ティオンの呟きなど知らない凛華は、転げ落ちることなく階段を無事に降りきり、塔から出た。
汚れのない白い廊下を進んでいき、手頃な場所から庭へと出る。大分廊下から離れた場所まできて凛華はやっと足を止めた。ここならきっと廊下からは見えないだろうと踏んだのだ。
あまり何かを練習している姿を他人に見られたくなかった。
けれど教えてくれる人がいるでもなく、勿論ただの女子高生である自分が剣の扱い方を知る訳でもない。
「素振り……とか?」
一体何をすれば良いのか分からず、手頃な場所に腰を下ろして凛華は剣を眺めた。
セシアからもらった剣はシンプルかと思いきや、所々にさり気なく複雑な装飾が施されており、こうやって眺めていて気がついたのだが柄の部分に小さな宝石が埋め込んであった。よくよく見るととても高価そうだ。
(高そう)
宝石を見つけた瞬間にそう思った自分の庶民さ加減が可笑しくて、凛華は一人で小さく笑った。
「でもほんと……綺麗な剣……」
きっと最高の技術士が精魂こめて作った剣なのだろう。何と言っても国王の持ち物だったのだから。
人間に向けて使えば確実に相手を傷つける武器。綺麗だけれど、本当は恐ろしいもの。
包丁ならば一人暮らしをしていた凛華は何度も使ったことがあるし、指を傷つけないように切ることなどもう既に手慣れたものだが、剣は違う。
いつか自分はこれを使って誰かを殺すのだろうか?
「……誰かを傷つけるのは、やだな」
自分の想像が怖くなり、凛華はゆるく首を振った。
ロシオルやロイアのような騎士にとっては当たり前のことだ。剣を握るということは即ち身を守るために誰かを傷つけるということで。
けれど凛華は実際に剣を手にした今でも、誰かを傷つけたいとは思えなかった。
現実の世界にいたままなら、こんなものを手にすることもなかった。
剣を鞘に収め、凛華は俯いた。
膝に額を押しつけて剣で他人を傷つける自分を考えないようにする。代わりに、今までの知り合いを思い出そうとした。
バイト先の店長の抜け目ないが朗らかな笑顔。朗らかなくせに礼儀には頑固な老人よりも遥かに厳しく、バイトを始めたばかりの頃、凛華はよくやんわりと注意された。
先輩の姉御的な笑い方。凛華が何か失敗するたびに「次に失敗しなきゃいいんだって」とポジティブに笑う爽快な人。
担任の先生の少しおどおどした喋り方。授業中に騒がしいのを注意しても、ほとんど誰も聞いていなかった気がする。
一番仲の良かった友達。小学生の時からの友達だった彼女はいつでも凛華を支えてくれた、大切な存在だった。
隣の席だった、毎時間熟睡しているくせに頭はいい変な人。いつもクラストップなのに、毎時間寝ている事を注意されていて、面白かった。
休み時間になるとわいわいと騒がしくなる教室。
家での一人だけの静かな時間。
(わたしは……元の場所に帰りたいのかなあ?)
自分は何をしたいのだろうと考えていくと、余計な事まで考えてしまって。
ふと、嫌な事まで思い出した。
父親と祖父が死んでからの嫌な記憶。
凛華がもう思い出したくもない記憶。
それは今でも確かに凛華の中に鮮明に残っていて。
それは今でも確かに凛華の心を傷つけ続けているのだ。
心の中に閉じこめている、残酷な過去。
『神さまなんて、どこにもいないよ……っ! 誰も……お父さんを助けてくれないじゃないっ!』
「……っ!」
額を膝から離し、凛華はぶんぶんと勢いよく左右に首を振った。長い髪が頭の動きに合わせてさらさらと背中で揺れ動く。
思い出したくないものを思い出さなくて良い。
きちんと向き合えるようになるまで、まだ今は、忘れていたいのだ。
ふうとため息をついて凛華は剣に視線を落とした。精神的にも強くなるためには、強くなろうと願わなくては。
大丈夫。まだ、大丈夫。
剣を扱えそうにはなかったけれど、とりあえず身体だけは動かしておかなければと思い。
凛華は剣をその場においたまま、立ち上がった。
そしてその時に、まさか誰もこんなところまでやってこないと思っていたのに、予想に反して声をかけられる。
「お姉ちゃん、アサカワリンカさん、でしょ?」
凛華が驚いて振り返ってみると、癖のある髪と好奇心旺盛そうな大きい瞳が目に入った。
弟がいればこんな感じなのだろうか。
