユの人間だろ? もしジェナムスティの辺境騎兵隊にでも遭遇したら即刻連行されるぞ。良くて、アルフィーユの国境警備隊に尋問される」
 つっけんどんな言い方だったけれど。
 ああこの人は。
 怒っているのではない。彼女を心配しているのだ。
 言葉からそれを理解し、凛華は警戒を解いた。
 構えていた剣を鞘に戻す。
「わたしはアルフィーユの人間じゃないし、ジェナムスティの人間でもないから」
 少しだけ人の悪い笑みを浮かべて彼女は言う。
 嘘は言っていない。だって凛華は日本人なのだ。
 ジェイドは目を見開いた後で口を開いた。
「……ではティーレ? トーランド? マチェス? エルカナツ? ルティレシア? フローラ? メルレイ? ネーヴァ? それともカルディナ?」
 立て続けに尋ねられて凛華は唖然とした。
 彼が並べ立てた国名の大抵はつい最近セシアから教えてもらって知っていた。
 人が住む南北大陸の北大陸の中でも北方に、巨大国家である北のジェナムスティと南のアルフィーユが隣接している。
 その二国の付属品のように、東側にティーレ、トーランド、マチェスが北から順に並ぶ。この三国は東三国と呼ばれている。国土自体はアルフィーユやジェナムスティには遠く及ばないが、それぞれ特有の文化を持つ文化国だ。
 アルフィーユの南東には中くらいの国であるフローラ、そしてその南にはアルフィーユの友好国であるエルカナツ。ルティレシアもアルフィーユの友好国ではあるが、少し離れた位置にある。
 彼が言った最後の三国は名前すら聞いたことのないものだから、ごく小国なのか、もっと南にある国なのだろう。

「どれも違うよ。わたしは……この世界の人間じゃない」

 今度は笑いを含まず真面目な声で答えた。
「はっ?」
 ジェイドが素っ頓狂な声を上げる。
 誰だって「この世界の人間ではない」などと言われれば驚きもするだろう。
 (いぶか)しむ彼の前で、凛華は被っていたふんわりとした帽子を取ってみせた。

「!?」


 柔らかな布からこぼれ落ちたのは。
 闇色を思わせる、漆黒の髪。


「これで証拠は充分でしょう?」
 だんだんとこの反応にも慣れてきた凛華は、いともあっさりとそう言い放って再び帽子を被って髪を隠した。
「――『預言された少女』」
「でもそれはした巫女さまが偉いだけで、わたしは何もしてないよ」
「……まさか」
 未だに疑ってかかるジェイドに、凛華はじっと視線を向けて黙った。
「別に信じてくれなくてもいいよ」
 少し投げやりに呟くと彼は凛華と同じようにじっと彼女を見つめ、それから頷いた。

「……瞳が、黒い」

 どうやら信じてくれたようである。
 どう信じられようと特に気にはならないのだが、何となく嬉しくなり、凛華は笑顔を浮かべた。
 そして尋ねてみる。
「ジェイドは? アルフィーユの人? それとも……まさか、ジェナムスティ?」
「……国外流出禁止機密」
 ジェイドは凛華のことを色々と訊いたくせに自分の詳細を明かすつもりはないらしく、あっさりそう言って詮索を切り捨てた。国外流出禁止機密とは何だろう。そう訊きそうになるのを、凛華はなんとか思いとどまった。余計な詮索をしてばかりなのは嫌だ。

「……どうしてわたしに声をかけたの?」
 凛華が肩に乗ったティオンにくすぐられながらもジェイドに尋ねる。
「声が聞こえたから。まさかこんな木の上だとは思わなかったけど」
 ジェイドが眩しそうに、彼女が先程までいた木を振り仰いだ。
 この世界の女の人はそんな事しないんだろうなあ……と凛華は苦笑する。
 ものすごく気持ちいいのに。


「じゃ、俺はもう帰るから。忙しいんだ」

 ジェイドがすっと手を挙げた。
「え?」
「じゃあ」
 言われた意味を凛華が理解する前に、ジェイドは彼の乗っていた馬に再び騎乗して。
 ぽんと腹を蹴ったかと思うと、さっさと行ってしまった。
 彼女と同様、彼もまた電光石火な行動をとるタイプらしい。

「……一体何者?」

 馬に乗ったジェイドが視界から消えるまで、凛華は呆然としてその場を動けなかった。
 そしてこの時。凛華はまさかその日の内にこの妙な人物とまた会うとは夢にも思っていなかった。






