木のぶつかる乾いた音が稽古場に響く。
手から武器を弾き飛ばそうとする丸太を避けつつも、反撃のチャンスを窺う黒髪の少女。
凛華は真っ向勝負に出ようものなら圧倒的な力の差で負けてしまう事が目に見えているので、なるべく下段攻撃を仕掛けるようにしているらしい。
だがそんな事は相手には筒抜けのようで、彼女が攻撃を仕掛けることができる距離からすっと離れて、また鋭い剣戟を繰り出す。
凛華は丸太を持った左手を狙う攻撃を全て紙一重でかわしながら、師匠である相手をキッと睨んだ。
漆黒の瞳の揺るぎない視線を、赤銅色の瞳が冷たく受け流す。騎士の瞳は、どこまでも冷静さを失わない。
(負ける……もんか!)
気を抜けば負けるのは確実なので、彼女は当てずっぽうに打ちかかるのではなく作戦を立てることにした。
正直で単純な彼女は正当な攻撃しかしないので相手にあっさりと見切られてしまうのだ。それならばフェイントをかけてみたらどうだろうか。
上手くいくかどうかは分からない。
師匠を騙す事ができるほどの技術があるとは思っていない。けれど、やってみる価値はあるだろう。
相手の肩口を狙って丸太を振り上げ、振り下ろすと同時に狙いを相手の右手にずらした。勢いは削がれてしまうが確実に狙いはずれる。
その先に、師匠の丸太はない。
隙を見つけた。
勝てると思い、彼女は力任せに丸太を振り下ろして彼の右手に当てた。
相手はそれをかわそうともせずに片手でもった自分自身の丸太で受け、凛華が両手で持った丸太を軽く薙ぎ払った。さりげない一連の動作だが、力は相当なものだ。
引く事を考えてなかった手から丸太が離れる。
「あ……っ!」
カツンと音を立てて転がった丸太に手を伸ばそうとした彼女の首筋に冷たい木が当てられる。
座り込んで項垂れる凛華の肩をトントンと軽く叩いて相手がにっと笑った。
随分と自信ありげな表情である。
「勝負有り、だな」
「……参りました」
片手を上げて降参を表現するとロシオルは腕を持って凛華を立たせた。
師弟関係にある彼らは、先ほどから延々と続いていた勝負に決着をつけた。
(これで何敗目だろ……)
「リンカ、このままじゃ五十年経っても俺に勝てない」
以前彼が言っていた言葉。五十年経てば彼に勝てるかもしれない。よくよく考えてみれば、五十年もすれば彼は七十歳に近い老人なのだが。
「ロシオルって容赦ない……」
呼吸を整えながらもロシオルを軽く睨むと彼にふっと笑われた。
「容赦したら稽古にならないだろ」
これは彼の常套句。
もう耳たこである。何ならタコだけでなくイカもつけようか、と訳の分からないことを凛華は内心でぼそりと呟いた。
「それはそうだけど……」
絶対鬼師匠だ、と深くそう思いながら凛華はもう一度丸太を構えた。
この厳しい師匠は休みを滅多にくれないので、たとえ一度降参してもまた稽古をつけられる。
最初はこのハードさを恨めしく思っていたが最近は怒る気力もなくなってきて、と言うか慣れてきた。
「リンカ、今一番苦手な事は何だ?」
きちんと構えて攻撃に入ろうとしていた凛華は、ロシオルの突然の質問を理解するのに数秒を要した。
質問を理解してから、彼女は首を傾げながら考える様子を見せる。苦手な事は結構たくさんある。例えば怪談話は眠れなくなってしまいそうだから苦手だし、くすぐったがりである彼女は脇腹がものすごく弱かった。勉強もアルコールも苦手だ。苦手なことを挙げていったらきりがない。
けれど目下の苦手なことと言えば、あれだ。
「……ベルに着せられるドレス、かな。でもどうしていきなりそんな事……」
凛華は彼の脈絡のない質問を不思議に思って聞いた。剣の稽古と自分の苦手なことの間にどんな関係があるのだろう?