凛華は一人っ子だったのでずっと兄弟がいれば良かったと思っていたのだ。早くに妻を亡くした父親に、弟か妹がいたら良かったとは、言えなかったけれど。
「そう。凛華で良いよ。あなたは?」
年下相手だと自然と笑みがこぼれてしまう。
自分の名前だけが広まっていることには驚いたけれど特に変わった風に広まっている訳ではなさそうなので凛華はほっとした。
彼女に尋ねられた少年は自信ありげに答えた。
胸をはっているその姿は凛々しいというよりもまだやはり可愛らしいと言える。
「シエル・セーガ。城のコック見習いだよ」
「シエル? ……綺麗な名前」
凛華がにこっと笑って言う。
シエルとはどこかの言葉で「空」という意味だった筈だ。別に他意があったわけではない。本当にそう思っただけなのでそう言ったのだが、シエルというこの少年は意外そうな顔をしていた。
「……そんな風に言われたの初めて。ありがとう」
歯を見せて笑うその笑い方は抱きしめたくなるくらい凛華にとっては可愛らしい。
それでもコック見習いという言葉を思い出して踏みとどまった。
働いているということはただの遊んでいる少年ではない。そもそもこうして王城内にいるのだから働いていない訳がなかった。
「コック見習いって……。お城で働いてるの?」
「そう! 父さんが城の正式な料理師なんだ」
先ほどよりも瞳を輝かせ、シエルが自信たっぷりに言った。
自分の名前を誉められた時よりも父親のことを話す時の方が数倍嬉しそうだ。
「へぇ……シエル、お父さんの事好きなの?」
「うん。怒ると怖いし、母さんには勝てなくてちょっと情けないけど……。でも、料理してる時の顔は、誰よりもかっこいいんだ! あんな風になりたいってずっと思ってたっ」
純粋に父親を慕う少年。
凛華は父親が亡くなるまで極度のお父さんっ子だったのでシエルに共感してくすりと笑った。
ずっと、あんな風に優しい人になりたいと思っていたものだ。
辛くなかった筈がない。娘が生まれて数ヶ月もしない内に妻が亡くなり、引き取ると主張した親戚に反対して男手一つで小さな娘を育てあげることが。子育てなんてしたことなどなかっただろうに。
けれど父親は少しも文句を言わなかった。
凛華が間違ったことをした時は厳しく怒っていたけれど、そうでない時はいつも凛華を大切にしてくれた。今の彼女には、父親の影響がかなり強くある。
「で、リンカ……何してたの? 剣なんか持って」
シエルにそう問われて、少し照れくさそうに笑いながら凛華は口を開いた。
あまり自分の失態を話したくはない。けれどただ単に何となく剣を持っていました、では通用しない。
「明日ロシオルに剣の稽古つけてもらうから、練習しようと思ったんだけど……剣なんか触った事がなかったから……」
さっぱり、と言って軽く肩をすくめてみせた。
現代女子高生の凛華が剣を持った経験があった方がおかしい。もしわたしが剣を持っていたら銃刀法違反で捕まるかな、とぼんやり意味のないことを考えた。
彼女が言い終わると、シエルはいたずらっ子のように歯を見せてにっと笑った。
実はずっと彼女に近づく方法を考えていたのだ。
あの大広間でちらりとだけ見たこの黒髪の少女。ふらふらとうずくまってしまってから騎士が彼女を連れて広間から出て行ってしまったのだが、どうにかして会ってみたいと思っていた。
特に恋愛感情があった訳ではなくて。憧れのようなものだろうか。
運命を変える力を持つという彼女と、話をしてみたかった。
それが今日、見習いの勉強を終わらせて近道をしようと中庭を通っていたら見つけた。庭にいた彼女を。
今しかないと思ってかなり強引に話しかけてみたのに、彼女はそんな自分に向かってにこりと笑ってくれた。
もうこれでノックアウトである。
憧れが確かなものに変わった瞬間。
上辺だけの貴族の娘たちではなくて、ありのままで笑ってくれた彼女。
一生ついていっても良い。
大げさすぎることを考えながら、シエルは口を開いた。
「……僕が練習に付き合おうか?」
ロシオルというあの騎士に到底敵わないことは分かっている。何と言ったって彼はあの若さで隊を与えられる程の腕の持ち主なのだ。
けれど、この国では自分の身は自分で守るという考えがあるので、シエルだって十を越しているのだから剣の使い方は知っている。調味料を考えて新しい味を見つけることも好きだけれど、剣の腕を鍛えるのも好きだった。
