凛華がアルフィーユに来てから二ヶ月が経ち、そろそろ、いや、かなり勉強が危なくなってきたので、凛華は部屋で朝からずっと数学の勉強をやっていた。
 最初の方は順調だったのだが、今は解答と解説を見ても首を傾げるばかりだ。
 机の上に重なっているルーズリーフに書かれた式は、途中で止まっていた。
「うーん……。途中までは分かるんだけど……」
 説明がさっぱり分からない。
 分からない説明は説明ではないと凛華は文句を言いたい気分になったが、説明を理解できない自分がいけないのだから仕方ない。

 以前ベルに数学が分かるかどうか聞いたことがあったが、彼女はその時にっこりと笑って「分かりません」と即答した。リーサーにも尋ねてみたが、数字の羅列ほど世の中理解できないものはない、というのが彼女の心構えらしい。
 結局は二人とも凛華に数学を教えてはくれなかった。

「やっぱり自分で調べてやらなきゃだめかあ……」

 ふうとため息をつき、凛華はおもむろに立ち上がった。
 そうと決まれば図書館だ。あそこには大量に本がある。
 アルフィーユ王城内の図書館はとても広く、本が何万冊もあるらしい。因みに凛華は一度も行った事がなかったりする。本を読むのは好きだが、城の図書館にある本は難しすぎるからだ。アルフィーユの法の事を分厚い本で延々説明されてもさっぱり理解できない。

 とにかく何か役に立ちそうな本くらいはあるだろう。
 髪を一度きちんとくくり直し、凛華は筆箱やルーズリーフや数学の教科書を持って部屋を出た。
 即断即決即行動。



 図書館は広い。
 一体一周するのにどれくらい時間がかかるのだろうと不思議に思うほどそこは広く、背の高い本棚がずらりと並んでいた。
 凛華が近くにいた司書に「数学の本の場所を教えて下さい」と尋ねると、司書は何故だか頬を赤らめながら教えてくれた。
 乗馬までやってのけ、最高騎士の剣の稽古にも根を上げないという彼女はなかなか王城内での名声が上がっているらしい。シエルのように彼女に憧れを抱くものも少なくないという。
 どうして彼が赤くなったか分からなかった彼女は首を傾げながら司書に尋ねた。

「風邪……ひかないで下さいね?」

 と。司書は更に赤くなって裏返った声で返事をした。
 凛華の上目遣いの効果はかなりのものだとこれで証明された。


 彼女は本当に、特別綺麗だと言われるような容姿をしている訳ではない。
 けれどこの世界では二人と見られない黒髪に黒い瞳。
 髪だけなら染め粉と言われる粉を使って似せることは出来るが、凛華のような漆黒の瞳はどうやっても似せることはできない。だから必然的に黒い瞳である凛華は目立ってしまうのだ。
 周りがみんな黒い瞳をしていた場所で生きてきた凛華には想像もつかないが、そういうものらしい。
 そして何よりも彼女が魅力的なのは、気取らないところ。
 運命を変えるという壮大な力を持つ筈の少女は、至って普通の性格をしていた。司書というあまり高くはない身分の相手にまで心配をするし、礼儀の基本を忘れない。
 そんな彼女だからこそ人は惹かれる。

 けれど彼女自身は全くそういうことに関心がなかったので、何故司書の顔が赤くなったのかも分からなければ、自分に人気があるということもよく分かっていない。
 罪作りなほど鈍い少女、浅川凛華。
 真っ赤になってしまったままの司書に、「大丈夫かなあ」などと的はずれなことを心配しながら、館内にある机に本を置いた。
 ここは静かで過ごしやすい。
 よし勉強だと、凛華は意気込んで本をめくり始めた。



 不親切な教科書に苛立ちながらも本をパラパラとめくり何とか考えていく内に大分理解出来たが、しばらくして難問にぶつかった。
 別の本を探してみても皆目見当がつかない。
「うー……分からない……」
 凛華がくてっと机にへばり、手を投げ出してため息をついた。
 諦めるのは嫌いだけれど、父親に弁解させてもらえるならこれは諦めではない。
 力量不足というやつだ。
 ……同じことだという考えは頭の中から追い出した。
「でもこれ分からないと次進めないし……」
 どうしたものかと再びため息をつく。
 けれどため息を何度ついたところで目の前の問題が理解できる筈もないし、ルーズリーフは白いままだ。