「では今日の稽古が終わるまでに十本以上俺に取られたら、一週間ずっとドレスな」
構えに入ったロシオルに凛華が抗議の声を上げる。
「えぇっ!? ど、どうして!?」
「罰ゲームがあった方がやる気も出るだろう?」
嫌なことをしなければならないと思っていれば、それなりに運動能力は高まるのである。
ロシオルは昔、現在の第一騎士隊長に初めて稽古をつけてもらっていた際にそれをやられた。何が苦手だと聞かれて甘い物だと素直に答えたら、一週間、甘い物以外口にするなというとてつもない罰ゲームが待っていた。あれ以来彼は甘い物が苦手だとは口外していない。一種のトラウマだったりするのだ。
けれどあのやり方のおかげで本気というものを知った。
「ちょ……っ!」
「問答無用」
赤銅色の瞳をスッと細めてロシオルが本気で間合いを詰めてきたので、仕方なく凛華は丸太を構え直す。
この師匠には何を言っても無駄だと、分かった。
二時間稽古をつけてもらい(結局ロシオルに十七本取られた)、稽古場から城へ戻ろうとする途中にロシオルが口を開いた。
「ベルが喜ぶだろうな」
「う……」
目を輝かせたベルに、とんでもないドレスを着せられそうだと本気で悩む凛華。
彼女は良い人だとは思うのだが。ドレスを着せられるのはあまり好きではない。特に最初に着せられたような露出の多いものは勘弁願いたかった。
うー、とうなる凛華に、ロシオルはふと口を開いた。
「そう言えばリンカ……ここ一週間程乗馬やってないんじゃないか?」
その言葉に彼女がうっと固まる。
「セ、セシアは忙しいから……。ほら、国王陛下だしっ!」
そうなのだ。
あの夜から一度も乗馬を教えてもらっていない。それどころかセシアと視線があっても凛華はすぐに逸らしている。
彼は寝惚けていたのだからきっと覚えていない。けれど、彼の顔を見るとどうしても思い出してしまう。凛華は彼と目が合うたびに、赤くなる頬の対処に困るはめになった。このままでは勉強や乗馬を教えてもらえない。
あの後、ティオンにあったことをそのまま話すと大笑いされた。『気にするから駄目なんだよ』とフォローを入れられたけれど、凛華は気にしてしまう。
俯いて百面相をしつつも頭を抑えて「あ〜どうしよ〜!!」と言っている凛華を不思議そうにロシオルが眺めた。
「どうかしたのか? 陛下と何かあったか?」
「な、な、何でもない!!」
明らかに「何かありました」といった雰囲気でぶんぶんと頭を振った凛華が、真っ赤になって星見の塔の方へ駆けて行くのを見てロシオルは複雑そうな表情を浮かべた。
勿論ものすごい勢いで駆けていった凛華がその表情に気付く事はなかったけれど。
「あれ、リーサーさん?」
久しぶりに見る短めの茶髪の女性を見て凛華が少し驚いて声を掛けた。
部屋の中にいたのはもう一人の侍女、リーサーだ。最近彼女は忙しいらしく、このところ毎日ベルだけだった。別にベルだけで充分だし、むしろ一人でも大丈夫だったけれど。
「リンカ、久しぶりー。……何かあった? 顔が悩んでる」
会ってまもないのにずばりと言い当てられて凛華が閉口する。
どうしてばれたのだろう。
神殿の巫女も凛華は思ったことが顔に出ていると言っていたけれど、そんなにも、悩んでいそうな表情をしていただろうか?
自分の頬に手を当て、ばれた原因をオロオロと考える凛華を見て、リーサーが短めの髪を揺らしてくすくすと笑った。彼女が以前仕えていた公爵のご令嬢も、こんな感じだった。純粋でついからかいたくなってしまう。
「オネェサンに話してみない?」
リーサーが最初に会った時の母親のような笑顔をする。
凛華は暫く頭の中で色々と考えた後、リーサーにセシアとの事を話すことにした。
誰かに話してしまった方が楽になるかもしれない。同じ年代のベルに話すのには少し抵抗があったけれど、この年上の侍女なら特に抵抗は感じなかった。
「……と言う訳で。セシアの顔がちゃんと見れないんです……」
沈黙を守って凛華の話を聞いていたリーサーは、彼女が話し終わると同時に盛大に噴き出した。彼女が話し終わるまで耐えていたのだから上出来なのかもしれない。
ただ額にキスをされたというだけで。相手の顔も見ることができなくなってしまうなんて。
何て子供らしくて可愛いのだろう。
「あっはは! リンカってば純情過ぎーー!! おでこなのにーっ!?」
ここまでくると爆笑どころか、馬鹿笑いの部類だ。仕舞いにはひーひーと、目尻に涙まで浮かべられてしまった。
