凛華にとっては最悪で、ベルにとってはこれ以上ないほどに最高の「ドレス週間」が終わった翌日。
毎朝部屋を訪れる頃には既に起きて着替えを済まして扉を開け、自分に挨拶をする凛華が珍しく今朝は起きてこないので、ベルは控えめなノックの後「リンカ、朝ですが……」と断ってから静かに扉を開けた。
もしかしたら体調でも崩してしまったのかもしれない。
「リンカ……?」
寝台の横にあるチェストの横には剣がたてかけられている。
今日着る予定の服は畳まれたままで置かれていた。
つまり、外出しているのではない。
運命を変える力を持つと言われる彼女に対して無礼だと分かっていたけれど、もし体調を崩していたなら大変だ。様子だけでも確かめなくては。
ベルが天蓋つきの寝台に近寄って、垂れているカーテンをそっと開ける。
まだ薄暗かったけれど、見えたのは気持ちよさそうに眠っている凛華だった。
いつも自分が起こす前に起きているので、ベルが彼女の寝顔を見たのは初めてだ。
「体調を崩されたわけでは……ないですわね」
すーすーと規則正しい寝息をたてているし、起こさないように注意してその額に触れてみると熱もなさそうだった。
無理矢理起こすのも少しためらわれたので、ベルは静かに布を元に戻した。
今日くらい寝坊するのは誰も咎めやしないだろう。
普通、預言された凛華のような立場の人間はもっとわがままで自己中心的な人であるはずだ。
最初はベルもそう思って接していた。自分が「上」であることが当然の少女かと思っていたからなるべく下手に出るようにしていた。
だが彼女は丁寧にお辞儀を返すし、敬語や敬称をつけられるのを慣れないからと嫌がるし、立場が下である自分にさえも同等の人間として接する。それ故にアルフィーユ城内の人は大抵彼女の態度に驚く。
乗馬をするし剣の稽古もする。誰にでも話し掛けて他人の意見を尊重する。
王宮内の優雅な女性たちに慣れた人々には少々破天荒に映るかもしれないが、そこが彼女の良い所なのだ。
影で彼女に恋心を抱く兵士が多いという噂も最近よく耳にする。
それなのに当の本人は鈍感で天然で全く彼らの気持ちに気付いていない。
一緒にいると何故だか安心する。
もっと喜んで欲しいと思う。
彼女は多くを望まないけれど、もし何かを望めば全力で叶えてあげたいとさえ思うのだ。
そんな、不思議な魅力のある少女だった。
「ゆっくりお休み下さいませ」
ベルはそう言って、なるべく音を立てないように扉を慎重に閉じた。
「ベル?」
主の世話をしようとやってきていたもう一人の侍女リーサーがベルを見つけ、話しかけた。
「リンカは?」
だいたい様子を察したのだろう。声をひそめて話す。
この二人の侍女は優秀だ。
「もうしばらくはゆっくりさせて差し上げましょう?」
ベルはにこりと微笑んでから、人差し指を唇にあてた。
「了解」
リーサーも笑みを浮かべ、そのまま凛華の部屋から離れていった。
一応何かあれば対応できるように侍女にあてられた部屋にはいるつもりだが、あえて彼女を起こしに行こうとは思わない。
念のため見回りの警備の者たちにも主の部屋には近づかないようにと注意しておいてから、彼女らは主が起きた時のための食事を用意することにした。
起きなければと思うのに、頭がそれを拒否する。
誰かが傍にいるとぐっすりと眠ることができない凛華はいつも朝早くに目を覚ましていた。
それでももう少し。もう少しだけ。
「んー……」
結局、いつもよりよく眠ったような気がして凛華はやっと目を覚ました。
「今何時ぃ……?」
寝惚け眼でチェストに置いてあった腕時計を自分の方に引き寄せた。
時計が知らせてくれた時間は十一時。
ものすごく、寝坊だ。
「……え、うそーー!?」
凛華の叫び声が室内に響き渡った。
壁は分厚かったのでその声が階下にまで響くことはなかったが。
大変だ。どうしよう。
今日は大切な日だった。
日頃警備の仕事と騎士隊長としての仕事で忙しいロシオルが、わざわざ彼女に稽古をつける時間をつくってくれたのだ。
ロシオルとの約束の時間は九時。
もうとっくに過ぎてしまっている。
不安になって仕事は大丈夫なのかと尋ねた時、彼は時間を空けるためにさっさと終わらせるから大丈夫だと笑っていたのだ。そこまでしてもらったのに。よりによって今日この日に寝坊をしてしまうとは。
