豪奢で広大なアルフィーユ城の中にあるとは思えないほど殺風景な稽古場。
彼女に与えられた部屋は長い間使われていなかったのだろうが、それでも壁には目の整った織物が掛けられていたし、寝台の近くの床には毛の長いふかふかとした絨毯が敷かれていた。
それなのにここは、むき出しの床でその上壁には何も見あたらない。
所々に剣でつけられたような傷があるくらいだ。
夜中にここにだけは来たくないな。
ここに入った瞬間そう思った自分に凛華は苦笑した。
実は怪談話などの類が苦手なのである。幽霊が存在しないと頭では解っていても、怖いものは怖いのだから仕方ない。
ふうと自分を落ち着かせるように息をついた後で彼女は顔を上げる。
その腕や膝丈のズボンから見える足には湿布が貼られていて痛々しいことこの上ないのだが、彼女の瞳はその考えをあっさりと打ち消すほどの強さを持っている。
黒い瞳には魔力がある。
彼女の黒曜石のような瞳と同等の黒い騎士服を着ていたロシオルはその瞳を見ながら、そう思っていた。
生まれ持つ色素の関係なのだろうか、この世界に黒い瞳の人間は生まれてこない。動物にならいるのだが、それも滅多には見られないのだ。
彼女の瞳は、思わず覗き込んでしまいたくなるような力を持っている。その瞳を持つのがこんな華奢な少女なのだという矛盾さがまた瞳の持つ魔力を増やしているようにしか見えない。
真っ直ぐに自分を睨み付けるその視線を受け止めながらこの少女の未来が恐ろしいなとロシオルは感じた。
きっと彼女は、大きくなる。
「……リンカ、昨日子供と練習してただろう?」
一定の距離を保っていたこの静かな空間を破ったロシオルの言葉に、凛華はぱっと睨み付けるのをやめた。
どうかしている。睨むつもりなどなかった筈なのに。
冷ややかな赤銅色の瞳を見た瞬間、負けてたまるものかと思ってしまった。いけないいけない。教えてくれる相手を睨んでどうする。
「うん、もしかして見てたの?」
「見えたんだ。リンカ……もしかして左利きじゃないのか?」
凛華の言葉を訂正しながらロシオルが彼女に質問をする。
彼女がえっと動きを止め、驚いたように目を丸くしながら口を開いた。
「小さい頃はそうだったよ。でも、右利きに治されたから」
どうして分かったのだろうか。
利き手が左だと何かと不便だろうと父親が両方使えるようにしてくれた。確かに習字などで左手を使うのは難しかっただろうし、右利きの人間が多い社会は全てのものがほぼ彼らに合うように作られている。両利きだと便利なのだ。
かなり早い内から矯正されていたので、見ただけで分かる筈はなかった。右手で文字を書くことは簡単だし箸も、こちらに来てからはナイフとフォークだったけれど、それも右手で使っていた。
昨日のシエルとの打ち合いを見ただけで分かるなんて、さすがは騎士隊長と言ったところだろうか。
それか、無意識の内に左手に力を入れていたのかもしれない。
「……では、左手でやってみろ。大分違うと思うぞ」
そういうものかなあ、とのんびり呟きながら丸太を持ち替えた。あの好奇心旺盛そうな少年だけでなく、この冷ややかな視線を持つ騎士にもいきなり剣でやっても怪我するだけだと言われていたから持っているのはやはり丸太だ。
左手を前に置き、力が左に多くかかるようにする。両利きなのでさして違和感はなかった。
「まずは小手調べ」
──とにかく、防げ。
そう聞こえたかと思った次の瞬間、目の前にいた彼の姿がふっと見えなくなった。
消えたのではなく移動したのだ。その速い動きが見えなかったので、凛華は本当にロシオルが消えたのかと思った。
「わぅっ!」
ぶわっと首筋に風が走り、高い位置でひとつにまとめていた筈の黒髪が解けた。
ぱらぱらと肩に髪がかかる。
突然過ぎることに呆然としていた彼女がぱちぱちと瞬きをすると、眉間に皺を寄せたロシオルの顔をやっと判断できた。
速い。速すぎる。
