チチチ、と鳥の鳴き声がする。
そう言えばいつも朝になると何かしら音が聞こえていたなと、覚醒しかけた頭で凛華は思った。
「う……ん……」
ゆっくり目を開けて視界に入るものを確認。
高い天井と触り心地の良いシーツ。ついで寝台の天蓋から垂れているカーテンを見て、昨日が夢ではないとしみじみと実感した。
朝から感慨にふけるわけではないが、どうしても考えてしまう。
夢を見た。
ここに来たのは自分の夢で、本当は何の変哲もない日常に埋もれていただけだと。
朝起きて高校へ行く。友達と笑い話をしてつまらない授業に小さく文句を言い合う。追いつけなくなると大変だからノートはきちんといつも取っていた。
学校が終わるとすぐにバイトに向かって。バイトは適当にやっていられなかったから、いつもいつも必死だった。父親と祖父が残してくれた金を使う訳にはいかない。バイトが唯一の収入源なのだ。
カフェと服屋を一緒にしているバイト先は、アットホームでとても良いお店だった。
バイトを終えて、誰もいない家に帰り、写真の中でにこやかに笑っている父親と柔らかく微笑む母親に「ただいま」と言って。
たった一人でご飯を食べて。
そして、たった一人で眠った。
眠る前に両親にはお休みなさいと言っていた。挨拶は人の基本だからとずっと慣習のようにしていたけれど……違う。寂しかっただけだ。たった一人で寝起きするだけのあの家はあまり好きではなかった。
そんな毎日が続くと思ってた。
一昨日までは。
凛華は起きあがりもせず手を伸ばし、チェストに置いてあった腕時計で時間を確認した。
表示は午前十一時。
アルフィーユで考えると、午前六時くらいだろうか。いちいち計算するのも面倒なので時計の針を五時間ほど巻き戻しておいた。
いつまで動いてくれるかは分からないけれど今のところこれが頼りだ。
この城のどこかに時計はあるのだろうか。少なくともこの部屋にそれらしきものはなかった。
眠気が頭を支配して動きが鈍い。
凛華はのろのろと寝台を抜け、窓を開けた。朝の清々しい空気が室内に流れ込んで来る。
空気が綺麗だ。
自分の家であれば、窓を開けたら少し排気ガスの匂いが漂ってくるので起き抜けはあまり窓を開ける気分にはならなかった。
「気持ちいー……」
体をぐっと伸ばして大欠伸。
出てきた涙が閉じた目から溢れるのを感じる。伸ばしていた手を下ろしてぱちりと目を開けた。
……筈なのだが。
「わあっ!?」
何故か目の前が真っ暗。
まさか夜に逆戻りでもしたのだろうか。そんな馬鹿らしいことを考えてしまう。
そして何やら暖かい感触。
「な、何なになに〜!?」
彼女が慌てて身を引くと、パタパタと羽を動かす見覚えのある鳥がいた。
白い羽と黒い瞳。コントラストのはっきりとした綺麗な鳥だ。
「……っ! ティオン!」
肯定を示すかのようにティオンがくるくると嬉しそうに旋回する。凛華はその場に立ちつくしたまま、そのティオンの動きを目で追っていた。
(家に帰ったんじゃ……なかったの?)