とにかく着替えなければと凛華は寝台からあわあわと降り立ち、ベルが用意しておいてくれた服に袖を通した。
ベルがいない。リーサーもいない。
ロシオルの居場所を教えてもらおうと思ったのに彼の部下であるロイアも見かけない。
凛華は残念ながら師匠の執務室の場所を知らなかった。
王城のどこかなのだろうが、この城は広い。探している内に迷ってしまう。
塔を飛び出してまず稽古場まで行ってみたものの、そこには自己鍛錬中の騎士くらいしか見あたらなかったのだ。
どうしよう。
知っているとすれば後は、あそこだ。
持ち前の脚力で王宮の奥まで駆け抜け、凛華は扉の前で足を止めた。おそらくこの王城内で最も警備が厳しい部屋だ。四人の兵士がそこに立っていた。
「あ……えと……こ、国王陛下にお目にかかりたいんですけど……」
「これはリンカさま!」
慌てて騎士たちが頭を下げるが、正直今の凛華はそれどころではない。
「で、ですが陛下はご政務中でして……」
それはそうだろう。
一国の国王の執務室に乗り込むなんて者は常識知らずか、よほどの馬鹿である。
「いや、リンカさまはお通ししても良いと陛下は仰っておられた」
その場の責任者らしい兵士が落ち着きを取り戻して言う。
「リンカさま、どうぞ」
「ありがとうございます……っ」
ほっと凛華が息をつく。
門前払いをされたらどうしようかと不安だった。
そして彼女は室内に入るなり一息で喋りきった。
「陛下、ロシオルさ……えっと、確か……そう、第二騎士隊の隊長さん! その隊長さんがどこにいらっしゃるかご存じですか!? ベルもリーサーさんもロイアくんも見あたらなくて……。わたし、すごく寝坊しちゃって……あーどうしよう……っ!」
慌てすぎて何故か敬語だ。もうパニック状態である。
どうしよう、どうしよう。
膝に手をついて肩で息をする凛華に上から驚いたような声が降ってきた。
「リンカ?」
聞き覚えのある声。
「……え……」
まだ肩で息をしたまま凛華はふと顔を上げた。
するとそこには、ロシオル本人がいる。
その横には驚いた様子で書類を片手にしているセシアと、無表情で彼の傍に佇んでいる側近のアイル。
「ロ、ロシオル……っ!?」
何故ここに。
探しに来た張本人が目の前にいる。
「……星見の塔からここまで走ってきたのか? 事情はベルから聞いていたぞ?」
呆れ半分のロシオルが言うには、今朝方、執務室までやってきたベルが今日の稽古は延期にして下さいと告げたそうなのだ。
体調でも悪いのかと凛華を気遣ったが、ベルはそうではないとも言っていた。
ロシオルはそれを了承し、こうして普段通りの仕事をしていたのである。騎士隊長であるロシオルの仕事は馬を操り剣を振り回すだけではない。ロシオルはこういったデスクワークは苦手な方だが、面倒臭いと遠ざけていた仕事をやるには最適の時間だっだ。
「ええっ?」
「私も聞いた。今日一日リンカは休みだと……」
セシアまでもがそう言う。
「……つまり、貴女が慌てる理由はありませんが」
最後にアイルが結論づけてくれた。
凛華が目を丸くして驚く。
それならそうとメモ書きか何かを残しておいて欲しかったと、こっそり思う。
けれどまあ寝坊した自分が悪いので素直に反省した。
「ごめんなさい、ロシオル……せっかく時間を空けてくれたのに……」
寝坊したことよりも、忙しい身であるロシオルが空けてくれた時間を無駄にしてしまった事を悔やんで、凛華は目を伏せて俯いた。
情けない。
彼だって暇ではないのだ。それなのにわざわざ時間を空けてくれた。
それを自分は寝坊という最も情けない理由で無駄にしてしまった。
「また今度、な」
ロシオルが大したことじゃないという風に笑う。
その言い方に凛華は少しだけほっとした表情を見せた。
「セ……国王陛下も、すみませんでした。こんな風に押しかけたりしてお仕事の邪魔を……」
師匠だけではない。国王にまで迷惑をかけた。
それなのに。
「……悪いと思うならリンカ、『国王陛下』はなしだ」
セシアが、くすくすと楽しそうに笑いながら言う。
「え……あ、す、すみません!」
セシアで良いと言われていたけれど、仕事中の彼を馴れ馴れしく呼び捨てにすることができなかった。けれど本人にそう言われてしまえば仕方ない。俯いてしまった凛華に、彼は言葉を続けた。
「敬語も駄目」
「……ごめんなさい」
