塔の屋上に立っている少女の黒髪が風に揺れる。

 高い位置でまとめた髪が風に揺れてくすぐったさを感じさせる。それを少し鬱陶うっとうしく思いながら凛華は城の周りに広がる平和なアルフィーユを見渡した。
 この国はとても広い。王城からしてこの大きさなのだから当たり前なのだろうが、島国という場所に住んでいた凛華にはこの広い大地のずっと向こうまでもがアルフィーユなのだと思うと、何だか不思議な気がした。
 海は見えない。海に面する都市もあるそうなのだが、王都からは大分遠いのだとも教えてもらっていた。

 城下の更に向こうにある大河を眺めるのが凛華は好きだった。
 彼女の本来の家の近くにも川はあったが、水は汚れていたし魚など見たことがなかった。けれどアルフィーユの河は違う。この大都市の全てをまかなってもあまりが出るほどの水量は、この国一番なのだとベルが地図を広げて笑っていた。
 人は水がなければ生きていけない。
 何万人もの生命を握るあの大河は、凛華にとって大きく、そして祖父の実家の自然を思い出させるような壮大さがあった。


「アルフィーユって広いよね……」

 凛華の後ろにいる金髪の侍女は、塔の壁にしがみついていた。
 塔の壁から屋上の端までは三メートル以上もあるのに、彼女は立つどころか腰を抜かしてその場にへたり込んでいる。
「か、帰りましょうよー……。ここ、柵なんてないんですよ?」
「大丈夫だよベル、落ちない落ちない」
 気楽にそう言う凛華を見て、ベルが信じられないという表情を浮かべた。
 主の状況はと言うとあと二歩で塔の上から滑り落ちて真っ逆さま、という非常に危険な状況。高所恐怖症の気があるベルにはとてもじゃないが、壁から手を離すなんて事はできない。

「ベル、下に降りてていいよ? わたしもう少しここにいたいからっ」
 彼女が言ったその言葉を聞き、女神のご慈悲とばかりにベルは喜んで下に降りて行った。
 全く、大丈夫だと言ったのに。侍女の仕事は主を守ることですからと、ここまでついてきた彼女には負けた。


 本当にこの国は広い。
 そして同じほど広大なジェナムスティという隣国は、この国のように穏やかな笑顔はない。
 自分はこの大きな国々にとっては取るに足らない存在かもしれない。けれど、やりたいことはやってやるのだと決めた。
 考えながら大河を見つめていると、不意に頭に重みを感じた。

『リンカ、落ちるよ?』
「ティオン!?」

 いきなり頭の上にティオンが着地し、凛華はかなり驚いた。
 いつもティオンは姿を見せて彼女に挨拶をしてから肩に留まるのに、いきなり乗られたらかなり驚く。
「ティオンこそ……わたしを驚かせて落とすつもり?」
 少しだけからかいを含めてそう言い返し、その後でどうしたのと聞いた。
『いや、自殺でもするのかと思って?』
 折角言い返したのに、更に言い返されたので、凛華がむっとした表情を浮かべた。
 いつもいつも、この小鳥には驚かされるし、からかわれる。
 それに自殺なんか、しない。ついこの間自分のやりたいことを決めたのだから、それをやり遂げるまで自分から諦めたりはしない。

「しないよ。したところで何も変わらないでしょ?」

 まるで挑発するかのように告げられたその言葉は、ティオンを喜ばせた。
 そして、いつものようにじゃれ合う。


『うりゃーっ』
 謎なかけ声とともにティオンのくすぐり攻撃。
 ティオンの羽毛は動かされるとものすごくくすぐったい。
 背中を指でつーっと滑らされただけでも悲鳴をあげてしまう程のくすぐったがりである凛華。背中だけでなく首筋もくすぐられるのには弱い。これには、思いきり声をあげた。

「ひゃあっ! ちょ……ティオン……っ。くすぐったいっ! うわ、もうほんと、やめ……あははっ!」

 首の位置で動く小鳥を何とか引き離そうとするも、更にとどめだとばかりにくすぐられて為すすべもない。

「あはっ……!」

 あまりのくすぐったさに凛華が本気で笑った。

 ずっと笑っていなかった。
 父親が死んで、祖父が死んで、それから消していた笑顔。笑顔をなくした原因は忘れてしまいたいけれど、とにかくあれ以来本当に笑ったことはなかった。
 いつも控えめに笑う。これ以上傷つかないように、これ以上悲しくならないように。
 裏切られるくらいなら、笑顔なんていらない。

