螺旋階段を途中何回も休みながら登りきり、ベルが入れてくれていた風呂で身体を洗う。と言っても凛華の知るようなボタン一つで湯が沸くものではなく、猫足のついた白い浴槽にわざわざ香料まで入れて適度に温めたお湯をたっぷり張ったものに浸かる、という何とも手間と人手のかかるものであった。
入ろうとした時にベルが「お洗いいたしましょうか?」と言ってくれたが、凛華は慌てて断った。
冗談ではない。日本とアルフィーユは全く違うのだ。
着替えを手伝われることさえ恥ずかしく思うのに、まさか身体を洗ってもらう訳にはいかない。
ちゃぷんと手ですくったお湯を落とし、一人で小さな息をつく。
うーんと首を横に傾けると、ばきりとなかなか大きな音がなった。
「あー……お年寄りみたいだ、わたし……」
温かい湯がじわじわと擦り傷染みてきて痛い。
それでも草がついたままの格好であの綺麗な国王の前に行くのは気が引ける。はふうと情けないため息をついてしまった。
ドレスでも軽装でもどちらでも良いとセシアに言われたので、結局着ていたのとおなじような服を着ることにしようと思った。
思った、のだが。
衣装箱の中には何と一着しか入れられていなかった。
襟元と肩口に銀糸で細やかな刺繍をしてある水色の長衣のみである。腰から下はふんだんに布を使ったデザインで、上から下にかけて色が濃くなるらしい。
乗馬をする時に着ていた簡素な衣装を見つけた時には、確かにたくさんの種類の服が入っていてよりどりみどり状態だったにもかかわらず、いま衣装箱の中にはこれ一つのみ。先ほどまで着ていた服は洗濯しますからと言われ、既にベルに持ち去られている。
ああ、そういえば先ほどのベルは満面の笑みを浮かべていたような。
ベルの仕業である。
それ以外には考えられない。
仕方ないのでそれを着ることにして、ショートブーツもなかったので素足が見える靴を渋々と履いた。
初めてあの大広間に行った時にもこれを履いていたのだが、何となく足下に違和感を感じる。
ヒールの高い靴は苦手だ。また転けそうになるかもしれない。
そして最後に薄く透けたショールを羽織った。どのようにして編まれているのだろう、簡素に見えて実は複雑な模様が描かれており、一目で高価だと分かる代物であった。
何だかベルの思い通りにことが進んでいるような気がする。
それでもそれほど華美ではない服に安心して深い息をついた。どうやらベル達は凛華の趣味を心得てくれたようだ。派手すぎない程度の服ならば、こうやって着替えるのも簡単な上に少し楽しい。
お嬢様のようにもてはやされるのは苦手だけれど、まんざらでもなく、凛華は口元に笑みを浮かべて自分の服装を見下ろした。
似合うではないか。
少しだけ、自惚れても良いかもしれない。
その後、ノックと共に入ってきたベルは凛華を見るなり頬を紅潮させて叫んだ。
「リンカ、そのお服、すっっごくお似合いでいらっしゃいますわ! まるで詩に出てくる妖精さんのようですわ……っ! なんてお可愛らしい……っ」
大興奮である。
心なしか頬が紅潮し、瞳はうるうると輝いている。
実際は美少女とまではいかない凛華がベルのあまりの勢いに圧倒されている間に、彼女は更に色々と凛華を飾り立てていった。耳に細い銀鎖を束ねたような首飾りと同色の耳飾りをつけ、しっとりと濡れた髪を丁寧に乾かしていく。髪の一部を髪飾りと一緒に編み込んで耳の後ろあたりで留め、残りは流れるままに背に流しておく。
凛華はその間、耳元に飾りがついているという慣れない感覚に戸惑い、どのような髪型にされているのか不安でならず、始終困惑顔でじっとしていた。
それでも文句を言わなかったのは、ベルがとても幸せそうにしているからである。
「リンカは腰が細いですね。これでも小さいものなのですが、合いませんわ……」