剣の扱い方も分からないという彼女なら、自分でもきっと相手になる筈だ。
これで逆に打ちのめされたら恥ずかしいのだけれど。
「本当!? いいのっ?」
期待に目を輝かせて凛華が声を上げた。
(うわあ、期待しちゃってるよこの人)
それがまたシエルの憧れを強いものにする。
こんな子供相手にまで嬉しそうにする彼女は、何というか、騙されやすそうだった。いや、これは失礼だ。前言撤回。
凛華からすればシエルのこの提案は願ってもないものだった。
剣をただ眺めているだけでは何も出来ない。折角この国の王様からわざわざ剣をもらったのだから、それを使って軽く身体を動かすことくらいはしたいと思っていた。
「いいよ。大抵のこの国の男の人は剣を使えるし。僕だって使い方は知ってる」
剣が使えなくてはジェナムスティと対等に渡り合う事などできない。
シエルの言葉の裏にはそういう含みがあったのだが、凛華はそれには気付かなかった。仕方がない。剣すら持ったことのない普通の少女なのだから。
嬉しそうに笑う彼女に、「ちょっと待ってて」と言うとシエルは何処かに駆けだして行った。
しばらくすると細い丸太を二本持ってシエルが戻って来る。
「はい。いきなり剣でやったら怪我するよ?」
「ありがとっ」
「ちゃんばら」というものを凛華はしたことがなかったが、ものすごく楽しそうだと思った。
シエルがこほんと子供らしくなく咳払いをし、丸太を一本凛華に渡して自分はもう一本を構えた。明らかに自分とは違う隙のない構えだと、素人ながら凛華は感じた。
ぼんやり立っているように見えて全然隙がないのだ。
十歳前後のシエルでさえこうなのだから、最強騎士であるロシオルは一体、と少し不安に思ってみたりした。そんな相手に稽古をつけて欲しいと言ってしまった自分を少々恨めしく思う。
(あー、馬鹿だ、わたし)
けれどそんなことを考えている暇はなかった。
今は少しだけでも剣に慣れないと。
こんな、ついこの間までは全く知らなかった国で死ぬのは嫌だった。
嫌なら、力を。
その手で自らを守ることができる力を。
「んーと……。自分なりでいいから構えて、適当に打ってみて」
少年と言えどもこうして剣を真っ直ぐ構えている姿はとても誇らしく凛々しい。
さすがにこの少年がただのコック見習いだとは凛華には信じられなかった。
「分かった」
凛華は剣道部の部員の練習姿を何とか頭に思い浮かべて、すっと構えを作った。剣と言えば剣道部、という安易な考えが彼女らしいところでもある。
(確か、こんなんだった筈)
紺色の袴姿がものすごく格好良かった親友を思い出した。彼女の真っ直ぐに伸びた背や構えられた竹刀が同じ女性と思えないほどに綺麗で、「あんなの綺麗って凛華おかしくない?」と彼女自身に笑われようと凛華はそれが綺麗だと思っていた。
有段者の彼女のように木刀を構えられないけれど、真似するくらいならきっとできる。
何度か深呼吸を繰り返し、凛華は思いきって足に力を入れ、シエルに向かって棒を振り上げた。勿論、かすりもしないどころか逆に振り下ろされてきた丸太を何とか持ち前の反射神経で避けるのが精一杯だったけれど。
記念すべき最初の一振りは見事なくらいの空振りだった。
「はあっ……はあっ……」
「大丈夫?」
少しして。
アルフィーユ城の広大な庭には、肩を上下させてはあはあと息をする凛華と呼吸の一つも乱さないシエルの姿があった。
いくらコック見習いで子供と言ってもその腕前はなかなかのものだ。生きるためには強くなくてはいけないから当たり前だろう。
凛華は、はあと息をはいた。
思いきり体力を使う体育の授業のあとのようだ。動き続けた熱のせいでこめかみの辺りがひどく熱い。
「……うん、まだいける!」
それでも支えにしていた丸太を再び両手で構えると、目の前の小さな少年に立ち向かっていった。
凛華は途中で諦めるのは大嫌いなのだ。
諦めるのは本当にどうしようもない時だけだと、父親が亡くなってから決めていた。今はまだ、諦める時ではない。
けれど結局何十回と打ってやっても、凛華は自分より年下の小柄なこの少年に勝つことができなかった。
丸太の先がかすりもしない。
ふらついても丸太を支えにしてまだ立ち上がろうとする彼女を、ついにシエルが止めた。
「リンカ。もうこの辺にしとこう? これ以上やっても何の稽古にもならないよ」