 他人に――セシアやベルやロシオルは勿論、城の他の誰にも――見せたことのない太陽そのもののような明るい笑顔。
 目を細めて笑うその姿は、本当に楽しそうだった。
 その笑顔に見惚れたかのように周りの空気までもが一瞬止まる。もしこの場にベルがいたら、鼻血を出して卒倒するかもしれない。いや、彼女ならば喜々として凛華を飾り付ける事だろうか。


「……リンカ?」


 突然後ろから掛けられた声に凛華ははっとして笑うのをやめた。
 ティオンももうそれ以上彼女をくすぐるのをやめ、彼女の肩に大人しく留まる。

 あの、明るい笑顔は消えてしまった。

 彼女が慌てて振り向くと、屋上の扉の所にセシアとロシオルが立っていた。
 正装姿と騎士姿。どうやら仕事中だったらしい。

「セシア、ロシオル……どう、したの?」

 笑顔を浮かべて凛華が聞く。けれどその笑顔は先ほどの明るい笑顔ではなかった。一時期笑えなくなってしまった頃に身につけた笑い方だ。
 笑っていれば、いいのに。
 ベルから彼女は塔の屋上にいると聞いたロシオルは早足にここまで来た。用があって廊下を歩いていたセシアも彼に合流し、二人してここまでやって来たのだ。
 何だか嫌な予感がした。彼女は望んでもいないのにこの国に来てしまい、彼女には何の責任もないのに無理難題が押しつけられて。彼女自身があまり幸せそうに見えていなかったことも手伝い、彼らの不安は増した。
 星見の塔は王城内でもかなりの高さがある。その屋上には柵がなく、簡単に下に落ちてしまう。そんな場所へ望んで彼女が行ったということが、どうしても嫌な想像に繋がっていくのだ。
 けれど来てみれば彼女は楽しそうに笑っていて。
 驚いた。

「ベルから、ここにいると聞いたから……」

 ロシオルが口を開くがどこかぼんやりとした声だった。
 彼女の明るい笑顔を見てしまったからだろうか。

「リンカ、ここは危ない。柵がないし……」

 そう言ったセシアも何処か呆然としている。こちらも驚いている様子だった。
 彼は仕事用にと偽りの笑顔を浮かべることに慣れているせいか、この変化には驚いた。
 明るい笑顔。こんな彼女の表情を今まで、見たことがなかった。


 心配性な二人に凛華が「大丈夫だよ」と答え、その後に付け足した。
「自殺なんてしないから」
 この台詞に目の前の二人がぎくりと一瞬固まった。実際彼女が自殺するかもしれないと危惧きぐしてここまで慌てて来たのだから無理もない。
『やっぱり誰だってそう思うだろうね』
 先ほどまで凛華を思いきりくすぐっていたティオンが呑気にそう言うのを聞きとがめ、彼女は思わないってば、と突っ込んだ。

「? リンカ誰と話して……」

 セシアが尋ねるのに対し、凛華は肩に留まる小鳥を指して「ティオンと」と答えた。
 またしても二人が固まる。
 動物と話すことなど夢としか思えない彼らにとって、凛華の言葉はなかなかに常識破りだ。

「別に嘘とか冗談じゃないからねっ。じゃあ、わたしもう戻るから」

 そう言うなり呆気にとられている二人を残して凛華はぱたぱたとその場から逃げるように走り出した。肩に留まっていた小鳥が翼を広げ、彼女の黒髪を追うように飛んでいく。
 屋上から彼女の姿が見えなくなるまで、数秒とかからなかった。



 屋上の出窓からするりと下へ身体を滑らせ、そこで止まることなく真っ直ぐに屋根裏を抜ける。階下へ続く階段を小走りに駆け下りて凛華は自分の部屋に滑り込んだ。
 扉にもたれたままでずるずると座り込む。
 どくどくと、鼓動が早い。
 ぎゅっと自分の胸を押さえる。
 見られただろうか?
 自分の顔を。忘れたいと思っていた記憶が壊してしまったあの頃の自分を。


 ──だから凛華、笑ってろ。


「も……ちょっと待って。困るよ……」

 自分の笑顔は父親が死ぬ前の記憶に繋がっている。
 そしてそれはその後の記憶まで、文句は言わせないとばかりに付き従えてくるのだ。

 ──ごめんなさい、ごめんなさい。……ごめんなさい……。

 ただひたすら謝り続けた自分。
 裏切られても、殴られても、蹴られても、ただ「ごめんなさい」を繰り返した。
 何が悪かったのか分からない。どうしてそんな扱いを受けるのか分からなかった。

 ──怒らないで……。謝るから、もう殴らないで……。


 凛華は両手で耳を塞ぎ、聞こえてくる声を遮断した。記憶から呼び起こされる声は何年経っても凛華の心に傷をつけていく。ちくちくと針でつついてくるようなそれは、締め付けられるよりももっと痛くて。
 もう、いやだ。
 凛華は掠れた声を絞り出した。