彼女の師匠であり生真面目なロシオルや、主に忠実だと言い張るアイルはそのやりとりに驚いたが、国王本人が言ったことなのだからと口出しはしなかった。
「リンカ、今日は好きなように過ごしたら? 休みだからロシオルの稽古もないし、勉強することもない」
セシアのこの提案に凛華は今度は目を輝かせた。
それこそセシアに抱きつかんばかりの勢いで彼のデスクに手をつく。
「いいの!?」
「あ、ああ……うん。休みだから、リンカの好きにしたらいい。遠乗りするならローシャがいるだろうし」
勢いに圧倒されつつも彼が答えると、凛華が嬉しそうに笑った。楽しそうな明るい笑顔だ。
「ありがとうっ、ローシャ借りますねっ! 早速行ってきます!」
電光石火のごとく行動を始めた凛華。
客人という自分の立場に遠慮して外出らしい外出を控えていた彼女は、遠乗りしても良いと聞いてかなり喜んだ。幸いローシャに乗るのは慣れてきたし、何かあっても剣を持っていくつもりだからきっと大丈夫だ。
ぺこっと深く頭を下げて、凛華は片手を挙げながら扉に向かって行った。
「セシア、アイルさん、ロシオル、お仕事中に失礼しました!」
一応礼儀は忘れてはいないらしい。
「楽しんでおいで」
「怪我するなよ」
「貴女の黒髪は目立ちますから……気をつけて」
三人の声を受けた凛華は彼らを執務室に残し、扉を守っていた兵士たちにも礼を言ってから、元気良くその場から走り去って行った。
さあ、どこへ行こう?
部屋に戻った凛華は動きやすい服に着替えた。
乗馬するのだから、ひらひらの服を着るつもりなどさらさらない。
新米騎士の雰囲気たっぷりな装いになり、後ろに流していた髪も邪魔だからとくくった。
そしてチェストの横にたてかけておいた剣を持つ。アイルに言われた通り、確かに自分は目立ってしまうのだ。自分の身くらい守らなくては。師匠も、剣はいつでも持っておけと言われていた。
「あ……と、忘れものだ」
腕時計の横に置いてあったものを取って首にかける。
革の紐についているのは銀色の小さな笛だ。
それを唇に当て、息を吐き出す。
この笛はセシアからもらったものだった。人には聞こえないが鳥類には聞き取ることができる音を出す鳥笛なのである。
吹いてみても何の音もでないけれど、それを吹けば必ず真っ白い小鳥が現れる。たまに他の鳥が寄ってきたりもするが、動物と話すことができる凛華は彼らに「間違って呼び寄せてごめんなさい」と謝っていた。最近では周りの鳥たちも慣れたのか、鳥笛を吹いてやってくるのはティオンだけだ。
今日も吹いてすぐさま、白い鳥が現れた。
「ティオン、遠乗り行こっ」
手の甲に着地したティオンににっこりと笑った。
初めての外出だ。どこに行こう。何をしよう。
『……リンカ、つまり案内役が必要なんだね?』
「う……」
迷う自信は存分にある。
ティオンにそのことを言い当てられ、一瞬言葉に詰まったものの凛華は言い返した。
「そ、それもそうだけど! ティオンと一緒が良いしっ!」
『はいはい。お供しますよ』
呆れたように笑ってから、ティオンは嬉しそうに彼女の首にすり寄った。
結局はこの小鳥も彼女と一緒に居たいのである。
「ローシャを借りて良いって言われたから次は厩舎だね」
厩舎まで行き、馬番にローシャを出してもらって彼にまたがる。
遠乗りするなら馬のためにも水が必要ですよと馬番が教えてくれたので、水を用意した。それだけでなく、リーサーに持たされた軽食もある。こちらは人間用だ。
城門から門番に笑顔で挨拶して出発。
初めての外出に浮かれきっていた凛華は、彼女に密かな想いを寄せている門番にとびっきりの笑顔を向けた。門番はしばらく幸せに浸り、後ほど同僚たちに睨まれることとなる。勿論そんなことは、凛華は知らないが。
悠々と流れる大河にかかった堅固な石橋をローシャに乗ったまま渡りきり、吹き抜ける少し湿った風に当たって凛華は目を細める。
「ん。気持ちいー」
凛華の肩に大人しく収まっていたティオンも気持ちよさそうに風を受けていた。
城内が過ごしにくいとは言わないが、昔から外で遊び回るのが好きだったお転婆娘はこうやって風にあたるのが好きだ。
後ろを振り返ると、高台の方にあったアルフィーユ城は随分小さく見えた。
まだここも王都の内だが、大分城近くとは違っている。
じっと自分を見上げていた女の子に気付き、凛華はにこりと笑いかけた。あっという間に走って行ってしまったのが自分の髪の色のせいだと分かって苦笑した。