 一日中遊んで辺りが暗くなってきたので凛華はティオンと共にローシャに乗って帰城した。
 頬に青あざがある門番に迎え入れられる。
「け、怪我してるよ? 大丈夫?」
 心配になってそう訊くと、門番は何故か顔を赤らめた。
「だだだだだだ、大丈夫であります!」
 と軍隊よろしく妙な礼儀正しさで返事をしてくれた。(門番は正規の国王直属軍に属する軍人ではないのである)
 門番の不思議な言動に首を傾げたが彼が大丈夫だというので、凛華は「気を付けてね」とだけ言っておいた。


 自分の部屋に戻るとベルが笑顔で迎えてくれる。
 汗をかいたので服を着替えながら、ベルと会話した。
「うん、そう。ジェイドっていって……。何か、変な人」
「変な人……ですか?」
 ベルは理解しがたい、という顔で首を傾げる。
 まあ変な人物の事を話されて理解しろと言う方が無理というものだが。
「うん。嵐みたいに行っちゃったよ。何か……用事があるんだって」
「そうですか……」
 ベルに話していて、凛華の頭の中で更に疑問が増える。
 本当に誰なのだろう。アルフィーユかジェナムスティに用事があるのだろうか。



 着替え終わり一息ついていると扉がノックされ、声が聞こえた。
「リンカ? 戻ってるか?」
 聞き慣れた声に、凛華とベルの口から「兄さん」「ロシオル」と同時に声が漏れる。
「着替えて大広間に来てくれ。……ジェナムスティの騎士が来てる」
「っ! ……分かった。すぐに行きます」
(ジェナムスティ……。今日はやたらその国名をよく聞く日だなあ……)
 ロシオルはそれだけ言うとそのままドアも開けずに足早に立ち去った。
 騎士隊長のロシオルは色々と忙しいのだろう。

「さて、気合い入れて綺麗にしますわよ!」
 凛華がその声に振り返ってベルの目を見る。
 目が、やばい。
「え。ふ、普通の格好でいいよ……」
 凛華がかなりの逃げ腰で言う。つい先ほど着替えたばかりだ。
 彼女はこのままの格好で行くつもりだった。
 けれどベルにそんなつもりはないらしい。
「いけませんっ! ジェナムスティの騎士を圧倒させなくてはっ!」
(いや、それは絶対にやらなきゃいけないことじゃないし……)
 ちょっぴり抵抗してみる。
「このままで……」
 が、しかし。
「駄目ですわっ」
 ベルのキラキラと輝く赤銅色の目に、凛華はまたしても勝つことが出来なかった。
 駄目だ。彼女のこの瞳には負けた。




 凛華は、城内の人たちと大分親しくなれたものの、やはり動物園のパンダになったような気分になる大広間は苦手だった。
 歩きにくいドレスで何とか転けないように歩いて、大広間に入る。
 ちらちらと自分に向けられる視線が痛い。
 セシアの方になるべく大人しく歩く。
 と。
 そこには見覚えのある真っ赤な髪。
 濃い色の綺麗な瞳。

 電光石火の。

「ジェ、ジェイドォっ!?」

 思わず大きな声をあげてしまった。
 その声に、ベルやセシア、ロシオル、ロイア、アイルが驚いて彼女を見る。
 名前を呼ばれたジェイド本人も同じく驚いたようで、何も喋らなかった。

「リンカ……ジェナムスティの騎士隊長を知っているのか?」
「うん……。ベルにはさっき話したんだけど、今日遠乗り行ってて逢った変な人」
 凛華は思うがままをセシアに話した。
「変な人って」
 直後ジェイドから横やりが入る。
 が、凛華はさらりとそれを無視した。
「ジェイド……ジェナムスティの騎士隊長だったの?」
 開いた口がふさがらない様子の彼女はぼんやりとジェイドに疑問をぶつける。
 今日会った時はそんなこと一言も言わなかったではないか。
「まあ……な。リンカこそここにいるってことはアルフィーユの人間じゃないか? それに格好が違い過ぎる。昼と大分変わったな、意外と綺麗じゃん」
 最後の「意外と」でセシアとロシオルが微妙に眉をしかめたが、当の本人である凛華はそれには気付かなった。
 そして幸か不幸かジェイドもまた彼らの変化には気付かなかった。
「わたしはここにいさせてもらってるだけだって。ここの世界の人間じゃない! それにわたしはき、き、き、綺麗なんかじゃ……」
 人に自分の容姿を誉められることに慣れない凛華は頬を赤らめて否定した。
 余計にからかいたくなるような、そんな可愛らしい照れ顔。
「そういえばそんなこと言ってたな……」
「それよりジェイド、どうしてアルフィーユの……王城にいるの?」
「わたしもそれが聞きたい」
 セシアが少し不機嫌そうな声を出した。
 凛華は彼が不機嫌な理由に全く気付かなかった。