凛華がそろそろと視線をずらして横を見ると、自分の首から数センチも離れていない所に丸太が突き刺さっていた。ただの木がほんの少しだけでも壁に刺さるほどの、威力。
かすってもいない首が微かにひりひりと痛みを訴える。
もう少しついていけると思った。
昨日だって、ほとんどシエルに押されっぱなしではあったが防ぐことくらいはできたのだ。慣れていく内に、小柄な少年の動きを読むことができた。
だから自惚れていたのだ。もしかしたら自分は剣の扱いが少しは上手いのかもしれないと。
けれど、今はそんな考えは遥かかなたに飛んでいってしまっていた。
剣の扱いが上手いだなんてとんでもない。上手いというのはこの騎士の腕のことだ。これは、上手いどころではない。
こくりと、妙に冷たい唾を飲み込んだ。
「……防げていないぞ」
そう言ったロシオルの瞳は逃げ出したくなるほど本気だった。
剣を持つ、騎士の瞳。
凛華は剣を教えてと言ったついこの間の自分を、少し、ほんの少しだけ、恨んだ。
「ちょ、ストップ……は……はぁっ……」
稽古場の壁にもたれ掛かってぜいぜいと浅く息をする凛華の肩に、トントンと丸太が当てられた。
彼女を挑発するかのようなそれは、けれど気を遣っているかのように軽い。
「これが本物の剣だったら死んでるだろうな」
一方呼吸の乱れの兆しもないロシオル。
同じ距離を動いた。避ける事に必死で跳んだりバックステップをしたりはしたけれど、それでもその距離を詰めてきた彼は自分と同じ運動量の筈。
防ごうとしたが圧倒的な力で防ぎきれずはじき飛ばされたり。攻撃を仕掛けて返り討ちにあったり。打ちかかった筈なのに、いつの間にか後ろを取られていたり。隙を狙ったのに、逆に不意を突かれて頬に触れるか触れないかのところに丸太があったり。跳躍力を活かして避け攻撃を繰り出そうとした瞬間、新たな剣戟に焦って飛び退かなければいけなかったり。
普段の運動量の限界を遥かに超えていた。
ロシオルの動きは凛華には速すぎて見切れない。
避けてもいつの間にか後ろを取られているし、攻撃しても軽くかわされその上反撃されるし、疲れて足はふらつく。更に苛立つことにロシオルが全く本気を出していないのが分かってしまうのだ。
汗だくの凛華は、汗一つかかないロシオルを睨んだ。
悔しい。一本も取ることができなかった。
シエルとは比べものにならない圧倒的な強さ。
さすがは現役の騎士隊長。本気を出さない程度の力であっさりと彼女を打ち負かした。
「隙がありすぎだ」
隙を作ろうと思って作っている訳ではない。
どうしても攻撃に入ろうとすると防御が弱くなるのだ。思い出してみるとこれまで丸太をはじかれたのは、全て攻撃に出ようとした時だった。
「……隙って意識したら、なくなる、かな……」
「それは努力次第だな」
「……そっか」
一体どれくらい努力をすれば隙をつかれないようになるのだろうか。全く予想もつかなかったが、とりあえず時間がかかるだろうことだけは凛華にも分かった。
へたり込んでいる凛華にロシオルがすっと手を出す。
その大きな手は、今の凛華とは違い、普通の皮膚の色だ。凛華は真っ赤になっている自分の手のひらを考えて、少し落ち込んだ。
「なあに?」
「今日はここまで」
声一つ変えずにきっぱりとロシオルが言う。有無を言わさない言い方。
ぐっと言葉に詰まり、凛華は眉根を寄せた。
まだ稽古を始めてからそんなに時間は経っていない。これくらいでへこたれると思われては女がすたる。――というわけではなく、ただ単に悔しい。
他の騎士たちがはらはらと成り行きを見守る中、凛華はきっとロシオルを見上げた。
「大丈夫だよ、まだやれるから」
丸太を支えにして何とか立ち上がり、そのままそれをぐっと構えた。
握り続けた左手は微かに震えるし足はもうがくがくだけれど、気力だけは有り余るほど残っている。
だがそんな凛華の意見をロシオルはぴしゃりとはねつけた。
「こ、こ、ま、で。師匠の言うことも聞けないなら弟子にはなれない」