しゃらしゃらと微かな音を立てる銀細工を凛華の腰に回していきながら(凛華の知る飾りベルトのようなものだろう)、ベルは残念そうにそう呟いた。腰で止める仕様のものなので、腰が細過ぎるとずり落ちてしまって不格好だ。
凛華は骨が浮いてしまうほど不健康に細いわけではなかったが、骨格からしてほっそりとしていて、華奢という言葉がぴったりな少女なのだった。
「いいよ。大丈夫、それでいいからっ」
凛華は多くを望まない。
そこにあるものだけで満足することができるのだから、余分なものを与えられると勿体ないと思ってしまうのだ。これはきっと元々の性格に付け加えて一人暮らししていた経験がそうさせるのだろう。
しかしベルは凛華の返答も何のその、ぐぐっと握り拳をつくって凛華に詰め寄った。
「いけませんわ、きちんと合わせませんと! 体に合わないお服ほど格好の付かないものはありませんわ。体に合ったお服を着ているとぐっと魅力的に見えるものなのですよ。わたしたち女官の制服にしても、一人一人あつらえていただいているのですから。リンカがいらっしゃると予見が出てから、様々なものを用意させていただいていたのですが……リンカは想像以上に細い方でしたから……」
その後も、「お服を着こなしてこそ美人なのですわ」と力説され、凛華はつられてこくこくと頷いてしまった。
ベルの飾り付け好きは半端なものではなかったようだ。この分だと年季が入っているようである。
「わかった、ベルに任せます……っ!」
乗馬のこともあって疲れていた凛華はそう言って反抗するのをやめた。
そして、ベルに服装のことについて反論するのはもうやめておこう、と非常に賢い結論を下した。
結局ベルの思うがままに綺麗に飾り立てられてしまい、そのままセシアの部屋に行くことになってしまった。
凛華はかなり不本意だったが今更着替えていると時間が経ってしまうので仕方がない。
ヒールの高い靴や腰にある銀細工はとても綺麗だとは思うのだが、何だかたいそうな自分の格好が周りの人にはどう映るのかと思うと気落ちする。
転ばないように気をつけようと、凛華はぴんと背筋を伸ばして歩き始めた。
セシアからもらった自分の部屋のある塔から抜けると途端に人目が増える。そして塔から本宮へと続く回廊を抜けると、更に増えるのだった。
アルフィーユ城にいる人の数は凛華の想像を遥かに超えて多い。
ほんの少し歩くたびに人と出会って頭を深々と下げられる凛華は、正直気が気ではなかた。
人々の方からしてみれば、噂の的となっている「預言された少女」とすれ違うことはとても幸運なことらしい。
ぴんと伸びた背筋や、彼女が足を進めるたびに柔らかく揺れる黒髪ははっと目をひく。それに加えて、少し伏し目がちに歩くその様子は、近づきがたい神聖な少女のようというよりは庇護欲を掻き立てるのであった。
白い廊下を歩いていくごとにだんだんと騎士に会う機会が増えていき、凛華はセシアの部屋はこちらにあるのだろうなと簡単に予測がついた。
途中からは入り組んだ道に戸惑うたびにすれ違う人に尋ねてみたりして。
親切に教えられた通りに進んでいくと、やっとセシアの部屋にたどり着くことができた。
自分の部屋のある塔からはかなり遠い。
一瞬、自分は歓迎される予定ではなかったのだろうかと凛華は思ったが、それは違うのだと後になって気付いた。国王の部屋の傍に騎士が多いのは、国王の近くがそれほど危険に満ちているからで。セシアが凛華の部屋を遠ざけたのは、彼女が危険にさらされないようにするため、だったのだ。
国王の居室にたった一人で訪れていいものかと少し悩んだ末に凛華は毅然と顔を上げてその部屋の扉へと近づいていった。
彼自身がおいでと言ってくれたのだから大丈夫だ、きっと。
険しい表情を浮かべた騎士達が扉の前に立っている。