 周りの人たちはもう自分勝手に宴を楽しんでいるらしい。
 始めのうちはジェイドの横で睨みを利かせて立っていた二人の騎士がその場を離れた。ロシオルがそう言ったのだ。恐らくジェイドを、ジェナムスティの人間を見張っていたのだろう。
 ベルも「わたしはこれで」と退いてしまった。
 凛華には分からなかったが、これから話すジェイドの話というのは相当重大な事で一介の宮廷女官が聞いて良いものではなかったからだ。
 凛華とセシアとロシオル、アイルとそれにジェイドが大広間の端の方で話し始めた。

「まず……俺の名前はジェイドじゃない」
「ええっ!? 偽名だったの!?」

 凛華が驚いて声をあげた。今日は驚きがいっぱいだ。
 その反応に苦笑しながらジェイド──仮名と判明──が答える。

「本当の名はジルハ・グラグノール。あんまり変わらないけど……本名を知られるわけにはいかなかったんだ。ジルハの名前はジェナムスティでは結構広まっているし……。騙して悪かった」
 ぺこりとジェイド、もといジルハが潔く頭を下げる。
「……いいよ、もう。わたしはジェイドって呼ぶから……」
 凛華がため息をつきながら答えた。
 何だかこの人と話しているとペースを崩される、と凛華は思う。
「……で? どうしてアルフィーユの王城にいるの?」
 本題に入り、興味津々な凛華の黒曜石のような漆黒の瞳と、王の顔をしたセシアのサファイアのような瞳が向けられる。
 ジルハは一つ息をついて話し出した。


 ―─ジェナムスティの王であるティオキア王は、先のアルフィーユとの戦争での敗北から数年も経っていない内から、再度アルフィーユへの報復戦争を仕掛けようとしている。
 結んだはずの和平条約など見向きもしない。
 第五騎士隊長のジルハ他、その戦争に疑問を感じる者は多くいた。
 確かに先の戦争で敗れてはいない。アルフィーユは再び刃向かおうとする者の戦力は削ぐが、無駄な殺生をする国ではないのだ。毎度のことながら、アルフィーユはわざわざジェナムスティに赴いて国を滅ぼすようなことはしなかった。ただ、降りかかった砂を払っているようなものなのだ。
 これ以上戦争を続けても意味がない。
 そもそもこの戦争には意味がないのだ。
 けれど、そう異議を唱える者は、片端からティオキアや議会の重鎮たちに投獄され、そして処刑されていく。

 少しずつ、けれど確実におかしくなっていく国。

 ジルハはそんな国王と貴族たちに嫌気が差して、ジェナムスティから亡命した。
 彼だけではない。
 たくさんの人々が、ジェナムスティでは生きていけないと国を捨てていった。
 アルシィというジルハの妹も一緒に居たのだが、途中でジェナムスティの国王派である親衛隊に捕まってしまったそうだ。
 彼らに捕まった逃亡者はまず殺される。
 アルシィの後を追いジルハも死のうと思ったらしい。
 けれど。ジェナムスティが再びアルフィーユに戦争を仕掛けようとしていることを、アルフィーユは知らない。
 今までもそうだった。
 アルフィーユはいつだってジェナムスティの騎兵隊の奇襲に遭い、そしてそれからなし崩しに戦争が始まっていくのだ。

 だからアルフィーユに来た、と。



「俺の首を今はねても構いません。実際……俺は参戦しています。アルフィーユの兵士も、殺した」

 ――お互いに意味のない戦争を。

「……首をはねて見せしめにさせられるくらいの罪はあります」

 ――ただ、繰り返して。


 その言葉を聞いて凛華は息を呑んだ。
 首をはねて見せしめにするというのは最もありがちなやり方だ。
 このまま彼を生かしておけば彼に殺された兵士たちの遺族は国王のやり方に不満を持つことになる。何故ジェナムスティの兵士は生き残り、アルフィーユの兵士が死ぬのだと。どうして王はそれを許すのだと。

