「ローシャ?」
「そう。ちょっと気の荒い馬だけど、この中でも賢い馬だ。多分一番乗りやすいと思う」

 ここは城お抱えの厩舎だ。それ故にかなりの名馬と言われる馬達がいる。
 彼らを大切に育てている職の人などは、自分よりも馬の方が良いものを食べているといつも文句を言っていた。ただ単にその彼は質素倹約をモットーに生きているだけで決して給料が少ないという訳ではないのだが。
 とにかくまあ、厩舎は凛華が思ったよりもずっと清潔だった。

 自称勇ましい格好の彼女は少し前に立つ青年を軽く見上げた。銀髪に青い綺麗な瞳。……この国の最高権力者である。
 やり手で知られる最高権力者をも言いくるめて了承させた凛華が、乗馬を教えてくれる人を探そうとしていたその時。彼自ら教えると言ってくれたのだ。
 仕事はいいんですか、とは訊けなかった。
 教えてもらう身で言える筈がない。
 国王ともなるとそのスケジュールは濃密を極め、結局やると決めてから今日までかなり時間があいてしまっていた。
 それでも彼はその場限りで彼女をあしらおうとした訳ではなかった。昨日の夜、文官だとベルが教えてくれた険しい顔の人が伝言を持ってきた。会議が一つ潰れるだろうからその間なら付き合うよと。
 国王と言うからどんな厳しい人かと思いきや、凛華の想像に反し彼は笑みを崩さないとても穏やかな人だった。
 馬車の中で見たあの幼く見える笑顔はあれから一度も見ていないけれど、穏やかに笑う姿ならよく見かける。特に義妹姫と談笑している時はその表情を浮かべていた。


 凛華が厩舎でセシアに紹介された馬は栗色の毛をした見事な雄馬だった。自分をつないである革ひもを噛んでいて、機嫌が悪いらしい。蹴られたら死ぬかなと考え寒気が背中に走ったが、凛華は怯えることなくローシャに近寄った。
 急に触れると危ないと言おうとしたセシアの目の前で、彼女はその雄馬の瞳をじーっと見つめたままそっと手を伸ばした。
 制止の声はかからなかった。

「よろしくね、ローシャ」

 彼女がぽんぽんと優しく首の後ろあたりを叩くと、ローシャは目を閉じて彼女に擦り寄った。もう革ひもを噛んではいない。
 その彼の示した行動に驚いて、彼女は後ろに立っていたセシアの方へと振り返った。
 不思議そうに首を傾げて。
「国王陛下……ローシャって本当に気が荒い馬なんですか?」
 ただ単に自分がやられて嬉しかったことをこの馬にもしただけなのだ。
 よく自分の頭を撫でてくれた父親の真似をしただけ。ただそれだけで、この馬は大人しくなってしまった。

「荒い……筈だったんだけど。リンカ気に入られたんじゃないか?」

 国王陛下も驚いているご様子。
 彼は何故だかこの馬に前から気に入られていて、馬番でさえも手を焼くローシャはセシアをよく乗せた。
 ローシャは賢い。それを身をもって知っているからこそこの馬にしたのだが、まさかこんなあっさりと彼女を受け入れるとは思いも寄らなかった。

 運命を変える力を持つという彼女は、動物までも手なずけてしまえるのだろうか。
 よく思い出してみれば野鳥であまり見かけない小鳥も、大人しく彼女の肩に留まっていた。
 一体何者なのだろう彼女は。

 そう言えば自分もだ。あの馬車の中で思わず笑ってしまった。
 そして仕事一本である筈の侍女に大声を上げさせるほどに仲が良くなっている。

(……不思議だな)


「良かったー。馬なんて初めて見ましたから」

 心底ほっとしたように凛華が言う。
 至極さらりと言われたその台詞はともすれば聞き流してしまいそうだったけれど。
「初めてなのか?」
 セシアはしっかりと耳にし、驚いた様子を見せた。この世界では馬は人間の足の様なものだ。多くの女性は馬に乗らないが、それでも馬くらい往来に出れば見かけないことはまずない。
「? はい」
 乗馬部なんて学校にはなかったし、都会で馬を見かけることなどない。
 あるとすれば競馬のテレビなどだろうか。生で見たことは今まで一度もなかった。
「……リンカは一体どういう国にいたんだ…………」
「あ、あはは……」
 凛華としては苦笑いするしかない。
 だって、もし日本の街中で馬に乗って颯爽と走ってくる人を見たらどうしますか? あなたは。
(わたしだったら絶対に無視。断固知らないフリ。っていうかごめんなさい。その人、怖すぎます)