「日本人なんてほとんどみんな黒いのにね」
苦笑してから凛華はローシャの腹を軽く蹴った。
「もっと向こうに行こう」
『リンカ、地図もなくて大丈夫?』
「大丈夫だって。セシアが、ローシャはこのあたりまで何度も出かけたことがあるって言ってたよ。ローシャは賢いからちゃんと覚えてるよ」
『……自分で覚えようよ、リンカ……』
ティオンの呆れ声には気付かないふりをしていおいた。
『ティオン、多分言っても無駄だと思うよ』
『うん。見たら分かる』
風を全身で感じて楽しんでいる凛華を見て、ティオンはローシャと小さくため息をついた。
何というか、この小さなお友達は、自由気ままな性格をしているようである。
王都から離れ、凛華がローシャを止めたのは国境近くの大きな山だった。
南の国境まで行くと馬でも一ヶ月近くかかってしまうそうなのだが、一番近い北の国境は意外と近いのだ。
ローシャの駆け足程度の速さで、ここまで三時間程度である。途中速度を落として壮大な景色に見入ったり、ローシャに水を飲ませたり、ティオンが小さな木の実を上手く食べるのを見たりと、のんびりしていたから実際はもっと短時間で着く。
それほど王都から国境が近いのは何となく不思議な感じだ。
木にローシャをつないで、早速歩いてみる。
ティオンは飛ぶのが面倒らしく凛華の肩に乗ったままだ。
「この山を抜けたら……セシアの話してたジェナムスティかあ……」
二つの大国を阻むかのようにどこまでも続く山脈。
かなり傾斜が大きいこの山を騎馬で越えるのは不可能に近いらしく、こんなに王都の近くに国境があるにもかかわらず、ジェナムスティからの軍隊での侵入者は未だかつて居ないそうだ。
そして凛華の今いるところから西の方へ進めば、リュート平野と呼ばれる広大な平地があり、厳しい国境警備の騎士たちがいるのだ。だからこそセシアが地図を見せて色々教えてくれた時に、こちらなら安全だと言っていたのだ。
そびえ立つような山々を見上げて、凛華ははふうとため息をついた。
少し想像してしまったのだ。
もし、この山脈がもっと低く、騎馬で簡単に抜けられるようなものだったとしたら。
王都でにこやかに生活しているアルフィーユの人々は、きっと笑えなくなってしまうだろう。
国境が曖昧になっている部分もあるとセシアは言っていた。
それはもっと西に近い場所で、国境警備隊のいる辺りだ。凛華の視力でも見ることはできず、ただ西の方角にも同じように山がそびえ立つだけだった。
さすがに国境警備隊のいる辺りまで行こうとは思わず、疲れていた凛華はそこで休憩することにした。
木々の下の方にいるよりも木の上の方が涼しいと踏んで、近くの木に手をかける。
お転婆娘だった凛華にはこのようなことは朝飯前である。
木が大きく、一番下にある枝でも届きそうになかったのでローシャに協力してもらい、凛華は木の上の人となった。
凛華が上っている間、ローシャの頭の上に落ち着いていたティオンが翼を広げ、凛華の肩に留まる。力強い幹に身を預けると、風に揺れる葉音やどこか遠くを羽ばたく鳥の鳴き声が聞こえてくる。ここが殺伐とした国境付近などと、すぐには分からないほど、穏やかだった。
「わたし……『選択』の時が来たら、どっちを選ぶんだろ……」
まるで独り言のように凛華が呟く。
ティオンは何か言おうとしたが、くちばしを動かしただけで何も言わなかった。
城では口に出せなかった疑問。
言ってしまえば周りにいる王城内の人やそれ以外の人々にも迷惑をかけてしまう。
凛華は「預言された少女」でアルフィーユとジェナムスティの戦争を止めなければいけないから。それができるような者でなければいけなかったから。
預言を成さない前に「選択」のことで迷っではいけないのだ。
凛華だってただの高校生だった自分に戻りたいと思うこともある。
けれど、一度受けた手前、何もしないでこの状況から逃げ出すのは卑怯だと思った。
アルフィーユの人は良い人で、心が温かい。信じてくれてる人もいる。
その信用を裏切ってはいけない。
人々の信用を抜きにしても、凛華はこの温かさが好きだった。
「わたしは、ここに居たい……」
凛華は思ったことをそのまま声にした。
今は自分の気持ちに素直になろう。
ここに居たい。それで理由は充分だ。
戦争を止めるまでは。
では、止めたら?