 殺して欲しくない。

 不安げな瞳で彼の処分を決める人──セシアを見た。
 けれど声に出しては何も言わなかった。
 王であるセシアの決定を邪魔してはいけない。それは、してはいけない。
 この国の決定権は国王であるセシアと、そして彼と対等の地位にある大臣たちにあるのだ。
 胸元で自分の手を握り、凛華はなりゆきを見守った。

「それでも……この戦争だけは止めさせたかった。この国は大国です。いくら同じ国力と言えども軍事力で引けを取るジェナムスティは……この国には勝つことなどできない」
 それはこの国の誰もが思っていたこと。
 国土の大きさや経済力は同じでも、軍事力ではアルフィーユの方が上回っている。
 ジルハは続けて言った。
「……戦争は何も生みません。死ぬのは何の関係もない一般人です。王や親衛隊たちは戦争の決着がつく前には逃げ出すでしょう」
 戦争をけしかける彼らは何よりも自分の利益だけを優先する。
 そして不利になれば、同国の兵士たちなど知らぬとばかりに逃げ出すのだ。

「ですから……この戦争を止めて頂きたくて。たかが一騎士隊の隊長である自分が陛下にこのようなことを申し上げるのが無礼に当たることは分かってます。極刑でも甘んじて受けます。……ですが、どうか……。俺はこれ以上無駄な血を流したくありません」

 ジルハが言い終える。
 静かな空気が広がり、凛華は不安になってセシアにちらりと視線を向けた。
 穏やかに笑っている彼ではない、「国王」がそこにいる。テレビの中の人などではない。
 その肩にアルフィーユの多くの人々の命を負い、迷うことのない瞳で前を見つめる、本物の一人の国王だ。
 そして、それまで沈黙していたセシアが口を開いた。

「……アルフィーユは王族も大臣たちも元より戦争などしたくないと思っていた。だがそちらから仕掛けてきた。ならば全力で応戦せざるを得ない。この国にも戦争に関係のない一般人はいるんだ。わたしは彼らを犠牲者にする訳にはいかない」

 国は人がいなければ成り立たない。
 それをよく分かっているセシアは、一般人をこの戦争に巻き込むつもりはなかった。
 それなのにこれまでジェナムスティの騎兵隊は国境に近い都市を襲い、罪のない人々を、女性や子供でさえも殺してきたのだ。

「今アルフィーユが戦争を破棄したらどうなる? それにつけ込んだジェナムスティの兵士が攻め込んで来るのは必至だろう。ティオキア王が戦争をやめると誓い、その王位を廃し、完全に戦争が終わるまでは守りを緩めたりなどしない」

 威厳のある王らしいセシアの言い方に凛華は何となく疎外感を感じた。
 彼は王なのだ。
 そして自分は何の力ももたないただの高校生。
 綺麗事を言うしかできない何も知らない子供なのだ。


 戦争は嫌だ。人が死ぬのは嫌だ。

 けれどそれだけでは何の問題解決にもならない。凛華だって知っているのだ。
 ジルハの言う通り、支配者たちは責任を放棄して逃げるだろう。そしてセシアの言う通り、アルフィーユが応戦しなければ犠牲者になるのは国境付近の都市の人々だ。
 国境で食い止めている内は良い。
 国境を越えられたら――関係のない一般人が、死んでしまう。

 望んでいないのに。
 おかしいと思う人がいるのに。

 根本を解決しなければ、この戦争は終わらない。


「我々は命を賭けてでも全力で応戦する気です。国を、家族を、自分たちの幸せを……守る為に。国境は越えさせない」

 ロシオルが鋭い視線をジルハに向けて言った。
 彼は本気だ。自分たちの大切なものを守る為には命だって賭けるのだろう。
 人を統べる国王と騎士たちを統べる騎士隊長は自分の意志を持っている。
 戦争をどう思っているのか。どうしたいのか。
 では自分は、と凛華は自問した。
 「預言された人間」はどうしたいのか、何を思うのか。

(わたしは? ……わたしはどうしたいの。自分のことだからそれくらい自分で考えなきゃ。わたしは────)
 俯いたまま、凛華は口を開いた。


「わたしは……この戦争を止めたい、です。アルフィーユもジェナムスティも他の国も……一般の人もそうでない人も、死んで欲しくありません」
 甘いと分かっている。
「こんなこと、綺麗事だって思われるかもしれない。甘い考えかもしれない」
 誰一人死んで欲しくない、なんて。
「わたしは戦争を知らないから……」
 だからこんなことが言える。
 両親はいないけれど、戦争で失ったわけではない。
 世界大戦を直に経験しているのはもう祖父の代のことで、凛華は教科書やテレビの報道でしか知らない。
 知っているものも、凛華の国から見たものばかりだ。
 戦争で本当に辛い目に遭った人々の気持ちを想像することはできても、実際には分からない。
「……でも……」
 だけど。
 人が死んでしまうのは、辛いことなのだ。
 その気持ちは凛華も知っている。
 ――底知れない絶望を。
 だから、戦争が起こるのは嫌なのだ。
 誰かが死んでしまうのは、嫌なのだ。