凛華は少しの間、この世界の誰もを惹きつける黒い瞳で彼を睨んでいたが、すっと丸太を下ろした。
気力だけで立っていたので、気を抜いてしまったせいかぺたりと座り込むはめになる。
「お前たち、悪かったな、各自使って良いぞ」
ロシオルが自分の部下に言うと、先ほどまで息を呑んで見守っていた第二騎士隊の騎士たちは「はっ」と彼に返事をしてそれぞれ稽古を始めた。第二騎士隊の騎士たちはほとんどがロシオルより年上なのだろうが、ロシオルの方が貫禄がある気がした凛華だった。そして騎士たちも、年下の上司を尊敬しているらしい。さすがに、あの腕前だけのことはある。
ロシオルは座り込んでいる凛華に視線を向ける。
いつまでも稽古場の真ん中を占拠しているわけにはいかない。
ロシオルの視線に気付いて凛華が顔を上げた。周りの騎士たちの邪魔になることに気付いたらしい。
「手はいるか」
「……大丈夫」
凛華はえへへと笑うと震えている膝を両手で押さえて立ち上がった。稽古場の中央から端へと移動する。
簡単な造りの木の椅子に座り、背もたれに背を預けて凛華はやっとほどけたままの髪をくくり直した。
切ってしまおうか。くくり直すこともできないまま動き続けている間、視界に入る髪はとても邪魔だった。動きの妨げになる上に蒸し暑い。
けれど。父親が綺麗だと誉めてくれたこの髪を本当に切ってしまっていいのかと聞かれると、今の自分は激しくそれを否定するのだろう。邪魔にならない髪型を考えなければとぼんやり思った。
「左で持った方が動きがよくなってる」
全く疲れを見せる様子のないロシオルが彼女の近くで立ち止まってそう告げた。
その途端、疲れに身を任せていた凛華がぱっと顔を上げる。
ぼこぼこにやられていたけれどそう言ってもらえたことはものすごく嬉しい。
「本当っ!? あとどれくらい練習したらロシオルに勝てる?」
凛華が無邪気に笑いながら言う。
睨み付けていた時の迫力を微塵も感じさせないその笑顔に少し動揺しながらも、平静を装ってロシオルは答えた。
「……あと五十年くらいだな」
「──っ! わたし、五十年後って六十六歳だよ!? おばあちゃんになっちゃうじゃない! ……絶対にそれまでに負かしてやるからっ」
「楽しみにしておく。頑張れ」
ロシオルがくっくっと笑った。遊んでいる。
この騎士はかっとなった自分をからかっている。
それなのに不思議と不快ではない。むしろこういったやりとりはとても楽しい。
(絶対に、いつか勝ってやる)
汗だくになりながらも、凛華は少し笑った。何となくこの人とは上手くやっていけそうな気がした。
部屋に戻るなり凛華はふらふらと寝台に倒れ込んで目を瞑った。
節々がずきずきと痛む。手加減していてあれなのだから、彼が本気を出したら。きっと自分は死んでいた。
「……鬼師匠め……」
強くなる前に過労死するかも、と真剣に考える彼女だった。
情けないかもしれない。たった一人でも生きていけるように訓練をしたのに、その訓練が原因で死ぬ、なんて事は。
「うわあ……そんな死因やだ……。訓練死?」
空笑いしながら呟き、本当だったらどうしようかと不安になる。今日の彼女は笑ったり不安になったり怒ったりと、随分忙しい。はあと今までで一番大きなため息をついた。
その時。扉がノックされた。
聞いたことのないノックの音に彼女が顔を上げる。
ノックの音は聞き慣れてくると誰のものか分かる。ベルは控えめに静かに。リーサーは少し早めに。見回りの騎士たちはノックをする前に声をかける。
誰のものか分からないノックの音に彼女は首を傾げながら「はーい?」と答えた。
知らない人相手に扉を開けてはいけませんよと、まるで小学校の先生みたいなことをベルが言っていたのを凛華は守ってはいるが、あまり緊張感はなかった。
「リンカに話すことがある。今時間大丈夫?」
少し低めのよく通る声。
この国の国王であるセシアの声だ。
「あ、うんっ! 待って、今開けるっ」