こくりと唾を飲み込んで、凛華がそっと頭を下げると、騎士達は彼ら独特の礼を取って凛華に場所を空けてくれた。
隣にいる騎士達に聞かれないように小さく深呼吸をする。
それから、手を伸ばして扉をノックした。
「どうぞ」
誰何の声もなく部屋の中からセシアの返事が返ってくる。訪れるのが彼女だと分かっていたのだ。
騎士達が恭しく扉を開けてくれたので、凛華はもう一度ぺこりと頭を下げてからセシアの部屋に踏み入った。
「失礼します、国王陛下」
まず最初に驚いたのは、白い廊下から続いていた床がこの部屋では毛足の長い絨毯に覆われていることだった。
思わず自分の足下を確かめてしまった凛華である。
丁寧に手入れされているのだろうが、自分のサンダルが汚してしまわないか心配になったのだ。
それからはっとして、そろそろと視線を前に戻すと、予想通りセシアは堪えきれないといった風にくすくすと笑っていた。どうやら凛華の行動はいちいち素直で可愛らしく映るらしい。
「簡単には汚れないから大丈夫だよ」
一頻り笑った後で、セシアはにこりと笑顔を浮かべた。
(あ、まただ)
その笑顔を見つめて凛華は思う。穏やかに浮かべているだけの笑顔ではなくて。
セシアは今、笑った。
けれど途端にすっといつもの表情に戻ってしまったので、確かめることはできなかった。
セシアに促されて更に奥の部屋へと入り、ふかふかと身を沈ませる柔らかいソファに身を落ち着ける。
「リンカは何を着ても似合うな」
消毒用の薬などを持ってきたセシアのその言葉に、誉められ慣れていない凛華はかあっと頬を赤くさせた。セシアも着替えていて、彼の方こそぴしりとしたその礼服がとても似合っているのに。
「服とベルのおかげだと思います」
凛華が綺麗だからだよとあっさり返されてしまったが、凛華は曖昧に笑うしかできなかった。
それよりも気になることがあったのだ。
「陛下、えっと……今更なんですけど、わたしが陛下の部屋に入ってしまっても良かったんですか?」
ここはセシアの私室なのだそうだ。公の室は別にあり、そこは国王が仕事をする時の部屋であって、一般に執務室または政務室といわれているらしい。公室ならばともかく、国王の私的な生活の場に得体の知れない「異世界の少女」を入れてしまっていいのだろうか。
凛華の気分としては、場違いも甚だしい超高級ホテルのレストランにごく普通の公立高校の制服姿でちょこんと座っている高校生だ。
落ち着かない様子の凛華に、セシアは人好きのする笑みを絶やさぬまま、言った。
「俺が許可したんだからいいんじゃない?」
そう言われればそうなのだが。
国王本人に許可を貰ったのだから気にする必要はない筈なのだが……何となく長居したい気分ではなかった。
広すぎるこの部屋も、この部屋の主も、何だか俗世離れしていて落ち着かない。
セシアが手際よく手当をしていくのを見下ろしながら、何者だこの国王は、と凛華は思っていた。医者の資格でも持っているのだろうか。随分と手際が良い。頬のかすり傷に消毒液しみこませた脱脂綿をそっとつけられた時はさすがにしみて痛かったけれど、声を上げる程ではなかったのでぐっと我慢した。
それでもいやそうな顔をしてしまっていたらしい。
「少し我慢して」
まるで子供をあやすように言われて、凛華は恥ずかしくなった。
努めて表情を崩さないように耐えるが、それでもちりちりとした痛みは変わらない。
気を紛らわすように凛華は適当に思いついた話題を振った。
「陛下、今日のお仕事……大丈夫でしたか?」
あれほど長時間付き合わせてしまったのだ。
もしこれで予定が大幅に狂ったとかいう事態になれば申し訳ない。
「……サボった」
セシアは目をわずかに伏せて手当を続けながら、凛華の質問に答えた。
(……陛下? 今「サボった」とか……仰いませんでした、か?)