あの時平然を装っていたけれど本当は哀しかった。
周りに誰もいないことが。
たった一人だということが。
慣れるには慣れたけれど。寂しさは決して変わらない。
だが、今は目の前にティオンがいる。しかも彼女に擦り寄って嬉しそうに鳴く。そのくすぐったさと嬉しさで、思わず頬が緩んでしまった。
「おはようっ!」
凛華は満面の笑みでティオンに話し掛けた。ぴい、とティオンは鳴いて挨拶を返してくれた。
返事の返ってくる朝の挨拶は久しぶりだ。一方的に話しかけているにもかかわらず、目の前の鳥は自分に構ってくれる。
ティオンと朝の挨拶を済ませた凛華はくるりと後ろを振り返った。
いつまでもこの動きづらく何とも言えない寝具のままではいたくない。
「さて、と。着替え……なんだけど」
ドレスはいやだなあと思いながら部屋を見回すと、衣装箱らしきものがあった。
昨日はなかった気がするので、おそらくベルが用意してくれたのだろう。
人に着替えを手伝われることに慣れない凛華はその気遣いが嬉しかった。
そして、ニヤリと。
可愛いと形容するにふさわしい少女は、そんな風に笑った。
かたりと重そうな衣装箱の蓋を開ける。
そこには煌びやかなドレスがずらりと収まっていた。……が、お目当てのものを見つけた。
シンプルな服。着られないだろうと予想されて下の方に収められていたが、凛華が探していたのはこういう動きやすい服だ。
「これでいいかな」
動き易そうな簡素な造りの服に黒いハーフのズボン。
本当は長い方が良かったのだがあいにくとそれはなかった。その上に見つけたものを羽織る。
ショールというには大き過ぎるそれは、昨日見たロシオルやロイアがまとっていたものとよく似ていた。
ベルは自分はしっかりと首もとまで隠れている服──多分仕事用の服なのだろうが──を着ているくせに凛華に着せたがるのは胸元の少し開いた服が多い。恥ずかしがり屋の彼女は羽織った肌触りの良いそれを、箱の中にあった細工の施してある留め具で留めた。
「この方が動き易い! ブーツもあるし。昨日のあのすっごい綺麗なサンダル……転けかけたしなあ……」
自分の失敗談を笑い話にしながら、凛華は長い黒髪を一つにくくって装飾品の中にあった髪留めらしきものでとめた。それも華美ではなく、至ってシンプルな物だ。
そして最後に膝の中程まであるブーツを履いて、ひらりと一回転してみせる。
気分はもう新米騎士だ。この国に女性の騎士がいるのかは知らないが、もしいたとしたらこういう格好なのだろうと、想像を膨らませる。
「似合う? ティオン」
ティオンに聞くと、白い小鳥はくるくると旋回した。
なるほど。鳥の美的感覚からすると凛華の格好はおかしくはないようだ。因みに人の美的感覚はまだ確認されていない。
「格好いいでしょ」
にこっと笑って軽く伸びをした。
機嫌よく笑う彼女は、少年のような少女のような、幼さの残ったあどけない不思議な笑顔を浮かべていた。
コンコン、とノックの音が届いたのはそれから少し経った後のこと。
この叩き方はベルだなと、間の開いた音でそう判断する。そしてそれは正解だった。
「ベルだよね? おはようー」
静かに扉が開き、ベルが入ってくる。
その後ろには短い茶髪の女性がいた。凛華よりも、勿論ベルよりも背が高い。
「おはようございます……ってリンカ!? そ、そのお姿は……」
凛華の姿を見て、ベルが目を丸くして驚いた。
せっかく可愛らしいドレスを着せようと思っていたのに、先手を打たれた。
その姿も可愛らしい。従騎士のようだ。可愛らしいけれど……もっと女の子女の子した服を着せたかったというのがベルの本心だ。
彼女の後ろの女性がくすりと嫌みげなく笑った。その反応に更に機嫌をよくした凛華も、笑顔を浮かべた。
「勇ましいでしょ? ふわふわドレスはしばらく着たくないや。あ。あとあのサンダルももうご免だからね。転けたくないから。必要な時は着るけど……普段はこういう感じの服がいいな。……えーっと、昨日ベルが言ってたもう一人の侍女さんですよね? 初めまして、凛華と言います」
彼女がぺこりとお辞儀をする。
ベルの隣の女性が裾を持ち上げて腰を屈め、にっこりと笑った。母性の象徴であるかのような優しい笑顔だ。ああ優しそうな人だなと凛華はその笑顔で判断した。