「ひゃああっっ!」

 城から少し離れた草原のような場所に響き渡る高い叫び声。勿論声の主は凛華だ。
 ローシャに乗るまでは良かった。そこまでは彼女は、自分でも上出来だと思っていた。
 だが、馬の走るスピードと、上下する浮遊感についていけなかったのだ。とんでもないジェットコースターに乗ってる気分だ。

 彼女が振り落とされまいと必死に手綱を握っていると、遠くからセシアの声が聞こえた。
 彼もまた別の馬に乗ってはいたが、近くにいた筈のその声は上下する感覚の中ではひどく遠く感じた。

「リンカ! そんなに手綱を引いたら危ない! 手綱は命綱じゃないんだ!!」

 いくらローシャが賢い馬でもあの引き方は無茶苦茶だ。それくらい彼女は必死に手綱を掴んでいた。
「で、でも……っ」
 凛華はあまりのスピードに泣きそうになる。
 けれど文句を言っている場合でないのは確かだ。
 セシアに言われた通りに手の力を少しずつ抜いた。ローシャのスピードが落ちたのが分かる。けれど上下の動きはあまり緩やかにはならず、頭の中まで揺れているような感覚が凛華を襲う。

 そして、力を抜きすぎて手綱が凛華の手から離れてしまった。


 彼女の身体がふらつく。
 鞍はあるけれど、しっかりとローシャの身体を足で挟みこむことができていないのでバランスを崩すととても危険だ。
 彼女の身体が完全に馬の身体から離れる直前にローシャができるだけスピードを抑えたらしいので、落ちるた時に感じた衝撃は速さはあまり関係なく、ただ一メートル近くある位置から落ちたことによる鈍い痛みだけだった。
 死ぬような怪我でも重症でもない。
 身体中に擦り傷が出来てしまったけれど。落馬というにはあまりにも安全な落ち方だった。

 ひりひりと擦りむいた傷が痛み出す。


「リンカ! 大丈夫か!?」


 セシアが馬からひらりと飛び降りて駆け寄って来たが、凛華の傍に来るまでに、彼女は何とか自力で立ち上がっていた。
 国王の護衛のために付き従っていた騎士達は、手を貸す暇もなかった。
 足が痛い。けれど捻ったような痛みではないしきっと大丈夫だ。これくらいで済んだのだから感謝しなくてはならない。
 ローシャの手綱を掴んでふぅっと息をついてから、凛華は彼の茶色い瞳を見て言った。

「大丈夫……です。ローシャごめんね。もう一回乗せてくれるかな」

 前半はセシアに向けていった言葉だ。
 彼は心底意外そうにそう言った彼女を見つめた。
 男性でも落馬の経験はトラウマとなることが多い。恐怖を感じて竦んでしまうのだ。それなのに。すぐに泣いて諦めると思ったのに。この少女は諦める気配を全く見せなかった。


「よっし! 今度は落ちないんだから!」

 いやそれ目的違う。
 落ちないことを目指すのではなく乗りこなせることを目指さなければ。
 けれどセシアはそれについては何も言わず、再び騎乗した彼女にアドバイスをした。
「リンカ。手綱は引きすぎないように注意して。ローシャは賢い馬だからしがみついていればリンカを落とさないと思うけど……」
「次は、落ちないように頑張ります」
 セシアの言葉にこくんと頷いてから、凛華は真っ直ぐに背筋を伸ばした。
 それからぽん、と軽くローシャの腹を蹴った。



「ひゃあっ!」

 またしてもスピードについていくことが出来ず、ふらつく。
 再び背中から落ちてしまったが、痛くはなかった。
 そしてやはり自力で立ち上がった凛華は、落ちませんと宣言したにもかかわらず落ちてしまったことが恥ずかしかったのか、照れくさそうにセシアに向けて笑顔を見せてから、またローシャに跨った。
 諦める気は一向に沸いてこない。


 三度、ふらつく。
「わっ! ……ったた……もう一回!!」
 何度だってやってやるのだ。諦めてたまるもんかと凛華は唇をぎゅっと噛んだ。

 何も出来ずに諦めるのはもうやめた。
 手助けがなくても泣かないように。……笑っていられるように。人に、迷惑をかけないように。
 そのためなら増える擦り傷も気にならなかった。

「う……わぁっ!? ……いったっ!」

 頬の擦り傷がじんじんと痛みを訴えても。最初に痛めた足に力がしっかりと入らなくても。
 本当に駄目だと分かるまで諦めたくはない。
 何度バランスを崩して擦り傷を増やしても、凛華はその度に茶色い馬に立ち向かって行った。落ち方のこつは掴んだ。