随分とフランクな言い回しであるし、それが意味するところも驚愕ものである。
凛華は思わず目をぱちくりとさせてまじまじとセシアを見つめてしまった。
そんな素直な反応を見てセシアがふっと柔らかく笑う。
「アイルには説教されるだろうけど、リンカのせいじゃないから。気にしないように」
そんなフォローまでしてくれる。(が、説教される王様というのも何だか妙な話である)
「アイルさんって……?」
知らない名前に、凛華は首を傾げた。
「国王の側近ってところかな。正確な役職名なら、国王補佐官。今のところはアイル一人しかいない。まあ、簡単に言えば俺のお目付役だね」
「……お仕事……邪魔してごめんなさい。陛下、ありがとうございました」
言いたいことが多すぎてうまく言葉にならない。
けれど謝罪と御礼だけはきっちりと言っておかなければならない気がして凛華はぺこりと頭を下げた。
「ストップ」
「え?」
何か悪いことでも言ってしまっただろうか、と凛華が口をつぐむ。
セシアはひどく真剣な顔をしていた。
おそるおそる彼の様子を窺っていると、その緊張がばれてしまったのか、くすりと笑われてしまった。どうやら怒られているわけではなさそうだ。
「その敬語と『陛下』ってのはやめにしよう」
え、と。
今度は本気で固まってしまった。
自分こそどうなのだと言われれば言葉に詰まるのだが、自分の場合は「ただの高校生だから」というれっきとした理由がある。
けれどセシアは。この国を治める国王で。そして城内の誰からも敬われるような、そんな賢王で。
そんな王自ら敬語を禁止されるとは、思ってもみなかった。
「でも……陛下は陛下で……。えーっと……」
そんなまさか。王様を呼び捨てにできるわけがないではないか。
渋る彼女に、セシアが困ったような顔をして笑った。
「セシアでいい。陛下って言われても返事しないから」
そんな無茶な。
「へい──」
呼びかけようとしたところで、セシアは知らないなとばかりについっと顔をそらした。
どうやら本当にセシアと呼ばなければ返事はしてくれないつもりらしい。
「俺だってリンカの前では『私』とは言っていない。アルフィーユの人にとって俺は国王だけど、リンカから見れば俺はそのあたりにいるただの『お兄さん』みたいなものなんだから」
最後の方は冗談のように言われて、凛華はぷっと吹き出して笑ってしまった。
そう言えばこの人は、最初一人称が「私」だった。いつから「俺」になっていたのかは知らないけれど。
「あの陛……じゃなくて、セ……セシアさん……」
「セシア」
さん、も禁止らしい。
「セ、シア……」
「なに?」
戸惑いがちにそう言うと、セシアは綺麗な笑顔で微笑んだ。
笑うと綺麗に見えるのは女性だけではなく、男性でもものすごく綺麗に見えるのだ。
もともと男性との関わりを避けていた彼女にはそういった免疫がない。少し頬を赤くして、ぺこっと頭を下げた。
「ありがとうございました。それと迷惑かけてごめんなさい」
「いや、今日一日であれだけ出来るんだったら、教える方も面白いから。──さてと、もうすぐ大広間に人が集まっている頃かな。……行こうか」
自然に手を差し出されて赤くなりながらその手をとる。
お嬢様にでもなった気分で、何だか照れくさい。
この人の顔を間近で見るのは体に毒だ。
しみじみと、そう思った。
セシアに連れられて大広間に入ると、周囲の人が注目しているのを身体中に感じてしまう。
セシアはやはりこのような場には慣れているのか平然としていて、颯爽と凛華をエスコートしながら、奥の席へと向かった。と、そちらにはセシアの妹姫であるフェルレイナ王女もおり、彼女は凛華のことが気にくわないのかちらりと視線を寄越しただけでつんと顔を背けてしまった。
呑気な性格をしているからか凛華はこれまであまり人に嫌われることがなかったので、フェルレイナのこの行動にはほんのり落ち込んでしまう。
仲良くなれないものかと思案していたところ、ふと視界に影が落ちた。
「セシア」