「どうしよう……」


「教えてあげようか?」


 上からかけられた言葉にがばっと起きあがった凛華が見たものは、穏やかに笑って彼女を見ているセシアだった。
 そう、この国の王様だ。
「セ、セシア?」
 どうして図書館に国王がいるのだろうと驚いて声をあげる凛華の向かいにセシアが座った。
 さりげない動作ながら、ちゃっかりと彼女の目の前に座っているところが敏腕の為政者らしい。
「セシア、どうしてここにいるの?」
「……頼み事をされて」
 そう言ってセシアはちらりと視線を後ろにやった。
 つられて凛華もそちらを見ると、司書が困ったように視線を泳がせていた。
「司書さん?」
「あ、あの……リンカさま……へ、閉館の時間なのですが……」
 なるほど。そういうことか。
 司書の言葉を聞いて周りを見てみると、図書館の窓から見えた空は暗かった。図書館に来たのは夕方にもなっていない頃だった。
 いつの間にそんな時間が経っていたのだろうと苦笑してしまう。
 テスト前でもこんなに必死に勉強しなかったのに。それはそれで問題がある気はしないでもないが。

「ご、ごめんなさいっ! 今すぐ片付け──」

 慌てふためき、凛華は教科書を閉じて本を持ち上げた。
 早くここを出ないと迷惑になってしまう。
 けれど。
「いいよ」
「……セシア?」
「ここの鍵は俺が預かったから、大丈夫。……仕事、ご苦労」
 小声で凛華にそう告げた後で、セシアは司書に向かってそう声をかけた。
 慌てて礼を取った司書が図書館から出ていく。本来ならば貴重なものも陳列されているため書物盗難防止の目的で閉館の時間帯は鍵がかけられているのだが、国王にそれを渡してしまっても問題はない。敏腕の国王がいる図書館で書物を盗もうとするような者はいないだろう。


 結局セシアと凛華は二人だけになってしまったが、凛華はそのことにも全く気がついていない様子だった。
(もう少し警戒心持って欲しいような気も……)
 そんなことを思いながらセシアは凛華が閉じた教科書をパラパラとめくって、丁度彼女がやりかけていた問題のところで止めた。

 訳が分からない。日本語が通じたことに最初驚いたけれど、図書館内にあった本を開いてみても、それは彼女にもよく分かる日本語で書かれていた。
 おかしいなあと凛華は思う。セシアやロシオルやベルといった名前は、明らかにスペルが凛華の知らない表記なのに。どうなっているのだろうか。だがこれもフェデリアの言っていた力なのだと思えば理解できる。今度会ったら聞いてみようと、密かに彼女は決心した。

「これ?」
「う、うん……」

 凛華の教科書は日本語で書かれているのに。
 普通だ。やりとりが普通過ぎる。
 まあいっかと楽天的思考で結論づけ、彼女はセシアが丁寧に解き方を教えてくれるのに聞き入った。

 とりあえず分かったことは、ベルとリーサーは数学が分からないということ。司書は風邪をひいているのかもしれないということ。セシアは頭が良いということ。
 そしてアルフィーユにも、三角比というややこしいものがあったということ。
 分かるのかと尋ねたら、彼は「測量に必要だよ」とあっさり答えてくれた。ああ何だかよく分からなくなってきた。



「あ、そっか! 分かった!」
「そう? 良かった」
「ありがとう、セシア!」

 凛華がにこにこと嬉しそうに笑った。
 セシアの教え方は丁寧でとても分かり易く、いくら教科書と睨めっこしても解けなかった問題が解けたのだ。
 これは、かなり嬉しい。
「ここまで出来たら上出来だよ」
 更にはこんな誉め言葉まで頂いてしまった。
 数学が苦手だった凛華は、そう言ってもらうと更に気持ちが舞い上がってしまうのである。思わずにこにこと笑ってしまった。

「えへへ、セシアのおかげっ」

 可愛らしい笑顔でそんなことを照れもせず言う凛華は素晴らしく天然だ。
 天然悪女と言っても良いかもしれない。あまりにも無邪気なその笑顔にセシアはしばらく固まった。
「? セシアどうしたの?」
 セシアは、自分の目の前でぶんぶんと手を振って首を傾げている凛華に気付き、何でもないと答る。
 本当は色々あったのだがあえて何でもないことにしておいた。