「忘れたままで……いさせて」

 裏切られるくらいなら、笑顔なんていらない。
 ずっとそう思っていた。





「──長! ロシオル隊長!」

 部下の何度目かの呼びかけにロシオルははっと目を開いた。
 頬杖をついて目を閉じていたことに気付き、それから前を向く。自分のデスクの前に騎士がいて、眉を盛大にひそめて困った様子だった。
「何か用か」
「何か用か、じゃありませんよ、何度も呼んだのに……。警備の方の書類にサインを頂きたいのですが」
 珍しく話を聞いていなかったロシオルは少々慌てた。
 彼の頭を占めていたのはあの明るい光のような笑顔。息を呑んでしまいそうになる程、綺麗で輝かしい笑顔。幼さの残ったあの笑顔は誰もが惹きつけられる事だろう。自分だって見入ってしまったのだ。
 だがその笑顔が自分に向けられる事はなかった。セシアが話し掛けた瞬間にあの笑顔は消え、いつもの笑顔に戻ってしまった。控えめな笑顔が綺麗でないとは言わないが、やはりあの笑顔がもう一度見たい。

 もう一度。

「……おー! たーいーちょーーーー!! 手! 手が止まってますーー!!」

 またしても部下が呼ぶ。
 呼ぶというよりも、それは叫ぶといった声だった。

「……悪い」

 書類を持ったまま回想していたロシオルは、どうかしてるなと自嘲しながらサインをし始めた。
 仕事中に別のことに気を取られたのは最近ではなかったのに。


 必要なサインの記入を終えられた書類の束を受けとり、安堵の息をつきながら執務室を出て。部下たちは中にいる上司には聞こえないようにぼそぼそと囁き合った。
「今日の隊長おかしくなかったか?」
「だよな……。いつも真面目できちんとした方なのに……」
 彼はこちらが辟易するほど真面目で頑固だ。
 その彼が仕事中に考えごとを延々し続けるなど、極めて稀である。明日は雨かと、彼の部下たちは肩を落とした。その翌日からロシオルは天気予報に使われていたとかいないとか。
 部下たちだけが、その事実を知っている。




 一方、国王の執務室でも同じ様な光景が繰り広げられていた。
 それもほぼ同時刻だ。

「──シア、セシア!」

 山のように積み上がった書類を前にして頬杖をついていたセシアがはっと顔をあげる。目の前ではアイルが渋い顔をしてこちらを見ていた。
「……仕事を増やされたいですか?」
 つまり、側近である自分の分の仕事も課してやろうか、という事である。
 仮にもこの国の最高権力者であるセシアに向かって言うべき言葉ではなかったが、彼は特にアイルをとがめたりはしなかった。彼は自分に非があると分かっている時には取り立てて相手をとがめることはしない。
 大臣たちという強烈な会議機構があるこの国で唯一の権力者ではない彼は、即位した時から正しい忠告にはきちんと耳を傾けていた。

「すまない」
「仏の顔は一度までです」
 いや、それ少ない。というよりアルフィーユは神の国ではなかっただろうか。
 この場に凛華がいたなら首を傾げたに違いないが、残念ながら仕事中の国王とその側近はそれ以上会話を交わそうとしなかった。


 反論はしなかったもののため息をつき、セシアは積み上がった書類の一番上のものを手に取って目を通し始めた。
 気を取り直して書類に目を通しながらも、やけに難しい文章は彼の頭を通り抜けていく。いつもなら数十秒もあれば目を通し終えるその書類は、数分経っても彼の手から離されなかった。
 彼の頭の中にあるのはあの笑顔。
 声を掛けなければ良かった、と思う。そうしていれば光のような明るいあの笑顔をもう少し見ることができたのに。いつもの可愛らしい笑顔も魅力があるとは思うが、あの笑顔を見た後ではどうもしっくりこない。
 どうやったらあの笑顔を自分に向けてくれるのだろうか?
 どうすれば彼女は笑う?