「リーサーさんそんなに笑わないで下さいっ! わたしにとってはファーストキスだったんですからあっ!」
顔を赤くして言った凛華の言葉を聞いてまたしてもリーサーが息苦しそうに笑った。
彼女には凛華の台詞が笑いの元にしかならないのだろうか。
「リンカもう十六でしょう!? じゅうろくでふぁーすときすー! あははははは!! しかもおでこで、そ、その、反応……っ!! あーお腹痛いーっ! リンカの言ってるファーストキスって普通は唇にするものよ? だめだもう、笑い止まんない!」
彼女自身の言葉通り、彼女は笑うのをやめなかった。
リーサーに話すべきではなかったかもしれない。選択肢を誤ったような気がした。
けれど、際限なく笑い続けるリーサーを見ながら、彼女が「そんなこと」と言ってくれたので凛華はそんなものかと考える事が出来た。幾分か気が楽だ。
あれはキスではない。
ただの、挨拶のようなものだ。ほら、欧米の人だって挨拶にキスを交わすではないか。
それと同じようなもの。
そう思いこむことにした。
「……ありがと、リーサーさん」
「ん? 何でお礼? あれだけ笑ったのに。……プッ」
凛華がうろたえる様子を思い出したのかリーサーがまた笑い出した。
王宮一の笑い上戸、リーサー・シェナマーレ。
笑顔のまま兄を脅しつける侍女やら、おっとりとし過ぎている風変わりな騎士やら、際限なく笑い続ける侍女までも。
塔内には変わり者がたくさんいる。
「何となく……です」
リーサーが笑い出したのをさして気にするでもなく、凛華は笑顔を浮かべた。
(そっかあ……。おでこはキスの内に入らないんだ……)
問題は解決だ。
今度セシアに乗馬を教えてもらう時は気にしないでいられるかもしれない。
勉強だって止まったままなのだ。
何もそこまで徹底的に避けなくても、と思われるほどに避け続けていた凛華は、気にしなくてもいいというたった一言だけで、見事に考え方を変えてしまっていた。
そしてすっかり気をよくした凛華は、ロシオルの言っていた「一週間ドレス」を忘れていた。
翌日赤銅色の目を輝かせたベルが微笑みながら部屋に入ってくるまで。
ロシオルは鬼師匠の上に徹底主義である。
罰ゲームが改善されることはなさそうだった。
その日の夜。
大広間に薄紅色のふわふわとしたドレスを着た凛華が俯きがちに現れたのを見て、ロシオルが勝ち誇ったように笑い、セシアが驚いてその後柔らかく笑い、ベルは目を生き生きと輝かせ、リーサーは凛華の不機嫌そうな顔を見てくすくすと笑った。
これから一週間は同じ事が続きそうだ。
塔内には変わり者が多いが、城内も負けず劣らず個性的な人間が多いようで。
ロイアが凛華に近寄って来て、にこにこと笑いながら声をかけた。
「リンカさま、めちゃくちゃ綺麗ですよ。何か良い事でもあったんですか?」
無邪気なロイアの笑顔。
だが、口にした言葉を聞いて凛華は少し眉をひそめた。
自慢には全くならないが今の自分はかなり仏頂面をしていると思う。良いことがあったという顔では、まずない。
「……ロイア君、わたしそんなに嬉しそうな顔してる?」
常よりも低い声でそう尋ねると、目の前の騎士はにこりと笑った。
「いえ、むしろ怒っていらっしゃいます」
分かってるなら良いことがあったのかとか訊くな。
「…………」
怒ってやりたいけれど、凛華の気性は基本的に穏やかだし、人を怒鳴りつけることは嫌いである。
だからと言って普通の顔で「うん、怒ってるよー」などと言い返せない。
結局は、無言を貫き通すことになった。
ロイアは黙り込んでしまった彼女に気付いているのかいないのか、無邪気な笑顔を浮かべたまま。そしていつもは照れたような、少し困ったような顔を浮かべている少女は無表情だ。
妙な組み合わせの二人を見かけ、国王の側近であるアイルは何となく状況を察した。
ここは早めに状況を打開するべきである。極力問題を起こしたくないというか、問題を処理するのが面倒なアイルは、助け船を出してやることにした。
「ロイア、それ以上話してると怒られますよ」
「アイルさま、誰にですかー?」
目の前に明らかに機嫌が良くはない人がいるだろう。
「……」
思ったことの違いこそあれ、アイルは凛華と同じように無言になると目を伏せた。
ロイアは悪気なくして人を怒らせる天才なのかもしれない。
王宮一の笑い上戸もいれば、王宮一周りの雰囲気を飲み込めない迷惑な騎士もいるものだ。
本当に、アルフィーユは色んな人間がいる。
凛華はこの日、そう確信した。