国王直々に何の用なのだろう。今のところ物を壊したり王城内の誰かに怪我させたりしてはいない。すぐに自分が何かやらかしたのだろうかという考えにいく自分自身が、ちょっと笑えた。
とにかく用があるには違いない。それも国王。
慌てて寝台から起きあがり、一つ間の部屋を通り抜けて、ふらつく身体を無視して扉に駆け寄った。笑う膝から力が抜けそうになるけれど、ぐっと力を込めて、扉を両手で押し開ける。
正装姿のセシア。
その後ろにいるのは文官たちなのだろう。もしかしたら護衛の騎士たちがいるのかもしれないが、凛華の視界には彼ららしき人影は見えなかった。
この姿で来たというなら、公的な話なのだ。
わざわざこの塔の最上階まで国王自らが告げる話が何なのか、彼女には想像もつかなかった。
「……ど、どうぞ……。お入り下さい」
おどおどしながらも部屋に招き入れる。
扉の前で立ったまま国王に話をさせようとするほど凛華は礼儀知らずではなかった。話し方を変えたのは、周りに文官たちがいたからだ。セシアは敬語を使わないで欲しいと凛華に言ったけれど、今この場で軽い口調で話せそうにはなかった。
セシアがすっと後ろに視線をやり、それからまた彼女の方へ向く。
後ろに立っていた文官たちは深々と頭を下げた。部屋まで彼らも入ってくると思ったのに、意外だ。
凛華は自分が異邦人であることを知っている。
そして、投げつけられる視線の鋭さから自分があの文官たちには好印象がないのも分かった。
いつ剣を持ち出してこの国の最高権力者に襲いかかるともしれない自分と彼を二人きりにさせる。彼の視線だけでそれを認めるほど、彼らはセシアに絶対的な忠誠を誓っているのだろうか。
すごいなと素直に凛華は思った。たった三年だけ自分よりも早く生まれた彼は、王だと文官たちに認められている。そしてそれを平然とやってのける彼には王という称号がふさわしい。
世界が、違う。
廊下に文官たちを残したまま閉まる扉を暫く眺め、凛華はセシアに視線を移した。
穏やかな笑みを浮かべている彼は、国王だ。
何も知らない高校生である自分とは全く違う。
青い瞳をじっと見つめながらそんなことを考えていた凛華は自分が彼を立ちっぱなしにさせていたことに気付き、慌てて椅子を彼に勧めた。もう一つあった椅子を引き、自分もそれに座る。
何の話かは未だに分からなかったが、国王として告げられるような内容。おそらく自分に関すること。
国王に会えたり馬に乗ったり鳥と話せたりしたのだ。これ以上何があっても信じるという自信はある。驚くはどうかは別だけれど、受け入れる準備は万全だ。
「ロシオルの稽古はどうだった?」
椅子に座るその姿さえどこか王族らしさを感じさせるセシア。
けれどその口から漏れた言葉は凛華が覚悟していたようなことに関するものではなく、ごく自然に剣の稽古のことを尋ねるものだった。
「……ロシオル、絶対鬼師匠だよ……」
凛華が正直にそう言うと、彼は笑みを深くした。
違う。あの、吹き出した時の笑顔ではない。この表情は、「国王」だ。
吹き出した時のように、本来のセシアを見せてはくれなかった。
「ロシオルはアルフィーユの最強騎士と言われてるから。でもアイルよりはマシだと思うよ。昔アイルに稽古つけてもらったけど……。とてつもなく厳しかったな。俺が休憩しようって言っても絶対に聞かなかったし」
「うわあ……それもいやだなあ……」
凛華が少し眉をひそめた。あの鋭い雰囲気を持つ側近ならやりかねないかもしれない。
眉をひそめた後でセシアの表情をちらりと見る。
笑うように言っているのに、目が、笑っていない。先ほどから彼の笑顔のことばかり気にしているような気がしたが、それでも気になってしまう。彼の言葉は笑っているけれど目は笑ってはいない。
目の前にいるのが国王なのだと、思い知った。
そして彼は、こんな会話をしにきたのではない。
もっと何か重要なことを話すためにわざわざここまで来たのだ。そしてそれを言う前に少しでも彼女の緊張を和らげようとしてくれる。