「初めまして。リンカさま。今日からベルと一緒にお世話をさせていただきます、リーサー・シェナマーレと申します。リンカさまよりも十歳ほど年上ですわ」
優しい笑顔と同様、声まで優しげだ。
母親というものをあまりよく知らない凛華は何だか新しい母親ができたようでわくわくとした。十歳しか違わない彼女に母親を求めるのは失礼にあたるのかもしれないが。
「ありがとうございます。リーサーさん、一つお願いがあるんですけど………」
「はい?」
「凛華さまって呼ばないで下さい。あと……出来たら敬語もやめて欲しい、な」
きっぱりと敬称をつけるなと言う凛華に、リーサーはいきなり笑い出した。先程までの母親のような笑い声ではなく、本当に年相応の笑い方だ。
いや、どちらかというと年よりも若いかもしれない。
あははとひとしきり笑った後、彼女はにこりと明るい笑顔を浮かべて言った。
優しい笑顔とは違ったけれど、その表情もまた凛華を嬉しくさせるものだ。
「やっぱりベルの言った通りね。本当そういうとこロザリーにそっくりだわ」
「ロ、ロザリーさん?」
知らない名前が出てきて凛華が首を傾げる。
「リーサーが以前に付いていたお方ですわ、リンカ。公爵令嬢でいらっしゃったのですけど、今はご結婚していらっしゃいます。――相当、気さくなお方だったとか」
ベルが丁寧に凛華に説明する。
この国の人は何だかよく分からないが名前が覚えにくい。凛華は頭の中で、リーサーさんとロザリーさんは知り合い、と呟いて何とか記憶した。
「そうなんですか……。あ、そうだ。ベルこの服もらってもいい?」
もらって良いかも何も、元々これら全ては彼女のために用意されている服である。この国では運命を変える力を持つ少女というのはそれ程高貴な存在なのだ。
ただ、その当人がごくごく平凡な少女というだけで。
「無理にドレスを着て下さいとは申し上げられませんのでリンカのご自由ですわ。……その小鳥さんは?」
ベルがティオンに目を向けて言う。
昨日会った時も、寝る前にもいなかった動物だ。鳥かごを持ってきた方がいいだろうかと思ったが、その鳥がぱさぱさと羽を動かして凛華の肩に行儀良く留まったので、その必要はないかと安心した。
「わたしの友達なのー。ティオンっていうの」
「可愛い鳥ですね」
ベルはにこりと笑った。
「ベルが可愛いってさ。良かったねえ」
機嫌良さそうに鳴くティオンの頭をそっと撫でて凛華も小さく笑った。
家族がいないらしいこの鳥に自分を重ね合わせていたのかもしれない。だからこんなにも他人に受け入れられるのが嬉しくて仕方がない。
ベルとリーサーが昨日のドレスや装飾品を綺麗にまとめたりしているのを見ながら、凛華が口を開いた。
「ねえ、ベル。わたしやりたいことがあるんだけど――」
「何でしょうか? 何でも仰って下さい」
ベルが振り返ってにっこりと微笑みながら言う。
その「何でも仰って下さい」という言葉ににーっこりと凛華は笑った。素晴らしく爽やかな笑顔だった。
「わたしって『預言された人間』なんだよね……」
「はい、そうでいらっしゃいます」
ベルが片付けの手を止めて熱心にそう答えた。
リーサーも興味があるのか、振り向く。彼女が言わんとする事が分からなくて、不思議に思っているらしい。
「で、わたしはアルフィーユとジェナムスティの戦争を止める手助けが出来るんだよね?」
「はい。皆さまもわたしもそう信じておりますが」
本当にベルは凛華の言いたいことが分からない。
この、何だか楽しそうな笑顔に嫌な予感がするのは気のせいだろうか。……気のせいであって欲しい。
そして次の瞬間凛華は明るい声でこう言った。
「じゃあさ、わたし、馬に乗れるようになりたい! アルフィーユでは馬って人間の足と同じなんでしょう?」
「「……はいっ!?」」
目を丸くした二人の侍女。
アルフィーユでは馬は人の足。それは正解だ。
凛華のいた世界のような交通機関があるわけではないので、必然的に移動手段は馬車などに限られてくる。だがそれはあくまで男性に関して、だった。
馬を操ることができる女性がいないことはないが、それでもごく少数だ。その職業柄のことなので限られてくる。
今、この華奢な少女は。
運命を変える力を持つと崇められる立場であるはずの彼女は。
馬に乗る……とか言った、ような。