「ごめんなさい。あの……もしかしてわたしのせいで疲れちゃった?」

 すまなさそうに目を伏せる凛華の頭をぽんぽんと軽く撫でて、セシアは笑った。
「違う。ちょっとぼうっとしてた」
「……そっか。良かった」
「もしまた分からない所があったら言って。夜なら仕事が終わった後空いてるけど……」
「けど?」
 「夜に男性と二人で」勉強するということの危険さが分かっていない純粋且つ天然な凛華が首を傾げて言うのに、セシアは彼女に隠れてため息をついた。「わざわざ言うものでもないしな」と心の中で少し言い訳がましく呟くとセシアは口を開く。
「何でもない」
「そう? あ、えっと、セシア、アルフィーユのこととかも教えて欲しいんだけど……。ジェナムスティのことも。駄目……かな?」
「……良いよ」
 どこまでも無防備な凛華に心から大きなため息をつきながら、セシアは凛華と一緒に図書館を出た。
 鍵は彼が司書に返しておいてくれると言う。
 こんな夜遅くまで付き合わせてしまったことを申し訳なく思いながらも、彼女は嬉しそうに笑った。
 警戒心のなさとその笑顔に、セシアは暗い空をちらりと見てから再び小さくため息をついた。
 そして心の中で呟く。
(……リンカは最強だ)
 敏腕な賢王として知られる彼にもこう思わせる彼女は、確かに強かった。




「あれえ、ティオン?」

 自分の部屋に戻った凛華は、寝台にちょこんと乗っている白い鳥を見て声を掛けた。
 ティオンは翼を広げて凛華の元まで近寄り、彼女の肩に着地する。
『リンカ、どこに行ってたの?』
「図書館。セシアに勉強教えてもらってたんだ」
 ティオンには頻繁に見せるようになった光のような笑顔で凛華が言い、ティオンがセシアと同じく隠れてため息をついた。
 こんな時間まで、男性と二人で?
 しかも美貌の国王に近づこうと画策してやっているわけではなく、純粋に勉強をしていたようだ。
 楽しそうに言って風呂に入ろうとする凛華から離れ、ティオンはどこか遠くを向いて考えた。


 彼女が元の世界を大切に想っていることをティオンは知っている。
 そして今はこのアルフィーユで親しい人を見つけていって。
 今は良いかもしれない。
 誰かと触れ合って成長していくのは彼女にとって良いことである。
 けれど。もしも、今いる世界と元の世界が同等なほど彼女にとってかけがえのないものになってしまったら。

 「選択」の時が来た時に傷つくのは、彼女なのだ。


 ティオンの深刻な考えは、機嫌の良い凛華に届く事はなかった。






「そう、うん……。あ。そこ違う」

 セシアからチェックが入り凛華が慌てて直す、ということが繰り返されている。
 今の状況はというと、セシアの部屋で凛華が大きいテーブルに色々広げて、それを彼が向かいに座って見ているという感じだ。
 全くもって自分に警戒心を持たない凛華に少々呆れながらも、セシアはきちんと彼女に教えていく。こういうところが彼らしいところだった。
「ちょっと休憩しようか。リンカ今日はロシオルに稽古つけてもらっただろう? 顔が疲れてる」
 セシアが笑いながら言うと、彼女もつられて苦笑いを浮かべた。
 今日もあの鬼師匠はぼろぼろになるまで彼女に剣の稽古をつけ、やはり汗ひとつかかないまま稽古を終わらせた。おかげで身体のあちこちが痛い上に、……眠い。
 彼がチェックを入れてくれなければ、そのままペンを持って寝てしまいそうだったのだ。

 アルフィーユとジェナムスティの地図を見せてもらっていた凛華はぼんやりと考え始めた。
 ジェナムスティもアルフィーユも、どちらもものすごく大きい。
 自分の住んでいた島国とは比べものにならない。そんな広い国を統治しているセシア。そのセシアでさえも解決できない戦争を。ただ生ぬるい世界で生きてきた自分が解決できるのだろうか。
(本当にそんなこと、出来るのかな)
 もし出来なければ。そんな力を持たないただの子供だと気付かれてしまったら。
 いくら温かく優しいこの国の人々でも、自分のことを疎ましく感じるかもしれない。