笑わないのに優しい王だ。
「……で。話なんだけど」
きた。こちらが、本題だ。
「何?」
真剣な青い瞳は揺らぐことはない。
真顔になった彼を見て、凛華も顔から笑いを消した。
何を言われてもきちんと受け止めよう。
「……リンカの事を預言した巫女に、会いたい?」
静かな言葉。勿体ぶらずに言われたその言葉にあまりにも驚いて頭の中で整理がつかない。
凛華は、彼がそんな事を言う意図が分からなかった。
「……会える、の?」
声が震える。
――こんなにも、いきなり。
どうしよう。自分はまだ「流されている」状態なのに。自分の迷いに流されたままで巫女に会って、そしてどうする気なのだ。
預言したというなら。自分がここに来ることを知っていたというなら。日本に、自分が生まれたあの場所に戻る方法を知っているかもしれない。
けれど。自分は本当に今その方法を教えてもらっていいのだろうか。
「会えるよ。彼女は神殿にいる」
「……でも預言したのは、何年も前だって……」
困惑気味に凛華が言うと、セシアは何故か顔を曇らせた。
これはきっと彼の本当の感情だ。あの吹き出した笑い以来初めて見た本当の感情が、こんな、曇った表情であることが凛華は少し哀しかった。
どうして彼の表情にここまで反応してしまうのか分からない。
似ているのかもしれない。
この完璧な王が、不安定な自分に。
そんな失礼なと自分の考えを追い払って、彼女は再び彼の話に耳を傾けた。
「彼女は死ねない。……次代の巫女が現れるまで」
「……知り合い、なの……?」
彼女がそう尋ねた瞬間に沈黙が部屋を支配する。何かいけないことを言ってしまっただろうか。
重苦しい沈黙の中、凛華は慌てた。自分は彼にここに留めさせてもらっている身だ。もし彼の機嫌を損ねてしまったらと思うと、不安になる。
けれどそれを破ったのはセシアの穏やかな声だった。
「知り合いと言うか……。母上の祖母だった女性だ」
「……『だった』って……」
これ以上聞いてはいけない気がしたが、凛華は聞かずにはいられなかった。
どうせ不興を買うのなら今の内に聞いておいた方が良い。
「……巫女になる者は全てを得る代わりに全てを失う……って言ってね。永らえる代わりに家族や記憶の全てを奪われるんだ」
「…………」
家族のことも全て忘れさせられるというのか。
そうまでして巫女は永らえなければいけないのか。
自分の中にある大切な記憶をなくしたくない凛華は、眉をひそめて俯いてしまった。
「……どうして?」
小さな呟きが彼女の口から漏れる。
掠れたその声に、セシアは口調を変えず静かに言った。
「それが代々巫女と女神との契約だから」
複雑な顔をするセシアに彼女はごめんなさいと言うことができなかった。
契約で人の記憶を、大切なものを失わせてしまうのを許すことがどうしてもできない。馬鹿な考えなのだろうけれど、記憶はいつも彼女自身を支えてきてくれた。
そんな大切なものを賭けて永らえるという巫女。彼女はそれを失った時、何を思ったのだろうか。
「……会ってみたい」
少し掠れたままの声で凛華はそう答えた。
「分かった。じゃあ……三日後に」
「う、ん」
最後にぽんぽんと凛華の頭に手を置いてにこりと笑ってから、セシアは扉を自分の手で開けて静かに部屋から出て行った。
カツカツと何人分か正確には分からないけれど足音がする。それがだんだんと小さくなっていくのを耳にしながら、彼女は椅子から立ち上がり再び寝台に沈み込んだ。
三日後には、自分のことを預言した巫女という人に会わなければいけない。
(それまでに……ちゃんと考えなきゃ。わたしはどうしたいのか、決めなくちゃ)
うつ伏せに沈んでいた体をごろりと反転させ、仰向けに寝転がった。
自分のことが一番よく分からないのは何故だろうか? 十六年間も付き合ってきた自分自身のことなのに。
考えていることさえ、心は教えてはくれない。
「わたしは、どうしたいんだろう……」
不透明な心は、何の返事もしてくれなかった。