すぐ近くからかかった声にセシアが一瞬動きを止め、それから参ったなという風な表情を浮かべる。
凛華は初めて見たセシアの動揺に驚いて、振り返ったセシアと同じように後ろを見て彼の視線を辿った。
その先には、一人の男性が立っていた。
橙がかった明るい茶色の髪をした長身の若い男性で、服装はセシアよりは豪華さに欠けるものの、かっちりと着込んでいるからか「お偉いさん」という感じがする。怒っているのか、ただ無表情なだけなのは判断するのは難しい顔をしている。
彼は髪と同じく明るい色の切れ長の目をすうっと細め、セシアを見下ろした。セシアも凛華よりずっと背が高いので、彼はかなりの長身ということになる。
ああこの人がアイルさんなのか、と凛華はとっさに思い至った。
お堅い、という言葉がぴったりあてはまりそうなのだが、何というか、セシアを絶対的に敬っている、という感じがしないのだ。確かにこの人であれば国王に対してでも遠慮なく説教しそうである、とは凛華の偏見である。
彼はお堅い表情のままで、ぽつりと言った。
「理由は分かっています。明日は倍ですから」
倍、とはおそらく仕事のことだろう。
さらりと言った。当たり前のことのように。
セシアは国王なのに。
「……分かった」
そのセシアにしても、大人しく降参を示している。頭が上がらないらしい。
意外な権力関係に、凛華は目を丸くしてしまった。
そんな凛華に彼が視線を寄越し、そして変わらない表情のまま、丁寧に頭を下げた。
怒っているのではないようだ。これが地の表情なのだろう。
「アイル・ナザルグと申します」
「は、初めまして! 凛華です」
慌ててお辞儀を返しておいた。
顔を上げてみると、アイルの斜め後ろあたりに、金髪の女性がいてにこにこと凛華に笑いかけている。
何故だろうか。どこかで見たことがあるかもしれないと、この時凛華は思った。共感のようなものを感じたのだ。
「ロザリー・ナザルグです。アイルの奥さんなの。リーサーから話は聞いてるわっ」
「あ……っ! 例の!」
凛華は思わず声をあげてしまった。
くだけた感じの取っ付きやすさ。なるほど。感じた共感はこのことだったのか。
元公爵のご令嬢は、凛華の反応に少し眉根を寄せて苦笑した。
「リーサーってば何て言ったのかしら。我が親友ながらあの人ってば予想つかないから」
ふふ、と軽やかに笑うその姿は、凛華が今まで想像していたお嬢様という人物達とは大分違っていて、彼女の軽口に凛華も合わせるように笑った。
何だか素敵な夫婦だった。
少し離れた所に金髪の侍女がいることに気付き、凛華はその場の人々にぺこりと頭を下げてから早々にその場を抜け出した。
フェルレイナの睨みから解放されたかったことは秘密だ。誰とでも仲良く付き合いたいのだが、あれでは話しかけられそうにもない。
ベルに近寄っていくと、彼女は素早くそれに気付いて凛華を迎えてくれた。
大広間の端の方に長く並んだ机の上には料理がずらりと並べられている。セシアの言っていた通り、料理長たちは随分と張り切ってつくったようだ。
勧められた席に座ってから凛華はちらりとベルに視線をやった。
「今日はベルもここにいるんでしょ?」
周りの人々が食事をしているのを確かめた上での質問だった。
この間のように一人きりにされるのは嫌だ。
「ええ」
ベルがそう言って微笑んだので、凛華はほっと息をついて早速食事をさせてもらうことにした。実は相当空腹だったのだ。
ざわざわと談笑が続く中で、昨日よりは少なくなったものの凛華に向けられる好奇の視線はやはり多い。
昨日は可愛らしいドレスで今日は大人びたようなシンプルなドレス。何を着ても本人の予想外に様になっているため、呆然と見つめる男性も多かった。黒髪と黒い瞳の取り合わせはなかなかに魅力的らしかった。
本人は「やっぱり変なのかなあ……」と本気悩んでいるあたりが鈍感である。
料理がところ狭しと並べられていて、凛華は少し食べただけでお腹がいっぱいになった。