 どうして。

 どうしてこんなにも気になるのだろう。

 ただの少女ではないか。運命を変える力を持つと言われているだけの少女。この国の責任者である自分には何の関係もない筈だ。
 あの時も思った。何度怪我をしても再び自力で立ち上がり、諦めなかった彼女を見た時も。
 傍にいると居心地が良いとよく感じるが、それだけではない。もっと何か、そう何か、不思議と惹きつけられる。
 この国の女性は乗馬などあまりしない。男子禁制の神殿で巫女を守る神官たち以外に、自ら剣を習うものなどごく少数だ。それをやりたいと言ったことに驚いた。やりたいならば放っておけばいいかと許可もした。すぐに投げ出すだろう。
 何も出来ないただの少女なのだから。

 そう思って、いたのに。

 馬に乗ることができるまで諦めないし、最強騎士とうたわれる第二騎士隊の隊長の剣の稽古にも根を上げない。
 極めつけがあの笑顔。

 彼女に、惹かれる。
 傍で見ていたい。


「っ!」

 額に感じた痛みに、セシアは再びはっとして顔を上げた。呆れ顔のアイルが彼を見下ろしていた。国王の額を弾くとはとんでもない側近だ。セシアが以前凛華に告げたようにアイルというこの副官は容赦がない。
 痛み出す額を軽く抑え、セシアははあとため息をついた。
「書類に目を向けたまま考え事しないで下さい。ちっとも進んでませんが」
 セシアは椅子にもたれかかって髪を掻き上げ、すまないともう一度謝った。
 今日は集中力に欠ける。
「……仕方ないですね。半分は私がやりますから」
 珍しく気を遣うようなことをアイルが言い、書類を手に執務室を出る。扉が静かに閉じられた後もセシアは背もたれにもたれかかったまま目を瞑った。
 駄目だ。目を閉じるとあの笑顔がちらついて集中できない。

「いい加減にしろ、レリアス」

 こんこんと自分の額を軽く小突き、セシアは背もたれから離れて机に向かった。
 アイルが半分を受け持ってくれたとは言っても書類の量はまだ充分にある。国王が私情で仕事を放棄する訳にはいかないので、今度こそきちんと書類の文章を頭にたたき込むことにした。




 アルフィーユの重要人物である二人をこうも振り回す張本人はと言うと、城の庭でシエルに剣の稽古をつけてもらっていた。
 この少年は何かと凛華に会いに来る。まるで本当に弟ができたかのようで、彼女はとても喜んだ。それがまた少年の憧れの心を満足させていた。ただし、本人は知る由もないが。

 左手に持ち替えるようになってからは何とかシエルの動きについていけるようになった。シエルが十回取るのに対して凛華は四回くらい取り返すといった程度だ。勿論相手がロシオルなら十本、いや百本に対してでも一本も取れないだろうが。
 二時間程が過ぎ、シエルは見習いの方に行くからと王宮に戻って行った。汗を流した凛華も星見の塔に足を向ける。
 彼女の部屋は塔の最上階にあるので疲れ切った身体にはかなり厳しい。螺旋状になった階段を、壁を伝いながら何とか上がって行く。
 階段を登りきり廊下に出ようとした瞬間何かにぶつかった。

「ひゃっ!」
「うわ!? あ、リンカさま! 大丈夫ですか!?」
「あ、ロイア君……」

 ぶつかった相手はロイアだった。
 彼が凛華のことを敬称付けで呼ぶようになってしまったが、その声には親しみがしっかりと含まれているので凛華は今更やめてとは言わなかった。
 彼が支えてくれるのに大人しく従って立ち上がる。
 身体を動かし続けた後ではさすがに一人では立ち上がることはできなかった。

 警備担当の騎士である彼は塔内の見回りをしていたらしい。ここの住人は今のところ凛華と、そして侍女であるベルとリーサー。その三人だけだ。警備の騎士たちは何かとこの塔の見回りをしてくれていた。彼女がこの国にとって大切な存在だからだろう。
 凛華と年近い彼はにこにこと笑っている。
 ああ本当の笑顔だなと彼女はぼんやりと思った。最近凛華は人の笑顔を見るたびに少し寂しくなっていた。

 どうして自分はあの時笑えなくなってしまったのだろう。
 人に笑顔を見せるのが怖くなった。
 裏切られるくらいなら最初から信じない方が良いと思ってしまった。
 自分はこんな、人の良い騎士たちに守ってもらうような価値のある人間ではない。


 否定的な考え方に陥っていく自分が嫌で、凛華はなるべく明るい表情を浮かべてロイアに挨拶をした。
「ロイア君見回り? いつもごくろうさまですっ」

 凛華はそれだけ言うとふらふらと自分の部屋に向かって行った。後ろでロイアが何か言っているような気がしたが、振り返ってひらひらと手を振ることだけで精一杯だった。今は誰かと会話する元気はない。




「やっぱり……見られた……よね」


 どうしようか。
 あの時面白そうに笑ってくれたセシアや、からかいながらも生きる術を教えてくれるロシオルにまで裏切られてしまったら。

 これ以上傷つきたくない。
 これ以上悲しい想いをしたくない。

 自分勝手なことだと分かってはいるけれど。
 誰かに深入りして後から悲しむのは絶対に嫌だと、思った。