「うっきゃぁっ! ……っ!」

 妙な悲鳴をあげても。
 たとえ息が詰まる程背中を打っても。まだ諦めるつもりはない。
(諦めるもんか! 絶対に乗れるようになるんだ!)
 何度もそう自分に言い聞かせる。
 もうやめてしまいたいと思うたびに、凛華はセシアのいる方へと視線をやった。
 会議が一つ抜けたと言っていた。それでももう大分時間が経ってしまっている。他の仕事は大丈夫なのだろうか? もしかしたら彼は自分が馬に乗ることができるようになるまで付き合うつもりなのではないのだろうか。
 そう思うと、何としても乗りこなせるようにならなければと思うことができた。人に迷惑をかけることを極端に嫌う彼女だからこそだ。

 何度チャレンジしてもローシャがスピードを上げて走り出すとバランスを崩してしまう。
 手綱の扱いには慣れたが、足に力を入れるのが上手くいかなかった。
 それでも凛華は諦めなかった。





 アルフィーユの王都アルフィスから直線距離にして馬車で丸一日かかる位置に、荘厳な建物がある。
 その最奥の部屋はこの建物の主人の部屋であり、現在客を迎えている最中だった。

「協力してもらえるかしら?」

 綺麗に彩られた唇から優雅な声を漏らしたのは、女主人である。
 その彼女が話している相手はというと、いなかった。いなかった訳ではないのだが、普通の人間が見ると、彼女は空気に向かって喋っているようにしか見えないのだ。彼女が向かう先には、うっすらとぼやけた影があった。
 長い髪と意志の強い瞳。だがその身体は透けていて、身体ごしに壁に飾られている花を見ることができる。
 そしてその影は、こくりと頷いた。
「……ありがとう」
 女主人は額に浮かんだ汗を拭うと、テーブルに置いていた紅茶を一口飲んだ。
「あなたの一番大切な人なら、きっと大丈夫よ」
 返事はない。
 声を造り出すことができないのだと今更ながらに気づいた彼女は、小さく息をついて苦笑した。
「ごめんなさいね。すっかり忘れてたわ。……ええと……どうしようかしら、あなたの『躰』……」
 そしてふと視線を窓の方に移すと、大空を飛ぶ小鳥が視界に入った。
「そうね、あの子に協力してもらいましょうか」
 彼女は立ち上がると窓に近づいていく。窓を開け、唇の中で何かを呟くと、遙か大空を飛翔していた鳥は一度首を傾げ、そのまますうっと降りてきた。彼女の白い指に留まり、ちちっと鳴く。
「ありがとう、しばらく協力してくれるのね」
 鳥と意志を交わした彼女はふふっと微笑むと、再びソファへと戻り、小鳥をテーブルの上に移動させた。

「では契約よ」

 女神の名において。


 彼女が目を閉じると、途端に白で埋め尽くされた部屋がキィンと緊張した空間に変わった。
 何かを包み込むような形の両手に精神を集中させていく。再び彼女の額には汗がうっすらと浮かび、端正な顔は軽く眉間に皺が寄せられている。
 ちちっと、小鳥の彼女が鳴く。何かに驚いているようであり、また、それを受け入れようとしているようだった。
「二人とも、一瞬だけ我慢してね」
 彼女がそう呟いた瞬間、部屋が爆発的な真っ白い光に覆われる。
 ちちっと、小鳥の声が聞こえた。


 光はすぐさま収縮し、彼女の手のひらの中に吸収されていく。
 額に張り付いた髪をかき上げた彼女は、どこか呆然としている小鳥に向かって声をかけた。
「どう? どこか不便なところはない?」
 小鳥は小さなくちばしを動かす。当然普通の人間ならばそこから漏れるのは小鳥の鳴き声だと思う筈なのだが。

『――いえ、全く。何だか不思議な気分』

 くちばしから漏れたのは、紛れもなく人間の話す言葉そのものだった。
 小鳥の彼女は確かめるように翼をうごかし、ぷるぷると首を振って、それから女主人を見上げた。
『問題ないみたい』
「そう。それなら良かった」
『……でも、わたしだけが話していると不自然に思われない?』
 こくっと小鳥が首を傾げると、女主人はにっこりと艶やかに笑った。
「その辺りは心配いらないわ。さっきので『あの子』にも変化があった筈だから。あなただけじゃなく……全ての生き物の声が聞こえるようになっている筈よ」
『……さすが。それで、この子の名前は?』
 この子とは本来の小鳥のことで、何かしら名前を持っていた筈である。
 女主人は静かな声でその質問に答えた。