 あの時みたいに、と凛華は思った。


 彼女の父親が亡くなった時。
 育てる人がいなくなってしまった彼女を誰が引き取るか、親戚で話し合いがあった。



 祖父の横でうつむいて静かに座っている凛華の前で自分勝手な発言が出されていく。彼女の気持ちを少しもくみ取らず、両親を亡くしてしまった小さな少女が手を握って必死に涙を堪えているのにも気付こうとしないで。
 親戚たちは、本人の前で本人を無視するかのように直接的な言葉を吐いていた。

『だいたい何にも出来ないただの子供じゃないか! 引き取ってどうする!? 家には何人も扶養家族が………』
『だったら何だって言うんだ? 家だってこんな邪魔にしかならない子供はごめんだ。見ろ、両親ともいなくなったっていうのに泣きもしない』
『感情もないんじゃないのか』
『親の育て方が悪かったんじゃないのか?』

 凛華を嘲笑する声。
 だんだんと話はエスカレートしていき、凛華だけでなはなく彼女の両親、つまり、彼らにとってはいとこや兄弟でもあるのに、その両親への侮辱も口にされる。
 最初はただの責任の押し付け合いだったのに。

 堪えきれなくなった凛華の目尻に涙が浮かぶ。
 父親の生前に会ったことのある彼らはもっともっと優しかった。


(やめて……)


『お前らは恥というものを知らないのか』

 凛華の隣にいた祖父が力強い声で言った。
 優しかった祖父の、凛華が一度も聞いたことのないような堅く険しい声。
 周りの親戚が驚いて祖父を見る中、その内の一人が声を荒げた。
『お祖父さまこそ何です!? あなたが引き取ればいいじゃないですか。俺たちに押し付けて。それこそただの偽善者じゃないか!』

(違うお祖父ちゃんは引き取らなかったんじゃない! 引き取れなかったのに……)

 祖父はあの時既に知っていたのだ。
 主治医から永くは生きられないと言われていたから。老いていくだけの自分には凛華を育てることはできない、としわの多い手で凛華の頬を撫でながら祖父は教えてくれた。
 けれど全て凛華に残していくからと。

(だから……お祖父ちゃんは悪くない……。やめて。わたしのせいで誰かが悪く言われる所なんて見たくない……。もういやだ!)




 凛華が続きを考えたくなくなって、ぶんぶんと勢いよく首を振る。
 目の前に浮かんでいた過去の幻影はすっとかき消えた。
 いつも、こんなことの繰り返しだ。
 父親の笑顔を思い出して勇気づけられて。それと同時にひどい言葉と、優しいと信じていた親戚たちの顔を思い出して。最後にのこったのは、「遺産泥棒」というひどい罵りの言葉だけだった。

 ふと彼女がセシアの方を見ると、彼は椅子に座ったまま眠りかけていた。
 ほんの少し頭が揺れている。
 腕を組んで、長い足を組んだまま。さらさらの銀髪がふわりと動く。
 長い睫毛。整った顔。
(疲れてるんだろうなあ……。朝早くから起きて、お仕事して、わたしに乗馬を教えてくれて、その上勉強までみてくれて……。わたしもロシオルとの剣の稽古で疲れてるけど、きっとそんなの比較にならない……)
 仮にも一国の王だし、と思いながらセシアの顔を眺めた。

「きれーな顔……。女の子みたい」

 女の子よりも綺麗だ。
 ぽつりと呟いて、凛華は自分の羽織っていたショールをそっとセシアにかけた。広いこの部屋は、うたた寝をするには少し寒い。

 凛華が直前まで羽織っていたそれは十分に温かく、眠りに落ちながらもその温かさに気付いたらしい。ぴくりとセシアの瞼が動く。けれど、目を覚ます様子はない。
 それを良いことに、凛華は至近距離からセシアの観察を始めた。彼が目を開けていたら決してできないことである。
 美人には、楚々とした美人と迫力のある美人がいると凛華が思う。そしてセシアはどちらかと尋ねられれば、絶対に後者の方だとも思う。
 派手、というわけではない。
 ただ、はっとさせられるのだ。
 澄み切った高い青空を見上げた時のような、不思議と目を離せなくなる、そんな感じ。

(わあ、わあ……っ。天使の輪っかだ……っ)