「無理だって分かってる、けど……。だけど! わたしが本当に運命を変える力を持つなら……きっと、ただの女子高生のわたしでも、何かができるんだと思う……。だって、もう駄目だって諦めちゃったら、そこで終わりだもん……」

 命が消えてしまうことは、悲しいことなのだ。
 綺麗事だと笑われても良い。
 全ての人を助けようなど、そんな星を掴むようなことができるわけがないと知っている。
 人一人が出来ることなど、たかが知れているのだ。
 それでも。
 それでも、本当に自分が預言されるほどの人間だと言うのならば。
 最悪の事態になってしまうかもしれないという事態が運命だというなら。そしてそれを変える力が、あるのなら。
 自分にできる何かを、したい。
 ほんのささいなことでも良いから。

 あの絶望を知る人が一人でも少なければ良い。


 顔を上げ、凛華はジルハの顔を見てはっきりと言いきった。

「こんなつまらない戦争、絶対に止めさせるんだから!」

 許さない。
 兵士を勝ち目のない戦場に向かわせ、自分は安全な場所にいる王など、許せない。

 凛とした漆黒の瞳は輝きを失わない。
 その場の誰もが彼女に期待を寄せた。
 彼女なら。巫女預言され、実際に現れたこの少女になら。期待をしても良いかもしれないと。
 セシアもジルハもロシオルも、そしていつもは無表情なアイルまでもが、凛華の言葉に少し笑顔を見せた。
 アルフィーユで確かに彼女が認められた瞬間だった。



「……で。肝心なのはその方法だが」

 セシアが王の顔で言う。
 彼は理想論を掲げるだけの人間ではない。きちんとその方法を考えるだけの力がある。
 本格的な会議に入ろうとするその厳かな状況で、きょとんとした顔をして凛華はセシアに言った。
「そんなの、国王に直談判すればいいじゃない。わたし今からジェナムスティに行って来ようか?」

「「「待った」」」

 セシア、ロシオル、ジルハが揃って声をあげた。アイルは呆れた顔で凛華を見ている。
 早速踵を返そうとしていた彼女は振り返って首を傾げた。
「どうして?」
 どうしてってあなた。
 そんな呟きが各人の心の内で呟かれる。

「リンカ。そんな何の策もなしに行っても、殺されるだけです」

 アイルが世間知らずの凛華に丁寧に説明した。
 第一、何人もの兵士たちに守られる王城に乗り込むことができるわけがない。
 アルフィーユの王城は比較的開放的なのだが、ジェナムスティの王城はまさしく軍の要塞のように閉鎖的なのだ。しかもたった一人でなど、無茶苦茶だ。
「そうなの?」
 納得がいかないという表情をして凛華がセシアを見る。
「リンカ。頼むからそんな無茶な事をしないでくれ」
 彼は気の抜けたように言った。
「リンカって……本当に『預言された少女』なのか?」
 ジルハに至っては、まるで彼女が本当に預言された者かどうかを疑うようにじっと凛華を見つめた。まあ無理もない。
「そうみたいだよ?」
 あっけらかんと凛華は答えた。
 預言をした張本人の巫女がそうだと言っていたのだからそうに違いない。
「し、信じられない……」
 アルフィーユはこの少女に賭けるのだろうか。
 こんな、めちゃくちゃな彼女に。
「ジェイドが言ったじゃない、『瞳が黒い』って」
 凛華はにっと笑って自信満々にそう答えた。
 その場の凛華を除く全員ががっくりと肩を落とす。
 こんな少女に任せていいのだろうか。


「大丈夫。絶対にこんなおかしいこと、やめさせてみせるよ」

 諦めてしまったら、そこで終わりなのだ。
 諦めない限り、どんな小さなことしかできなくても、やる価値はある。
 そう信じている。

 大広間から見える空には星がたくさん輝いていて、綺麗だなあと凛華は思う。
 同じこの星空はティオキアにも見えているのだろうか。
 この綺麗な空をきちんと見ることができるのだろうか。

 ――そしていつかあの星を掴むことが、できるだろうか。