しかも周りのあらゆる人が彼女に酒を勧めるのだ。勿論それら全てを彼女は丁重に断った。この間の二の舞はごめんだ。
それでもいつの間にか、凛華は色んな人――男性も女性も多かった――に囲まれて質問攻めにされていた。
さながら人混みの真っ直中というところか。彼らは全て王城で働いている人なのだろうが、全ての顔を覚えきることは到底無理そうだ。
「綺麗な髪をお持ちですね」
「花のように可憐だ」
「羨ましいです」
と誉めてくれる人や、
「陛下ととてもお似合いです! 頑張って下さいね!」
何だか、趣旨が違う人。
というかどこからそんな情報を掴んできたのか、逆に質問したいくらいだ。
「今度どこかで会いませんか?」
と、仕舞いには凛華を誘い出す人まで。
国王の賓客にそんな声をかけるこの男性はなかなか度胸があるのだろう。ベルは不届き者にひと睨みをくれておいたし、凛華は困ったように笑いながら断った。
「今日馬に乗っているのを見たけど、素晴らしい上達ぶりでいらっしゃる」
「素敵でしたわ」
話しかけてくれるのは嬉しい。
嬉しいが、物事には何事にも限度というものがある。
一旦ベルとそこを抜けると、凛華は思いきり深いため息をついた。
人との会話があれだけ疲れるとは思ってもみなかった。
「つ、疲れた……」
「……ですわね」
ベルも一緒にため息をつく。人混みでもみくちゃにされた。流石の彼女もあれには辟易したようだった。
一部の人以外は親しく話し掛けてくれる。一部の人とは、ロシオルやロイアなどで、丁寧に対してくれるのだ。それが苦手な凛華はきちんと断った。が、ロイアはまだ彼女のことを様付けで呼んでいた。付けなくてもいいのにと言うと、彼は眉尻を下げてにこりと笑うだけだった。けじめなのだそうだ。
「ベル、リンカ」
ふと声をかけられベルと凛華が声の方へ視線をやると、騎士の服なのだろうか、どこか威厳のある風格のロシオルがいた。
緋色の外套が目に鮮やかだ。彼の赤銅色の瞳によく似合っている。
「兄さん!」
「こんばんは、ロシオルさん」
「今日は酒を飲んでないんだな」
くっくっと笑って言われて凛華も小さく笑い返した。からかわれていると分かっているのだが、こういうからかわれ方は嫌いではない。嫌みっぽさが全くないからだ。
「もうこりごりですよ。あ、ロシオルさん。いつか時間が空いている時ってありますか?」
凛華はにこにこと笑って尋ねた。
隣にいたベルはこの先の展開を予想できたが敢えて口は挟まない。兄はどう対処するのだろうか。それが楽しみで。
「時間? あるにはあるが……。何を……?」
「わたしに剣を教えて欲しいんです!」
妙な、沈黙。
「なっ! 馬は陛下に教えてもらってるだろう? だったら剣までしなくても……」
一瞬で理解することができなかったのかしばらくロシオルは言葉を失っていた。
それもそうですわよねとベルが内心で呟く。この主の言動は先が見えない。だから驚きも大きいのだ。
「早めに負けておいた方がいいですよ、兄さん。わたしもこの笑顔に勝てませんでしたから」
ベルが苦笑しロシオルはがっくりとなる。
それにしても、笑顔で人をころりと騙せるベルがこの台詞を言うのは、少し違う気がするのだが。
「……分かった。五日後なら一日中空いてる。……言っておくが、俺の稽古は厳しいからな。それと、ロシオルでいい」
若き現役第二騎士隊長ロシオルは歳に似合わない貫禄ある顔で言った。
(こうなったらめちゃくちゃ厳しい稽古で音を上げさせてやる)
「はい! よろしくお願いします!」
ロシオルが思ったことにも気付かなかったのか、凛華は嬉しそうに笑った。
勿論途中で音を上げる気などさらさらない。
「でも兄さん、リンカを虐めたりしたら……怒りますよ?」
ベルはやはり微笑みながらサラリと兄に注意を促した。
さり気なく疑問符をつけているのだが、相当怖い。ふふふと笑うベルの見た目と中身は天と地ほど違うのを、兄であるロシオルは嫌というほど身をもって知っている。
「……分かってる」
妹の優しい脅しが実は一番この世で怖いことを、ロシオルは改めて実感した。