 そして凛華がその顔をじっと見ていると急にぐいっと引き寄せられた。
「ひゃっ!」
 思わず変な声をあげてしまった。
(セ、セシアの腕が……っ!)
 突然の事に凛華は真っ赤になって狼狽えた。セシアの右腕が腰に回っていて彼女は身動きが取れない。
 異性と付き合った経験のない凛華は、父親や祖父以外には当然抱き寄せられたこともなかった。腹部に感じるセシアの温かさと、回された腕の力強さに。凛華の頭の中はパンク寸前だった。

「セ、セセセシア、ど、どうしたの?」

 まじまじと顔を見つめていたのが悪かったのだろうか?
 何とか会話をしようと凛華が声をかけると、更に力が込められてしまった。
「ん……」
 パニック寸前の頭に声が届く。
 寝惚けたような、声。
 凛華ははっとしてセシアの顔を見た。先ほどと同じ表情のままで規則正しい寝息を立てているセシア。

「セ、セシア? 起きて……」

 自由な手を彼の肩に乗せてゆすってみるが、起きる気配は全くない。
 よくよく考えてみると、彼はかなり多忙な国王なのだ。一日のほとんどを仕事に奪われるほど忙しいのだから寝不足にでもなっているのだろう。
 彼女はゆでだこのように真っ赤になったまま、困り果てた。
「ね……お願いだから起きて下さい……」
「……う、ん……」
「……こら」
 とにかくいたたまれなくなり、凛華は手をそろそろと伸ばしてセシアの頬に触れた。凛華と同じくらい綺麗な肌。
 凛華は親指と人差し指でふにっとセシアの頬を軽く抓った。最終手段である。
 するとセシアがぱちりと目を開ける。

「……」

 セシアがゆっくりと顔を上げ、凛華を見つめた。至近距離のその青い瞳に凛華がたじろぐ。
 まだ寝惚けているのは分かっているけれど。こんなにも近い距離で抱きしめられたまま見つめられるのは心臓に悪くて。起こさない方が良かったかもしれない。この青い色はとても綺麗で、見ているだけでどきりとするのだ。

「……リンカ?」

 どうして彼女がここにいるのだろうという疑問を込めた言葉。
 完全に目を覚ましている訳ではないらしく、腰に回された腕はそのままで、凛華は僅かに身を引いた。
「セシア……。こんな所で寝たら風邪ひいちゃうよ。ちゃんとベッドで寝なきゃ……」
 今の状況を打開したくて凛華が何とかセシアから離れようとする。

「……ん。おやすみ」

 立ち上がって軽く凛華の額にキスをして。
 セシアはどこかふらふらとした足取りのままで寝室の扉を開け、そして自分の寝台まで歩き、寝台に倒れ込んでそのまままた本格的に寝息をたて始めた。
 凛華はゆでだこを通り越して、火のように真っ赤になった。
 頭がパニックで真っ白だ。
(キ、キ、キ、キス……された……!!)
 凛華は真っ赤になったまま、その場にあった紙に「勉強教えてくれてありがとう」と書いた。もしかしたら字なんてめちゃくちゃだったかもしれない。
 そのまま猛ダッシュで自分の部屋に走る。
 途中、女官達や警備の騎士達に話し掛けられた気もするが、それこそ彼女は人をきそうなほどの勢いで部屋に駆け込んだ。



 大きな音をたてて扉を閉め、鏡を覗き込んで真っ赤だと呟く。
 面白いくらい顔に血が上っていた。

(落ち着けーー! そ、そう。おでこだもん! おでこ……)

 思い出してぼんっと赤くなり椅子にもたれかかる。
 その後彼女はおろおろしつつも風呂に入って、顔の赤さを何とか元に戻そうと試みた。長時間そうやって頑張っていたせいか、少しのぼせた。


 赤くなった顔を元に戻した凛華は寝台に寝転がり英語と数学の教科書をぱらぱらとめくる。
 動揺しすぎて内容なんか頭に入ってないが。
 数学の教科書をチェストに置き、ポスッと枕に顔を埋めた。
「もう二ヶ月も経ったんだ……」
 ものすごくこの二ヶ月、早かった。毎日楽しくて気付けばもうそんなに時間が経っていたのかと驚く。
 呟き、「選択」の時のことを考えようとしたが、襲いかかる睡魔に勝てずに凛華は意識を夢の中に手放した。


 凛華がアルフィーユに来てから二ヶ月。
 国王と「預言された少女」の関係は、少しだけ変わっていた。

 その変化が良いものなのか悪いものなのか。
 それはまだ、誰にも分かっていなかった。