シエルの言っていることは正論だった。確かにもうこれ以上身体を動かしても何にもならない。疲労が溜まるばかりだ。
諦めるのはまだ早い。
早い、けれど。引き際はわきまえなければ。
「……分かった。……はあ、はっ……」
こくりと頷き、凛華は丸太から手を離した。手がじんじんと痛みを訴える。
そう言えば以前初めてやったテニスの後もこんな感じだった。まめでもできたのだろうか。ちらりと自分の手を見てみるとまめかどうかは分からなかったが手のひらは真っ赤になっていた。
痛そうだなと自分のことながらのんびりと考える。
実際、乱れた髪を直そうと髪に触れるとそれだけでも充分痛かった。
それでも彼らは、この国の騎士たちは、丸太などではなく本物の剣を使って生きてきているのだ。こんな手のひらの痛みを気にしている場合ではない。
「ありがと、シエル」
「どーいたしましてっ」
憧れの黒髪の少女に会うことができた上に更には御礼までされてしまったシエルは満足そうに笑ってから、「見習いの所に戻るよ」と丸太を二本抱えてたかたかと走っていった。
どうやらあの丸太はこれから火の元にされてしまうようだ。
そんな些細なことさえ、力の差を凛華に感じさせる。
こちらはセシアにもらった剣を支えにしないと今すぐにでも座り込んでしまいそうなほどくたくたなのに。同じ時間動き回ったあの少年は、軽やかに駆けて行く。体力の差とはこういうことなのかと思い知らされた気がした。
「……でも。ここで、諦めてたまるか」
少々よろしくない言葉遣いで呟いた後、彼女は自分の膝を軽く叩いてから立ち上がった。
今座り込んでしまったら立てない。だったら疲れに負けないうちに部屋まで帰ろう。
決心したくせに、螺旋階段を見上げてため息をついてしまった。
少し、休憩だ。
うー、あー、と意味のない呟きを繰り返して壁によりかかる。
運動の後のほてった身体にはその冷たさはとても心地よかった。
「部活……しとけば良かったかなあ……」
バイトと宿題の繰り返しの生活ばかりだった。
運動と言えば授業の体育のみ。元々運動が嫌いというわけではなかったが、この間の乗馬以上に神経を使ったせいかこれまでになくしんどい。疲労感が指先にまで広がっているような気がした。
「ここの女の人はこんなところで座り込んだりしないんだろうけど……」
ふうともう一度ため息。
この場面を人に見られればどれだけ呆れられるか予想はできる。
おそらく馬鹿にしたような目で見られるか、蔑まれるのだろう。
「……愚痴っぽい」
自分のことをそう結論づけてから立ち上がる。
うじうじしなくて良くなったのはいいが、今度は愚痴ときたものだ。何だかここに来てから随分と気分の上下が激しい。まるで他人みたいだ。自分の個性なのだろうか、これは。
特に困る訳でもないから放っておこうと決め、螺旋階段の最初の段に足をかけた。
長い階段も一歩一歩登っていけばいつかは頂上に着く。
短いと思え自分、とやや無茶苦茶なことを考えながら凛華は最上階まで自力で登った。
ふらふらとしながら部屋の扉を開けると、ベッドメイキングをしていたベルがぱっと顔を上げる。
「おかえりなさ……ってリンカ! どうなさったんですか、その傷!!」
目にもはっきりと分かる程ベルが慌てた表情を浮かべる。
ベッドメイキングを途中のまま放り出してすぐさま凛華の元へと駆け寄った。ベルは運動は全般的に苦手だが、凛華のこととなると素早い。
「傷……?」
ああこれのことか、と凛華は自分の腕を見た。
腕だけでなく身体のほとんどの箇所に痣ができていた。避けきれなかった丸太がかすった痕だ。
放っておいたら青紫色にでもなるのだろうか。全身痣だらけなのは少し気持ち悪い。
腕を見つめたままうーんと唸る彼女に、ベルは慌てて湿布を取りに出て行った。慌てていてもきちんと手当をしようとするあたり、彼女は優秀だ。
「リンカ、もし兄さんにヒドイことされたら仰って下さいね! わたし、怒りますからっ!」
取ってきた湿布を凛華の腕にそっと貼りながら、ベルがにこやかに笑って言う。
とても爽やかな笑顔だった。
「だ、大丈夫だよ……」
「怒りますから」と言ったベルの笑顔に恐ろしいものを感じて、凛華は苦笑いした。
何となく、最強騎士であるロシオルよりもベルの方が怖い。そう思った。