驚いている二人を気にせず、更に凛華は続けた。
何でも言って下さいと言われたのだから何だって言ってやるのだ。
「ああ、それと剣も習いたいな。自分の身くらい、自分で守りたいの。今のわたしって、無力だから」
ベルもリーサーも、目を丸くしたまま全ての動きを止めた。今度はすぐにはリアクションは返ってこなかった。
放心気味の二人をくすくすと小さく笑みをもらしながら凛華が眺める。
特に変わったことを言ったつもりはなかった。日本では女性のジョッキーだっているし、剣道やフェンシングをやっている女性ならそれよりも遥かに多くいる。剣道やフェンシングと本物の剣技を一緒にしているところが彼女らしいと言えば彼女らしいが。
当たり前だと思う。
男女平等だと言い張っていた社会の中でただ守られるだけなんて、おかしいではないか。
力の面では到底敵わないかもしれないけれど、せめて人に頼らずに生きていけるだけの力をつけたかった。
「リ、リンカ……?」
ようやく声を出すことに成功したベルの目を見て、極めつけとばかりに凛華は更に言った。
「『預言された人間』だ、って祭り上げられてちやほやされるだけの人間になるつもり、ないからね」
これはなかなかに強烈な台詞だった。
「で、ですが……危険ですっ!」
落馬したり剣で怪我でもしたら大変だとばかりにベルが声を上げる。落馬して打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれないし、剣も一歩間違えば致命傷をおいかねないのだ。
兄が騎士として剣を振るっているだけに、ベルはそのことをよく承知していた。兄は仕方がなかったのだ。六人もいる兄弟なのだから手に職をつけるためには何かするしかなかった。それが彼の場合たまたま騎士だっただけで。何の因果かぐんぐんと上達してしまって。最強騎士だとかいうたいそうな称号をもらってはいるが、それだって元々生計をたてるために始めたことに過ぎない。
この主はいわば賓客だ。それも、かなり大切に扱われる程の賓客。
そんな彼女がわざわざ危険なことを冒す必要はない。セシアの庇護下にいればこの最も安全な王城で護られていられるのに。
「ベール! ベルが『何でも仰って下さい』って言ったでしょ?」
二の句を継がせない、と言った風に勝ち誇って笑う凛華。……見ようによっては大変怖いかも知れない。
──ああ彼女には勝てない。
二人の侍女は、心底そう思った。
「いいじゃない、ベル。やっぱりリンカってロザリーに似てるわ」
リーサーがまたしても快活に笑った。こちらの侍女の方が立ち直りが早い上に理解がある。
その言葉を聞いて、いつかロザリーさんに逢ってみたい、と真剣に考える凛華であった。乗馬や剣をやりたいと言い出す自分に似ているという公爵の元ご令嬢。
どんな女性なのだろうか?
「……陛下と兄さんに聞いてから……ですよ」
ベルが多大なため息と共に観念した。
いくら粘ったところできっと彼女は言い分を曲げないのだろう。ここは早めに負けておくべきだ。
「わぁい! ベルありがとうっ!」
彼女が飛び上がりそうな勢いで喜んだ。いや実際飛び上がっていた。ぴょんぴょんとその場で飛びはね、白い小鳥と喜びを分かち合うかのようにじゃれ合う。
リーサーと、凛華。
もしかしたらいいコンビかもしれない。
とんでもないことを言い出す主も主だし、許可してしまう侍女も侍女だ。
ベルはこれからの事を考え、もう一度はあっとため息をついた。
(どうせだったら思いっきりこの生活を楽しんでやろう。……わたしは、人形じゃないんだから)
「そうと決まれば早速陛下と騎士隊長に言いにいかなきゃ」
リーサーの一言に、凛華は大きく頷いた。
彼らがまさか許可を出す筈がない。兄は剣の本当の怖さを知っているし国王に諫められたらきっとこの主でも言うことを聞くだろう。そうなることを祈り、ベルは静かに扉を閉めた。
だがしかし。
その後何とも可愛らしい騎士を見た国王陛下も第二騎士隊長もロイアも他の騎士達も……それに王女様までもが驚いて三秒程石になった。
そして、同じ理論の展開で陛下と騎士を言いくるめた彼女が、いた。
消極的かと思いきやこの彼女、実は相当意志の強い少女なのかもしれない。
それはもう、ベルがため息の大安売りをするほど。