そうしたら、その後はその時考えればいい。「選択」の時に選べば良い。
(もしこれがわたしの見てる夢だったら……夢が覚めるまでは見ていた事を幸せだって思いたいから)
『思うように生きたらいいんじゃない?』
ずっと沈黙していたティオンが明るく言った。
「うんっ」
極上の笑顔で凛華が笑う。自分の中でやっと整理がついたので妙にすっきりした気分だ。
『……リンカいつまでここにいるの? お昼寝でもする?』
「んー。だってアルフィーユって遊ぶ所ないんだもん……」
勿論アルフィーユには現代にあったような遊ぶ所はない。
カジノのような場所はいくつかあるが凛華は行きたいとは思わなかった。
『じゃあ、何かリンカの知ってる話をしてよ。それか歌を歌って!』
「えー? お話か……歌ぁ……?」
眉間に皺を寄せて考え、しばらくして凛華が歌い出したのは記憶に一番残っているエーデルワイスという曲だった。凛華だって流行りの曲くらい知っていたけれど、一人で歌うにはそういった歌よりも音楽の教科書に載っているようなものの方が歌いやすい。
澄んだ、少し高めの綺麗な声。
所々抜けている英語の歌詞を何とか思い出しながら最後まで歌いきる。黙って凛華の歌を聴いていたティオンは、終わると同時に声をかけた。
『歌詞の意味は?』
「えーっと……。確か小さい白い花の歌なの。毎朝花が挨拶してくれてるみたいだって。ずっと咲いていて欲しいって。えーとあとは……自分の故郷が幸せであるように、だったかな?」
頭の中の記憶から探し出して凛華が自信なさげに言った。
小学生の時に音楽の時間で習っただけだし、それが英語だったからいまいちよく覚えていないのだ。
凛華のはっきりとしない説明については特に言及せず、ティオンは先ほど凛華が繰り返して歌ったメロディーを口ずさんだ。人間が歌うよりも鳥が歌う方が上手く、凛華は逆にティオンの声に聞き入った。
「すごいねえ、ティオン。一回聞いただけでよく覚えられるねっ」
にこっと笑って凛華がティオンを誉める。
ティオンはその賞賛に一度だけぎくりと身を竦ませ、それから何でもないふりをした。
『記憶力はきっとリンカより良いと思うよ』
「何それー」
あははと笑って凛華が反論する。
エーデルワイスの歌詞を一度聴いただけで全て間違えずに歌ってのけたことについては追求されず、ティオンはほうっと小さな息を漏らした。
「ねえティオンは他にも何か知ってる歌ってある?」
『……求愛の歌とか?』
「え、そんなのあるのっ!?」
『今歌ったら鳥の大群に襲われるよ』
「……そう言えばティオンって、女の子? 男の子?」
『さあどっちでしょー』
くすくすと笑っている様子から、からかわれているのだと分かった凛華は眉をひそめ、その数秒後に堪えきれずに笑い出した。
ティオンやローシャといるのは楽しい。
そして何よりも、彼らといると安心する。
「誰か、いるのか?」
突然木の下からかけられた声にびくっとして凛華は危うく木から落ちそうになった。
慌ててしっかり枝を掴む。
ティオンと笑い合うことに集中してしまっていたので、ここが国境近くの森であることも忘れていた。
そろそろと下に視線を向けると人が居る。
逆光でよく見えないのか、険しい顔でこちら見ていた。
国境警備隊の騎士だろうか。
「……誰だ?」
そして再び声。
凛華は降りるか数秒考えて、腰に差していた剣を左手に取った。
国境警備隊の騎士ならまず問題はない。凛華はこの国の賓客で、巫女の預言はおとぎ話のように人々の間に広まっているのだ。だから黒い瞳を持つ彼女は、アルフィーユの人々には受け入れられる。
けれど、もし国境警備隊の騎士でなければ?
もし、自分に攻撃を仕掛けてくるような人だったら?
少し戸惑い、ティオンと顔を見合わせる。
ティオンがこくりと頷いてくれたので、凛華は掴んでいた枝から手を離し、飛び降りることにした。