「――ティオン」





 青々としていた空がうっすらと柔らかな朱色に染まり始めた頃。
 凛華はまだローシャと、と言うよりは自分のバランス感覚と格闘していた。かなり、ボロボロになりながら。髪についてしまった草を最初はつく度に払っていたのだが、もう気にしていなかった。
 執務で忙しい筈のセシアもずっと彼女を見守っている。
 彼の護衛についていた騎士達も、ひたすら彼らの邪魔をすることなく佇んでいた。

 そしてついに。

「乗……れた!」

 凛華がローシャに跨ったまま手放しで喜ぶ。
 もう彼がスピードを出して速く走っても振り落とされない。
 服は草と土でボロボロだし、頬にも擦り傷があってとんでもなくヒリヒリとするけれど。

 諦めなくて良かった。投げ出してしまわなくて正解だった。
 手助けがなくても泣かないように。笑っていられるように。人に迷惑をかけないように。

 頑張って、良かった。


「上達が早いな、リンカ」

 慣れた手つきで馬を操り、凛華に近寄ったセシアがそう言ってにこりと笑った。セシアは子供の頃に一通りの教育を受け、勿論乗馬も習ったが、凛華と同じように何度か馬から落ちたことがある。しかも、彼女のようには上手くいかず、完全に乗りこなすことが出来るようになるまで大分時間がかかったのだ。
 それでも教えてくれた調教師は早い方だと言っていたが、それを考えると彼女の上達の速さは抜群である。
 セシアは最初こそ彼女の様子を見て心配そうにしていたけれど、今はもうあの穏やかな笑顔だった。
「あ、ありがとうございます!」
 誉められて嬉しくなった彼女は、ローシャの首に抱きついた。
 元々人間より体温が高い上に走り詰めの彼の身体は、とても温かかった。

「ありがとうローシャ!」
 ローシャは軽くいななき、目を閉じた。



「あっと……喜んでるところものすごく悪いけど、リンカ。そろそろ時間だ」

 同じ時間馬に乗っていたというのにやはり技量の差だろうか。
 何ともない様子で馬から飛び降りたセシアは疲れなど感じさせなかった。凛華など、腕がだるくてかなり疲れているのに。
「時間……ですか?」
 恥ずかしいのだがセシアの手を借りてローシャから降りる。
 ふらふらとする身体では彼のように飛び降りることなどできそうになかった。
「そう。この間は主賓が途中で退出してしまったからね。やり直しだと料理長が意気込んでいたよ。……この間は……ごめん」
「い、いえ! 大丈夫です。ベルが酔いさましを用意してくれましたから。……でも、もう……お酒は飲みたくないです」
 苦笑いなのか、本当に笑っているのか区別がつかないような笑い方を凛華がした。
 セシアも、小さく笑った。

 本当はすぐにでも謝りたかったのだけれど。仕事に追われている内に随分と時間が経ってしまっていた。けれどきちんと謝ることが出来た。
 何なのだろう。この妙な嬉しさは。
 自分の中に生まれた確かな嬉しさをセシアは奇妙に思いながらも、しなくてはと思っていたことをやり遂げることができたのでそれで良しとした。

「一度湯を使っておいで。その擦り傷を手当するから。服は……ドレスでもそういう服でも。リンカが好きなものを着たらいい」

 セシアが穏やかに笑って言う。
 ドレスは着たくないです、と言いかけた凛華は口を開きかけたが先回りされたので言うのを止めた。
 どうして分かってしまったのだろうか。そんなに顔に出ていただろうか?
 ほんのりと頬を染めて凛華は恥じ入った。
「はい……」
「着替え終わったら俺の部屋に来て。ローシャは厩舎に戻しておくよ。馬の世話の仕方は今度教えよう」
「分かりました。ありがとうございます」
 手綱を取り大人しくついていくローシャとセシアの乗っていた馬を見送ってから、この場で倒れそうになる身体を何とか支えながら凛華は自分の部屋に戻るために、踵を返した。
 真っ平らな地面を歩いている筈なのにまだ上下に揺れる感覚が残っていて、何だか楽しい。

(あーー……疲れたあ……。乗馬って物理の問題解くより疲れるかも……)

 物理の問題と比べることがまずおかしいのだが、心底そう思いながら、凛華は大きなため息をついた。
 不思議な感覚は楽しいけれど身体は疲れを訴え続けている。
 そして何よりも疲れることに、彼女がセシアに使って良いと案内された部屋へ行くには、目の前の螺旋階段を上がらなければならない。
 延々と終わり無く続くかのようなその階段を目にして、彼女はもう一度ため息をついた。何事も諦めることを嫌う彼女でも、ちょっとばかりこの階段には諦めたくなった。